無名の石
水瀬家の中心にあるリビング。その南側に開いた、大きな掃き出しの窓から、小ぢんまりとした庭が見える。
「なぁ、名雪」
ソファに座ってその庭を眺めていた祐一が、ぽつりと呟くように従姉妹を呼んだ。
その声に答えて、トレイに載せたティーセットをカチャカチャと鳴らしながら、名雪がキッチンから出てくる。
「どうしたの？」
サイドテーブルにトレイを置いて、名雪も祐一の隣に座った。そして、祐一も見ている庭に目をやった。
「前から思ってたんだけど、あそこに置いてある石」
祐一が顎で示した先。庭の隅の方に、両手に収まるくらいの、丸く、形の良い石が置いてあった。
水瀬家の小さな庭で、それは少々の違和感を伴って祐一の目に映ったようだ。
「あれだけ、庭の雰囲気からちょっと浮いてる気がするんだが…」
名雪は、それを見て納得したように、小さく頷いた。
「そうかもしれないね。でもあれは、ずっと前からあそこにあるんだよ」
答える表情に微かな陰りがあったことに、庭を眺めていた祐一が気付くことはなかった。
ティーカップに紅茶を注ぎながら、名雪は懐かしく、忘れられない日のことを思い出していた。
その石に名前を刻まれることの無かった、小さな友達のことを。
その日、ボクはお母さんの隣で眠っていた。
お母さんのそばにいると、とっても安心できて、目を閉じたらすぐに眠たくなってくる。
今日もいつもと同じように、そうして眠っていたら、突然大きな手がボクを抱き上げた。
びっくりして目を開けると、その手はいつもボクたちにごはんをくれる人間の両手だった。
その人間を、ボクはミユキって呼んでいる。ミユキは、いつもボクを優しく撫でてくれるから、お母さんの次に大好きだった。
「ごめんね…」
そのとき、ボクの聞いたことのない言葉を、ミユキが喋った。
何だろうと思っていると、ボクはちょっと大きめのダンボールの箱の中に入れられた。
「ごめんね…」
もう一回、同じ言葉を繰り返したミユキは、箱のふたを閉じた。
すると、周りが急に暗くなる。でも、壁に穴が空いていたから、すぐにまた見えるようになった。
そして、箱ごと持ち上げられるような感覚があった。
地面がゆらゆらと頼りなく動いている感じに、不安になったボクは、壁の穴から入れられたミユキの指に手をかけて、ミユキの名前を呼んだ。
「つっ…！」
思わず立ててしまった爪に、ミユキが声を上げた。でも、いつもそれで怒るミユキなのに、今日は全然怒っていないみたいだった。
怒られるのは怖かったけど、怒らないミユキにもっと不安になったボクは、お母さんを呼んだ。
でも、お母さんの声は返ってこなくて、ゆらゆら揺れていた地面が、ガタガタ揺れる地面に変わっただけだった。
縦に揺られて、横に揺られて、もう声を上げるのも疲れた頃、ようやく地面の揺れが止まった。
やっと安心できたのと、声を上げすぎて疲れたのとで、タオルの上に突っ伏したボクに、ミユキがまたさっきの言葉を言ってきた。
「ごめんね…」
その意味は分からなかったけど、何となく悲しそうな言葉だった。だから、ボクは慰めてあげようと思って、ミユキを呼んだ。
でも、ミユキはそれに答えてはくれなかった。かわりに、遠ざかっていくミユキの足音が聞こえた。
ミユキが離れていくのが怖くなって、何度もミユキを呼んで見たけれど、ミユキは答えてくれなかった。
やがて、ミユキの足音は聞こえなくなって、その気配もなくなってしまった。
今見ている朝日は、あのときから何度目のものなのだろう。
もう何回、お母さんを呼んだのか、数えられなかった。
ただ、同じ数だけミユキの名前も呼んだはずだ。
もう冷たさを帯びてきた風が吹き抜けるビルの間、ポリバケツの上にボクは佇んでいた。
狭い空を見上げると、眩しく晴れていた空はネズミの色をした雲に変わっていた。もうすぐ、雨が降りそうだった。
雨宿りをしなくちゃと思ったけれど、身体が動かなかった。動こうとしても、手や足に力が入らない。
きっと、すごくおなかがすいてるからだろうと思った。。
