温もりの中で――
温もりの中で――
静かな、とても静かで物音一つしない。
ただ一つ目の前には手術中、というランプのみが赤く、悲しく灯っていた。
どうしてこんなことになったのか今でも分からない。それは物音しない、長い廊下の中。
ドアの前で祐一は祈る事しかできなかった。昼間はあんなにも騒がしかったのに…。
昼間はあんなにも楽しかったのに、それが、今、何でこんなことになってしまったのだろう…。
これじゃあまた昔と一緒じゃないか…。
今も、ほんの僅かな奇跡に掛けるしかないのかもしれない。
祐一はただの一言も発しないで手を強く握り締めているだけだった。
「祐一さん…容態は、どうですか？」
ふと頭の上から声が掛けられる。祐一はゆっくりと頭を上げ目の前に立っている人物を見あげた。
「あ…、秋子さん…。すいません…、俺が付いていながら…こんなことに…」
目の前には祐一が居候している家の家主、水瀬秋子だった。彼女にはいつもの笑顔はない。
その瞳からは生気が失われているかのように見えた。それも仕方の無いことだろう。
たった一人の、娘なのだから。
「いえ、祐一さんは気にしないで下さい。まだ、まだ分からないのですから…」
秋子の目から光る玉が少しだけこぼれ落ちていた。滅多に見る事の無い、涙。
祐一はその姿を見ることさえ苦痛で仕方が無かった。
「……、っ…」
祐一が下を向き手のひらから赤い液体が流れてくるほど強く握り締めている。
秋子はそんな姿を見ているだけだった。
「…祐一さん…」
ふっ…。目の前で赤く輝いていたランプが消えた。
それを合図にするかのように祐一と秋子はドアを凝視する。一人の人物が出てくるのを待つために。
「奇跡を信じますか？」
「え？」
商店街の真ん中、急に来た道の後ろからそんな言葉が聞こえてきた。
いつものように賑わっているはずの商店街が、何故かその一角だけ静まっている。
まるで別世界のような雰囲気を漂わせていた。
祐一の隣りにいたいとこの少女、水瀬名雪は意表を突かれたような質問を投げかけられ戸惑っている。
二人で声のした方を振り向くと、そこには長身のやや細身の青年が立っていた。
「新手の勧誘ならお断りです」
祐一は名雪の手を取ってその場を離れようとする。しかしそれは失敗に終わってしまった。
名雪が祐一の手を握り返しその場に留まってしまったからだ。
「えっと…私は信じるよ。だって信じないと思ったら何も起きないような気がするもん」
名雪はその青年に笑顔で自分の思っていることを告げていた。
あたかもそうすることが必然のように。
そんな名雪の姿を見て祐一は軽く頭を押えながらため息を吐いている。
おそらく呆れて何も言えないのだろう。
名雪のその答えを聞いて青年は満足したかのような表情を見せて言った。
「そうです。奇跡は信じる人にしか起きないもの…。
ありきたりのおまじないや占いとは違うのです。心の奥底から、
一心に思い、信じるからこそ奇跡は起こるのです」
その青年の言葉を聞いた祐一も何か口をついた。
「ようは信じる者は救われる。ってことか？」
その祐一の言葉を聞いた青年はまたにっこりと笑い、
「いえ、少し違いますね。その言葉の対照はおそらく神に向けられているもの…。
奇跡は神様なんて関係無いのですよ。その人の心の奥。そこに答えは眠っていると思いますよ。
何をするにしても最終的に決断を下すのはその人個人です。いくら相手に惑わされたとしても、
惑わされてしまったのはその人個人です。悲しみも、喜びも、怒りも。全てはその人の中にあるのです。
奇跡はまた、その一つにすぎません。感情というものはすぐに表に出せますが、
それはすぐには出てきてくれません。だからこそ、起きてくれ、と心から信じるしかないのですよ」
その言葉を聞いた名雪はなにやら感心しているのかしきりに頭を上下に振っている。
