私が望むそのもとへ。
凍てつくような風が今日も構内を吹き渡る。
風はその己の冷たさに加え多少の雪を一緒に運び、学生たちの間を通り抜けていく。
その中を私は待ってくれている人の元へと急ぐ為、駆け足で待ち合わせ場所へと向っていた。
額から湧き出した汗は肌をつたって目の中に入りそうになり多少の不快さを感じさせる。
なるべく気にしないようにして息を切らせながらもずっと走ると、やっとの事で中庭のベンチに腰掛けている彼の姿を確認することが出来た。
「祐一さ〜ん。」
私は笑顔で彼に向かって手を振った。
「お、佐祐理さん。」
「お待たせしてしまい、すみませんでした。」
ぺこっ、と頭を下げて彼に謝ると同時に少量の雪が地面にパラパラと落ちた。
「いやいや、こちらこそ。」
何故か彼も私の真似をしてぺこっ、と頭を下げる。すると、さっきの私より多くの雪が地面へと落ちる。
「大分待たせてしまいましたね。」
呼吸を整える為、肩で息をしながら喋る。
最近、あまり運動をしていなかったためか、少し足が痛かった。
「いや、でもそんなに待っていなかったんだけどな。俺もさっき着いたばかりだし。」
「あははー、でもさっき頭からたくさんの雪が落ちてきましたよ〜。」
「ありゃ・・・。」
そう言いながら彼は恥ずかしそうに頭をかいて照れ笑いを浮かべる。
それを見た私もつられるように笑う。
こんな彼なりの優しい嘘は笑顔を、安心感を私にいつも与えてくれた。
彼は今年の春、私と同じ大学を受け見事合格した。
といっても私が彼を誘ったわけでもなく、彼自身がこの大学を選んだのだ。
受験の時には相当な努力を重ねたらしく、高校３年になってからの１年間は日々を勉学につぎ込むほどまでだったという。
頑張ったのですねー、と私が言うと彼はいつも決まって、佐祐理さんほどじゃないよ、と言って努力をした事を隠そうとする。
恥ずかしいのか、あまり自分が努力したなどと自慢をしたがる人ではなかった。
でも、彼のそんな所が私は好きだった。
「そう言えば、舞はどうしたんだ？」
「先程私に電話がかかってきましたけど、まだバイトが終わらないそうです。」
「そうか・・・ここ最近、舞もバイトばかりだな。」
私の親友である舞は、私たちとは違って大学には進学せずに、社会勉強と生涯の仕事としてやりたい事を探すのをかねてバイトに励んでいる。
最初はあの無口な舞がバイトだなんて大丈夫かな、と心配した時もあったけれど、意外にも適確に仕事をこなしているようで、私の不安も取り越し苦労となった。
ただ、前に１度だけ彼と一緒にバイト先に遊びに行った時には、制服姿を見られることを恥ずかしがってしまい追い返された。
流石にその時はバイト先から、お客さんを帰してしまうとは何事だ、と大目玉を食らったらしい。
「じゃあ、今日もあいつは帰りが遅くなるのか・・・。」
「仕方が無いですね、舞も一生懸命頑張っていますし。」
「でも、最近はいくらなんでも働きすぎだぞ。そのうち過労で倒れなければいいが・・・。」
「あははー、やっぱり祐一さんは優しいですね♪」
「い、いや。俺は同居人として舞の事を心配しているだけであって、そんな優しいとかじゃないんだ。」
「でも、それを優しいというのだと佐祐理は思いますよ？」
まいったな、と彼はそっぽを向いて苦笑いをする。が、それでも照れているのがはっきりと分かる。
ちなみに私たちは、アパートを一つ借りて一緒に暮らしている。
これは私と舞がまだ高校に居た時に、もしよければ３人で暮らしましょう、と約束をしていた事だった。
世間体から見れば同棲という状況であるがためにあまりいい目で見られなかったことも多かったけれど、彼も舞も、そして私もあまり気にする事は無かった。
そんな事より、一番大好きな２人と一緒に暮らせる事が私にはとても嬉しい事であった。
しかし、私は家に帰らなければいけない時があるので、いつもそこにいるわけではないのだけれど。
