『Nurse call』
男は、景色を眺めていた。
夜、屋上で独り。
フェンスに体を預け、楽な姿勢で遠くと近くを交互に眺めている。
雪山、正面玄関、駐車場、遠くの市街地、前を通る国道。
けれども、どこにも人の姿は見当たらない。
夜の帳がただ、辺りを包むばかり。
「……ふぅ」
溜息。
ここ最近特に悩み事が続いた為か、男は心身共に疲れていた。
――ギィ。
突然、後方で扉が開く音が聞こえた。
男は振り返り目をその方向へと向けたが、
屋上には一面に洗濯物が干されており、
それが邪魔をして、確認する事が出来ない。
不意に、強い風が吹いた。
少し長めの黒い髪が、夜の闇に靡く。
同時に、洗濯物も大げさに揺れ、
隙間から、男と同じ白衣を着た人物の影が見えた。
その影はゆっくりと近付き……
「交代のお時間です、氷室先生」
と、男に話し掛けた。
「これから、煙草を吸うところなんです」
「馬鹿を言わないで下さい。
とっくに時間は過ぎているのですよ？」
「……」
言われて、無言のまま扉へと歩き出すその男は――氷室と、言った。
ここ某市の総合病院に勤める、若い外科医。
氷室が扉を開け階下に降りるのを確認すると、
時間を告げに来た、同じく白衣を着込んだ若い女外科医は、
長く、色素の薄い髪を風に靡かせ……
「やはり、まだ戸惑っているのですか？先生」
と、その小さな唇を僅かに振わせ呟いた。
氷室は、渡り廊下を歩いていた。
屋上へと通じる外来病棟から、入院患者専用の病棟へ。
……ふと、窓から正面玄関を見た。
先程までそこには誰も居なかった筈なのに、今は女性が一人。
少し長く、緩やかなウェーブの掛かった髪を風に靡かせていた。
「……」
氷室は立ち止まり、窓に手をついてその場所を眺めた。
窓に息が掛かり、少しだけ曇る。
それを手で拭い去り、再び眺める。
そのうちまた窓が曇り、それをまた……拭う。
そうして何度か繰り返した後、
氷室は眉を寄せて目を細め、言った。
「家族の事は、所詮家族にしか解らない」
そして、踵を返し再び入院病棟へと歩き出す。
ただほんの少し、先程よりも歩調が早い。
――そして、目的のドアの前へ。
名前を書くプレートには、『氷室美紅』の文字。
軽く息を吐き出した後、音も無くそのドアを開けた。
そして、ゆっくりと奥に置かれたベッドへと近づく。
そのベッドの横には、色彩豊かな花々が活けられてあった。
周りにも千羽鶴や、幾つかの写真立て、それに未開封のＣＤや洋服。
その様子は――まるで、縁者達が名残の品を棺に詰めた後の様子に、似ていた。
氷室はベッドの脇へと寄り、備え付けてある椅子に腰掛けた。
「……美紅」
「……」
返事は無い。
けれど、それも慣れた事。
このベッドに眠る女性――氷室美紅は、
数年前から一度たりとて、誰の呼びかけにも応じていない。
氷室はその赤く、長く美しい髪を優しく撫で、言った。
「いよいよ、明後日だけれど……怖く、ないか？」
「……」
「僕は、怖い」
「……」
「君の頭に穴を空ける。
それから、血腫を切除……脳に、メスを入れなきゃいけない」
「……」
言葉は片道だけ。
それでも、氷室は構わずに話し続けた。
「……それじゃ、僕は行くよ。
また、明日」
そう言い残して、氷室は立ち上がった。
ゆっくりと歩き、再びドアを静かに開いて廊下へと出る。
底冷えのする廊下を、次の部屋へと歩く。
本来ならば夜勤者専用の宿直室で、
待機していなければいけないところなのだが……
「……」
そして、目的の部屋。
今度のプレートには『美坂栞』の文字。
コンコン
「はい？」
「氷室だが……入るよ？」
「あ、はいっ！？」
……がららっ。
今度は、ドアを開ける前にノックをした。
氷室美紅と同じ広さの部屋。
そして、同じ位置に置かれたベッド。
氷室はそこへ近づくと、
尋問を執り行うかのような口調を少々含んで、言った。
「……さて、栞君。