いつも、ボクがごはんを手に入れていたこのポリバケツに、もう何日も何も入っていなかった。
寂しくなって、もう一度お母さんを呼んでみたけれど、やっぱり答えは返ってこないし、思い出せる顔もなんだかおぼろげで、よけいに寂しくなった。
そのとき、ぽつり、と最初の雨粒が背中に当たった。
そしてまた一粒。
最初は途切れ途切れだった雨粒が、どんどん連続したものになって、ボクの身体を濡らしていった。
水滴を振り払おうとしたけど、やっぱり身体は動かなかった。
雨に濡れると、元々冷たかった風は、さらに冷たさを増してボクに吹き付けてきた。
首を動かすこともできないのに、寒さで身体の震えは止まらなくて、ボクはそこでじっとしていることしかできなかった。
「あれ？ ねこさん…」
そのとき、背中の方からぱしゃぱしゃと水音がして、人間の声がした。
「あ、寝てるのかな…」
ぱちゃぱちゃと水たまりを蹴る足音は、同じ場所で動いている。
「起こしちゃったら、かわいそうかな…」
しばらくウロウロした後、その足音は遠ざかっていった。
助けてもらおうと思って動かした首が、ようやく後ろを向いたときには、すでに足音の人間はいなくなっていた。
そのときの声は、ボクの声とは思えないくらい小さくて、強まってきた雨音にも負けてしまうくらい、頼りなかった。
雨はどんどん冷たくなって、ボクもどんどん寒くなってきて。もう目を開けているのも辛くなってきて、両目を閉じた。
暫く、雨の音だけを聞いて、時間が過ぎていった。どれだけの時間が過ぎたのかは、よくわからなかった。
寒くて、動けなくて、眠たくて。でもそのとき、雨以外の音が、耳に聞こえてきた。
「あ、まだいた…！」
さっきも聞こえてきた、人間の声。
その声は、なんとなくミユキに似ている気がした。だからボクは、目を開けてミユキの名前を呼んだ。
「あ、起きてる…」
ぼんやりと見えたその人間は、ゆっくりとボクに近づいてきて、両手でボクを抱き上げてくれた。
「震えてる…。寒いの？」
その手は暖かくて、ミユキの手みたいだった。だけど、もう一度目を開けてみると、そこにはミユキじゃなくて、別の人間がいた。
「ぐあい悪いの？ どうしよう…」
ミユキみたいな両手で抱かれて、ミユキみたいな声で話しかけられて、ボクは安心して眠りについた。
目が覚めたのは、どこかの部屋の中だった。
一瞬、ミユキの部屋かと思ったけど、よく見ると全然違ってた。
柔らかいふとんの上に寝ているボクには、暖かな毛布が掛けられていた。身体の震えも治まっている。
まだ身体は動かしにくかったけど、もぞもぞと動いてみたとき、ミルクの入ったお皿が目に入った。
それを見たとたん、おなかがすいていたのを思い出して、お皿に飛びつくようにしてミルクを飲むと、あっという間に空になってしまった。
と、カチャッ…、とドアの開く音がした。
「あ！ ねこさん、起きてる！」
突然の声にびっくりして振り向くと、そこに立っていた人間もびっくりした顔でボクを見た。
「お母さん、ねこさん起きたよ〜！」
そして、ぱたぱたと部屋を出ていって、もうひとりの人間を連れてきた。
「お母さん。ほら、起きてるよ。元気になったのかな？」
小さい方の人間が嬉しそうに大きい人間の手を引っ張っている。
「名雪、まだ起きたばかりだから、大きな声を出してびっくりさせたらだめよ」
大きい人間の言葉に、ナユキと呼ばれた小さな人間は、うん、と頷いていた。
それは、ミユキとよく似ていた名前だったけど、その名前を呼ぶことに違和感はなかった。
ナユキの声と暖かさは、ミユキに似ていたからかもしれない。
「あ、鳴いたよ。さっきよりずっと元気な声だよ」
ボクがナユキの名前を呼ぶと、ナユキは喜んでくれた。ボクもなんだか嬉しくなって、何度もナユキの名前を呼んであげた。
「ねえ、お母さん。ねこさん、飼ってもいいでしょ？」
大きい方の人間は、ナユキのお母さんなんだろうか。嬉しそうに見上げるナユキだったけれど、お母さんは嬉しそうな顔をしていなかった。
