魔物の住む学校
夜の学校というのは、なんていうか不思議な場所だった。
普段、人がいすぎるものだから、そこが無人になると急に別の場所のような気にさせられる。静か過ぎる空間。俺達が廊下を歩く無機質な音だけが絶え間なく響いていた。
さてはて、一体なんで俺はこんな所にいるのだろうか。
隣には不安な顔で一杯の名雪、全然ヘッチャラそうな香里、暗闇に紛れて何かを企んでいそうな北川が並ぶ。もはやお馴染みのメンバーだ。
突然、大きな風が吹き荒れた。大きな音とともに廊下の窓をガタガタと揺らす。
真っ先に悲鳴を上げたのは名雪。廊下の端に縮こまっていた。
「ホラ、名雪。ただの風だからもう大丈夫よ」
全く物怖じしない香里が名雪に声を掛ける。
「うー。もう帰りたいよ……」
弱々しい声を吐く。
「アホ。誰のせいでこんな夜中に学校に来てるんだと思ってるんだ」
「少なくともわたしのせいじゃないよ」
「どう考えてもお前のせいだっ！」
そう。話せば長くなるのだが、時を遡る事約１時間前。
俺は自分の部屋で、最近ようやく買った携帯で北川と漫才合戦を繰り広げていると、隣の部屋から緊迫感のないうめき声が聞こえてきた。次いで部屋の扉を叩く音。
俺が返事をする前に扉が開き、名雪が電話の子機片手に入ってきた。
「祐一〜、大変だよお……」
ちなみに全然大変そうには見えない。
「っていうか、返事する前に部屋の中に入るなっつーの。で、何が大変なんだ？」
「わたし今、家庭科の授業でマフラー作ってるんだ」
「ふーん」
マフラー。今６月だぞ。どう考えても季節外れだ。家庭科の先生は何を思ってマフラーなんて作らせているんだろうか。ちなみに俺は技術選択なので家庭科の授業は受けてない。
「月曜日までに作ってこなくちゃいけないんだ」
「あと３日しかないじゃねーか。そりゃ頑張れよ」
「でね、網掛けのマフラー、学校に置いて来ちゃったんだけど……」
「……で？」
なんか嫌な予感がする。
「今から学校に取りに行こうと思うんだけど」
「……で？」
「香里と行くんだけど、祐一もついて来てほしいなって」
ぐあ。嫌な予感は見事に的中した。
「一応聞くけど、なんで俺が？」
「香里がね、わたし達だけじゃ危ないから祐一にも来てもらえって」
あんにゃろう、余計なことを。
「危ないと思うなら明日いけよ」
「なるべく早く完成させたいから」
「とにかく、俺は」
いかない、と言おうとした瞬間、机の上の携帯から北川の声が聞こえてきた。
『今の聞かせてもらったぜ！おい、相沢！お前水瀬サンの彼氏だろ！それでも男か、あ？愛する女が困ってるんだろ。男だったら助けるもんだべ！』
突然出てきて何を言うか。おれは思わず赤面してしまった。
『水瀬サンも聞こえるか？』
「うん、聞こえるよ」
『俺もいっていい？』
なぬ？
「え？北川君も来てくれるの？うんうん、大歓迎だよ〜」
俺は携帯を掴んで、名雪に聞こえないように話しかけた。
「お前、何か企んでるだろ」
『少し。いや、でも大した事じゃないぞ。フッフッフッ』
「あやしすぎるわ！」
おれは乱暴に電話を切って、名雪に向き返った。
「やっぱり俺も行くよ。北川のヤツ、何しでかすか分かんねーからさ」
「うん。決定だね」
回想終了。
その後、30分後におれ達は学校の正門で集合。適当に鍵の開いてる窓を見つけて、校内に不法侵入。今に至る、というわけだ。
「来るんじゃなかったよー」
「ここまで来てそんなこと言うなっつ−の。ホレ、教室に着いたぞ。取る物取って、さっさっと帰ろうぜ」
「うん……、取ってくるよ」
学年がひとつ上がってクラス替えがあったが、俺達４人はまた同じクラスだった。腐れ縁と言うヤツかもしれない。
「あ、名雪、あたしも行くわよ。名雪ひとりじゃ危なっかしくてしょうがないんだから」
「香里、ヒドイ事言ってる？」
そう言いながら名雪と香里はマフラーを取りに教室へと入って行った。廊下には俺と北川が残される。
