「――祐一、ビデオ借りてきたの？」
パジャマに半纏を羽織った名雪が、リビングに入ってきた祐一に声を掛ける。季節柄ヒーターこそ必要ないものの、ほのかに肌寒さは残り、時刻は午後十時、名雪が起きているには少々遅い時間だった。
「ああ、北川がな、『これメチャクチャおもしれーぞっ』とか言うもんだからさ」
言いながら祐一は、ビデオデッキの電源を付け、持っていたテープを挿入する。背の部分にはラベルが貼られていたが、タイトルは記入されていない。見てからのお楽しみということか。
「全身の血液がまとめてざわめきたつくらいのアクションを期待しよう」
「じゃあ私は、とろけていくハチミツみたいなラブロマンスを期待するよ」
「それなら私は、小春日和のように温かなヒューマンドラマを期待するわ」
いつの間にか、風呂から上がった秋子がリビングに来ていた。火照った頬から淡く湯気がのぼっていた。
「んじゃー、見てみっか」
三人でソファに座った。リモコンの再生ボタンを押すと、きゅる、という音とともにビデオテープが廻りはじめる。
そして、
極地の吹雪に見舞われたかのように、水瀬家の空気が凍て付いた。
皐月の陽光、うららかに。
「エロビデオならエロビデオだって最初から言えっっ！」
翌日の教室で、祐一は北川の机をぶっ叩いた。ほんのりあたたかな皐月の日、初夏の朝の窓際には、光の手紙を受け取った新緑の郵便屋が、空からの伝言を白いヴェールのように照り返していたが、彼ら二人は現実的な問題と戦うことに必死で、景色の芸術性に目をくれる余裕はないようだった。
「『ゆうな十七歳』って何だよ！ 『びしょ濡れの夏』って何だよ！ 俺は至極まっとうなものを期待してたぞ！？」
「何を言う相沢、お前にしては洞察がなってないじゃないか？ 普通に考えてだな、男が男に『いいビデオがあるぜっ』なんて言ったときは、そういうものを出してくるに決まってるだろうが」
「生憎、俺はお前と違って脳ミソが健全なんだよ。この淫猥」
「ほざくな、矮小」
「誰がッ！？」
「二人とも、もうやめようよ、そんな恥ずかしい会話……」
彼らの隣の席で、名雪が困りきった笑いを浮かべていた。
「全く、お前のせいで俺は赤っ恥かいたんだからな……」
「秋子さんにも見られたんだよなぁー」
「頼むから傷をえぐるような真似はやめてくれ。マジで死にたくなる」
ビデオの内容がその筋のものだったと知覚した瞬間の、祐一の慌てぶりは半端ではなかった。秋子は、そんな彼に気をつかったのだろう、いつも通りの笑顔で「祐一さんも男の子ですものね」とだけ言い残して、自室に引っ込んでいった。
責められるより遥かにイタかった。
「ま、さっさと忘れるこったな。それも運命ってやつさ」
ポン、と肩に置かれた北川の手を、正直祐一は噛みちぎってやろうかと思った。
「はぁ……。どうして男子って、こうも下品なのかしら」
後ろで香里がため息をついていた。何を思ってか北川が口元を抑えた。
「うわ聞いたか、バカにされてるぞ相沢」
「お前だよバカ」
祐一はそれっきり追求を止めて、椅子にぐったりと倒れこんだ。
「ああもう、授業も始まる前から、何でこんなに疲れにゃいかんのか……」
彼らの対角から、その様子を見つめている者がいる。
細められた瞳の奥には、狩人のそれに似た光があり、着席の姿勢は定規のように真っ直ぐだった。広げたノートの上に、彼女はよどみない動きでシャープペンシルを走らせ、机の中にしまい込むと、一時間目の教師が来るのを静かに待った。
「ところで皆さん、私がよく『影が薄いね』って言われるのはどうしてだと思いますか？」
という類の独り言を、美坂栞がしばしば口にしていることは誰も知らない。下手に人前でぶつぶつ言っていると、こわい人とかさみしい人とか色々後ろ指差されるので、周りで人の気配がするときにはつとめて語らないようにしているのだった。
キーンコーン――と、学校中のスピーカーが四時のチャイムを響かせた。陽がほんのわずかに傾き、黄昏の元へじりじりと進み始める時間帯。
今日の栞はたまたま掃除当番で、それがゆえに三年生の教室に上がるのが遅れて、日々の日課となっている「祐一さんと、お姉ちゃんと、名雪さんに北川さんと一緒に仲良く下校する計画」を遂行することが適わなかった。楽しみにしていた放課後が、まとめてフイになったことにすっかりふてくされて、縁日のヨーヨーみたいにぷっくり頬を膨らませながら、三階の廊下を歩いている。
そうでなければ、栞がその声に出会うことはないはずだった。
「――ふん、それが事実ならば、それは由々しき事態だ」
誰かの吐き捨てるような声が、栞のすぐ横の教室から漏れてきていた。表札には「生徒会会議室」と書かれている。
栞は廊下を見渡し、誰も見ていないことを綿密に確認した後、足音を立てぬようそろそろと廊下を進み、入り口の扉にぴたりと耳をつける。
淡々とした女性の声が、栞の耳にはっきりと聞こえてきた。
