君を想う気持ち
『朝〜、朝だよ〜、朝ご飯食べて祐一と学校行くよ〜』
もう耳にタコが出来るくらい聴き慣れた声。
けれど決して飽きる事の無い声。
いつもの様に間延びしてはいるがそれが彼女らしくもあり、俺にはその声が優しさと愛しさを含んでいるような気さえする。
そんな目覚ましの声に俺は目を覚ました。
カチッ
愛しい人の声が流れている目覚ましを止めながら少しの間、頭の中に考えを巡らせていた。
「最初の頃は、ただの眠気増幅器だったのにな……ってまた声入り目覚ましをねだった俺の言う台詞じゃないよな」
どうやら某テレビ番組、発掘！あ○あ○大辞典で言っていた『好きな人の声だとすんなり起きられる』というのは本当らしい。
普段の俺がそんな情報番組をまともに見るはずが無いのだが、この時だけはチャンネルを変える手をおもわず止めて熱中して見てしまったので鮮明に覚えている。
そうやって番組を見ながら少しの間考えて…
名雪が例の目覚ましだと起きられる理由はこれだったのか…と、思い顔を赤くしながら俺の分――この目覚ましを頼んだのである。
今思えば、名雪の声入り目覚ましを返品しようと奮闘していた頃が信じられなくもあり、懐かしい。
「ん？ まてよそういえば一番最初にこの目覚ましを聞いてもなんとか起きられたな…もしかして最初から名雪を意識していたってことか？」
「……否定はできないよな、やっぱり」
そんな事を考えている内に身支度が済んでしまった。
「さてと、名雪にこの気分を味わせるのはいいが、俺がツラいからな…起こしに行くか」
ガチャ…バタン
例の目覚ましが恥ずかしいメッセージを流し始めるまで時間があることを確認して、ドアを閉め隣の部屋に向かった。
コンコン
「おーい、名雪ぃー朝だぞー」
この程度じゃ起きるはずは無いのだが、極稀に起きている時があるので一応礼儀として普通にノックをする。
………
やっぱりか…やれやれだな…
この時点で起きていてくれればありがたいのだが、朝の名雪にそれを期待するのは無粋というものだなと自分を納得させドアを開く。
ガチャ
いつもと変わらぬ名雪の部屋。
綺麗に整理され、かわいい小物が置かれていて、いい匂いがして、ちょっとドキドキするような部屋。
匂いがイチゴっぽいのと、小物が猫ばっかりなのは名雪らしいが、やっぱり女の子の部屋なんだなと実感させられる。
…まあ、普通の女の子の部屋はこんなに目覚ましは無いだろうがな。
大小様々な、シンプルであったり、凝ったデザインをしていたりする時計達。
その中に、一昔前のゲームキャラの目覚ましもあったりする。
名雪の事だから、元のゲームは知らずにかわいさで買ったんだろうな…
なんてどうでもいい事を考えつつ、その中から一番目立つところに置かれた白い目覚ましの頭を押した。
そして、ベッドのある方向に体を翻す。
ドキリ
そんな音が聞こえてきそうだった。
名雪はいつものようにけろぴーを抱いて寝ているのだが…。
…その…なんだ、あの愛用のねこのあしあとパジャマから…えっと…白い綺麗な肌、もとい豊満なと言いますか…形の良いと言いますか…チラリズムと言いますか…。
あわわ…焦り過ぎだぞ、何考えてんだ俺！
数えるほどしかないが、直に見た事もあるはずだろ！
落ち着くんだ！俺！
スーハー、スーハー…
何しているかって？け、決してやましいことではないぞ、深呼吸だ！深呼吸！
と、とにかく名雪の胸の谷間がボタンの二つほど外されたパジャマから覗いている訳だ、うん。
ふぅ……しかし…朝からこんなに良いものを拝めるとは…じゃなくって…どうするかな…
あれこれ考えて歩き回っている内に時計の針が目に入った。
「………！！」
なにっ！もうこんな時間か！こんな事考えてる場合じゃないぞ、一刻も早く名雪を起こさねば！
第１段階の頬叩きを飛ばし、いきなり第２段階の体揺すりを使って名雪を起こしにかかる。
「名雪っ、起きろーっ」
ゆさゆさ、ゆさゆさ
「ぐはっ！！」
しまった！この手は失敗だったか！
俺はかなりの刺激とそして…ちょっとした後悔をする事になった。