「ところで、お前さ」
名雪と香里が教室の見えない位置まで行ってから、俺は北川に話しかけた。
「電話ではやけに乗り気だったけど、何か企んでるだろ」
「あ？そりゃもちろん美坂に会えるからだ。しかも夜に！」
「………」
あ、そう。
「片思い男はツライな」
「むっ！今のはおれを馬鹿にした発言だぞ！」
「安心しろ。馬鹿にしてるんだ」
騒ぐ北川を無視して、俺は廊下の窓から空を仰いだ。さっきまで晴れていた星空は、今は分厚い雲に覆われていた。風も強くなってきている。こりゃ、一雨降るかなあ。
「にしても、」
おれは北川に向き直った。
「夜の学校ってマジで不気味だよな」
「まあな」
夜の闇は果てしなく深かった。まるで学校全体が飲み込まれてしまうかのように。
「なあ。この学校の魔物の話しってるか？」
「あ？」
また北川が変な話を始める。
「この学校の怪談のひとつでさ、夜中に学校の窓を割りまくるってヤツ。ほれ、お前が転校してきてすぐに、夜中に廊下の窓が割られたって事件あっただろ。アレだよ」
「……フーン」
ああ、それは舞の事だとすぐに分かった。もちろん声には出さなかったが。
そういえば舞と初めて会ったときも魔物がどうとかって言ってたような気がする。あれ以来、俺と舞と佐緒里さんとで昼飯を一緒に食べたことも何度かあったけど、ふたりが卒業してからはほとんど会っていない。佐緒里さんは都心の有名な大学に行ったとかって聞いたけど、舞はどうしているんだろうか。大学に進学したとは聞いてない。元気にしてっかなー。
しばらくすると、教室から名雪と香里が出てきた。
「お待たせだよー」
右手には縫い掛けのマフラーが入った紙袋。
「ゴメンね、３人とも付き合わせちゃって」
「それはもういいって。それより早く帰ろうぜ。雨降りそうだ」
「そうね。傘持ってきてないし」
そう言いながらおれ達は階段へと歩き始めた。
それは――、
それはあまりにも突然にやってきた。
突然過ぎて俺達には何がなんだかさっぱり分からなかった。
いや、突然でなくとも何が起こっているかなんて、俺達には分からなかっただろう。
パリン、と廊下の奥から音がした。
俺達は一斉に音がした方へと振り返った。何かが割れる音。窓ガラスだろうか？廊下の奥には夜の闇が広がっていて、よく見えない。
パリン、ともう一度音がした。今度は俺達の後の廊下の奥から聞こえた。
「……なに？」
香里が低い声で呟いた。
それが合図だったかのように、前後の廊下の奥から一斉にガラスの割れる音が鳴り響いた。何枚も、何枚も。そして、それは段々とこっちに近づいてきている。
「なっ」
俺は金縛りにあったかのように、その場から一歩も動けなくなっていた。
何かが、よく分からない何かが学校にいる。そして、その何かはおれ達に向かって迫ってきている。
怖い。頭で理解するよりも先に、体で恐怖を感じた。
「おい、逃げようぜっ！」
北川が叫んだ。
「逃げるって……」
どこにだよ？
俺達の教室は南棟の４階の真ん中にある。階段は廊下の端だ。逃げ場はない。俺達は完全に見えない何かによって挟み撃ちに遭っているのだ。
その何かは廊下のガラスを順番に割りながら徐々に俺達に近づいてきていた。そして、俺達の最も近くのガラスがひとりでにガタガタと揺れだして割れるのを見た。
次の瞬間、俺達の目の前で何かが弾けた。たまらなく目を閉じる。同時にすごい音と突風のような衝撃。何かが音を立てて崩れる音。そして皆の叫び声が聞こえた。
回りが少し落ち着き、俺はうっすらと目を開けた。
ギョッとした。俺は目を疑った。
砕かれたコンクリートの壁。崩れ落ちた床下。原型を留めずに周りに転がっている教室の机や椅子。空からは小雨がパラパラと降り出していた。
あまりにも非日常で非現実な光景だった。
