銀河鉄道と夜明け
運ばれてゆくとき墓の裏が見ゆ外套を着て旅するわれに ――寺山修司
空を厚い雲が覆っていた。太陽の光は下界まで降り注がず、時折降る雪も手伝って世界は灰色に見える。空気は冷たく、はく息の白さが、ますます空間を凍てつかせている。瞬間、鳥が空気を切り裂いていった。切り裂かれた空気が空中で伝播し、流れ、千切れていく。そんな光景が見えそうな空気。
窓から外を眺めていた北川潤は、大きくため息をついた。気分が暗いと見ている景色まで陰鬱になってしまう。そんな気がして、歪んだ気分を押し出そうと、もう一度口で大きく息を吐いた。吐息がけだるい授業をくぐる。四時間目の教室の雰囲気は、外とは違い淀んでいた。かっかっか…、と黒板を鳴らしていた教師の指が、ふと止まった。
「あー、それじゃここ、北川。それから美坂…、はいなかったな。じゃあ水瀬。前出てやりなさい」
その雰囲気にぴったりとはまっている教師の言葉に、教室の空気が数瞬ざわつく。ざわざわとした時間。その雰囲気に、隣の空の机が妙に溶け込んでいる。それがなんとなく不愉快で、北川は大きく椅子を鳴らして立ち上がった。
いらいらするのは、前の席も空席だからだろうか。
時間が流れても、空は相変わらず灰色だった。思わず太陽のやる気を疑ってしまうほど、午前と変わらない空。そして朝とは違い淀んできている空気。北川の席から見た昇降口から吐き出される制服の群れがよく見える。心なしか、それがくすんだように見えて、北川はまた憂鬱になる。はあ、と息を吐き出し、なんとなく頭をかき乱した。
「北川くん、ちょっといいかな？」
振り返ると、後ろには水瀬名雪が立っていた。もう放課後の教室には二人しかいないようだ。クラスメートが帰ったことに気付かなかった自分にすこし驚きながら、北川はどうしたの、と答えた。
「これ、香里に届けてくれないかな」
そう言うと、名雪は抱えていた紙束を北川に差し出した。
「これ、何？」
「この一週間でたまったプリント類だよ」
「俺が美坂に？」
「うん」
名雪はうなずき、そして、この少女にしては珍しくうつむき加減で話した。
「本当はわたしが行きたいんだけど。でも、祐一がいるから。わたしは、できるだけ祐一のそばにいたいから…」
「そっか」
紙束を机に置き、北川はうつむいている名雪の肩をポンとたたいた。
「それじゃ、水瀬さんは相沢を頼むな。こっちはちょっと頼りないけど俺に任せといてよ」
その言葉にうん、こたえる名雪には、やはりいつものような元気はない。
――いつも何を考えているのかいまいち掴めない娘だけど、今は俺と同じような感じなんだな。
北川は少し微笑み、今度は肩を連続してたたいた。
「ほら、しゃきっとしようぜ。相沢だったら絶対大丈夫だからさ」
かわいい従妹が心配してくれてるんだから、と言って、にっこりと笑って見せる。つられたように名雪もありがとう、と言って笑った。そのまま手を振り、名雪は鞄を手に教室をあとにした。
プリントを手に、なんとなく見上げた天井には、やたらと染みが多かった。
美坂香里と相沢祐一が学校を休んでからもう一週間がたっていた。はじめてその両方が学校を休んだ日、担任の石橋は、まず祐一については風邪だと言い、そして香里に妹がいて、その妹が亡くなったことをクラスで伝えた。その知らせは北川を少なからず驚かせた。北川は香里とは高校入学と同時に知り合ったが、今まで一度も妹がいる、とは聞いたことがなかったのだ。放課後、石橋に話を聞きに行ったが、どうもよく掴めない。詳しい話を聞けたのは、それから二日たって、香里と同時に休んでいた名雪が登校してきた時だった。目に涙をためながら話す名雪を励ましながら、北川はなんともいえない無力感にさいなまれた。