今朝のパジャマが少し開いている状態だと、生の胸が揺れているのがちょうどいい具合に覗けてしまう。
「…ゆ…ち、イ…ゴ……て…る……い…よ…」
名雪はそんな状況を知ってか知らずか、理解不能な寝言を言っている。
いつもなら俺の質問に寝惚けながら答えると言う芸当を披露してくれる名雪だが、どうやら今日はそうではないらしい。
「頼むから俺を誘惑してないで早く起きてくれよ」
俺はというと寝ている名雪がこちらの様子など解るはずがないのに、いつも照れ隠しに使っているぶっきらぼうな喋り方になって起こそうとしていた。
そんな中名雪の言った一言が、俺を悩ませる事になった。
「…は…のに…祐…一なんて…嫌いだよ」
え？
き…嫌い？
確かに言ったよな…
聞き間違いじゃないよな…
「…祐一、大好き」とか「祐一愛してるおー」じゃなくて「祐一なんて嫌い」…！？
学校に遅れる事なんか忘れてしまうくらいのすごいショックだった。
「…一さん…、…祐一さん」
「はっ！ あ、秋子さん！？」
気が付くとドアの前に、秋子さんがいつものポーズで立っていた。
「はい、そうですけど…どうなさったんですか祐一さん？ ぼーっと名雪を見つめていましたけど…」
「い、いえ、なんでもないです」
ちょっと焦って返事を返してしまったが秋子さんは気に留めずに話しかけてきた。
「まだ名雪は起きてないみたいですね…もう時間が時間ですし、祐一さんは先に朝食を済ましといて貰えませんか？」
「あ、でも名雪に起こしてやるって約束してしまいましたし」
「そうですか？ では久しぶりに私が起こしたいと言っていたのでしょうがなかった…と、そういう事にしたらいかがでしょう？」
「はい、わかりました…今日はそういう事にさせてもらいます。先に降りて朝食頂いときます」
「どうぞ召し上がって待ってて下さいね。すぐに名雪を起こして支度させますから」
秋子さんの言葉を聞きながら名雪の部屋を出た。
しかし、今の俺の耳はその言葉を右から左へと聞き流していた。
…バタン
ドアを閉め『なゆきの部屋』と書かれたドアプレートを眺める。
そして無意識の内についた溜め息と共に階段を降り、リビングに入った。
テーブルにはトースト２枚、少量の野菜が添えられたスクランブルエッグ、そしてマグカップに入ったコーヒーがどれも熱々の状態で置かれていた。
いつもなら秋子さんの料理に対する感想でも言うところが今日はそんな気分では無かった。
ただの栄養補給と言った感じで口に朝食を運んでいく。
ちょうどトーストに塗るマーガリンに手を伸ばした時ふと、イチゴジャムが視界に入った。
その鮮明な赤の向こうに名雪の顔と今朝の言葉が浮かんでくるような気がした。
俺は気付かない内に名雪をまた傷付けてしまったのだろうか…
最近の出来事に心当たりは無い…
すると７年前をまた思い出してしまっていたのだろうか…
しかしあんなに酷い事をした俺をずっと想い続けてくれた名雪が、７年前の事で逆に嫌いになるという事は無かったと思う。
それは再会から今まで一緒に過ごしてきた中で解る事だ。
じゃあ何で……
「うにゅ、おはよーゆういちぃ」
俺の思考はリビングに入ってきた糸目の名雪によって中断させられた。
「ああ、おはよう名雪。どうした？ 今日はやけに眠そうだぞ、部活で疲れたのか？」
思ったより落ち着いて返事をする事が出来た、とりあえずは名雪に勘付かれる事は無さそうだ。
「眠いけど、疲れてないおー」
「そうか？」
「そうだおー」
勘付く、勘付かれないの前にこりゃかなり重度の寝惚けだな…
そんな会話の最中に秋子さんも名雪に続いてリビングに入ってきた。
「名雪、顔を洗って目を覚ましてらっしゃい。イチゴジャム食べている時間無くなってしまうわよ」
「いちごじゃむ〜」
そんな事を呟きながら名雪は洗面所の方に廊下をとてとてと歩いていく。
危なっかしいなぁと思いつつも、もう少しさっきの事を考えたかったので名雪が戻ってこない内に朝食を済ませ外に出る事にした。
「あら祐一さん、もう出るのですか？」
「いえ、ちょっと外の空気が吸いたくなったもんで、家の前に出て待ってるって名雪に伝えて頂けますか？」