先程まで、何処に行っていたのかな？」
「うっ」
「その度胸には感服するが、あまり誉められたものではないね」
「うう……」
「解っているのかい？
君は……明後日、手術なんだよ？」
「……はい」
しゅんとする栞。
氷室はその様子を見ると、仕方がないと口調を止めて、話を変えた。
「ところで……さっきまで、
香里君が来ていたようだけど？」
「あ、そうなんですか？」
「……会っていないのか？」
「え〜と、この間会いました」
「なんだそれは？
まだ……わだかまりは解けていないのか？」
「いいえ……それは違います」
氷室の問い掛けに、真っ直ぐな目をして否定で返す栞。
その表情は、とても嬉しそうだった。
「そうか……それなら、いいんだ」
「はいっ」
「……」
何が、あったのだろう？
少なくとも数日前まで、この子はこんなに良い笑顔を見せる子ではなかった。
どこかぎこちなく、余所余所しい……そんな笑みを、
返されるばかりだったと言うのに。
「私……」
「うん？」
「すごく、幸せです」
「……」
「だから、もう手術なんて怖くありません」
「……そうか」
ほんとうに、どうしたというのだろう？
でも……この笑顔。
それはとても綺麗で、そして……どこか、羨ましい。
「とりあえず、これで私も心置きなく手術が出来るよ。
後は……そうだね、今から手術終了まで、
何も食べないでいてもらえるかな？」
「……え？」
「いや……だから、
手術終了まで、何も食べないで欲しい」
きょとんとした顔で、氷室を見る栞。
どうやら、その意味に対して頭が理解に至っていないらしい。
「えっと、冗談、ですよね？」
「いや？」
「そんな……私、倒れちゃいますよ」
「倒れたら点滴を打って安静にしていればいい」
「……うっ、そう来ますか」
しょんぼりと、うなだれる栞。
普段からあまり進んで食べるほうではないが、
一日中食べないとなると、話は別だった。
「そういうわけで、冷蔵庫の中身は没収していくよ」
「……はい？」
「つまみ食いされるといけないからね、没収」
「そんなぁ……」
嘆願する栞を他所に、冷蔵庫のノブに手を掛ける氷室。
個人病室用の小さな冷蔵庫。
少し硬いその扉を開き、中を見る。
――氷室は、その中を凝視した後、
半ば呆れながらも、とりあえずは聞いてみる事にした。
「……なんだ、これ？」
「アイスです」
「……」
「先生も、お一ついかがですか？」
「没収」
「ううっ、非道い」
冷蔵庫の隣に置かれてあったビニール袋を取り、
それに、冷蔵庫にぎっしりと敷き詰められたアイスクリームを入れる氷室。
……しかし、なんでまたアイスなのだろう？
近頃の高校生は解らない。
美紅は……目を覚ました時、他の子と上手くやっていけるだろうか？
と、希望的観念を含んだ不安を、心の中で意識的に漏らした。
「……さて」
冷蔵庫のものを……と、言ってもその全てはアイスであったが、
それらをビニール袋に収めると、
氷室は立ち上がり病室を出て行こうとした。
「あれ？もう行っちゃうんですか？先生」
「ああ、今日は本来夜勤でね。
早く戻って待機しておかないといけないから」
「ふ〜ん」
「それじゃぁ、また明日。
……おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
そして踵を返し、氷室は部屋を後にした。
「……」
廊下で、階下へと向かいながら氷室は考えていた。
どうして、栞はああも良い笑顔が出来るようになったのだろう？
あれ程不安定だった子が、どうして？
「……？」
そう考える中で、氷室にある疑問が生まれた。
いかに受け持ちの患者とは言え、
なぜこれ程他人の事を考えてしまうのだろう？
普段他人が自分に干渉するのを、あんなにも嫌っていたというのに――？
宿直室に辿り着いた氷室。
そのドアを開け、中へと入る。
「……」