――俺はそんな大事なことを話してもらえないで、そして気付きもしないで、ただぼんやりと日々をすごしてたのか。相沢と美坂がそんなに苦しんでたのに…。
それから北川はなんとなくぼーっとすることが多くなった。あまつさえ世界の色が変わってしまったようにも感じていた。
名雪からもらった地図を頼りに道を歩き、北川は香里の家についた。知り合って二年になるが、北川が香里の家に行くのはこれが初めてだった。もちろん逆もない。チャイムを押すときには、緊張で指が震えていた。
実際には十秒ぐらいの沈黙だっただろうが、北川にはとても長く感じられた。
「…はい」
チャイムの向こうからは聞きなれた声がした。思っていたより変化が感じられなくて、北川は少し妙に思った。もっとも、北川にもあまり余裕はない。
「美坂？ 俺、北川だけど。学校からプリント預かってきて…」
緊張で少し咳き込むように言うと、またチャイムは少し沈黙した。
「北川君。今日、暇？」
意外な言葉に、思わず即答してしまう。
「ああ、暇だけど」
「そう。じゃあ、ちょっと付き合って」
チャイムは一方的に黙って、北川はなすすべもなく立ちすくんだ。
それから十分ほどして香里は出てきた。
「なんか、私服の美坂って初めてだな。ちょっと緊張するよ」
「そう？」
鍵をかけながら振り返らずに答える香里。それは、北川にとってはいつも通りの香里で、それが今は何故か不自然に感じた。なんとなく感じる違和感。
「なあ…」
「なに？」
先に立って歩き始めた香里になんとなく声をかけて、結局何もないことに気がつく。ええと、と言いながら、北川は辺りを見回した。ふと目線が香里の首筋で止まる。
「あのさ、その、美坂が巻いてるやつ。ストールっていうんだっけ。美坂もそんなのするんだな」
香里は一瞬動きを止めると、ゆっくりと振り返った。
「…似合わない？」
「いや、そういうんじゃなくてさ。なんていうか、イメージと違うような感じがしてな」
香里は一瞬首をかしげると、やがてやんわりと微笑んだ。
「北川君にしては鋭い指摘ね」
「…それ、どういう意味だよ？」
「ふふ、言葉通りよ」
そう言って、また香里は前を向いた。ゆったりと流れた髪が、ちょうどさしてきた西日と重なってブラウンに輝く。北川は、いつものように、それをまぶしく見つめていた。
「ここは？」
北川が香里に連れてこられたのは、町外れの小高い丘だった。真冬の今でも、何故か下草が生い茂っている。香里は、そこにゆっくりと腰を下ろした。かあ、かあと、どこかでカラスが鳴いているのが聞こえた。
「ものみの丘っていうんだけど。知らない？」
「いや、初耳だ。…へえ、こんなところがあったんだな」
そこからは街が一望できた。もう太陽は沈んでいたが、普段歩いている街並みが発する光の群れはとても綺麗で、それを見おろすのは爽快だった。しかし、月が厚い雲に隠れて見えず、辺りは重苦しい雰囲気になっていた。時折吹く風が草に当たるさわさわ、という音も、なぜか不吉に聞こえる。風景が綺麗なだけに、なにかすさまじいものを北川は感じた。
「ここね、栞が好きだったの」
ぽつり、と香里が言った。雲の圧力に押されたのだろうか、その声はいやに陰気に聞こえて、北川は思わず香里の方に向き直った。香里はひざを抱えて、ぼんやりと、鋭く一点を見据えていたる。
「栞と二人でよくここに来たわ。小さいときから、何かあったらここに来てた。そう、あの子が病気になるまではね」
暗闇がいよいよ濃くなっていく。香里の姿はまだぼんやりと見えるのに、その声はまるで闇の中から聞こえてくるようだった。北川は香里に声をかけようと口を開いたが、結局何も言えず、そのまま唇をかむ。そして、しばらく沈黙が流れる。