崩れた床の下には３階の廊下が見えた。どうやら３階と４階が貫通してしまったらしい。そのせいで４階の廊下は完全に２つに分断されていた。すっぽ抜けた廊下の床を挟んでこっち側におれと香里。向こう側に名雪と北川。名雪はさっきの衝撃で気を失ってるみたいだが、どうやら３人とも無事ではあるようだ。よかった……。
そして、俺達４人の中心、崩れた床の上には黒い物体がプカプカと浮かんでいた。それはまるで人の心臓のようにドクンドクンと不気味に脈打っていた。
「……なんじゃありゃ」
そう言いたくなるほどワケの分からないものが目の前にあった。いや、この状況自体、とっくに理解の域を超えていた。正気を保っていた分、まだマシだったかもしれない。
あまりにもの急展開に呆然としているだけの俺や名雪（気絶してるが）や香里に比べて、北川は冷静だった。
「おい、相沢！」
崩れた廊下の向こう側で北川が叫んだ。
「何がなんだかサッパリだけどよ、取り敢えずここは逃げといた方がいいよなっ」
そうだ。まずは逃げないと。ここにいたら100パーセント危険だ。黒い物体は今にも襲ってくるかもしれない。
俺はフラつく足で立ち上がった。
「俺と水瀬サンは北の階段から逃げるから、相沢と美坂は南の階段から逃げるんだ！そしたら１階で合流しようぜ」
「……了解」
こういうときの北川は本当にすごいと思うし、頼りになった。いつもはふざけてるクセに、一番大事なときに一番大切なこと、自分が今何をすればいいのかをちゃんと分かってる。
俺は香里に近寄った。
「大丈夫か、香里。走れるか？」
「なんとか、ね」
フラつきながらも香里も立ち上がった。
「相沢、もうひとつ！」
「まだ何かあんのかよ」
「水瀬サンはおれが責任を持って守る」
「………」
「だからお前も責任を持って美坂を守れ。傷ひとつ付けるなよ。埃もダメだ」
「北川君……」
「分かった」
必ず守る。
それだけ言って、俺達は一斉に散った。廊下を全速力で走り抜け、突き当たりの階段を２段飛ばしで駆け下りる。
途中で香里が口を開いた。
「ねえ、結局さっきの黒い変なのって一体何なのっ？」
「魔物だろ、たぶん」
「マモノ？」
香里がキョトンとした声を出す。
「さっき北川に聞いたんだ。この学校の怪談の１つで、夜中に窓を割りまくるんだとさ」
「で、その魔物って結局何なの？」
痛い所を点いてくる。
「そんなこと聞くなっつーの」
「つまり、何も分からないってことでしょ」
「学年一の秀才の美坂香里様でも分かりませぬか」
「分かるわけないでしょ。だって、あんな……」
口を紡いだ。香里はさっきの出来事を思い出しているのかもしれない。分かるはずのないあの出来事を。
そうこうしてる内に１階に着いた。階段の横はすぐ昇降口だ。扉に鍵は掛かっているだろうけど、内側からなら開けられる。
が、開けられなかった。どんなに力を込めても鍵は回ってはくれなかった。
「どうなってるの……」
香里が愕然とした様子で呟いた。
「ガラス割れば出られるよな」
俺は掃除ロッカーの中からモップを取り出した。窓ガラスにモップを力一杯振り下ろす。
鈍い音がしてモップの先端が粉々に砕けっ散った。
「うそ」
モップの先端は金具が取り付けられてる。それがガラスに叩きつけた程度で砕け散るわけがない。普通の扉じゃない。もうこの学校はさっきの黒い物体――魔物によって支配されているのかもしれない。
つまり、
閉じ込められたってことかよ！
「相沢君、携帯買ったんでしょ！それで外と連絡を取れれば！」
なるほど。俺はポケットから携帯を取り出してボタンを押した。
ボン！
「うおっ！」
携帯が突然爆発した。冗談だろ。人気の新機種なのに、高かったんだぞ！って、そんな事言ってる場合じゃないだろうが。
これで連絡も取れなくなった。至れり尽くせりだな。
俺は香里に向き直った。
「他に何かやることあるか？」
「あたしに聞かないでよ……」
じゃあ誰に聞けばいいのだ。
万事休す。俺達は途方に暮れた。
不安だけが募る沈黙がしばらく続いた。