ふと、横に目をやる。
宿直室のすぐ横は、機械管理室。
夜ともなると、誰も利用する者の居ないその部屋のコンピューターの横で、
数名の看護婦達が夜のお茶会を開いていた。
その光景を宿直室からガラス越しに見た氷室は、
宿直室と管理室を仕切っている扉を、ノックもせずに開け放ち、言った。
「……キミ達」
「はいっ？
……あ、氷室先生」
「ここに水分の類を持ち込んではいけないと、
あれ程言ってあったろう？」
「……えっ、あ、あの……」
「すぐに出なさい」
「で、でも……」
「出なさい」
「……」
氷室が、鋭い視線をしぶる看護婦達に投げ掛ける。
それを正面から受け止められる者もおらず、
看護婦達は、しぶしぶ管理室を後にした。
「いいか？
間違っても今後、ここで飲食を行わない事だ。
そもそも、休憩室があるだろう？」
その言葉に、看護婦の一人が言葉を返す。
「だって、休憩室には婦長達が……」
「知美っ！」
「……うっ」
だが、それは居合わせたもう一人の看護婦によって、止められた。
その二人の様子を冷やかな目で見つめていた氷室だったが、
結局は興味無さげに、背を向けて宿直室の奥へと向かって行った。
「……」
その後ろ姿を黙って見つめる看護婦数名。
氷室の姿が奥に見えなくなると、そのうちの一人が口を開いた。
「……なによ、あれ？」
「まぁまぁ」
「でも、嫌な感じ」
「またぁ、知美まで……」
「だって氷室先生って、
明後日妹さんのオペ、自分でやるんでしょ？
そりゃ気持ちは解るけど、何も私達に当たらなくてもさぁ？」
「でも……やっぱり、
悪いのは私達だしさ」
「……そうだけど。
でも氷室先生、前からあんなだったわよ」
口々に不満を言う看護婦達。
しかし、今回は非の在り所が曖昧だったこともあり、
煮え切らない気持ちのままではあったが、
皆それぞれの持ち場へと、帰って行った。
そして、宿直室の奥。
氷室は窓から外を眺めながら、静かな時間を過ごしていた。
結局……この日の晩は、何も緊急を要する事態は起こらなかった。
――朝。
氷室は正面玄関へと向かっていた。
外科病棟へと向かう途中、彼女の姿が窓から見えたからだ。
早足で、そこへ向かう。
途中で何人かの看護婦に挨拶を受けたが、
全て受け流すか、無視をした。
そして、正面玄関に付く。
入院病棟の方を見つめ、立ち尽くす彼女。
その横から、氷室はそっと話し掛けた。
「……やぁ、昨日も来ていたね」
声を掛けられた女性は、
少々の驚きと共に振り返り、言った。
「氷室、先生？」
「久しぶりだね、香里君」
「……ええ」
「栞君に、会って行かないのかい？」
「どうして？」
「どうしてって……」
「今は、その必要は無いわ」
と、淡々とした口調で話す香里。
けれど、その表情は今までの、
何かを諦めたような……冷めた表情では決して無かった。
それに気付いた氷室は、解らないといった顔をして、言った。
「……何が、あったんだい？」
「別に、特にたいした事じゃないわよ」
「しかし」
「……家族の事は、家族にしか解らない」
「……」
「そう、言ったわよね先生。
前に……妹さんの、話が出た時に」
「ああ」
「私も、それはきっと合ってると思った。
けれど……正しいとは、思わなかったわ」
その言葉の一つ一つが、今までのような刺は無く素直だった。
それは諦めや、投げやりなものでは決してなく、
何かを乗り越えた後の確信感――そんな意思が、香里の言葉からは感じられた。
「それで？」
「今でも、よく解らないわ。
けれど……」
「……」
「私には無理だと思っていた事を、友達が乗り越えてくれた。
必死になって、どれだけ絶望しても諦めずに」
「……友達？」
「ええ。
……だから、私も受け入れる事が出来たのよ」
「そうか」
「それにね、私の友達は、
別に栞の事を理解しようと頑張った訳じゃないわ」
ここに来て、香里の顔に笑みが宿る。