突然ぷちり、と小さな音がした。虫の鳴き声がない静かな空気の中、その音は妙に大きく聞こえた。
「おい、美坂…」
香里は、バツの悪そうな顔をして引きちぎった草を眺めた。それを振り払い、肩を落とす。
「ごめんなさい…」
そのまま香里はストールごとひざを抱えて顔を太股にうずめた。そんな香里を見て、北川はふう、と息を吐き出すと、どっこいしょ、と言いながら香里のそばにゆっくりと腰を下ろした。
「――まだ分からないの。全然。栞が死んだって、それはもう一週間も前のことなのに。でも、でもね…」
「美坂…」
「違うの。あの子は、いつも笑ってたから。私がひどい事した時だって、笑ってたのよ、あの子…」
香里の口からは、嗚咽ともささやきともつかない支離滅裂な言葉が流れ出した。流れ出す言葉はとても不安定で、烈しい。言葉に合わせて震えだした香里の背中を、北川はそっとさすってやった。
「大丈夫だって。ゆっくりと話してみろよ。俺はいつだってそばにいるからさ」
その言葉に、香里は驚いたように顔を上げ、北川を凝視する。北川はそれににっこりと笑いかけ、ポケットからハンカチを取り出した。
「たまたま持っててよかったよ。…ほら、使えよ。それも美坂ってイメージじゃないし」
香里は２、３度きょとんとまばたきをした。慌てて北川の手からハンカチをひったくると、それで顔をごしごしとこする。そして、そのままハンカチをぐしゃっと握りつぶした。
「本当、北川君って、時々妙に冷静よね。いつもはただのお笑いなのに」
言って、赤い目でじろり、と北川をにらむ。その視線を、北川はにやりと受け止めた。
「俺、実は頭良いんだよね」
できのいい冗談とはいえなかったが、二人はしばらく笑いあった。
「栞ともね、こうやって笑ったなあ」
ひとしきり笑った後の香里の声は、幾分落ち着きを取り戻していた。
「ここに来るのはいつも夜だったわ。今日は雲で見えないけど、本当にたくさんの星が見えるの」
「へえ。それはぜひ見てみたいね」
香里はそのときを思い出したのか、すこしうっとりとした表情をした。北川にはそれが数多の星々よりもまぶしい。
「栞、全然星座の名前覚えられなくて。夏なのにオリオン座が見える、なんて言ったりしてたわ」
「え、オリオンって夏じゃないの？」
香里はあっけにとられた顔をした。
「北川君、それ、本気？」
「…美坂、そんな気の毒そうな顔をするな。分かってるって。冬だろ、冬」
「当てずっぽうでしょ、それ」
二人の間に、ゆったりとした空間が流れる。二人の上では、昼間にはまるでぬりかべのように空に立ちはかがっていた雲が、静かに動き出していた。
「まあ、とにかくここはたくさん星が見えるの。それでね、それを見て、栞はよく銀河鉄道が来そうだって言ってたわ」
「銀河鉄道？」
「そう、銀河鉄道。知らない？」
北川は、少し首をひねった。
「あの、金髪の女の人が出てくるやつか？」
ため息。そして、睨み。
「すまん、美坂…」
「いいわ。どうせ北川君だしね」
「どういうイミだよ！」
「ふふ、言葉通りよ」
香里は微笑むと、そのまま後ろ向きに倒れた。ゆったりと深呼吸をする。
「夏にはね、こうやるとたくさんの星が見えるの。本当に吸い込まれそうなぐらい。それでね、栞と二人でこうやって横になると、あの子、いっつも言ってたの。『あそこから銀河鉄道がきますよー』って」
そのときのことを思い出したのか、香里はくすくすと笑った。
「私が来ないわよって言っても、あの子は来る、来るって。よっぽど好きだったのね、夜空の絵を描くときなんて、いつもどこかに電車の絵を描いてたわ」
「ふーん。絵、得意だったのか？」
北川が言うと、香里はとたんに眉を寄せた。
「アレは絵なんてものじゃなかったわ…」