「学校という潔癖たるべき場で、そのような猥褻なしろものが広められているという事態、看過することは出来ません。また、その件のみならず、近年の我が校の風紀は乱れに乱れています。校内での不純異性交遊、授業中の私語、有害図書の氾濫など……。これらの問題を軽視し、早急な対策を取ることを怠るならば、いずれ火種は猛火へと代わり、生徒会の信頼を下落せしめる可能性があります」
「なるほど、一理ある意見だ。それでは、どうやってその火種を消し止めるつもりかな」
応じる男の声には、栞も聞き覚えがあった。始業式のとき、堂々たる態度で壇上に立ち、まるで政治家もかくやの見事な祝辞を述べた、本校生徒会会長の声――名は確か久瀬と言った。
「まず、風紀検査を行います。それも完全な抜き打ちで。教師陣と連携し、朝のホームルームの時間を使って全クラスを一斉に摘発します。学校生活に不要な所持品は、ただちに押収して処分。検査対象となった生徒には罰則を与えます。そう――」
女性の声はそこで間を置いた。
扉一枚の向こうは、はりつめた静寂に凍っていた。息を呑む音がひとつ。栞自身、感情のないかのようなその声に、うすら寒いものを感じている。
「二度と、愚かな真似をする気が起きなくなるよう」
何故かそこだけは笑っているように聞こえた。
栞は逃げるようにその場を去った。
翌日は曇天で、川沿いの通学路は薄暗く、傘を持つ生徒が多かった。
「降水確率７０パーセントだって」
「うざったいな……。確か今日体育あるだろ。雨降ったら講堂で筋トレだよな……」
「祐一、筋トレ苦手だっけ？」
「苦手っつーか、かったるい。無目的にただ身体動かすだけなんて苦痛だよ」
ふう、と祐一はため息をつく。
「まあいいや。名雪、今日マンガ持ってきたから、休み時間に読もうぜ」
「どんなの？」
「究極！変態仮面とボンボン坂高校演劇部」
「また濃ゆいの選ぶね……」
名雪は対応に窮したようだった。
「――あ、いた！」
不意に聞きなれた声がして、祐一たちは右の方を見た。そこには、一年の制服を着たショートカットの少女と、三年の制服を着たロングヘアの少女が立っている。
「おはよう、香里、栞ちゃん」
「おはよ、名雪。ついでに相沢君も」
「……ついでって。栞、お前の姉ちゃんひどい奴だな」
祐一は、駆け寄ってきた栞に泣きつくような仕草をした。
「ああ祐一さん、辛かったですね。私も妹だからよくわかります」
それを受け止めて、しばらく祐一の頭をなでなでしてあげた後、栞ははっと我に返った。「そんなことより！」と祐一の肩をつかみ、揺さぶりながら訴えた。
「大変なんです！ 朝のホームルームの時間、学校中で一斉に持ち物検査が行われるんです。授業に不要なものを持ってきていた場合、問答無用で即没収にされるらしいですっ」
「な、なに！？ マジか？」
「本当ですっ。昨日確かにこの耳で聞きましたから……それに、検査に引っかかった人には、ひどい罰が科せられるみたいで」
「罰って」
「校内の掲示板に、反省文を顔写真入りで公表されるって」
「なんだそりゃ、晒し者かよ」
祐一は名雪の方を振り返った。
「お前、何かヤバいものとか持ってきてないか？」
「えと、占いの本……引っかかるかな」
「微妙なところだけど、授業に必要なものじゃないから気をつけたほうがいいかもね。――相沢君は？」
「マンガ」
「えぅー、間違いなく没収ですー」
祐一が顎に手を当てた。
「どうすっかな。一斉検査なら、別のクラスの奴に預けとくわけにもいかないし……」
「なら私が預かるよ。部室に保管しといてあげる」
名雪が名案とばかりに微笑んだ。お、と祐一も表情を明るくして、「じゃあ頼んでいいか？ 助かるよ」と彼女に鞄を渡した。
「ふう、とりあえず、当面の危機は脱しましたね」
「ああ、栞のおかげだ」
祐一が頭をなでると、栞は子犬のようにはにかんだ。
「姉の前で見せ付けないでくださる？」
「ひがんでも虚しいだけだよ、お姉ちゃん」
栞に鞄がぶつけられる。栞がきゃーきゃー言いながら祐一を盾にする。祐一も逆に栞を盾にする。それを名雪が苦笑しながら見ている。
それは、最近の彼らの通学過程において、ほぼ毎朝の光景だった。
祐一と香里が教室に着くと、数もまばらな生徒たちが朝の談笑に花を咲かせていた。まだ予鈴前だったから、本当に騒がしくなるのはこれからだった。
「北川君、まだみたいね」
教室を見渡して香里が呟いた。
「あいつも毎日遅刻ギリギリだしなあ」
「相沢君にだけは言われたくないと思うけど」
軽口を叩いた香里は、ふと教室の端から視線を感じた。そちらを見ると、生徒会副会長の浅月美歌が座っている。
勘違いだったのだろうか、視線は送られていなかった。
予鈴が鳴り、生徒たちがどやどやと教室に入ってくる。北川もその一人だった。
「なんてこった、相沢のくせに俺より先に来てやがる。今日は悪いことが起きそうだ」