なんて、綺麗な微笑み。
それは昨晩見た栞の微笑みにとても似ていて――
氷室は、また軽い嫉妬感を覚えた。
「……じゃぁ、どうして？」
「ただ、最後まで……
最後まで、栞の事を好きでいてくれたのよ」
「……」
「まぁ、今だって好きなんだろうから、
『最後まで』っていうのはおかしいかもね」
「そうだね」
「……それじゃ、私は帰るわ」
「そう、気を付けて」
「ありがとう」
今度は「栞君に会って行かないのか？」と、問う事も無く、
氷室は、病院から去る香里を見送った。
「……」
そして自分も踵を返し、再び病院の中へ。
そのまま外科病棟へと赴き、今日の診察に当たった。
そして、夜。
今日も入院病棟へと向かう氷室。
その途中、後ろから声を掛けられた。
「今日は、屋上には行かないのですね」
「ええ」
言って、振り返る氷室。
「明日のオペ、
成功をお祈りしていますわ」
「……香川先生」
「はい？」
「それは、どっちのオペについてですか？」
「えっ？」
香川と呼ばれた女性――昨晩、氷室に交代の時間を告げに来た女性は、
氷室に思いもよらない質問を返され、驚いた。
……勿論、答えは『両方』に決まっている。
けれど……今日に限って言ったという事実に、
何の意味も含まれない筈が無いと、思われるのも当然だった。
「妹の……美紅のオペは難しいとは言え血腫除去。
香川先生も、経験がおありでしょう？」
「はい」
「しかし、栞君のオペは……」
「……」
言葉に詰まる、両名。
「失礼します」
と、一言だけ告げると、
氷室は視線を床に落としたままの香川に背を向けて、再び歩き出した。
「……氷室先生」
残される香川。
その茶色の瞳が、少し潤っている。
香川は後悔を抱えたまま、
その場を、なかなか動く事が出来なかった。
再び、音も無くそのドアを開け放つ。
そして、いつものように妹の眠るベッドへ。
「美紅」
「……」
「今は、とりあえず考えないことにするよ」
「……」
「明日行う栞君の手術と、
その後で行う君の手術……それだけを、考える」
「……」
物言わぬ、身体。
「……それじゃぁ、行くよ」
立ち上がり、その場を去ろうとする氷室。
その時……
「氷室先生」
と、後ろから声が聞こえた。
「……香川先生？」
振り向いて、それを確認する氷室。
「氷室先生、先程は……あの」
「……別に、構いませんよ。
間違った事を言った訳でもないですし」
「いえ、違うんです」
「……？」
「栞ちゃん……ずっと前から知っていますし、
大切な友達です」
「そう、ですね」
「けれど、美紅ちゃんの事も
もっと前から知っていましたし、大好き……なんです」
「……」
「それに、氷室先生の事も……」
「香川先生？」
「だから、もう一度言います。
誤解されても構いません。
氷室先生、明日のオペ……」
「……」
「成功を、お祈りしております」
「……」
「……」
沈黙。
決意を込めた祈りの言葉。
その言葉に対し、考え込む氷室。
そして……
「ありがとう」
と、一言だけ、返した。
「……氷室先生」
再び、静寂が病室を覆う。
けれど、それは決して悪いものではなかった。
氷室が、そっと手をドアの方へと翳した。
それに香川は首を振って答えると、
ドアへと向かい、そのまま廊下へ出た。
それを追って、氷室も。
ただ去り際に一言……
「それじゃぁ、また明日。
……おやすみ、美紅」
と、挨拶を残して。
屋上。
風こそ無かったが、
相変わらずの寒さが、一帯を覆っていた。
氷室は、いつものようにフェンスに体を預け、
人のいない景色を眺めていた。
ただ、今夜は香川が、隣で同じく景色を眺めている。
香川は、景色を眺めたままその視線を移さずに、言った。
「……そういえば、氷室先生は
私が研修医の時の担当でしたね」
「ええ」
「あの時、最初に係ったオペが……」
「美紅と同じ、脳内血腫の摘出」
「そう。