「了承。でも先に行っててもいいんですよ？」
「さすがにそこまではしませんよ、じゃあ外に出てますから」
「うふふ、どうやら無粋な質問だったみたいですね。いってらっしゃい祐一さん」
「な、何を秋子さん。い、いってきますっ」
赤い顔をしたまま、無駄に急いで靴を履いて外に出る。
外は頬を撫でるような気持ちの良いそよ風が吹き、火照った顔を優しく冷やすようだった。
周りの景色はあの冬から見違える変化を遂げ、緑があちらこちらに芽吹き、遅い春の訪れを感じさせた。
そんな春の陽気を感じながら門の柱によっかかり、目を閉じた。
周りはこんなに明るいイメージだらけなのに俺の考えてることは、アンバランスと言える程暗かった。
名雪……
「祐一…祐一ってば、もしかして寝てるの？」
少しして名雪が玄関から出て話しかけてきた、どうやらちゃんと覚醒しているようだ。
「いや起きてる、俺は名雪じゃないからな」
「うー、なんか酷い事言ってない？」
「気のせいだろ」
「イチゴサンデー…」
「何故俺が遅れて来たお前に対しイチゴサンデー奢ってやらにゃいかん」
「だって、祐一がいけないんだよ」
「だってでもない、それより今何時だ？」
「話を逸らさないでよ〜…」
名雪は俺に反論しつつも律儀に視線を左手に落とし、そこにある時計を見て言った。
「あ」
「かなりがんばらないと間に合わないかも…」
「何！？ 走るぞ名雪！」
「あっ…待ってよ。祐一」
「先に行っちゃうぞー」
「もう…祐一、嫌い」
今の言葉が、名雪とのやり取りの時には思い出さないようにしていた今朝の出来事を思い出させた。
「………」
「わ、祐一急に止まらないでよ〜…どうしたの？ 忘れ物？」
「あ、いや何でも無い。行くぞ名雪！」
「また急に走り出さないでよ〜」
何でも無い訳が無い…
それだけ心の中で呟き、後は走っていたので今朝の事を考える余裕は無かった。
はぁはぁ…
俺は朝のＨＲを聞かずに机に突っ伏している。
結局、俺達は職員会議の延長による時間ロスによっていつもより遅れた担任の石橋のおかげで間に合ったわけだが、ご覧の通り動く気力も無い。
呼吸もまだ儘なっていない感じがする。
名雪はというと俺ほどでは無いが軽く息を切らせ、前を向いているが少し眠そうな顔をしている。
授業に入ったら名雪は多分寝るな…
俺の呼吸が少し落ち着いてきた頃、担任は廊下に出ていった。
そして全ての授業、帰りのＨＲが終わった。
あれだけ疲れていつもなら殆どの時間睡眠に費やすところだが、寝れなかった為、窓の外を見ながら今朝のことを考えて過ごしていた。
だから、いつもは楽しいはずの昼食も学食に入ったという事しか覚えていない。
元々、転校が多かった為、学校というものが好きではなかったのだが、この学校は名雪と一緒だから楽しく過ごせていた。
それが名雪の一言でこんなにもつまらないものになるとは思いもしなかった。
それだけ俺にとってこの街の生活に名雪が必要不可欠という事が解りもした。
うだうだ考えても仕方ない、直接訊くしかないか…
考えてみればあれだけ考えてこの答えは無いだろうとも思ったが、心当たりが全く無い。
なにより名雪とのいつもの生活をすぐにでも取り戻したかった。
「祐一」
「ん？ なんだ？」
ちょうどいい事に名雪がいつもの様に俺の顔を覗きこみ話しかけてきた。
とりあえず教室じゃこんな話は出来ないからな、いつもの様に名雪の部活が終わるのを待って帰りながら話すか…
「どうしたの？ 今日なんだかぼーっとしてるけど…」
「そうか？ 気のせいだろ。それより何の用だ？」
「あ、うん、今日わたし部活の後用事があるから…ごめんね最近一緒に帰れなくて…」
「用事なんだろ？ 気にするな、家でいくらでも会えるんだから」
「うん、ありがと、それじゃあね。祐一」
俺の目論みは脆くも崩れ去った。
そういえば、最近一緒に帰ってないな…
やっぱり嫌われたのかな、俺…
そう考えると、さっきの何気ない『じゃあね』も本当の別れを告げるようで嫌だった。
少し考えすぎなのだろうか…
「なあ、相沢」
突然の北川の呼び声が俺の思考を中断させた。