「名雪。その子はうちでは飼えないわ」
「え、どうして！？」
ナユキが、とたんに悲しそうな顔になる。
「その子、名雪が思っているよりもずっと歳上よ。それに…」
お母さんは、そこで一旦言葉を止めた。そして、ほんの一瞬だけナユキから目をそらした。
そして、ナユキと顔を見合わせるようにしゃがんで、話を続けた。
「この子とお友達になっても、きっとすぐお別れすることになっちゃうよ？」
「え…？」
「そうしたら、そのとき、もっと悲しくなっちゃうよ？」
何の話をしているのか、ボクにはさっぱりわからなかったけど、ナユキもお母さんも、悲しそうな顔をしていた。
「なんで？ なんですぐお別れになっちゃうの？」
どうして？ と繰り返すナユキに、お母さんは続けた。
「明日、その子を飼ってくれる人を捜してくるから。ね？」
泣き出しそうなナユキだったけど、小さく頷いてもう一回、お母さんを見上げた。
「それじゃあ、その人が見つかるまで、ねこさん、ここにいてもいいでしょ？」
なんだか、ナユキがかわいそうにになって、ボクはお母さんに抗議の声を上げた。
そうしたら、お母さんはちょっとだけボクを見て、小さく溜め息をついた。
「しょうがないわね…。でも、飼ってくれる人が見つかったら、ちゃんとさよならするんだよ。約束できる？」
お母さんの言葉にようやく笑顔の戻ったナユキは、頷いてボクを抱き上げてくれた。
「よかったね、ねこさん」
ボクも嬉しくなって、ナユキの頬をペロッとなめてあげた。
それから、ボクはナユキの部屋に住み着くことになった。
ナユキのベッドの隣に置かれた、籐のかご。そこがボクの寝床だ。もう何日もここで寝ているから、すっかり居心地のいい寝床になっていた。
「ねこさん、おはよう。ほら、起きようよ」
一日の始まりは、ナユキの挨拶から始まる。
嬉しそうなナユキの声で目を覚ましたボクは、身を起こして大きく伸びをした。
「わぁ、すごーい…」
何が面白いのか、全身をこれでもかとばかりに伸ばすボクの姿を、ナユキは感心するように眺めている。
でも、ナユキの伸ばした手がボクに触れたとき、ボクはびっくりして身を縮こまらせた。
「あ、ゴメン…」
ナユキもびっくりして手を止めたけど、ボクがその手に頭を擦りつけると、嬉しそうに笑った。
「あはっ、かわいいー」
抱き上げてくれたナユキはボクに頬ずりしてくる。ボクも嬉しくて顔を擦りつけると、自分の喉がゴロゴロと鳴っているのに気がついた。
そんなふうに、ふたりでじゃれ合っていると、お母さんの声が聞こえてきた。
「名雪、早く支度して降りてきなさい」
「はーい」
きっと、階段の下から呼んでいるんだろう。ナユキはすぐに返事をして、着替え始めた。
「ねこさん、ちょっと待っててね」
ボクはナユキのベッドに跳び乗って、言われたとおり待っていることにした。
もたもたと着替え終わったナユキは、机の上のランドセルを取ってボクの方を振り向いた。
「ねこさん、行こっか」
ナユキの開けたドアから、ボクが先に出て階段を下りていくと、下にお母さんがいた。
「あら、今日もあなたの方が先なのね」
その足にすり寄ると、お母さんも嬉しそうに笑ってくれた。
「あーん、待ってよー」
ナユキは、後ろからもたもたと階段を下りてきた。見ていて、ちょっと危なっかしい。
「ほら、そんなに慌てなくてもいいから…」
お母さんも、ボクと同じようにナユキを心配してるみたいだった。
「それじゃ、行ってきます」
急いで朝ごはんを食べたナユキを見送るために、ボクはまだ食べている途中だったけど、お母さんと一緒に玄関までついていった。
「ねこさん、ちゃんとお留守番しててね」
まかせてよ、と返事をしたら、最後にボクを一回撫でてから扉の向こうに消えていった。
「さて、と。私もそろそろ支度しないと」
という呟きに見上げると、ボクを見下ろしてるお母さんと目があった。
「あなたは、まだ朝ごはんの途中だったわね。ゆっくり食べていていいからね」