「ああ、確かに起こるな――おまえ、今日のこと知ってるか？」
問われた北川は「は？ 何のことだよ」と言った。香里がため息をつく。
「知ってるわけないでしょ」
「そーだよな。……北川、実はな」
祐一は手短に事情を説明した。北川の顔がゆがんでいく。
「やべえ。やべえやべえマジやべえ」
「何を持ってきてるんだよ？」
「昨日のビデオ……」
「ああ、終わったな」
「他人事だと思っておまえはっっ」
北川は頭を抱えた。「こ、こうしてる場合じゃないな。部室行ってくるっ」
と、駆け出そうとしたところで本鈴が鳴った。
そして、それと全く同時に担任の教師が入ってくる。
「……なんで。なんでこんな時だけ時間通りなんだよ。普段はニ、三分遅れて来るくせにっ」
ポン、とその肩を祐一が叩く。
「逝ってこい」
「薄情者ッ！？」
ホームルームが始まり、朝の挨拶と適当な話がなされ、いつも通りに授業が始まる――恐らく、クラス中の大多数が、そのときまでは信じていたに違いない。
「えー、ところで皆、今日は重要なお知らせがある」
と言ってから、担任が教室端の女生徒を促した。席を立った彼女は、感情の薄い眼で教室を見渡し、淡々とした声音で宣言した。
「生徒会からの連絡です。昨日の会議により、本校における風紀の乱れを是正するため、持物検査を行うことになりました」
ざわ――とクラスがざわめいた。
「つきましては皆さん、机を空にし、鞄の中のものをすべて見えるところに置いてください」
「ちょ、ちょっと待って浅月さん、いきなりそんなことを言われても」
「学生の本分をきちんと理解している生徒であれば、どんなに検査が突然であろうと、動揺などしないはずですが」
美歌は淡々と言い切った。「それとも、検査を拒まなければならない理由があるのですか？ 学生生活に不必要な、あるいは不健全だと烙印を押されるような、非道徳的なものでも所持していると？」
その口ぶりに、言われた当人ならず、生徒全員がはなじろんだ様子だった。祐一たちも例外ではない。
美歌は担任を伴い、あざやかな手際で全員の持物を点検していった。トランプ、携帯ゲーム、ＣＤ、漫画、アイドルの写真集――およそ授業に用いることのないあらゆるものを、流れ作業のように次々と仕分け、用意した袋に押しこんでいく。
中身を全部出したふりをして、鞄の底に隠していた生徒もいたが、それは徒労に終わった。見事なことに彼女は、まるで警察犬か何かのように、何らかの物の隠された鞄には確実に気付き、その中身をきちんと取り上げていくのだった。
美歌は北川の机にもやってきた。そこには一本のビデオテープがある。
「こんなものは――」
必要ないですね、と取り上げようとしたところを、北川は慌てて遮った。
「待ってくれ、これはＮＨＫの総合番組を録画したテープで」
「ふうん？」
美歌は北川の目を見つめた。上背の差があるのに、彼女の威圧感は半ば北川を飲んでいた。しかし北川は、大きな身振りを交えながら、彼女を言いくるめようとまくし立てた。
「……プロジェクトＸが入ってんだ。視聴覚室借りて観ようと思って――トヨタの社長の回で、最初は無名だった小さな会社が、いかにして世界随一の売上を誇る大企業に成長したかを」
祐一が密かに苦笑した。よくもそこまで嘘八百を並べられるもんだと思う。
美歌は少し感心したような顔になった。
「そうなんですか。私もよく見ているんですが、あの番組ならば、学業に無関係とは言い切れませんね」
北川は安堵を覚えたようだった。
「……でも、トヨタの社長さんの回は観た覚えがないんですよ。そうだ、今日の放課後にでも、クラスの皆で鑑賞会をやりませんか？」
そして安堵が一瞬で消えた。
「いや、それは」
「できないんですか？」
美歌が嘲笑うように言った。「おかしいですね。これがあなたの言った通りの内容なら、クラス全員で鑑賞することを拒否するはずがないのに。まさか、ビデオの内容を偽っているのでもない限り……」
「そんなこと……」
その指摘を否定できずに、北川は逃げの笑みを浮かべるのが精一杯だった。そして同時に確信していた。――彼女は全て承知の上だ。
美歌は口元だけで微笑むと、「それでは皆さん、放課後を楽しみにしていましょうね」と言った。彼女がクラスを一巡し、自分の席に帰る頃には、袋が破けそうなほどに膨らんでいた。
「反省文の提出期限は明日とします。遅れた者には、相応の制裁が科せられるものと思ってください。用紙は後に」
沈んだ空気に、その一言が止めを刺したようだった。
ホームルームが終わると、美歌は袋を持って教室を出て行った。
教室に普段のような喧騒は生まれなかった。事前に危機を回避していた祐一や名雪、もともと余計なものを持っていなかった香里はともかく、直に影響を受けた生徒たちは気が気ではないようだった。北川も机に突っ伏してうめいている。
「ちくしょ……放課後晒し者かよ……」
「しかも今後長いことヘンタイの汚名がついて回るな」