だから、そこから話は広がって……
まぁ、研修医の間だけでしたけれど」
「僕と、美紅に関して？」
「ええ。
良いものも、悪いものも。
色々な噂を聞きました」
「……」
「でも……それがきっかけで、
私はお二人に興味を持って、
その後、どんどん惹かれていったのです」
「そう言って来る者は、沢山いましたよ。
けれど、誰もがこの安いドラマのような状況を、
ただ興味本位に知りたがってるいだけでした。
だから……僕は、嫌いだった」
「今も、ですか？」
「さぁ、どうだろう？
香川先生はともかく、他の看護婦達は、
多分好きにはなれないな」
「……それでも、嬉しいです。
私を嫌いじゃないと、言ってくれて」
「……」
僅かな風が吹き、両者の髪を揺らす。
より一層寒さが立ち込めたが、両者の心にはそれを感じる隙間は無く、
明日への決意や僅かな緊張、そして柔らかく広がる暖かい気持ち。
これらで……満たされていた。
――そして翌朝、栞の手術が開始された。
「……」
落ち着いた様子で、メスを握る氷室。
今朝の、栞の笑顔が脳裏に浮かぶ。
それは相変わらず綺麗で、
少しの不安も、無いように思えた。
……数時間後、手術は滞りなく終了した。
集中治療室では、未だ様々な機器を体に取り付けられてはいるが、
安らかな寝息を立てる栞の姿が、そこにあった。
その向こう、ガラス越しにその姿を見つめる氷室と、香里。
「暫くは、この部屋から出られない」
「ええ」
「外気に触れれば二次感染の恐れもある。
……目覚めても、会話はこのマイクを通してもらうよ」
「……栞は」
「ん？」
「栞は、治ったの？」
「一応、手術は成功したよ。
けれど、それで完全に治ったとは言えない。
暫く経過を見て……判断する」
「なら、きっと大丈夫よ」
「……」
「栞には、待っている人がいるんだもの。
だから手術が成功したなら、もう大丈夫」
「……ああ」
そして、氷室は香里を残して再び更衣室へと向かった。
その途中で……
「頑張ってね」
と、背中越しに言葉を受けた気がした。
――午後、第二手術室。
術前処理を施された美紅が、ベッドに眠っていた。
「……これより、手術を開始する」
先程と同じ、完璧に保たれたコンセントレーション。
氷室は妹の脳にメスを入れるという行為の中、
勤めて冷静に、そして正確にその作業を執り行っていた。
それを見て、そこに居合わせた誰もが、
この手術は成功するものだと確信していた。
けれど……
「ねぇ、ちょっと紅茶取ってよ」
「いいよ〜」
それは、一階の制御室の中。
若い看護婦が、数名。
……人が、酷く後悔の残る間違いを犯す時は、
得てして、何かに反抗して取った行動の中にある。
「……あっ」
指先で、掴む筈の物を押し倒してしまう。
それは机の上からゆっくりと落下して……ぱしゃっ、と。
床一面にこぼれた。
そのまま、床の隙間に入り込んで、
その下にある分電器にまで届いて……
バチイッ！
と、ありえない音を部屋中に木霊させた。
――ガクン。
情けない音を立てて、病院内の全ての機器類が停止した。
それは、手術室においても同じだった。
「せ、先生！」
「大丈夫、すぐに予備電源に切り替わる」
しかし、通常停電後すぐに作動する筈の予備電源が、一向に作動しない。
……けれど、それもその筈。
落ちたのはブレーカーではなく、
電気を各階へと介する分電装置なのだから。
「……ん？」
手術室に、ようやく電気が灯る。
この部屋だけは、何が起こっても対処出来るように、
固有の電源を有していた。
氷室は再び作業を開始しようと、メスに手を掛けた。
その時……
プルルルル、プルルルル。
と、非常用の内線が、音を立てた。
一人の助手がそれを受け取り、
そして驚愕の表情で氷室に向かって、叫んだ。
「せ、先生！
先程のオペの患者が……
美坂栞さんが！」
「……！？」
「集中治療室の機器が停止して、