でも、今日は一緒にいることが出来る日。
ここ暫くは家にいる事が多かったので、久しぶりにそこへ行けるのを私はとても楽しみにしていた。
「それで、今日は何が食べたいですか？」
「そうだな、佐祐理さんの料理なら何でも美味しいから何でもいいのだけど・・・。よし、今から一緒に買い物をして決めるか。」
「そうですね、そうしましょう。」
「あ、でも舞が好きなタコさんウインナーだけは忘れないようにしないとな？」
「あははー、そうですね♪」
「そうそう佐祐理さん、舞も最近になって少しずつ上達し始めたんだ、料理。」
「はぇー、舞が料理ですか？」
「ああ、たまに料理の本とか買ってきてそれを見ながらやっているよ。けれどやっぱり佐祐理さんの方がまだ腕は上だな。」
「そんな、舞の料理だって美味しいですよ〜。」
まるで子供がいる夫婦みたいな会話をしながら、まだ雪がちらついている街並みを歩く。
クリスマスが近いせいか、通りにはカップルも多い。
こんな中で、私と彼はどのように見られているのだろう。
恋人、新婚夫婦、それとも少し仲のいい姉弟だろうか。
ふとそんな事を考えながら、私は街行くカップルの真似をして、そっと彼と腕を組んだ。
「帰ってこないな、舞・・・。」
「そうですね・・・。」
私たちは買い物を済ませ、アパートへと帰宅してすぐに晩御飯の準備を始めた。
そして、料理も完成し食卓の上にも食器を並べた状態にした。
あとは舞が帰ってくるだけですぐにでも食事を始めることが出来る状態にしておいた。
けれど、いつもの時間になっても部屋の扉が開くことは無かった。
いつも大体決まった時間に帰ってくる舞にしては珍しい事だった。
「そういえば、ここ最近は３０分くらい前より遅れて帰ってくることが多いんだよな、あいつ。」
「え、そうだったのですか？」
「ああ・・・何をしているかは知らないんだが。まぁ、たかだか３０分くらいでどうこう言うのも何だかと思って何も聞かない事にしているんだ。」
それに・・・、と続けて言う彼。
「もしかしたら何か失敗して怒られているかもしれないな。」
冗談っぽい感じで喋りだす。
「皿をたくさん割ってしまったとか、お客さんにコーヒーをこぼしてしまったとか。」
「あははー、そうかもしれませんね。」
口ではふざけた事を言っていても、実は彼もしっかりと舞の事を心配している。
それに舞の事については彼が一番よく知っていたし、それを私も知っていた。
でも、彼にこれだけ大切に思ってもらえる舞の事が私は少し羨ましく思えた。
「まぁ、でもいつも通りなら後３０分くらいであいつも帰ってくるだろ。」
「そうですね、気長に待ちましょう♪」
そして１時間が過ぎた。
でも、まだ扉が開く音は聞こえてこない。
「まだ帰ってきませんね・・・。」
「そうだな・・・。」
私たちも段々と話す事が少なくなっていき、稀に周り空気を沈黙が包み込む時もあった。
彼と一緒に居られる事はとても嬉しいのだけれど、何故かどことなくぎこちない感じがある。
「急な仕事が入ったのでしょうか？」
「もしそうだったとしても連絡ぐらいすると思うんだが・・・。」
「そう・・・ですよね。」
不穏な空気が漂う。
そして私も彼も考え込むようにして急に黙り込んだ。
多分、私も彼も考えている事は一緒。
・・・舞の身に何かあったのだろうか。
「――もう少しだけ待つか。」
「そうですね、それでも舞が帰ってこなかったら先に食べちゃいましょう。」
「はは、そうだな。でも、それで舞が帰ってきたら怒るだろうな。２人で先に食べるなんてずるい・・・。そんな感じでな。」
「あははー、舞なら言いそうですね♪」
「だろ？そしたら、帰るのが遅くなったお前が悪い。と言ってごまかす。どうだ、完璧だろ？」
「でもそしたら無言で舞のチョップが炸裂しそうですねー。」
「ああ、あのチョップか。そういえば最近見てないな。」
「前は２人でからかってあのチョップを舞に無理矢理やらせましたね。」