「冗談じゃねえよ！」
叫んでから北川は、またすぐに脱力して、机に伏せた。
「あああ、どうしよう」
「しょうがねえよ。素直に副会長に謝りゃいいだろ？ 『ボクは学校にエロビ持ち込んでこっそりハァハァするつもりでした、ゴメンナサイ』」
「絶っっっっっっ対に嫌だ」
「それなら、放課後の鑑賞会でクラス中にお前のスケベぶりを晒すこった」
「マジぶっ殺すぞテメ」
「あきらめようぜ、これも運命だって」
ポン、と北川の肩を叩いた祐一は、この上なく嬉しそうな顔をしていた。
「……祐一」
それまで黙っていた名雪が、無言の圧力を以って、祐一をじぃっと見上げてきていた。
「なんだよ」
「ひどいよ」
名雪が口を尖らせた。「祐一だって、栞ちゃんが今日のことを教えてくれてなかったら、北川君と同じ目に遭ってたんだよ？ たまたま自分の運が良かっただけなのに、たまたま運が悪かっただけの北川君に、そんな言い方することないじゃない」
「……いや、いきなりそんなマジ話されても」
祐一は茶化そうとした。しかし、名雪の抗議は強く、日頃のようなおちゃらけた態度には応じる気がないようだった。
「おい香里、加勢してくれよ」
「名雪に賛成」
香里はにべもなかった。
「まあ私から見れば、どっちもいやらしいことは確かなんだから。同じ穴の狢なら、互いに助け合うのが一番じゃない？」
「美坂、さりげなくひどいこと言ってないか」
「客観的事実を述べたまでよ」
別段北川の肩を持つわけでもないようだった。
「で、見捨てるのは可哀相だから、名雪やあたしも協力するとして、だ」
香里は、組んだ手に顎を乗せた姿勢で北川を見遣った。祐一を除く三人が、一つの机に頭を付き合わせる形になった。
「北川君はどうしたいの？」
「とりあえず反省文は避けたいんだ。顔写真付きで『俺はエロビで摘発されました』なんてやられたら生きてけねえよ。相沢じゃないからな」
「言ってろ」
「話逸らさないの。それなら自動的に、放課後の鑑賞会も避けたいわけよね」
当然さ、と北川は勢い込んだ。香里は顎に手を当て、何かを考え込む仕草をした。
「生徒会室に殴り込んで、ビデオを取り返してくるとか」
「ダメだよ……。それだと北川君だけじゃなくて、私たちまで反省文だよ、きっと」
いつのまにか祐一も協力していたのは、多分、ハブられるのが嫌だったのだ。
「ひとつ、案があるけど……」
香里の言葉に全員が振り返る。
「やっぱ殴り込むのか？」
「いいえ、もっとスマートな案よ。ちょっと手間がかかるけど」
香里が北川に告げる。
「北川君には悪いけど、鑑賞会自体を避けるのは無理だと思うわ」
「う、うわ、つまり俺が晒し者になるのはどうしようもないと」
「ううん、そういう意味じゃない。対抗手段として、もしビデオを盗み出したとしたら、真っ先に疑われるのは北川君だろうし、それじゃ反省文は免れないでしょ。かといって鑑賞会を中止させる方法も思いつかないし。それならいっそ、向こうの思惑を逆手に取ればいいのよ」
そして香里は、周りの三人の顔を交互に見渡した後で、笑みを浮かべた。
「あたしたち四人と、生徒会との知恵比べ。きっと楽しいイベントになるわ」
まるで悪戯っ子のような笑み。
ああ、香里も悪ノリが板に付いてきたな――と、祐一たちはぼんやり思う。
一時間目の休み時間に入ると、祐一はすぐさま教室を抜け出し、生徒会室に赴いた。
戸を軽く引いてみたが、がちゃりという音がするだけで、わずかな隙間さえ開いてくれなかった。
「ああ、そりゃ鍵もかけるよな」
とはいえ、それは予想済みのことだった。
次に祐一は職員室を尋ねる。普段なら前を通過するのも避けたいような場所だが、今日に限っては別だった。
「ま、しんゆうのめいうんがかかってるからな」
もちろん棒読み。
今度の戸は簡単に開いた。挨拶もなおざりにずかずか侵入していくと、途中で教師に止められた。２年の時の担任の石橋。
「こら相沢、用件ぐらい言え」
「家庭科室の鍵を借りに」
「は？」石橋は怪訝な顔をする。「３年は今日家庭科なんかないだろ……。さてはお前、また良からぬ事を企んでるな」
「まさか、俺だっていつも変なことばっかじゃないって」祐一は微笑して見せた。「俺のしんゆうの北川が、好きな女にお菓子作ってやりたいって言うんだよ。でもあいつ、あいにく料理なんてしたこともないから、今日から毎日家庭科室借り切って特訓するんだって」
「……そんな微妙なウソをつくなよ」
「いやマジだぜ？ その彼女が甘いもの好きで、特にヨーグルトが大好きで、果物ならバナナが最高って言うんだ。だから北川としては、愛する彼女のためにね、バナナヨーグルトスペシャルを作ってあげたいと。それはもう洒落たデザインでね、天を突く黒っぽいバナナの登頂から、トロトロした白い液体が垂れてくるっていう」
「ああ、ああ、ああ、もう解ったから好きなだけ持ってけ」
「ありがとうございまーす」