よく聞くとほ〜、なんて言う声さえ聞こえてくる。だが祐一は少し怪訝な顔を見せていた。
青年の言う言葉を嘘臭いと感じ取ったのか、あまり良い感じはしていないようだ。
名雪はそれでそれで？なんて言うことをまだ青年に聞き返している。
その青年も丁寧に名雪にまだ話を続けているようだ。
「…奇跡…」
黙っていた祐一の口からはそんな言葉が発せられていた。
その言葉に名雪も青年も振り向いた。名雪はどうしたの？と言いながら顔を覗き込んでいる。
祐一はずっと下を向いたままだ。そんな祐一を見て青年は
「自分では気付く事の無いものなんていくらでもある訳ですから、
気が付いていない、なんてことも沢山ありますよ」
青年はそんな祐一に言っているかのように話を続けている。
名雪はまだ祐一の顔を心配そうに覗き込んでいる。祐一はまだ顔をあげようとはしていない。
そんな祐一にもう一言付け加えられた。
「あまり深く考えない方がいいですよ。
こういうことはどこか心の奥に留めておく、それだけでいいんです。
してたまに思い出してくれさえすればいいんですよ」
その言葉を聞いた祐一は何を考えたのか顔を上げるなり名雪の手を取ってその場を離れようとした。
今回ばかりは急だったので名雪は反応できずされるままに引きずられていってしまう。
「え、え！？祐一どうしたの！？まだお話終わってないよ〜」
名雪は必死に祐一を引き止めようとするがその苦労も無駄に終わってしまった。
結局は祐一に連れて行かれる形でその場を去っていってしまう。
後ろには笑顔で手を振る青年の姿が見てとれた。
その時の祐一の顔はいつにもまして真剣そのものだったので名雪もあまり深く追求することができなかった。
「イチゴサンデーみっつで許してあげる」
それが名雪の要求だった。
まだ話の途中だったにも関わらず祐一に連れて行かれたことを少しは根に持っているらしい。
機嫌を損ねていて祐一が必死の説得の末そこまで辿り着いた。
丁度その近くは百花屋のそばだったらしく入ることにした。
「名雪、今みっつ食うのか？」
祐一は財布の中を確認しながら恐る恐る名雪に聞いてみる。
「もちろんそうだよ〜」
名雪じゃさっきの不機嫌はどこへいったのかやたらとにこにこしながらウェイトレスを待っている。
その声には少しイタズラっぽい声も入っているように聞こえた。
「……せめて二つ…」
「だめだよ〜」
祐一の言葉は途中で遮られてしまった。
見上げる先にはもうすでにみっつウェイトレスに注文を済ました後だった。
ウェイトレスも流石に少し驚いたのか声がかすかに上ずっていた。
それもそうだろう。
いくら好きだからといっても一度に三つも食べようとしている人物がここにいるのだから。
「名雪…、太るぞ」
その言葉に名雪は少し固まったが開き直ったのかさっきより胸を張って
「運動するからいいんだよ。それにイチゴサンデーならまだ二つはいけるよ〜」
と、凄いのか凄くないのか良く分からない事を言われて祐一も流石に言い返す言葉を失ってしまったようだ。
そうこうしているうちに注文の品が来た。名雪はこれでもかとばかりに笑顔を、作り目の前に置かれた
いちごサンデーを見つめている。
「いただきま〜す！」
名雪は手を顔の前で大きく合わせるとスプーンを片手にそれを攻略していった。
初めの一つまではよかったが流石に三つ目ともなると見ている方がおかしくなりそうである。
「ん？どうしたの？祐一？」
名雪はさっきから俯いている祐一に声を掛ける。もちろんその間もスプーンはくわえたままだ。
祐一は何も言わずに下を向いている。もちろん、名雪の方を見て気分が悪くなってきたからだ。
「名雪…、ほんとうによく食えるな…」
ようやく口にすることができたようだ。だが声はどことなく力無い。