そうすると彼は、あのしぐさをしているときの舞は可愛いからついついやらせたくなるんだよな、と笑みをこぼす。
それに対して私も、そうですよね、と答え小さな笑みをこぼした。
こうして暫くの間は再び会話が弾んだ。
しかし、それでもまた３０分程すると部屋の中を沈黙が訪れる。
その間電話のベルも扉の開く音も、部屋の中では何も響かない。
「俺・・・ちょっと舞のバイト先に行ってみる。」
痺れを切らした彼が突如立ち上がる。
「それでしたら佐祐理も・・・。」
「いや、佐祐理さんはここに居てくれ、舞から連絡があるかもしれないし―――」
その時、部屋の電話が今までの沈黙を破るように騒ぎ出した。
それに彼がすばやく駆けつける。
「もしもし？・・・ええ、はい、そうですが。」
彼が丁寧に電話先の相手に応対する。
舞からの電話ではないようだった。
「―――それで！？今、どうしているんですか？」
突然、彼の口調が激しくなる。
「はい、はい。・・・分かりました、すぐ向かいます！」
彼は荒っぽく受話器を元に戻すと、急いでコートをかけ外に出ようとする。
「どうしたのですか！？」
「舞のやつ・・・、バイト先で倒れたらしい。今は近くの病院だそうだ。」
彼の顔が青ざめているのがわかる。
そういう私も、その話を聞いた瞬間に顔から血の気がさぁっ、と引いていくのを感じた。
「くそっ、帰りに冗談で言っていたのが本当になるなんて！」
ロクでもない事を口にするんじゃなかった、と言いながら彼は唇を噛みしめて部屋を飛び出す。
「ま、待ってください、祐一さん。佐祐理も付き添います！」
ショックでしばらく我を忘れていた私は置いて行かれそうになった所で慌てて彼を追いかける。
そして私達は全速力でその病院へと向かった。
「―――一応、ただの過労です。しかし、念のためにしばらくは無理な事をせずに安静にしておいた方がよいでしょう。」
「そうですか・・・すみません、ありがとうございました。」
「いえ、お大事に。」
私達が病院へ着いた時には、舞はベッドの上ですやすやと眠っていた。
私も彼も、舞の無事な姿を見てほっ、と胸をなでおろした。
そして今、彼が医師の人から軽く説明を受けていた。
診察室から彼が出てくる。
「ただの過労だそうだ、心配する事は無いって。」
「そうですか・・・よかったです。」
その一言を聞いて改めて一安心する。
病院に付き添ってくれていたお店の人の話によると、舞はバイトが終わる時間になってもヘルプとして店の手伝いをしていたらしく、やっと帰ろうとした時に急に倒れたとの事だった。
店の人達は時間になったので舞を帰らせようとしたのだが、舞は帰ろうとしなかったという。
ここ最近帰りが少し遅くなっていたのも、手伝いをしてから帰宅していた為だそうだ。
それを聞いて彼は、全く無茶しやがって・・・、と呟いて舞の顔のそばに近づいた。
すると安心したような顔で彼女のおでこに軽くデコピンをする。
それに舞はピクッと反応する。
それを見て面白がったのか、彼はまるで子供のように舞の頬などを指でつついたりして遊んでいた。
そして、舞もその度に寝返りをうったり、くすぐったそうにしたりと反応をする。
けれど、よほど疲れているのか起きることは無かった。
「さぁ、帰りましょうか祐一さん。」
「そうだな、いつまでもここに寝せておくわけにもいかないし。」
その時既に、病院の受付にある時計は１１時を過ぎていた。
「タクシー、呼びますか？」
「いや、アパートまでそんなに遠くないし徒歩でいいだろ。お金も勿体無いし。」
「でも祐一さん、舞を背負って行けますか？」
「大丈夫だって、一応これでも俺だって男なんだぞ。」
彼は腕をまくり、笑顔で力こぶを見せる。
「わ、ボディビルダーみたいですねー。」
「いや・・・流石にそこまではいかないな。」
そういって彼は謙遜する。
確かにボディビルダーというのは大げさすぎだったかもしれないけれど、その腕は男らしい太くてガッチリ引き締まった腕だった。