石橋が頭を抱えたり、周りの教師（特に女）が微妙にそわそわしたりし始める中、祐一は壁に据え付けられたミニロッカーを開けた。
ロッカーに吊られた大小無数の鍵を、祐一は手早く調べ上げた。しかし、彼の淡い期待とは裏腹に、その中に生徒会室の鍵はなかった。
「やっぱ、そう上手くはいかねーか……。となると、鍵を持ってるのは、生徒会のうちの誰か、か」
頭の中で呟いてから、祐一はバタンとロッカーを閉じた。
「それじゃ、家庭科室の鍵借りていきますんで」
その一声はにこやかに、祐一は職員室をあとにする。
二時間目の休み時間、祐一たちは机を囲んで話し合っていた。
「問題は、生徒会の中の誰が鍵を持ってるか、ってコトよね」
「俺は生徒会長か浅月だと思うんだけど、単純かな」
北川がそう言うと、香里も「大方そうでしょ」と同意した。
「でも一応、全員を当たっておいた方がいいと思う。どうにかして生徒会メンバー全員の持ち物を調べておきたいところだけど」
「一年を調べるのは簡単だぞ」と祐一が言った。
「どうして？」
「一年は次の時間体育だから、教室はもぬけのカラ。調べ放題だ」
「やけに詳しいね、祐一」
感心する名雪に、祐一はまぁな、と笑って見せた。そんな彼に香里が、一言おどけたように言った。
「そりゃあ、相沢君にとっては可愛い恋人の学年ですもの」
「ああ、それで……」
名雪が得心して頷いた。脳裏に、小柄でショートカットの似合う、ちょっぴりロマンチストな少女の姿がはっきり浮かんだ。
なんだか複雑なのは彼女が独り身だから。
「……名雪？」
「え、あ、う、何？」
気が付けば香里に見つめられていて、名雪は慌てて表情を繕った。まかり間違っても「あーあ、わたしにも素敵な恋人が現れないかなぁ」とか空想していたことを知られたくはなかった。
頭の良い香里は、そういった他人の心の機微にも敏感なのだった。
「いや、ぼーっとしてたから。――まあいいわ、それじゃ、次の時間は授業ボイコットして、一年の教室を調べに行くわよ」
「あ、それなんだけど」
北川が言った。「そういうのは全部俺がやるよ。他人の鞄を勝手に調べるなんて、ヘタすりゃ犯罪スレスレの行為だろ。俺なんかのために、美坂や水瀬さんたちにそんなことさせられないからさ」
「……俺は？」
「ヤローの身なんてどうでもいいよ」
かっ、と祐一が笑う。香里と名雪も苦笑した。
「じゃあ、それは北川君に一任ってコトで。名雪は……大丈夫よね」
問われて、名雪は「うん」と笑った。「必要なものは、レンタルビデオと空のビデオテープ、それと、ダビングの出来るビデオデッキは映画研究部にお願い――でしょ」
「そ。レンタルカードは持ってるわね？」
うん、と名雪。「お昼休みには頑張ってくるよっ」
三時間目が開始してほどなく、北川は急激な腹痛に見舞われた。支えようとした保健委員を「いや、大丈夫だから」と押しのけたあと、「保健室に行きます……」と言って教室を抜け出た。
もちろん、腹痛はその瞬間におさまっている。
二階に下りると、北川は周囲を伺いながら一年の教室に侵入する。そこは祐一の言った通りに誰もおらず、多少無茶な探索をしたとしても、誰かに気付かれることはないだろうと思われた。
「んじゃ、ちょちょいと探しますか」
呟きながら北川は、手近な机から教科書を引っ張り出す。そこに書かれた名が、記憶の中の一年の生徒会役員のそれと異なることを確認すると、また隣の机に行き、同じことを繰り返す。
「しっかし、やたら非効率的だよな、この作業」
せめて、役員がどのクラスに属しているかだけでも分かっているなら、もう少し楽だったのに――と彼は思った。とはいっても、この学校は一学年２クラスしかないので、２０分も掛ければ十分仕事は終わらせられるはずだ。
そんなことを考えながら、９番目に取りかかろうとしたとき、入口でガタンと音がした。
「――何してるんですか？」
北川の心筋が竦んだ。
しまった、計算外だ、晒し者確定――そんな言葉が駆け巡る中、北川の動きは機械のようなぎこちなさに縛られていた。ぎちぎちぎち、と音が立ちそうな動き方で、少しずつ声の主に顔を向けていった。
そして、その少女が知り合いだということに気付いてから、たっぷり十秒ほど硬直したあとで、ものすごく深い溜息をついた。
「なんだ、栞ちゃんか……」
「ええ、見ての通りの栞ですけど……北川さん」
栞はきゅっと眉根を寄せていた。彼女は、いかにも後輩然とした、小柄で可愛らしい容姿をしていたが、それでも（あるいはだからこそ）こんな表情をされると、結構恐かった。
「まさか、ついに火事場ドロボウに身をやつそうと」
「違う違う！ 誤解だよ」
北川は必死の身振りで栞に訴えた。栞はしばらく怪訝な様子だったが、彼との付き合いがそれなりにあることもあって、徐々に警戒を解いていった。
「……だから、盗られたものを取り返すために、否応なくこんなことしてるんだ」
「そうでしたか……。すみません、疑っちゃって」