お母さんの開けてくれたドアから、部屋の中に戻って、残ったごはんを食べ終わった頃に、またお母さんが声をかけてくれた。
「じゃあ、私も行ってくるから、お留守番お願いね」
ボクはもう一回返事をして、お母さんを見送った。
そうして、お母さんの足音が遠ざかって、聞こえなくなると、家の中には誰の気配も無くなってしまう。
いつものことだけど、ちょっと寂しかった。
でも、ボクにはどうしようもないことなので、いつものように眠っていようと、ソファーの上に跳び乗ったとき、何となくいつもと違うような感じがした。
何かおかしいとは思ったけれど、周りを見ても何もおかしなことはなかったし、気のせいだと思って、ボクはそこで丸くなった。
眠る前にあくびをひとつしてみると、なんだか頭がふらついて、自分の思っていたのとは違うところに、頭が落ちた。
でも、眠たいし、面倒くさかったから、そのままで寝りについた。
次に目を開けたときは、太陽が隣の家の屋根に隠れる少し前だった。
赤く染まった部屋に一瞬見とれていたけど、目を覚ました原因を思い出して、玄関に向かおうとソファーから降りた。その時、いつもよりも体が重たいような気がしたけど、きっと気のせいだろう。それよりも、早く玄関に行かなくちゃ。
ドアのレバーに飛びついて、ドアを開ける。そして、玄関の前に座ったところで、玄関のドアをガチャガチャさせて、ナユキが入ってきた。
「ただいまー」
おかえり、と言うとナユキはボクを撫でてくれた。
「帰ってくるの、わかってたの？」
ナユキの足音は、お母さんのと比べたらちょっとわかりにくいけど、それでも家の近くまで来たらすぐにわかる。
階段を上るナユキを追い越すようにして、部屋の前で名雪を待つ。
部屋の中に入って、いつもの寝床に飛び込んだ。そこから見上げると、ランドセルを下ろしたナユキが、ボクを寝床ごと持ち上げて、机の上に置いた。
「お母さんが帰ってくる前に、宿題やっちゃいたいの。一緒にやろう？」
そう言って、ボクの返事も待たずにノートを広げた。
「うーん…」
そして、鉛筆を持って小さく唸った。
ボクにはノートに何が書いてあるのかわからなかったから、ナユキのお手伝いをすることはできない。でも、ナユキが『一緒にやろう』って言ってくれたから、ボクはそこでじっとしていることにした。
ときどき、ナユキがボクの方に顔を向けたときに名前を呼んだら、安心した笑顔を見せてくれたから、ボクはそれだけを繰り返していた。
「…これで良し、っと」
しばらくすると、ナユキはノートを閉じた。
ようやく遊べるかと思って寝床から出てみたら、今度はペラペラの紙が机に置かれた。
「ちょっと待って。もうひとつあるの」
机の真ん中をその紙に占領されて、ボクは端っこの方に座ることになった。
「今度は作文だよ」
チョコチョコっと文字を書いて、すぐに鉛筆が止まる。
一瞬考えたような間を置いて、消しゴムで一回消した後、またすぐに書き直した。
「お母さんのお仕事のこと、書くんだよ」
そう言ってから、また鉛筆が止まった。
ナユキの顔を見上げてみると、何か難しそうに考え込んでいる。
「うーん…」
小さく唸って、ボクの顔を覗き込んできた。
「お母さんのお仕事って、なんだろうね…」
ボクと顔をつきあわせたまま、ナユキはまた考え込んだ。
「…わかんないや」
ナユキはしばらく考えていたけど、やがて諦めたのか椅子から立ち上がった。
「お母さんが帰ってきたら、訊いてみよう」
やっと遊べると思ったボクは、ナユキに飛びついた。
「…ックシュン！」
ボクを胸に抱くのとほぼ同時に、ナユキがくしゃみをした。
「…あれ？」
もう一度、くしゃみをする。そしてまたもう一度。ボクはその度に、抱かれたままで大きく揺すられた。
「おかしいな。風邪かな？」
ナユキはちょっと赤くなった目をこすって、少し辛そうだった。ボクも、ついさっきまで忘れていた頭のふらつきが、大きくなってきているのに気がついた。
「うーん。熱はないと思うんだけど…」