そんな様子に気が付いていない名雪はのんきに
「祐一どうしたの？祐一もお腹すいたの？」
なんてことを言ってきている。まだスプーンをくわえているみたいだ。
ほぼ空になった容器を見て名雪はまだ名残惜しそうにしているが祐一は早く出たかった。
名雪が食べ終り少しの時間を過ごした後、すぐに会計を済ませて店を後にした。
「おいしかったよ〜、また食べにこようね、祐一っ」
名雪はあれだけ食べた後なのにやたらとはしゃいでいる。
「俺はしばらくイチゴサンデーは見たくも無い」
ストレートな意見がそれだった。あれがまだ三つだったからよかったものの、あれ以上だったらと思うと…。
祐一はしばらく名雪と百花屋に行かないという事を心の中で決め込んでいた。
そもそも今日商店街に来たそはこんなことをするためではない。
秋子の退院から今日で丁度一ヶ月。そこで二人から何かプレゼントを贈ろう。
ということでやって来たのだった。
二人して色々な店をまわってみた。何せあの秋子だ。
何渡したら喜んでもらえるかそれを考えるだけでかなりの時間を要してしまった。
結局決まったのは妥当なところ実用できる、という理由で買った食器セットと少し大きな花束だった。
あれこれ話しをしていたが、やはり祐一は男。
花のことなんで全然知らなかったから最終的には名雪に選んでもらった。
花を買うときに店員の人と話していてこっちを見ては笑っているみたいだ。
名雪が何やら必死に弁解している、なんて光景も見れた。
話している内容なんておそらく予想の付くものだろうけど。
そうこうしている内に名雪が花束を抱えて戻ってきた。花は店員の人が選りすぐってくれたらしい。
この季節に無い花も人口栽培により咲いているためバリエーションは豊富のようだ。
店員が一番のオススメに選んでくれた花がバーベナという花らしい。
桜のような花で赤や青や白と多色である。
なぜこの花を選んだのかと名雪が店員に聞いたらしい。
その理由が花言葉が家族愛ということらしく名雪も納得してそれを買うことにした、ということにしたようだ。
ふと空を見上げるとうっすらと赤みを帯びてきていた。
辺りは夕飯のおかずを買いに来ている主婦で賑わっていた。
そんな中目当ての物も買い終わり二人は嬉々として歩いていた。
名雪は祐一にしきりに秋子のことを話している。
祐一が来る前のこと、入院中の祐一が知らなかったこと、あのジャムのことなど。
帰路に着く頃には辺りはもう闇が迫っていた。道の端にある街灯が二人の歩く先をほのかに照らしてくれている。
そしてもうすぐ家に着く、とその時だった。
キキィー！！と二人の間に車が滑り込んできた。あまりに急な出来事だったので体が反応しきれなかった。
ドン、と鈍い音をたて車は横滑りしていきそのままの勢いで電信柱に追突した。
幸い怪我の無かった祐一は名雪の無事を確認しようと横を向く。だがそこで見たものはいつもの名雪では無かった。
あの勢いのまま轢かれたのか、それとも当たり所はまだよかったのか、静かに横たわる姿がそこにあった。
手は力無く放り出され目は堅く閉ざされている。そして何よりもそこには赤い水溜りが広がっている。
無残にも飛び散った赤や青の花に囲まれるようにして。
「…え……、名雪……？」
祐一はそんな一瞬のことに目を奪われた。おそらく数秒だろう、体が言う事を聞かなく止まっていた。
だがようやく自体を把握したのか近くにあった電話ボックスに駆け寄り救急車を呼んだ。
祐一はただ名雪を抱きかかえることしかできなかった。かろうじて出来たことといえば些細な止血。
本当に効いているのか分からないほどである。
どれくらい経ったのだろうか、けたたましいサイレンの音と共に救急車が到着した。
救急隊員は手際良く名雪を中へ運び込むとすぐさま応急処置を施した。