「なんだよ、今日の俺は機嫌が悪いんだ。くだらない話だったら帰るぞ」
北川に八つ当たりしても仕方ないのは解っている、それでも俺は誰かに捌け口を向けたかった。
「そうか…くだらなくは無いが、この話はお前の機嫌をもっと悪くしそうだからな」
「だったら俺は帰るからな、じゃあな」
「本当に訊かないのか？」
「しつこいぞ、北川」
「それが…水瀬についてでも、か？」
「！！！」
「お前にも思い当たる事はあるみたいだな」
「どういう事だ？ 何でお前が名雪についての情報なんか持っている！？」
「落ち着け相沢、この話を聞いて落ち着いてられないと思うが間違いがあると困るからな、最後まで聞いてから行動しろよ」
「わかった…最後まで聞こう、それでお前は名雪の何を知っているんだ？」
「簡潔に言おう……水瀬は不倫している」
「……はぁ？」
こいつどうしようか…俺が本気で悩んでる時にくだらない冗談なんてかましやがって、本当に腹が立ってきたぞ…
「あの名雪がそんな事出きるわけ無いだろ！ くだらない話しやがって…、俺は機嫌が悪いって言ったよな」
「ま、待て相沢！ 俺だって最初信じられなかったさ、でもホントなんだ。嘘だと思うなら斉藤に訊いてみろ」
「二人で俺をハメる気か？ 本気でぶん殴るぞお前」
「待ちなさい、相沢君」
俺が顔を声の方に向けると香里が真剣な眼差しで俺を見ていた。
今までの話を鞄の整理をしながら聞いていたのだろうか、机の上にある鞄を置き直して喋っている。
「なんだ、こんな最低な冗談を言うやつを庇うのか、香里？ お前の親友を侮辱している事にもなるんだぞ」
「北川君を庇うつもりは無いわ、でも北川君の言ってる事は本当よ」
「な、何だって！？ コイツの話が…本当…だと」
「そうよ」
頭を打たれるような衝撃とはこの事だろうか…
今朝と同等、いやそれ以上の衝撃だった。
「でも…」
「だから言っただろ相沢、これでもまだ信用できないのなら俺が現場に連れて行ってやる！」
香里が続けて言おうとした言葉を北川のやけにはつらつとした声が遮った。
おかげで香里が何を言おうとしたのか解らないがどうせ慰めの言葉だろう…気にする事は無い。
それよりも北川の言う『現場』が気になって仕方なかった。
「おし、行くぞ相沢！」
北川は妙に張り切って俺の腕を掴み、そのまま引き摺る様にして廊下に飛び出していった。
俺のフリーズした様な頭では北川の腕を振り解くことも出来ず、たださっきの北川と香里の言葉だけが頭に響いていた。
『水瀬は不倫している』『北川君の言ってる事は本当よ』…
どういう事なんだよ、名雪…
「ちょっと待ちなさいよ！ 相沢君、北川君！ 人の話は最後まで…」
「もう、名雪も名雪なら、相沢君も相沢君ね。それにしても北川君には後でお灸の必要がありそうね…」
今は北川の手を何とか離し、一緒に商店街に向かって走っていた。
教室を出る時に香里の声が聞こえたような気がするが、そんな事はどうでもいい。
俺の心は、名雪への想いと不安と『もしかしたら…』という希望が混ぜ合わされたような状態だった。
もっとも希望は２人の友人に壊され、嘘であって欲しいという俺の願いでしかなかった。
「おい着いたぞ相沢、ほらあれだ」
そう北川の横にくいっと向けた親指の先には…人ごみ、その奥に…名雪がいた。
隣に男を連れて、そいつと歩きながら話している名雪が。
どうして？ どうして、どうして、ドウシテ、ドウシテ！
俺が目の前が真っ暗になろうとし、ふらついた時、北川の更なる言葉が降り注いだ。
「やっぱり、またか」
「どういう…事だ…？」
北川の話を聞きつつも、目は名雪に釘付けで自然と足が動き、その後を追っていた。
北川も俺に話を続けながら付いて来ていた。
「昨日、一昨日とそうだったんだが…水瀬は毎日違う男とああして商店街を歩いてるんだよ」
「な…！？」
もう声を荒げて反論も出来なかった。
いや、驚きの連続で声も出なかったというのが正しい。
「ほら見ろよ相沢、百花屋に入っていくぜ、毎日貢がせてまでしてイチゴサンデー食べたいかね？」
「………もう帰るな、俺」
「ああ、さすがに店内まで入ったらばれるしな…じゃあな相沢。お大事に」