「よいしょ、と・・・。」
２人がかりで舞を彼の背中に背負わせる。
最初は少しふらついたけれど、なんとか持ち直しことができ、その後はまっすぐ歩けるようになった。
人を背負うのにもするのにもコツがいるんだな、と彼。
外ではまだ雪が降っていたけれど、彼の額には汗が少しにじんでいた。
その汗をハンカチで拭いてあげる。
「これくらいしか出来ませんけど・・・。」
「いいや、充分だ。ありがとう、佐祐理さん。」
彼は優しい笑顔を向けてくれる。
私に向けて。
思わずつられそうな笑顔。
とても眩しい笑顔。
でも、その笑顔が私は怖い。
彼は優しい。そう、誰にでも。
たとえ言葉や態度が違っても、その人に対しての優しさを見せてくれる。
私はとてもいい事だと思う。
だから、彼は誰からも好かれているし、自然と人も集まる。
そして彼自身では気づいていないかもしれないけれど、彼に好意を持っている人もかなり多い。
友情という形の好意ではなく、愛情としての好意を。
舞も・・・そして私もその一人。
彼は私にも優しくしてくれた。
でも、それは私だけの特別な優しさじゃなかった。
他の皆と同じ優しさ。
彼が自然に皆へと贈っている優しさ。
愛している、という感情から生まれてくる優しさとは違う。
でも。最初はそれだけで、その暖かさを与えてもらえるだけで幸せだった。
しかし、皮肉な事に私はどんどん彼に魅かれていった。
すると彼の特別な人になりたいという気持ちが徐々に溢れ出してくる。
彼と一緒に居たい。少しでも長く一緒に居たい。できればずっと一緒に居たい。
そして彼の側に居て、同じ部屋２人きりで過ごしていきたい。
でも、そのような事になれば舞はどう思うだろう。
おそらく私と同じ想いを彼に抱いている、私の親友は。
高校からの友人に裏切られたら彼女はどんな思いで私を見つめるのだろうか。
嫉妬？軽蔑？それとも憎しみ？
・・・そんなの私には耐え切れない。
そんな葛藤の中で彼はいつも私に笑顔を見せてくれた。
だから、私はその笑顔が怖い。
彼にもっと魅かれていきそうだから。
舞と別れるのが嫌だから。
私が私でいれなくなりそうだから・・・。
数十分ほどしてアパートへと到着した。
「待ってくださいね、すぐお布団を敷きますんで。」
「ああ、頼む。」
私は少し古ぼけたふすまから花柄の可愛らしい布団を一組取り出す。
そして素早くそれを畳に敷いて、舞を寝させるための準備をした。
そして彼が舞をそこに寝かせる。
舞は今でもぐっすりと心地よさそうに寝ている。
「ふぅ・・・。」
「お疲れ様でした。」
「ははは、いや佐祐理さんもお疲れ。」
「汗びっしょりですね。」
「外はあんなに寒かったのにな、人を一人運ぶのも結構疲れるもんだ。・・・はぁー、それにしても腹減った。」
「何も食べていませんでしたからね。」
「・・・せっかくの料理が冷めちゃったな。」
「でも、温めればすぐに食べられますよ。」
淡々と短い言葉のみで会話をする。
同じ話題を私も彼も続けようとはしない。
お互いに少し疲れているからだと思う。
「・・・今からでも少し食べますか？」
「そうだな・・・、舞には悪いけどそうするか。さっきから腹の虫がなりっぱなしだしな。」
「くすっ、じゃあ少し待ってください。」
「了解。」
そして私はすぐに立ち上がって台所へと向かった。
お味噌汁は鍋に入ったままだったのでそのまま暖める事にした。
ご飯は固まってしまっていたのでつぎ直す事にする。
鍋がコトコトたぎり始める。
味噌汁は結構冷えていたのか、意外と時間がかかるようだった。
ふと、後ろを振り向いてみると、さっきまでテーブルの側に座っていた彼がいない。
どこに行ったのだろう。
探そうとしてみる、けれどその必要は無かった。
彼は先程舞を寝かせた部屋にいた。
そして舞の寝顔を側で黙って見つめていた。
「――やはり舞の事、気になるんですね。」