香里があまりにも真に迫った顔で言うので、北川は思わず笑ってしまう。それを見て香里も微笑む。
しばらくして、ふと、香里は遠い目をした。
「でもね、たぶん銀河鉄道は来たのよ。あの子のところに」
「美坂…？」
北川が香里の顔を覗き込んでも、香里の調子は変わらない。
「あの子、独りで行っちゃったの。私も相沢君も置いてって、独りっきりであの暗いところに行っちゃったのよ」
つー、と香里の右目から一雫、唐突に涙がこぼれ落ちた。
「私に謝る時間もくれないで、あの子、行っちゃったの」
鋭く風が吹いた。北川は何か言いかけて、風に飲まれたように押し黙る。下草ががさがさと鳴り、香里の手の中のストールを捲り上げた。風はしばらくの間荒れ狂い、やがて止まった。
「ねえ、北川君。ひとつ頼まれてくれない？」
その時間が止まったような静寂の中、香里が呟くように言った。
「…何？」
「手、握ってて」
香里がゆっくりと北川の目を見る。視線が交錯する。
「銀河鉄道が来て、それに私が一人で乗っちゃわないように、手、握ってて。」
「…ん、分かった。安心してろ。」
香里はそのまま目を閉じた。それを見届けると、北川もそのまま横になって、香里の手をしっかりと握ると、目を閉じる。
目を閉じる直前、はるか遠くで、雲がゆっくりと動いているのが見えた。
がたぁぁん。ごとぉぉん。
遠くから何か聞こえる。徐々に浮き上がる感触。
がたぁぁん。ごとぉぉん。
ゆっくりと目を開く。頭の芯がすっと遠のき、瞬間目の前が暗くなった。もう一度ゆっくりと目を開く。その刹那、目の隅を光の筋が走った。驚いて右側を肩越しに見て、思わず北川は自分の目を疑った。
そこには窓があった。それも、電車にあるような大きな、外を見るための窓。そして、その向こうには黒い空間が広がっていた。その中に白く小さな点が無数にちりばめられている。
――宇宙？
と思ったときに、突然気付いた。
――そういえば、俺銀河鉄道に乗ってたんだったっけ。
何かが腑に落ちた。落ちついて窓を覗き込むと、白い点は徐々に流れていくのが分かった。がたぁぁん、ごとぉぉんと、妙に間延びしたような音が北川に振動を伝える。ゆったりとした、まるで深海のような暗い虚空を、魚のような赤いものがさかんに上から下に落ちていた。その赤いものには意識のようなものは感じられない。それは、ただ落ちているように北川には思えた。
その眺めにも飽きてきて、北川は窓から目を離した。車内はオレンジ色の電灯がともっていて、完全な闇ではなかったが、やはり広範囲は見えない。しかし、はす向かいに座っている二つの人影ははっきりと見えた。そこには、ブラウンの髪に理知的な瞳を持つ少女と、黒い髪に朗らかな瞳を持つ少女が並んで座っていた。
――美坂？ それと…。
二人は楽しげに会話をしている。声は聞こえないが、雰囲気が伝わってきた。時たま窓の外を流れる赤い流れ星で照らされる二人の顔は、そのつど笑顔だった。なんとなく北川は、あれが妹の栞ちゃんかな、と考えた。暗くてよく分からないが、多分透けるような白い色の肌をしているのだろう。背景に溶けそうな黒い髪がそれを引き立たせている。そして、香里よりも体が一回り小さくみえた。
――相沢ってロリコンなのかな？
ふと不謹慎なことを考えてしまい、北川は一人でにやりと笑った。
それから時間がどれくらい経っただろうか。唐突に、す、と黒髪の少女が立ち上がった。香里は楽しげな表情を一変させ、おびえたように首を振り、少女の腕をつかんでいる。少女は、そんな香里の姿を見て、少し寂しげに微笑んだ。少女はゆったりとした動作で香里が巻いていたストールを抜き取ると、それを自分に巻いた。そして、自分の腕をつかむ香里の手に自分の手を合わせ、口元を香里の耳のそばに寄せて何事かを話す。それを聞いて、香里は目に涙をためながらもゆっくりと頷き、その動作に合わせて少女の腕から手を離した。