全力で走ったが、いつもの帰り道が酷く長いような気がした。
家に帰った俺を見て秋子さんが心配したが、『何でもありません』と呟き、自分の部屋に向かった。
制服を脱ぎ捨て床に放り、部屋着に着替えるとすぐさまベッドに倒れこむ。
今日あった事を振り返ると溜め息が出た。
…そして涙が流れた。
それからははっきりと覚えていない。
ただ枕に顔を押し付け、おもいきり声を押し殺して泣いた。
ああ、俺の中にはこんなにも名雪を想う気持ちがあったんだ…
今まで名雪の事は愛してるとは思っていたが、もう子供とは呼べない歳の俺が枕に押さえつけないと部屋の外まで聞こえてしまう程の声を出して泣くとは思わなかった。
例え想いがあっても後の祭だ。
もう何も考えたくは無かった。
そのまま泥の様に眠った。
眠る事が唯一の逃げ場だったから。
全部悪い夢だったらいいのに…
最後に一つだけそう思った。
「祐一…起きてよー…」
目覚めた時には名雪の顔があった。
一瞬、今までの事は夢かと思ったがそうでは無いらしい。
枕には辛うじて判るほどだが涙の後が見える。
俺の顔もさぞ酷いんだろうな…と、思っている矢先、
「祐一、ご飯だから下に降りようよ…あれ、どうしたの？ 祐一、目が赤いよ」
どうやら少し寝たおかげで泣いていたとはばれてないようだ。
「名雪、彼氏に隠し事とは酷いな…何で言ってくれなかったんだ？」
「何の事？」
「お前が他の男と商店街を歩いてた事だ」
「あれ、知ってたの？ 祐一」
意外なまでにあっさりと返ってきた返事に俺は戸惑いを覚えた。
「今日、北川と香里に聞いた。」
「そっか…ごめんね祐一、内緒にしてて」
「まあ、別に良いさ…それより俺のイチゴサンデー７つ分の借りを返すまでは俺がいつでも奢ってやるから他の奴からは奢ってもらうなよ」
「う、うん、わかったよ」
別に良い訳が無かった。
それにしても何言ってるんだろうな、俺…この後に及んで名雪に俺を選んで欲しいって思ってるのかよ…格好悪いな…
「あと、相手がかわいそうだからな、ちゃんと一人に選べよ…」
「え？ それって…？」
最後の一言は強がりでしかなかった。
その言葉だけを残し、俺は階段を降りていった。
今は夕食を済ませ部屋のベッドに寝転がっている。
何も感じない夕食だった。
今日食べたものはあんまり美味しいとは思わなかった。
例えそれが、あの秋子さんの料理でもだ。
俺はどうなってしまうんだろう…そんな不安にも囚われた。
「祐一！」
俺の部屋のドアが名雪の声と共に開かれた。
おかしいな…いつもなら律儀にノックするはずなのに…
なんて通常の思考をしていたが、心の奥には今は会いたくないという思いがあった。
目を名雪の方に向けてみると、名雪は急いで来たようだった。
「何だ？ あんまり俺の部屋に入るもんじゃないぞ…お互いのためにな」
「さっき香里から電話があって聞いたよ、香里ちゃんと説明出来なかったんだってね」
「それならいらない、実際見てきたからな。香里にもそう伝えといてくれ」
「違うんだよ、祐一！ ちゃんと聞いて欲しいんだよ！」
もう言い訳なんてごめんだとも思ったが、どうやら名雪が必死なので聞いてやる事にする。
第一、俺がその理由も聞きたいと思うところもあった。
「……分かった、聞けばいいんだろ」
「わたし、一昨日ぐらいかな？ 告白されたんだよ」
「………」
「でも、わたしは『大好きな人がいるからごめんなさい』って言ったんだよ」
「え！？」
それならどうして…
「そしたらその人は『ずっと前から好きだったんです、今日１日だけでもいいから思い出を下さい。デートして下さい』って言ったの」
だからってデートする事は無いだろ！…
「わたし、人をずっと好きでいる気持ち分かるから、辛さ分かるから『今日だけ、一緒に遊びに行くくらいならいいよ』って…でも祐一以外の人にその…キスとかはさせてないから。私が本当に好きなのは、支えてもらえるのは祐一だけだから…だから、ごめんなさい。ちゃんと言わなくて…祐一に嫌われたくなかったから」