いざ冷静に考えてみると、さっきの出来事の異常さに身震いした。そんな中、月曜日からの授業はどうなるのかなー、なんて事を考えたりもした。なんて緊張感のない……。
沈黙を破ったのは香里だった。
「……名雪と北川君、遅くない？」
「………」
確かに遅い。俺達が１階に着いてからもう何分か経つ。もしかして何かあったのかもしれない。いや、北川に限ってそんな事あるわけがない。きっと北川も名雪も大丈夫だ。大丈夫でないわけがない。
だけど、
「俺、ちょっと様子見てくる」
駆け出そうとした俺を香里が引き止めた。
「それなら、あたしも行くわ」
香里がそう言ってくるのは予想はしてたけど、ここで秋子さんのように素直に了承するわけにはいかない。
「バカ、危ないって。香里はここにいろよ」
「危ないなら尚更よ！名雪と北川君はまだ上にいるかもしれないんだから」
香里は涙目になっていた。香里のこんな表情、初めて見た。
「でもな、お前、北川の気持ちも……」
「北川君の気持ち？そんなの言われなくても分かってるわよ！北川君が相沢君にあたしを守れって言った、だから何よ。それじゃあ、あたしの気持ちは？あたしだって名雪と北川君が心配なんだから！」
決意を秘めた香里の声。逆らえない。
ああ、北川に怒られるかなあ。
「ダメっつっても、ついて来るんだろ」
「当然よ」
俺達は互いに頷き合って、北側の階段を駆け登った。
恐怖が体中を支配する。
騒がしい心臓を抑えつけるように、俺は全力で走った。
これ以上は危険だ、引き返しなさいと心の中の声が言う。ダメだ。引き返せない。上には名雪と北川がいるのだから。
息切れが激しい。体が熱い。気だけが妙に焦って、何度も階段を転びそうになった。
４階に着いたときには、走った距離は短いのに、服は汗でびっしょりになっていた。
それでも廊下に出たとき、『何か』が姿を消していたのを知ったときにはホッとした。俺の目に映ったのは半壊した校舎だけ。魔物の姿はどこのも見えない。
「祐一、香里っ！」
名雪の声だ。俺と香里が同時に声のした方へと振り向くと、廊下の端に佇む名雪と北川を見つけた。どうやら北川の方は瓦礫に足を挟まれて身動きが取れないでいるようだ。
俺達が駆け寄ると、名雪が目を赤くして言った。
「祐一っ、北川君が……！わたしを庇って……」
「分かってるって」
すぐさま俺は瓦礫の持ち上げに入った。かなりの重さがある。これは名雪ひとりじゃとてもじゃないが無理だっただろう。
「……マジ悪い、相沢。偉そうな事言って、俺が何もできてないじゃないかって感じだな……。マジで情けな……ぐおっ、いてー」
「黙ってろって。今、瓦礫どかすからよ。とりあえず、ふたりとも無事でよかった」
「本当に勝手なんだからっ」
そう叫ぶ香里の目にはうっすらと涙が溜まっているのが見えた。
「わりい……。って、ぐおおっ、マジでいてー」
「アホ、我慢しろ。で、名雪。あのおっかない黒いのは？」
「分かんない。さっき下に降りていくのが見えたけど……」
下か。それならうまくいけば撒けるかも。
なんて期待はその次の瞬間、ものの見事に打ち砕かれた。
瓦礫を半分程度どかした頃、突然床が盛り上がったかと思うと、轟音とともに大きな衝撃が体中を伝った。俺と名雪は崩れかけた階段に叩きつけられた。衝撃の割りには痛みは浅く、おれはすぐに瞼を開けた。
さっきまでいた４階部分は今の衝撃で完全に崩れ落ちていて、それに巻き込まれたのか、北川と香里の姿は３階の瓦礫の中にあった。ここから見る限りでは、ふたりとも無事みたいだ。
その頭上には、またしても黒い物体。心臓のように脈打つその物体からは無数の触手のようなものが飛び出ていた。そして、それは俺と名雪へと一直線に向けられていた！
「走れ！」
「え、あ、うん！」
下への通路はもう失われている。上の屋上に逃げるしかない。
俺達が走り出したすぐ後で、百連コンボでも打ち込んだかのような音が響いた。後１秒遅かったらミンチにされていたかもしれない。