何やら様々な機器が体のあちこちに引っ付けられている。その姿はとても痛々しい。
祐一も救急車に乗り込み名雪のそばにいてやることにした。
「名雪…、名雪…、名雪…！！」
ただずっと、一人の女性の名前を狂ったように叫び続けた。
すぐさま車は病院に到着してそのまま手術室へと運び込まれた。
祐一はそのままどうすることもできずただ立ちすくんでいるだけだった。
その後自分でそう行動していたかは全く覚えていないらしく気が付いたら手術室の前のイスに腰掛けていた。
おそらくその間に呼んだのだろう、秋子が姿を現せた。
「祐一さん…、あまり気にしないでくださいね…」
秋子は精一杯の慰めの言葉をかけようとしたのか、祐一に優しく声を掛ける。
「………」
そんな秋子の声が聞こえているのかいないのか祐一は黙ったままである。
祐一はただの一言も発しないで手を強く握り締めているだけだった。
「祐一さん…容態は、どうですか？」
頭の上から声が掛けられる。祐一はゆっくりと頭を上げ目の前に立っている人物を見あげた。
祐一の目は白く、頬には一筋の白い線の痕がくっきりと浮かんでいた。
「あ…、秋子さん…。すいません…、俺が付いていながら…こんなことに…」
祐一はそう言うとまた俯いて微かに震えていた。
「いえ、祐一さんは気にしないで下さい。まだ、まだ分からないのですから…」
秋子の目から光る玉が少しだけこぼれ落ちていた。滅多に見る事の無い、涙。
祐一はその姿を見ることさえ苦痛で仕方が無かった。
「……、っ…」
祐一は手のひらから赤い液体が流れてくるほど強く握り締めている。
秋子はそんな姿をただ見つめているしか無かった。
「…祐一さん…」
ふっ…。目の前で赤く輝いていたランプが消えた。
それを合図にするかのように祐一と秋子はドアを凝視する。一人の人物が出てくるのを待つために…
初めに姿を見せたのは白い衣に身を包んだ中年の男だった。額には大粒の雫がいくつも浮かんでいた。
「名雪は、名雪は助かるんですか！？」
祐一はその医者に駆け寄りすがるようにして問う。
おそらく今までの人もそうだったのだろう。医者は驚く素振りも見せず
「…今は何とも言えません。ただ、助かる見込みは十分にあります。打ち所が良かったのでしょう」
医者はそう告げるとどこかへ行ってしまった。
その言葉を聞いた祐一と秋子はほんの少しの安堵の息を漏らした。
そうしているうちに台に乗せられた名雪が姿を現した。
麻酔で眠っているのか、それとも事故により意識が無いのか、人形のような感情のない表情をしていた。
「名雪…」
祐一はただの一言しか発することが出来なかった。目の前を名雪を載せた台が通り過ぎるのに。
「病室は３０４号室です。今日はもう遅いので、身内の方でも面会はお断りさせて頂きます。
また、明日にでもお越しください」
一番後ろにいた看護婦は秋子にそう告げると再び戻っていった。
秋子はもうそれ以上なにもできなかったのか静かに入り口の方へと歩いて行った。
祐一は、その場に座り込んでしばらく動くことは無かった。
それからしばらく時間が経ち祐一は何を思ったのか急に走り出した。
外はかなり雪が降っている。だがそんなことはお構いなしに走った。ただ一つの場所を目指して。
目的の場所に到着したときにはかなり息を切らせていた。大きく肩で息をしながらその場にしゃがみ込む。
さっきの事故の場所である。先ほどは痛い程に見えていた赤い水溜りも、飛び散った花びらも無い。
全ての悲しみを覆い隠すように、ただ、白い雪がその場を覆い尽くしていた。
「おはよう…」
祐一は次の日朝一で名雪の病室へ訪れていた。病室は個人部屋でベッドのそばに大きな窓がある。
看護婦の話だと春になればこの窓から満開の桜が見れるらしい。
白い壁に白いカーテン。部屋は白一色で染められていた、悲しいくらいに。