赤い流れ星がその光景を照らしている。それを見ていた北川は、ふと電車の速度が緩やかになっていることに気がついた。少女は、香里から離れてゆっくりと、北川から逆側の方向の降車口へ向かう。
やがて、わずかな振動が電車の停車を乗客に伝える。そのとき、少女は唐突に北川の方を向いた。２、３秒、少しどきりとした北川と目線が絡み合う。
降車口の扉が開いた瞬間、ふ、と少女が微笑んだ。その表情のまま唇が動き、言葉を紡ぎだす。その言葉だけは何故かはっきりと北川に届いた。北川が頷くと、少女はにっこりと笑い、人差し指を自分の口元に持っていって、唇にそっと当てた。そして、そのままの顔で、少女は電車から降りた。
北川はゆっくりと口の中で言われた言葉を反芻する。その内容を思い出して、北川は思わず笑いがこみ上げた。なんとなく満ち足りた感じがして、ゆっくりと伸びをする。香里が窓の外を眺めているのが見えた。
しばらくオレンジ色と振動だけが続く。香里に声をかけようとして、ためらい、それを数回繰り返しているうちに、北川は眠くなってきた。半分閉じた目で香里の方を見ると、おりよく通過した流れ星が、目を閉じている香里の顔を照らし出した。
がたぁぁん、ごとぉぉん、という振動が、北川を徐々に眠りへといざなっていく。窓の外を見てみると、相変わらず白い点はそこにあり、赤い流れ星も落ちていた。
――銀河鉄道っていうのも、結構退屈なものなんだな。
ブラックアウトする意識の中、北川はそう考えていた。
不意に目に痛みを感じ、北川は跳ね起きた。ぱたぱた、と遠ざかっていく雀を目で捉える。あれが目に乗ってたのか、と、ぼんやりと考えて、不意に状況を思い出した。
――ここは……、ものみの丘？
隣を見ると、確かに香里が寝ていた。それもしっかりと手を握り合って。北川が少し気恥ずかしくなっていると、香里のまぶたがぴくりと動いた。ん…、という吐息が口から漏れている。さらに気恥ずかしくなり、なぜか早口で北川は香里に声をかけた。
「美坂、起きたか？」
香里はなにやら唸りながらあいている手で目をこすった。そのままぐっと伸びをすると、やおら起き上がった。
「おはよう、北川君」
全く普段通りの声で言われて、北川はなんとなく拍子抜けした。
「…美坂って朝強かったんだな。それもかなり」
「あら、そう見えないかしら？」
「ああ、まあなんとなくだけどな」
なんとなく言葉が途切れる。まだ日が出ていない空は薄暗かった。それでも雲はなくなったらしく、辺りは薄明るい。北川がなんとなく空を見ていると、香里が下を見ながらぽつりと呟いた。
「ありがとう。手、つないでてくれて」
北川と香里はそのまま目を合わせない。北川は上を、香里は下を向いている。
「別にそんなたいしたことでもないさ」
香里はゆっくりと首を振る。
「そんなことない。そのおかげで私は栞に会えた。栞と話せた。そして――、ちゃんと栞と別れられた。その手が私をつないでくれたから」
そして、目を閉じた。
「本当に、ありがとう…」
北川に香里の震えが伝わる。それを感じながら、北川は目を閉じた。
香里が泣き止んだときには、辺りはだいぶ明るくなっていた。東の空も白み始めている。香里はゆっくりと赤い目で北川を見上げた。
「昔から思ってたんだけど、私って北川君としゃべってるとなんかペースが乱れるのよね」
「…そうなの？」
「そうよ。本当になんでかしら」
香里は憮然とした顔をしている。いつも自分が振り回されていると感じていただけに、それが北川にはおかしかった。
「…何よ」
顔に出ていたらしく、香里が突っかかってくる。