急いで階段を駆け登り、転がるように屋上への踊り場に出た。屋上に出る扉に手をかける。
開かない。
押しても引いても、その扉はビクともしなかった。そんな馬鹿な。ここの扉には鍵なんか付いていないハズなのに。これも魔物の仕業なのか。
ヤバイ。絶対にヤバ過ぎる。
俺は生まれて初めて命の危険を感じた。
「祐一……」
名雪の不安そうな声が聞こえた。
そうだ、諦めるな。何か逃げる方法があるはずだ。例え俺はダメでも名雪だけは逃がさないと。でなきゃ彼氏失格だぞ。
魔物から涌き出る触手のようなものは、再び俺達に向かって飛んできた。今度は逃げ場はない。このままじゃふたりそろってお陀仏だ。そんなの嫌だ。
俺は反射的に名雪を横に突き飛ばした。触手の攻撃をモロに受ける。冗談にならない痛みが全身を走り、俺は壁に体を叩きつけられた。視界がボヤけ、世界がぐらぐらと揺れる。足で体を支えきれず、おれはズルズルと倒れた。ドロリと生温かい液体が頬をつたる。
「祐一っ！」
横で名雪が叫ぶのが聞こえる。足を怪我してるみたいだけど、無事のようだ。
魔物が再び蠢き出した。すぐにでも次の攻撃を始めるだろう。もう一度さっきの攻撃を食らったら、確実に死ぬ。
逃げなければ。だけど、体は思うように言うことを聞いてはくれなかった。
ああ、ヤバイ。マジで死ぬ。
それでも意識はある。頭だけなら動かせそうだ。
「名雪」
俺は出来るだけ落ち着いた声で名雪に呼びかけた。
群からはぐれた羊の子供のような怯えた瞳。
「今の内だ。逃げろって」
名雪は首を横に振った。
「やだよっ。祐一も一緒に逃げようよ！」
「俺は大丈夫だから……」
「うそ！祐一の事はっ、わたしが一番分かってるんだから！」
叫んだ。涙を浮かべた顔で。ガタガタと震えた体で。
メチャクチャ怖いくせに、すぐにでも逃げ出したいハズなのに。
俺のために……。
「あほ……」
ありがとう……。
次の瞬間、大きな揺れが起こった。魔物が大きく暴れ出した。階段から下の部分が不気味に音を立てて崩れていき、名雪の短い悲鳴が聞こえた。
今の崩壊で下の階まで落とされたのかもしれない。名雪の無事を祈りつつ、落とされた方がここにいるよりは安全だろうという思いもあった。名雪の事なら北川と香里に任せておけばきっと大丈夫だ。
それよりも、今は自分の事だ。魔物は俺の真上まで迫ってきていた。視界が黒一色になる。
これはもう逃げられないかもしれない。
死が迫ってきている。確実に。
人は死ぬとき、楽しかった事を思い出すのだと言う。楽しかった思い出が走馬燈のように頭の中に浮かんでは消えていくのだと。
このとき、俺の頭に浮かんだのも、やっぱり楽しかった思い出だった。
北川との漫才合戦。香里の見事なツッコミ役。名雪との７年振りの再会。告白。秋子さんのジャムの恐怖。皆で食べに行ったイチゴサンデー。舞と佐緒里さんとの昼時の他愛もない会話。
ああ、そういえば、ここってよく舞と佐緒里さんとで昼飯食べた場所だよな。ふたりの顔が頭の中に浮かんだ。こんなときなのに、俺は思わず苦笑してしまった。
思い出の場所だ。まさかここで死ぬなんて思ってもみなかった。
頬に生温かい物が落ちた。
え？
雨？いや、涙？
……誰の？
………。
「舞？」
魔物が動きを止めた。
直感って言うか、なぜか感じた。理解なんて到底できない。でも、感じた。コイツは舞だって。
冗談言って、端から見たら会話になってなかったかもしれないけど、それでも楽しい時間を共に過ごした。いつも無表情で、無愛想で、牛丼が好きで、夜中に学校で剣を振り回して、だけど誰よりも優しくて。
舞だ。
ゆっくりと手を伸ばす。
触れた。温かい。とても、温かい……。
「なんで……」
言いかけて、俺は途中で口を紡いだ。聞いちゃダメだ。この疑問は舞を傷つける。
「ごめん」
何にでもなく言った。
ただ、そう言わずにはいられなかった。
ごめん。本当に、ごめんなさい……。