祐一はそっと名雪のそばまで歩み寄って行った。名雪の体には包帯がぐるぐる巻きにされている。
点滴が静かに滴り、呼吸器の音がただ部屋に響き渡っていた。
ベッドに横たわる名雪の姿はいつも見ているよりも小さく見え、悲しみをより引き出された。
「名雪…、起きろよ…。どうしたんだよ…、なぁ……」
祐一はただ呟くしかなかった。自分では何もすることができない。
一番想っている人物が目の前で苦しんでいるのに、何もできない苦しみが祐一を襲っていた。
目の端には雫が浮かんできている。それはすぐに頬を伝い地面に落ちそこに小さな染みを作った。
「イチゴサンデーならいつでもおごってやるからさぁ…、早く、起きろよ…」
その場に力無く座り込みただ死んでいるように眠っている名雪の顔を見つめているしかなかった。
次の日、祐一は学校へ行ってもずっと上の空だった。
クラスメイトからは慰めの言葉を掛けられるがそんなものは耳に入っていなかった。
相手も分かっているのか、それ以上深く追求しようとはしなかった。
それは体育の時間、着替えているときに見えたもの、祐一の手首に一筋の赤い線が引かれていた。
「お、おい！相沢！お前何してるんだ！！」
それはすでにかさぶたになっていたが明らかに何をしようとしていたのかは一目瞭然である。
「………」
祐一はただ黙っているしか無かった。
「そんなことしてどうなるんだよ！そんなことして水瀬さんが喜ぶとでも思ってるのか！？
お前が死のうとして何になる！まだ水瀬さんは助かるかもしれないんだろ！？
それならお前も必死に生きて、支えてやる事を考えろよ！
間違っても死ぬなんてこと考えるな！」
その一言に祐一はほんの少し表情を変えた。
「…そうだよな……。まだ帰ってくるかもしれないんだ…、北川、すまないな…」
力無く振り向いて告げる。そこには怒りと悲しみの表情を含んだ北川の顔が静かに祐一を見つめていた。
それから何週間が経ったのだろうか、名雪はまだ起きる素振りを見せていなかった。
祐一は自分のできることのみを必死に探していた。
唯一できること、それは毎日病院へ通い起きない名雪の身の回りのことをこなしていった。
ある程度のことは秋子がしていたのだが、祐一はそれでも自分が役に立てるよう、頑張っていた。
―奇跡は信じる人にしか起きないもの…―
祐一の頭の中をそんな言葉が不意によぎった。
あの日、商店街で話していた青年の言葉である。祐一は気にも留めなかったが、何故か頭にこびりついていたみたいだ。
「…奇跡か…」
ぼそっと誰に言う訳でもないが静かに呟いた。そしてその日も面会時間が終りに近付いたその時だ…
「…おはよう、祐一…」
今まで聞くことの無かった声が不意に後ろから聞こえてきた。ついさっきまで横になっていた名雪が、目を覚ました。
その顔は少し痩せ細っていたが名雪のものだった。
「あ、あ…、あぁ…」
祐一は声にならない声を上げ、名雪に近付いて行く。
ベッドの前まで辿り着くと少しの間見つめ合っていた。そんな祐一がとった行動はただ一つ。
名雪の体を抱きしめることだった。優しく、覆い被さるように抱きしめる。温もりを体一杯に感じれるように。
しばらく抱き合ったあと、祐一はそっと名雪を放した。
「もう、帰っちゃうの？」
名雪は寂しそうに祐一に声を掛ける。祐一はそれに優しい声で応えている。
「もう面会時間終りだしな。それに名雪、夜はおやすみ、だぞ」
その祐一の声を聞いた名雪は満面の笑みを浮かべて
「うんっ、おやすみなさい、だね！」
涙を目に浮かべながらとても嬉しそうにそう言った。
名雪が、目を覚ましたのだ。それは紛れも無い真実、祐一が心の中で思い続けた奇跡なのかもしれない。
それともただの遇然かもしれない。口に出したら、崩れ去ってしまいそうだったから。