しゅんとして栞が謝ってきた。
「ところで、どうして栞ちゃんはここに？」
「ちょっと、体操服を忘れちゃって」言いながら栞は、自分の机に歩み寄り、学校指定のスポーツバッグを手に取った。「バドミントンをやってるんですけど、羽がうまくラケットに当たらないんですよね」
と、恥ずかしそうに言う彼女を見ながら、北川は「ああ、そういうトコ美坂の妹だよなあ……」などとぼんやり考えていた。昔、彼が何ともなしに女子の体育を覗いてみた時（なにゆえそんな真似をしたかとかいうことは聞いてはならない）やはりバドミントンをしていた香里が、ラリーを何十回もミスり続けて、対戦相手の失笑を買っていたのを思い出したのだった。
「そういや栞ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど」
「はい？ なんでしょう」
「一年生の生徒会役員の席って、どこになるかな」
「ああ、それなら……」
栞の協力のお陰で、作業は思った以上に早く終わったが、北川は教室に戻りはしなかった。せっかくサボれる口実がある以上、それを押してまで授業に参加するような、ばかな真似をする気はないのだった。
「浅月に聞かれたら半殺しだな」
休み時間になり、ようやっと保健室のベッドから凱旋した彼に、祐一はおどけて言った。
件の生徒会副会長は、教室の右端の一番前で、四時間目の授業の予習をしている。じっと見ていると肩が凝りそうだったので、祐一はすぐに見るのをやめた。
「一年は鍵を持ってなかったよ」
北川が報告すると、香里は「そう……」と頷いた。
「じゃあやっぱり、鍵を持っているのは、久瀬君か浅月さんのどちらかでしょうね」
「つーか、二年が持ってたとしたら全部お手上げだからなぁ」
今日は二年生の体育はない。神サマにお祈りでもするかね、とうそぶきながら、祐一はでたらめな十字を切った。香里が肩をすくめる。
「ひどい不心得者ね」
「壺でも売って儲けてやるよ」
香里はくすっと吹き出した。
もっとも、実際のところは祐一も香里も、人智を超えた『運命を統べるもの』の存在について、口ほどに不遜な考えを持っているわけではなかったけれど。
そして恐らく、それは栞も同じだったろう。
少しだけ粛然とした心持ちになった香里は、ゆるゆると首を振ると、雨上がりの朝日のような笑顔を浮かべて、机に身を乗り出した。
「お昼休みは名雪のお世話になるとして、最大の関門は、６時間目の体育ね」
「やることがたくさんあるもんね。鍵を見つけて、生徒会室に入って、北川君のビデオを探して」
言いながら、名雪は体のあちこちをじっくり曲げ伸ばししていた。これからきっかり５３分後の彼女は、家に忘れた体操服を取りに帰るという”設定”で学校を出、商店街への一人往復マラソンを決行せねばならないのだった。
「あ、それも俺が」
北川が手を上げるのを、香里が柔らかくさえぎった。
「気持ちは嬉しいけど、そっちはあたしがやるわ。発案者のくせに、人に働かせるだけで、自分は見てるだけなんて情けないもの」
「そんなこと気にしなくていいって、俺は当事者だし……」
「だったら、二人で行けよ」祐一が提案した。「それで香里は満足するだろ？ それに人数が多い方が、作業も手早く済ませられるから、誰かに見咎められる確率は低くなる。万事解決だろ」
北川と香里は、しばらく見つめあったあと、互いに頷いた。
「……じゃあ、そうしましょうか」
「おう」
そして四時間目のチャイムが鳴る。
四時間目の政治経済をつつがなく終え、学食に向かっていた美歌は、職員室から出てきた水瀬名雪と鉢合わせした。美歌は彼女に対して良い印象を持っていなかったし（何しろ授業中はほとんど寝てばかりなのだ、とてもまっとうな学生とは思えない）まともに言葉を交わしたこともニ、三度しかなかったから、名雪がはにかんだ様子で会釈をしてきたとき、わずかに面食らったものだった。
「……どうも」
それでもどうにか会釈を返すと、名雪は俯き加減に二度目の礼を残して、昇降口の方へ走り去っていった。
その手には白い紙が握られていた。状況から察するに外出許可証だろう。体操服でも忘れたのだろうか、普段から時間割を確かめていればそんなことにはならないのに、やはり彼女は素行が雑だ……などと思いながら、美歌は再び廊下を歩き出した。
学食の混み具合はいつも通りで、静謐を好む彼女には頭の痛い話だったが、それでも退くことはない。慣れというものがあらゆる困難を凌駕することを、彼女は経験と理論の両方で知っている。
「Ｂランチを頂けますか」
淡々とした声は、しかし周りの喧騒に負けることなく、確実に学食委員の耳に届いた。
朱とライトパープルの、制服の激流をさかのぼり、壁際のテーブルに辿り着く。そこは二人がけの席だったが、誰かが彼女の相席についたことは、３年間の高校生活の中でも数えるほどしかなかった。