何度かくしゃみを繰り返しながら、額に手を当てて確かめているナユキ。ボクがベッドの上に跳び降りると、ナユキもベッドに座った。
「あ、大丈夫？ ねこさん」
ナユキが座ったときにベッドが揺れて、ボクはよろめいて転んでしまった。
こんなことは初めてで、自分でも驚いたけれど、そのまま眠りに入れそうなくらいにふらふらしていたので、何となく気分が良かった。
「あれ？ 寝ちゃうの？」
問いかけてくるナユキの声も、なぜか遠くに聞こえる。
「遊ぼうと思ってたのに…」
そう聞いて、ボクは重たくなってきた頭を上げた。ナユキと遊べるなら、がんばってもう少し起きていたい。
「眠たくないの？」
大丈夫、と答えてナユキの顔に頬ずりすると、ナユキもすごく喜んでくれた。
夕ごはんの時間、ナユキとお母さんはテーブルで、ボクはそのテーブルの下でごはんを食べていた。
「あのね、お母さん。今日、作文の宿題があってね…」
でも、あまり食欲がわかなかった。
「うん。それで、お母さんに訊こうと思って…」
おなかはすいている感じがするのに、食べる気にならない。朝にはあんなに美味しかったごはんが、今はあんまり美味しく感じない。
「…あれ？ ねこさん、もう食べないの？」
ボクは、ごはんを半分くらい残して、ソファへ上って眠ることにした。
「あら、こんなに残して…。どうしたのかしら？」
「眠たいのかな？」
確かに、眠たいのかもしれない。体が重くて、横になったらすぐに眠れそうだった。
眠りに落ちる直前、隣に誰かが座った気配があったけれど、ナユキなのか、お母さんなのか、よくわからなかった。
息苦しさに目が覚めたとき、そこはボクの寝床の中だった。
揺れる頭をどうにか動かして、かごの中から顔を出してみると、ナユキは机に座ってさっきの続きをしていた。
ボクも一緒に続きをしたくて、かごから跳び出ようとジャンプしたとき、前足が引っかかって転がり落ちてしまった。
「あっ！ ねこさん、大丈夫？」
ナユキが気がついて抱き上げてくれたけど、ボクは今起きたことが信じられなかった。
もっと、高く跳んだと思ったのに。跳べた高さは、思っていたよりもずっと低かった。
「ねこさんは、ここにいてね」
ボクは、机の端でまた横になった。正直なところ体が重くて、寝そべっていないと少し辛かった。
「もうすぐ終わるから、待っててね」
さっきはちょっとしか文字が書かれていなかった紙に、今はたくさんの文字が書かれている。
もう少しで、紙をはみ出してしまいそうだ。
「…よし、でーきた！」
ちょっと心配してたけど、紙からはみ出す前に終わったみたいだった。
嬉しそうに読み返すナユキと一緒に、ボクもその紙を覗き込んでみた。
「お母さんのお仕事のこと、書いたんだよ」
さっきも聞いた言葉に顔を上げると、嬉しそうだったナユキの表情が、ちょっと悲しそうな顔に変わっていた。
不安になったボクがナユキの名前を呼ぶと、ナユキは小さく口を開いた。
「あのね。これ、本当はお母さんのお仕事を書くんじゃなかったんだよ」
ボクの顔を覗き込むように、ナユキの顔が近づく。
「本当はね、お父さんのお仕事のこと書くの。クラスのみんなは、そう書いてるの」
ナユキの小さなため息で、ボクのヒゲが揺れた。
「でも、わたし…。お父さん、いないから…」
ナユキの目もとで、何かが光った。
それは、以前にも見たことがあった。初めてそれを見たのは、ナユキではなくてミユキだったけれど、確かその時のミユキも、悲しそうな顔をしていた。
ボクはその時のことを思いだして、重たい体を起こしてそれを舐め取ってあげた。
それにびっくりしたのか、ナユキは大きく目を見開いて、次の瞬間にはさっきまでの笑顔が戻ってきた。
ミユキの時にも同じことをして笑顔になってくれたから、ナユキにもやってみたけど、やっぱり笑顔になってくれて良かった。
ちょっと、しょっぱかったけど。
「ねこさん、ありがとう…。わたし、おとうさんがいなくても寂しくないよ。お母さんがいるし、ねこさんだっているから」
嬉しそうなナユキの顔を間近に見ながら、ボクは重い体を横たえた。