ついに苦労の甲斐あって名雪が退院できることが決定した。
祐一はその日は用事がある、と言って来れないらしい。
名雪は退院の準備を始めているときにそれを見つけた。一つの目覚まし時計。見覚えの無いものだった。
おそらくは祐一が持って来てくれたのだろうと思い、そっと鞄の中にしまい込んだ。
沢山の医者や看護婦に見送られる中、名雪は病院を後にした。
道中、秋子と二人で楽しそうに話しをしているときだった。
「名雪…」
それはそこにいるはずのない祐一の声だった。
「え、祐一？」
名雪は慌てて辺りを見回すがそこにその姿は無かった。
「俺は、お前がいなくなってから、死のうとしたこともあった…」
姿は見えないのに声だけは聞こえる。名雪はまだ必死に辺りを探そうとしているが一つ、思い浮かべたものがあった。
「俺は、お前がいなくなってから、生きていることが辛くもなっていた…」
自分の鞄を開け、一つの時計を中から取り出した。病室に置いてあった目覚まし時計、見覚えの無い時計。
「名雪のいない毎日が、苦痛に感じていたんだ…」
名雪は声の出ている物をそっと胸に抱きしめた。優しく、包み込むように。
「でも、違ったんだ…。このままじゃいけない、と…。
それじゃあ逃げてるだけなんだよな…、辛いことから逃げてるだけなんだよな…。
名雪も必死に戦っているのに、俺は一人逃げようとしてたんだよな…。
そして、気が付いたんだ。俺がたった一つできること…」
それを聞いている名雪の目からはそっと、涙が零れ落ちてきていた。
「俺ができるたった一つのこと…、名雪…、お前のことを想い続けることだよな…。
どんな辛いときも、どんな悲しいときも、諦めたら終りなんだ…。
俺は、名雪のことが、好きだから……」
名雪はその場に座り込み声を上げ、泣き出してしまった。うずくまるようにして、なきじゃくる子供のように。
そんな姿を見ていた秋子はそっと名雪に手を差し伸べて立たせると
「さぁ、早く帰りましょう。今日は御馳走だから」
秋子の手を取ると名雪は涙を拭って再び歩き出した。秋子は全てを知っていたのだ。
祐一のこの行動も、名雪の取るだろう態度も。
そんな二人の向かう道々にはいくつもの光が差し込んでいた。
「祐一っ！朝だよ、ご飯食べて学校行くよ！」
祐一のドアを軽く開けて名雪が嬉しそうにはしゃいでいる。
「名雪…、どうしたんだ？お前…、こんな早起きしているなんて…」
よく見ると口の端にパンの粉が付いている。もう朝食も済ませているらしい。
「今朝は全然目覚しの音なんて聞こえてこなかったぞ…？」
祐一は怪訝な顔をして名雪を見つめている。
「目覚しは捨てたんだ〜、二つだけ使ってるけどね」
祐一はまだ頭に？を浮かべたまま首を傾げている。そんな祐一を見て名雪はいたずらっぽく
「誰かの声が耳元で聞こえてくるからそれで起きれるんだよ」
と言って部屋を出ていった。祐一は少し考えたあと、顔を真っ赤にして
「名雪！あんなもの残すな！消せ！」
と明らかに動揺している。そのためなのか、着替えもままならなかった。
「おかあさん、行ってきます！」
名雪は祐一が追い付くのとほど同タイミングで玄関を後にしていた。
「あ、秋子さん、いってきます！」
祐一も慌てて靴をはき、家を出た。
「名雪ー！絶対あれ消せよ！」
と祐一は顔を赤くしながら叫んでいた。
「えへへ〜、だめだよ〜。また私起きれなくなっちゃうよ」
と祐一をからかうように言い返す。
「いいんだよ！俺が起こしに行ってやるから！」
そんな会話を交わしながら学校へ向かう。いつもと変わらない日々がまた始まっていった。
確信できることのない奇跡を胸に抱きながら…。
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