私は彼の背後から声をかけてみる。
「うん？まぁ、な・・・。あれだけ元気な舞が倒れるなんて考えた事もなかったからな、今でもちょっと驚いている。」
そう言いながら彼は舞の髪を触ったりおでこを撫でたりしていた。
病院の時とは違い、どこか悲哀を感じさせるような顔で。
「多分、本当は慣れない事ばかりで疲れていたんだろうな。元々、舞は人付き合いが得意な方じゃないし、それなのに一日中お客を相手に笑顔で接客する・・・、大変だろうと思う。」
「そう・・・ですね。舞の性格から考えると。」
「でもな・・・、頑張りすぎなんだよ、舞は。何でも一人で抱え込みすぎて、我慢し続けて、それでも俺達には弱音を吐いたり、疲れた表情を見せたり絶対しようとしない・・・。少しくらい甘えてくれたっていいのにな。」
「・・・ちゃんと、いつも舞のことを見ているんですね祐一さんは。」
「当たり前だろ？知り合ってからもう２年も経つんだ。それに今はここで一緒に同じ時を過ごしている、それくらい誰だって気づくだろ。」
その言葉は本当に彼にとってはそれが常識であるという事を示していた。
でも、それは当たり前なんかじゃない。
それに気づいたのは貴方が優しい人だから。
そして、きっと貴方が舞の事を―――。
「――祐一さん。」
私は彼の肩から手を回して、その背中に自分の身を預ける。
「さ、佐祐理さん？どうし――」
「祐一さん、何故あなたはそんなに優しいのですか？どうしていつも笑顔でいることが出来るのですか？」
「・・・。」
「舞に対してそうなのは分かります。だって・・・祐一さんは、舞の事が大好きですから。この世の誰よりも、祐一さんは舞の事が好きなんですから・・・。でも、なぜ佐祐理にも優しくしてくれるんですか？佐祐理は祐一さんに何もしてあげれないのに・・・。
そんなに優しくされると佐祐理は・・・佐祐理は――。」
もっとあなたの事が好きになってしまいます。もっとあなたに魅かれてしまいます。
もっとあなたと一緒に居たいという想いが強くなってしまいます―――。
口にしかけたその言葉を私は声に出さずにそのまま押し殺した。
――暫く沈黙が空気を支配する。
ピンと張り詰めた緊張感。
舞を待っていた時と一緒？
違う。今、舞は側に居る。
原因は、私自身だ。
私が作り出した空気の中で彼、そして私も動かずに、いや、動けずにいた。
その場にまるで時が流れていないように。
「佐祐理さん・・・。」
彼が小さな声で私の名前を呼んだ。
「俺がいつもこうしていられるのは皆のお陰なんだ。名雪や、秋子さん、北川とか・・・勿論、舞や佐祐理さんだってそうだ。」
「でも、佐祐理は何も祐一さんにしてあげる事が出来ません・・・。むしろ迷惑をかけています。」
「いいや、佐祐理さんだって俺に色々してくれているじゃないか。大学で勉強を教えてくれたり、美味しいお弁当を食べさせてくれたり、それになにより佐祐理さんの優しい笑顔はいつも俺に元気を与えてくれる。」
一瞬、顔が紅潮する。
嬉しかった。けれど、私は素直に肯定しなかった。
「そんな・・・佐祐理は優しくなんかないです。」
「そんな事はない。」
彼はそう反論すると、彼の胸の前にある私の手にそっと触れた。
私は不意をつかれ体がビクッと反応してしまう。
「ゆ、祐一さん！・・・佐祐理の手は冷たいですよ。」
その私の手とは違い、彼の手はとても温かかった。
「佐祐理さんの優しさは俺と舞が一番良く知っている。うわべだけの優しさじゃなくて本当の優しさを佐祐理さんは持っているんだ。そうでなければ舞と親友になんかなれない。
舞のいい所を知る事なんか出来なかったと思う。」
「いえ、祐一さん・・・私はただ笑っているだけです。本当の優しさだとか、そんな事ではなくてただ笑っているだけです。・・・それ以上でも、それ以下でもありません。」
「その笑顔がもしそうだったら、俺も舞もこんなに佐祐理さんの事が好きになる事はない。佐祐理さんの笑顔は本物だ。」