「なんでもないよ。あ、そろそろ日の出みたいだぜ」
「ちょっと、はぐらかさないでよ」
口を尖らす香里に、こらえきれず北川は大声で笑ってしまった。何よ、とつかみかかってくる香里の上半身が、突然明るく輝いた。日が昇ったらしい。二人は思わずそろって東の空を向いた。
「ねえ、北川君」
香里に呼びかけられ、そちらを振り向くと、朝の光の中で香里が微笑っていた。
「あのね、これからも、私の手、握ってて」
香里の顔は光の色に染まっている。それが北川にはまぶしかった。
「多分、これからも、時々栞の事思い出して泣くんだと思うわ。だから、そのときはいつもそばにいて。それで、私が泣き止むまで手を握ってて」
香里は一歩前に出ると、くるりと振り向き、北川の方を向いた。泣き笑いのその顔に、北川もゆっくりと微笑む。
「ああ、もちろん」
そう言うと、北川はゆっくりと、陽の光に染まった香里の手をとった。
「とりあえず、そろそろ帰るか」
「…そうね」
照れ隠しか、うつむき加減で、おまけに早足で歩く香里に引きずられるように歩き出しながら、北川はある声を思い出していた。どこで言われたのか、でも、その声は頭の奥深くに残っている。少し舌足らずな、甘えるような声。
――ふつつかなお姉ちゃんですが、どうぞよろしくお願いしますね。
了解、と北川は呟いた。そして、それを聞いて妙な顔をした香里ににやりと笑う。
「美坂、顔も目も真っ赤だぜ？」
茹蛸のような顔の香里と、香里に引っかかれてそれ以上に赤くなった北川の顔を、地平線から少し離れた太陽が照らしていた。
「いやー北川、聞いたぞ。お前、香里と外泊したんだってぇ」
「…どっからそんなハナシになってんだ」
それから二日後、学校。窓の外は青空が広がり、その下では桜が芽吹き始めている。
「だいたい常に同姓状態のお前に言われたくはないね」
「はっはっは。そういう言い方をするところを見るとアレだな。お前もとうとう…」
バキッ
「ったく。相沢、お前は相変わらず下品だなあ」
「そう簡単に人の性格は変わらんよ。ていうか手加減しろ北川…」
「ふ、当然の報いだ」
あの日、二人で帰ってくると、北川と香里の両親が心配していた。北川は父親にどつかれ、香里の母親は泣いた。警察に連絡する直前だったのは不幸中の幸いで、結局その場は香里が事情を説明することで収まった。その日二人は学校を休んみ、そして翌日の学校で、久しぶりに四人が再会したのだ。
「しかし、お前も水瀬さんには感謝しろよ。女の子にあんな顔させんなって、この女泣かせ」
「…まったくだ」
北川は軽口のつもりだったが、思いのほか祐一の声が静かだったので、思わず祐一の顔を凝視する。祐一はふ、と目を閉じた。
「俺があんまり情けないからさ、栞が夢ん中出てきたんだよ」
「相沢…」
「夢ん中でさ、しっかりしてくださいって、きつく栞に言われちまったわ」
祐一は目を開き、にっ、と北川に笑いかける。
「だから、もう大丈夫だぜ」
その笑顔は、泣きすがる母親の頭をなで、大丈夫、大丈夫と繰り返している香里の姿を北川に思い出させた。
「ったく、おせえよ。初めからキツくなったらそうじゃないやつに頼れって」
北川も祐一に笑みを返す。へへ、と二人は額を合わせた。
「…ところで北川、何で俺たち二人でだけで掃除やってんだろな」
「水瀬さんと美坂が逃げたからだろ」
顔を見合わせたまま二人は同時にため息をついた。そのままつー、とその場に箒を置く。
「…逃げるか」
「だな」
そのまま鞄を持って走り出す二人を窓から差し込んだ光が照らし出す。そのやわらかい光は、晩冬の冷たさよりも、初春の暖かさを多く持っていた。
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