ボクが寝床に入れられて、ナユキがベッドに潜り込んで。
一度は眠りに入ったボクだけど、息苦しさと、耳障りな音に、また目が覚めた。
息苦しさはさっきよりも強くて、身体の中が熱くなっているように感じた。
そして、さっきから聞こえている耳障りな音。ゼエゼエとうるさい音が、自分の息の音だと気がついたのは、少し時間が経ってからだった
あまりに息苦しいから、ナユキに助けてもらおうとベッドに跳び乗ろうとしたけれど、さっきよりも体が重くなっていて、なかなか届かない。
どうにかよじ登って、ナユキの布団に潜り込もうとしたとき、足がもつれて転んでしまった。
「うにゅ…」
そこは、ナユキの顔の上。寝そべるように横たわったボクは、そこで動けなくなった。
足が、首が、動かない。ついさっきまで熱かった身体が、今度は急に寒くなってきて震えだしてきた。
「うーん…」
ボクは、以前にもこんなことがあったのを思い出した。それは、ナユキと初めて出会ったときのこと。あのときもこんな風に身体が動かなくて、そのくせ、震えは全然止まらなくて。
怖くなったボクは、ナユキに身体を押しつけるように、動こうとした。ナユキと触れている部分だけ、ほかとは違って暖かかった。
その温かさで、少しだけ安心できた。
「うにゅ…、ねこさん？」
ボクのせいで息苦しくなったのか、ナユキが目を覚ました。
「どうしたの…？」
でも、ボクはもう、ナユキに応えるだけの力もなくて。
「ねこさん？ ねこさん！？」
ナユキの暖かさだけが、ボクの感じられることのすべてだった。
「…お母さん！ ねこさんが、ねこさんが…！」
遠くから、ナユキの声が聞こえていた。ボクを呼んでいるみたいだ。
「ねこさん？ ねこさん！」
「名雪、揺すったらだめよ…」
お母さんの声も聞こえる。
「ねこさん…」
ナユキが呼んでる…。行かなくちゃいけないのに、身体が動かないよ…。
「ねこさん、ねこさん…」
何か、滴のようなものがボクに身体に当たった。雨かと思ったけれど、それは雨よりもずっと暖かかった。
それはボクの口にも当たって、覚えのある味が口の中に広がった。
「う、うぅぅ…」
もう一度、体を動かそうとしたけれどやっぱり動かなかった。
もう、ナユキの笑顔は見られないのかな。
「えぐっ…、ぅ…」
身体全体が、暖かな何かに包まれた。
それがナユキの手だとわかったときには、ボクは無理に体を動かそうとするのをやめた。
ナユキの手はいつも暖かくて、その中にいると安心して眠れそうだった。
次に起きるのは、いつも通りにナユキの挨拶かな？
ボクが眠る前に考えていたのは、そんなことだった。
両手に収まるくらいの、丸く、形の良い石。
水瀬家の小さな庭で、それは少々の違和感を伴ってそこに存在していた。
「おいしかった？」
ティーカップを片付けながら名雪が訊ねる。
「まあまあ、かな」
祐一がそういう風に答えるときには、充分満足しているというのを名雪は知っていた。
トレイを持って立ち上がった名雪は、ふと祐一に訊いてみる。
「ねえ、もし祐一がねこさんを飼うとしたら、なんて名前をつける？」
「飼わない」
即答だった。
「もしもの話だよー」
それでも、名雪は食い下がる。
「うーん…。そうだな、ピロシキかな？」
「その名前の子は、もういるよ。祐一がつけたんでしょ」
「じゃあ、スパシーボ中村」
「なんか、可愛くない…」
はぁ、と溜め息をついた名雪に、祐一が逆に問いかける。
「名雪だったら、イチゴとかつけるのか？」
「あ、可愛いかも…」
「パジャマにいるのもそうじゃなかったか？」
「違うよ、半纏の方だよ」
名雪は苦笑いしてキッチンへと向かいながら、遠い日に出会った小さな友達の姿を、もう一度脳裏に描いた。
あの子は、うちの子ではなかったから、名前は付けていなかった。
だからそのお墓にも、名前が刻まれることはなかった。
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