クロワッサンとパスタ、マーマレードのジャム、野菜サラダに甘さ控えめのオレンジジュースを、彼女は天秤でも扱うようにバランス良く食した。ナイフとフォークを扱っているのに、彼女の皿は音ひとつ立てなかった。ただわずかに、レタスをかみ締めるとき、パリッという音が新鮮な水気とともに飛び跳ねただけだった。
「貴族のようなテーブルマナーだね」
その不意の声に、美歌は正直パンを詰まらせかけた。しかし、あくまで彼女らしい冷静さを装い、這うような慎重さで異物を嚥下すると、それと同じくらいにゆっくり顔を上げた。
見えたのはちょうど、生徒会長の久瀬が、自分のトレイを彼女の相席に置くところだった。
「すまないが、いつもの席が空いていなくてね、同席させてもらうよ」
「……私の意向は考慮してくれないのですか」
「困ったときはお互い様だろう？」
久瀬はにっこりと笑んだ。まるで透き通るような表情。
美歌は、まるで不機嫌そうに彼から目を背けると、頬杖をついて窓の外を見遣った。白い曇天の上を、刷毛で塗りたくったような雨雲がおおい尽くしていて、悪戯盛りの空の御使いが、壮大な水かけ遊びを始めるのに時間は掛かるまいと思われた。
「計画は上手く行きそうかな」
煮付けた秋刀魚の骨を抜きながら、久瀬はそう問いかけてきた。事務的な会話に慣れている美歌は、それで調子を取り戻して「ええ」とはっきり答えた。
「最初の提案があったとき、いかにも君らしい計画だと思ったよ。生真面目で、潔癖で、厳格だ」
「褒め言葉と受け取って良いのですね？」
「君にはそうなるのだろうね」
含みのある言い方をしながら、久瀬は秋刀魚の身を口に運んだ。
「思うに」彼は唐突に切り出した。「君が主立って取り締まろうとしている生徒たちは、厳罰を課されることによって、果たして生活態度を改めるだろうか」
残ったパスタの、最後の一口を食べようとしていた、彼女の手が止まった。
「水清ければ魚住まず――の諺がある。理想を持つことは素晴らしいことだが、しかし人は、必ずしもそれだけで生きるわけではないだろう。世の中の大多数は世俗的な生き方をしている。しかし、それが理由で、人々の暮らしは揺らぎはしない」
「何を……」
美歌ははじめて、音を立ててフォークを置き、落ちてきた髪を後ろに払った。
「彼らの所業を看過しろと言うのですか。仮にも本校生徒会長である、貴方の言葉とは思えません。世俗的な価値観は享楽を含みます。それは怠惰の温床であり、一度蔓延してしまえば、周りのすべてを取り込みます。人は弱く、楽な道に流れ、その過程は不可逆。それが解らない貴方ですか」
「僕はただ、やり方を選ぶべきだと言っているだけだ」
声を荒げる美歌とは裏腹に、久瀬の態度はあくまで穏やかだった。
「僕だって、風紀の乱れを野晒しにしていいとは思っていない。でも、君のやり方では、彼らからの反発を招いてしまう。君には君に合うやり方があるように、彼らには彼らに合ったやり方がある。曲がりなりにも人の上に立つ者として、最低限その辺りのことを考慮して欲しいと、そう言いたいだけだ」
「……理解できません」
美歌はただ一言で拒絶した。
久瀬は、そうか、と言ったきり、もう何も言わなかった。だから美歌も何も言わず、彼女の望む静謐の中で昼食の全てを消化すると、食事と同じような無音で席を立ち、廊下へ姿を消した。
……その時まるで、タイミングを計ったように、最初の雨が降り出した。
そして、五時間目の休み時間。
「さて、名雪の努力と映研の協力のお陰で、今私の鞄の中にはプロジェクトＸのダビングテープがあるわけですが」
「あせったよ……。いきなり雨が降って来るんだもん、ビデオが駄目になったらどうしようかと思った」
もう何度目になるのか、祐一たち４人組が一つの机を囲み、頭を突き合わせている。参謀は香里。補佐役の名雪。遊撃隊の祐一、そしてキングは北川だった。
「次の体育の時間、私と北川君が授業を抜け出して、３年の教室に向かいます。久瀬君の机と、浅月さんの持ち物を探って、生徒会室の鍵を持ち出します。私たちはそれで生徒会室に侵入、例の袋の中から北川君のビデオを取り戻し、ダビングしたテープと交換します。あとは放課後の鑑賞会を待てば、合理的に北川君の疑いは晴れ、反省文も変態の不名誉も受けずに済むようになります」
「もしも２年が――なんて、考えない方がいいよな」
「大丈夫、多分、その可能性は低いから。こんな大掛かりな摘発なら、普通は高い役職の者が行うでしょうし、昨日栞は『声の冷たい女の人が主導してるみたいだった』って言っていたわ。それはきっと浅月さんだから、十中八九、いけると思う」
全員が力強く頷いた、その時、不思議な高揚感が彼らを包んでいた。
それは、犯罪と紙一重の背徳の誘う興奮か、抵抗という響きへの陶酔だろうか。
――それは恐らく、その両方であり、同時にどちらでもないのだろう。