同時に、その、呼吸も……」
「……」
「あの、先生……」
「……直ぐに、栞君を第一手術室に運べ」
「え？」
「聞こえなかったか？
第一手術室だ」
「し、しかし……」
「このオペは、香川先生に引き継いでもらう」
「なっ！？」
――家族の事は、家族にしか解らない。
「当然だろう？
香川先生はこのオペの経験もある、
第一、その為の控え医だ」
「でも美紅さんは、先生の……」
「黙れ！
……早く、第一手術室に栞君を運ぶんだ」
「は、はいっ！」
――でも、それは結局、
傲慢な、独りよがりの考え方ではなかっただろうか？
氷室は第二手術室を出ると、
既に着替えを終えた香川先生と、引継ぎを行った。
「……以上です、香川先生」
「解りました」
「美紅を……お願いします」
「はい。
……先生」
「……」
「貴方は、間違っていません」
「……ありがとう」
そして、すぐに第一手術室へ。
そこには既に、栞が運ばれて来ていた。
顔はチアノーゼを起こし、呼吸も停止。
……少し、氷室は息を飲んだ。
「これより緊急手術を執り行う」
「はいっ！」
助手の妙に勢いの良い返事を確認すると、
氷室は、再び栞の手術に取り掛かった。
「……」
――美紅、君は、どう思う？
「先生！
血圧が下がり過ぎています！
これ以上は……」
「これ以上？
ここで止めたら、確実に死ぬぞ」
――僕は、果たして何を理解し、
そして何を愛しただろう？
……愛する事が、出来たのだろう？
「せ、先生！」
「……諦めるな、
そのまま輸血を続けろ」
――美紅、僕は……
……そして、数ヶ月が経過した。
昼間の屋上、相変わらずの格好でフェンスにもたれ掛かる氷室と、
その横で同じ格好を取る香川。
二人が見つめるその正面玄関には、大勢の看護婦と、
そして溢れんばかりの笑みを浮かべた、姉妹の姿があった。
「……」
「退院祝い、何を送ったのです？」
「アイスだよ。
以前……没収してしまったからね」
「ふふっ、そうでしたね」
「……」
「……」
少しの沈黙の後、香川が言った。
「本当なら……」
「……」
「本当なら、美紅ちゃんもあそこに……」
「香川先生」
「……はい」
フェンスから離れ、香川の目を見つめる氷室。
香川も、それに真似た。
「貴女のオペは完璧でしたよ。
何も……後悔する必要はない」
「……本当に完璧なら、
とっくに目覚めていてもいい筈ですよ」
「……」
香川の瞳に、うっすらと涙が溜まる。
氷室は、そんな香川をそっと引き寄せ……抱きしめた。
「でも、僕は……感謝しているよ。
あんなに美紅の事を想って、頑張ってくれたのだから」
「……ありがとう、ございます」
暫くして、氷室はその抱擁を解くと、
その場を後にして階下へと向かった。
香川も、それに続く。
正面玄関の前には、未だ大勢の看護婦達が集まっていた。
氷室はその横を、振り返る事も無く通り過ぎた。
外科病棟へ向かう途中、ナースステーションの前を通る。
……その時。
「ん？」
ナースコールを知らせるランプが、点灯しているのが見えた。
「……まったく、一人くらいは待機していろ」
言って、そのコールを受け取ろうとする氷室。
だが、その病室番号を見て……
「――！？」
ドクン、と。
鼓動が強く鳴った。
……かちゃっ。
震える手で受話器を上げ、話す。
「……はい、どうしました？」
マニュアル通りの言葉。
……その声も、少し震えている。
「あ、あの……ここは、どこなんでしょう？」
「……」
「私、その、どうして……」
「……」
「あの……」
「……おはよう、美紅」
「……えっ？」
春風が、窓からやって来る。
とても、柔らかくて、暖かい風。
その風に包まれた氷室の顔は、
一筋の涙を流しながらも、とても……
暖かい微笑みに、溢れていた――。
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