俺は先程までの考えを改めさせられた、そして名雪の優しさに触れたような気がした。
そして、まだ煮え切らない部分を持ちつつも名雪の言葉に胸が熱くなり、名雪を抱きしめたいと思った。
「……そうだったのか、安心しろ俺は名雪の事嫌いになったりしないから。それに名雪に好きでいる辛さとかを与えた原因は俺だしな」
「でも、恋人がいるのに他の男の人と遊びに行っちゃうような女の子なんて信じられないよね…わたし、祐一の恋人さん失格だ…よね…」
名雪は最後の方はもう涙を目に溜めて言っていた。
俺はそんな名雪が愛しくって名雪を抱き、声を荒げて言った。
「そんな事無い！ 俺は名雪の言葉を信じてるし、家に帰って来た時も…その…名雪が俺以外の奴を好きになったんだなと、思って…泣いてたからな…でも情けないよな、俺」
最後の方はもう最初の覇気が感じられないような口調になって打ち明けていた。
「だから…あんな酷い顔してたんだね。でも、嬉しいよ…祐一がわたしの事好きって言ってたけど、そこまで想ってくれてたなんて」
「当たり前だろ。好きな気持ちが少ししかない奴なんかにあんな恥ずかしい目覚まし誰が渡すか」
「うん、そうだよね。ありがとう…祐一」
自然と二人の顔の距離が縮まる。
唇が触れるのにあとほんの数センチと縮まった時、俺は重要な事を思い出した。
そして、名雪から顔を離して言った。
「と、その前に２つばかり質問がある」
「わ、いきなりなに？ 祐一」
そう、俺にはまだ理解できていない謎があったのだ。
「１つ目、１人目の奴と名雪がした１日デートの理由は解った。で、残りの２人は何なんだ？」
「あ、それはね同じだよ」
「同じ！？」
「うん、同じ」
「どういう事だ？」
「昨日の人も今日の人も一昨日の人と同じ事言ってきたから、付き合ってあげたんだよ」
コイツはホントにお人好しなんだな、と思いつつとりあえず殴っておいた。
ポカ
「う〜、痛いよ祐一。何するの？」
「『何するの？』じゃねぇよ、まったく…それはな騙されてるんだよ『あのかわいい陸上部の部長はこうすれば一緒にデートしてくれる』ってな」
「祐一、かわいいなんて恥ずかしいよ〜」
相変わらず普通の女の子より１０ヤードくらいズレているなと思った。
いや、むしろズレが日々成長しているような気がする。
「はぁ…そこじゃねぇだろ」
「でも、それは香里にも言われたよ」
「え？ じゃあ何でだよ！ 何で騙されてるって解っているのに…」
「それはね、もしその人の言ってる事が本当だったらかわいそうだなって思ったんだよ」
俺は名雪の事を尊敬さえした。
俺ならそんな事決して考えられないから。
「バカだな…でも、バカだけどホントに優しいよ名雪は。お前の気持ちも判るが、俺の気持ちが持たないから今度からはちゃんと断ってくれるか？」
「うん…ありがとう、そうするよ相手の人には悪いけど。わたし、祐一にもうそんな気持ちになって欲しくないから。それであと１つって何？」
「それか…名雪、俺の事好きか？」
「え？ さっきも言ったよ？ 何回も言わせないでよ〜」
「実は今朝、名雪を起こしに行った時、お前が寝言で『祐一なんて嫌い』って言ったんだ。だからどうしてだろうって思ってな」
「う〜ん、そういえば今朝の夢でたしか祐一がイチゴサンデー奢ってくれるって約束したのに奢ってくれなかったんだよ。だから多分それの寝言だよ」
思ってもみなかった答えが返ってきて俺は拍子抜けした。
「はぁ？ そんな事の為に俺は１日中悩んでたって言うのか？」
「あ、だから今日の祐一はぼーっとしてたんだね」
「ふははははっ」
「あははははっ」
それから俺達はひとしきり笑って、
イチゴサンデーを奢る約束をして、
互いに見つめ合って、
そして、キスをした。
俺の想いを全部伝えられたような気がした。
名雪の想いが全部伝わってくるような気がした。
今までで最高のキスだった。
これから季節が移り変わっても、深まりこそすれ俺達の愛は変わる事は無いだろう。
俺達は…
互いの事を本当に想っているから
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