「―――え？」
「それに、こんな話を聞いたこと無いか？手が冷たい人は心が温かい、ってな。」
涙。
涙がひとつ瞳からこぼれ落ちていた。
何故か、いつの間にかこぼれ落ちていた。
頬の上をすぅ、とこぼれ落ちていた。
「佐祐理さん、どうしたんだ？」
「いえ、なんでもありません。祐一さんの言葉がしみただけです。」
「言葉がしみた・・・目に？」
「いいえ。心に、です。」
彼は本当に優しい。
誰にでも優しい。
でも、それはうわべの優しさじゃない。
彼の優しさも本当の優しさ。
人を癒す、素晴らしい優しさ。
彼の手は温かったけど、きっと心も温かい。
――そんな彼が、私は大好き。
「ん・・・なんだか、俺も涙が出てきたぞ。」
「あははー、何か感動する事でもあったんですか？」
「いや、そうじゃなくて・・・煙が目にしみた時と同じ感じかな。」
「煙・・・きゃあっ、お味噌汁がっ！」
「うわっ、鍋が噴きだしているじゃないか！」
「早く火を止めないと・・・。」
慌てて、台所へ向かってガスを止める。
「ふぅ、これで大丈夫です。」
「もしかして佐祐理さん・・・忘れてた？」
「あ、あははー・・・そうみたいですね。」
「ははっ、佐祐理さんも意外と忘れっぽいんだな。」
「そうですね、そうかもしれません。」
「・・・真面目に返されても困るけどな。」
「あははー、じゃあお味噌汁作り直しますね。」
「いや、もう味噌汁はいいや。こんな時間に作り直すのも大変だしな。」
「そうですか、じゃあご飯とおかずをすぐに並べますね。」
先程までの雰囲気はどこへやら、いつの間にかいつもの私たちに戻っていた。
そして、暫くして。
「・・・佐祐理？祐一？」
「お、舞起きたか。」
「おはよう・・・。」
「おはよう。といっても今は夜中だけどな。」
「私、・・・いつの間にここに帰ってきた？」
「帰ってきたんじゃなくて連れて帰ってきたんだ。俺と佐祐理さんがな。お前、バイト先で倒れたんだぞ。」
「・・・何故？」
「何故って・・・そりゃあ、お前が我慢しすぎなんだ。ったく、辛い時は素直に辛いって言えばいいんだぞ、舞。」
「駄目。そしたら、佐祐理と祐一に迷惑をかけてしまう・・・。」
「バカ、そんなに気を使わなくていいんだよ。人間、素直になるべきなんだぞ。俺みたいにな。分かったか？」
「・・・はちみつくまさん。」
「よし、じゃあちょっと遅いが３人で晩御飯にするか。舞も腹減っただろ、もう少ししたら佐祐理さんが作り終わるからな。今日はゆっくり休むんだ。」
「はちみつくまさん。」
「や、やけに返答が早いな・・・。」
「あははー、それだけ舞もお腹が減っているんですよ。ね、舞♪」
「そういうものなのか・・・。」
「それに、ちゃんと食べて明日のバイトに備える・・・。」
「ああ、言い忘れていたが、明日はバイトを休みにしてもらったからな。」
「・・・どうして？」
「さっき言ったばかりだろ、今日は休めって。倒れたって事は体も相当疲れているはずだからな。」
「バイトは明日・・・。」
「残念だったな、たった今、今日になった所だ。だからゆっくり休め。」
「・・・分かった。」
「さぁ、料理ができましたよ♪」
「よし、じゃあ食うぞ。って、こら舞！いただきますも言ってないのに先に食うなっ」
「早い者勝ち・・・。」
「そうじゃなくて、行儀が悪いだろ・・・人として。」
「そうですねー、いただきますはちゃんと言った方がいいと思うよ、舞？」
「・・・ゴメンなさい。」
「よし、じゃあ改めていくぞ。いただきます。」
「・・・いただきます。」
「あはは、いただきます♪」
私は笑った。
いつもと同じ笑顔で。
でも、違う。
今の笑顔は顔も心も笑っている。
心の奥底から楽しいと思っている。
そんな久しぶりの、３人揃っての楽しい遅めの夕食だった。
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