次の瞬間、視界に光が溢れた。思わず目をつぶりそうになるぐらいの、大きな光。傷ついた体を包み、癒してくれるような、温かい光だった。
その光の中で、舞を――、笑った顔の舞を、見た気がした。
薄っすらと目を開けると、そこはいつもの教室の前の廊下だった。
あら？
ざっと見渡したところ、校舎には傷ひとつついてない。窓からは朝日が覗いている。どうやら夜が明けてしまったらしい。雨ももう止んでいる。体が軽い。受けたはずの傷も消えていた。
まさか、夢？
うそ。マジでかよ。
俺の周りには名雪と香里と北川も倒れていた。
急いで名雪と香里を揺すり起こす。北川は後回しだ。
「うにゅ」と、名雪が重そうな瞼を開けた。
「あ、ゆーいち。おはようございます、だよ」
いつも通りだ。アレってマジで夢だったのかよ……。
隣では香里もその体を起こした。心ここに在らず、みたいな目だ。
「祐一、わたし、怖い夢見ちゃったよ〜」
「なにっ！？」
俺は名雪の方に向き直った。
「それって、魔物がどうとかっていう夢じゃない？」
「え？香里も見たの？」
「そうらしいわね。相沢君も見たんじゃない？」
名雪も、香里も？って事は……。
俺は北川を蹴り起こした。
「うおっ、なんだ！？あっ。３人とも無事だったのか！？」
コイツもか……。
「夢じゃなかったのか……？」
「分かんないけど、」
香里が呟いた。
「あの魔物の正体、舞って言う先輩なんでしょ？」
俺は驚いた。
「え？なんで香里が知ってるんだ？」
「なんかね、感じたのよ。相沢君の思いが。何でかは、これまたさっぱり分からないけどね」
「あ、わたしも感じた気がする」
「おれも」
名雪と北川が香里の話に頷く。
「もしかしたら舞先輩は苦しんでいたのかもしれないわね」
「苦しんでた？」
「何でか知らないけどあんな姿になって、ずっと自分で自分を苦しめてきたんじゃないかしら……。苦しみながら、きっと相沢君が夜、学校に来るのを待ってたんじゃないかしら。だからあんなに暴れたんだと思う」
「なして俺？」
「それは自分で考えなさい」
………。
分かってる。分かってるさ、それぐらい。きっと舞は……。
「とにかく、相沢君が何かしてー、それは本当に些細な事だったのかもしれないけどね、それで舞先輩の苦しみが取り除かれたのよ、きっと。それでいいじゃない」
「見事なまとめ役だなー」
北川が感嘆の声を上げる。
「そう？感じたまんまを言っただけだけど」
「いや、うん。俺もそう思う。詳しい事はよく分かんねーし、舞って人にも会った事ないから大きな事言えないけどさ、けっこうハッピーエンドだと思うぞ」
「そうだよ、祐一。香里と北川君の言う通りだよ。だからそんなに気に病む事ないと思うよ」
……そうだろうか。
俺には分からない。人は人の気持ちを完全に理解する事なんて、所詮は無理なのだから。分かっていたつもりでも、心の奥底なんて誰にも分からない。
だけど、
だけど、あのとき、最後に舞は確かに笑っていた。いつもの優しい顔で。それだけで十分に答えなのかもしれない。
「……ん。そうだな」
思ったよりいい感じの声が出た。
「帰るか」
「そうね」
「俺、腹減った〜」
「じゃあさ、わたしの家、来る？朝御飯、御馳走するよ。お母さんも喜ぶし」
「え、いいの？」
「おおマジか！？もちろん行かせてもらうぞ！」
「北川はダメだろ。家が汚れる」
「なんじゃそりゃあ！」
朝日に照らされた校舎を４人で笑いながら歩いた。なんとなく舞はまだこの学校にいて、俺達を見ているんじゃないかと思ってみたりした。笑ってくれよ、舞。底無しに明るいコイツらを。お前が悲しまないように、見ていてくれ。お前が笑っていられるように。
正門まで来たとき、俺は何気なく後を振り返り、
ありがとう。
そんな声が聞こえた気がした。
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