クラスの生徒、一人一人が、体操服を持って体育館へと移動していく。昼休みの半ばに降り始めた雨は、この北国には珍しい滝のような豪雨となって、窓ガラスを戦太鼓の様に打ち始めていた。
「行こうぜ」
北川が呟く。それをきっかけにして、祐一たちは教室を出る。
そして、雨音煙る廊下に、一人の少女が立っていることに気付く。
「……栞」
「仲間外れは嫌ですよ、私だって、直接は関係ないけど」
顔立ちに幼さの残る、小柄な彼女が、凛とした笑顔でそこにいる。
「病弱で通った私です、授業中に具合悪くして、保健室に行くなんて朝飯前ですよ」
「あーあー、私の栞、いつの間にそんな悪いコになっちゃったのかしら」
香里が、冗談めかした大げさな身振りをしながら、祐一を横目で睨みつけた。
「俺のせいじゃないよな？」
「祐一さんがオトナにしてくれましたっ」
にこやかに、言外の意味を込めて、栞。
祐一がひどく慌てる。香里が祐一をスポーツバッグで殴りつける。北川が「いいぞ美坂、もっとやれーっ」とはやし立てる。それを名雪が苦笑交じりに見ている。
……きっとその瞬間、彼ら以上に満たされていた者は、この世に存在しなかったはずだ。
体育の開始早々に、北川は腹部の痛みを訴えた。
「ま、マジで苦しい、今日は体調が悪いみたいだ……。すみません、保健室行って来ます」
「先生、あたしが付き添いやります。ほら北川君、しっかりして」
体育教師は、保健委員に付き添いをするよう指示したが、香里は無理やり押し切った。念の入ったことに、顔や身体を必要以上に密着させ『二人は恋人同士であるから、彼女が北川潤に付き添うのは当然である』と誤解されてしかるべき雰囲気を作り出していたから、教師もそれ以上何も言えないのだった。
「……ノリノリだな」
「……ノリノリだよね」
祐一と名雪はこっそり苦笑し合った。
もちろん、体育館を出た後には、香里は北川なんざゴミのように振り捨てている。
「も、もうちょっと役得とかあってもいいんじゃ！？」
「あたしは合理主義者なのっ」
轟音の中、吹き込んでくる雨粒を突っ切って、香里たちは校舎に続く通路を駆けた。
二階の階段で栞と合流、三階に駆け上ると、香里は自分のクラスに飛びこんだ。手早く美歌の鞄を調べたが、そこに鍵はない。
一瞬だけよぎった不安はしかし「お姉ちゃん、ありました！」という栞の一声で消えた。栞が開いた手の中には、確かに『生徒会室』と名札のついた鍵があった。
「よし、それじゃあビデオを持って生徒会室に」
「ええ。……でも、その前にちょっと」
駆け出そうとした二人を、香里は少しだけ呼びとめた。彼女は北川にビデオを渡した後、もう一度鞄に手を入れて、中からあるものを取り出した。
反響する笛の音に合わせて、生徒全員が腹筋運動をさせられている。
浅月美歌は、昼休みのことで未だいらついていて「ああ、どうして私がこんなことをしなければいけないのかしら」と思っている。体育館の床は固く、上半身を起こすたびに、腰の骨が削れるような痛みに襲われてしまう。
ふと見た先には、久瀬の姿があって、彼は懸命な表情で腹筋を続けていた。
久瀬がスポーツマンである、などという話は寡聞にして知らない。にも関わらず、必死に歯を食いしばるその横顔を見ていると、何だか無性に心が掻き乱されて、もう腹に力は残っていないはずなのに、無理やり運動を続けようとしてしまうのだった。
「よーし、次は腕立て伏せだ。女子は十回、男子は二十」
とはいえ、それにも限界があり、美歌はもう完全に動けなくなっていた。
荒い息の外側で、笛の音が夢心地に響き始めた。人目も憚らず床の上に倒れて、美歌は、今すぐここで眠ってしまいたいという、普段の彼女ならば考えられない類の誘惑に身を委ねかけていた。
ああ、そういえばさっき出ていった、きわめて非道徳的なビデオを持ってきていた北川くんは、今頃保健室のベッドで眠っているのだろうか。美歌は私も眠りたいなと思った。自分が付き添いで行っていれば、自分も白いベッドで眠れたのだろうか、自分は保健委員ではないけど、美坂さんも委員じゃないのに付き添いを許されたのだから、私も誰かに付き添って、そう、ちょうど今倒れてしまった久瀬くんを連れて、ああでも、付き添いは付き添いだから、保健室に久瀬くんを届けたら自分はすぐに帰ってこなくてはいけない――
「…………っ！！」
美歌は一瞬で跳ね起きた。
周囲にいた女生徒が、何事かと彼女を見遣っていたが、そんなことを気にしている暇は無かった。冴え冴えとした思考、氷鏡のような冷静さという彼女の本分が、彼女の中で強力な警鐘を打ち始めている。
――どうして美坂さんは帰ってこないの！？
時計を見る。授業開始から二十分が過ぎていた。北川くんと会話している？ 授業をストライキしている？ どちらもありえないことではなかったが、しかし彼女の中の理性は、それが誤答であること、そして、あの二人が何をしようとしているかということを、すでに明確に悟っていた。
「こ、こら浅月、どこへ行くっ」
教師の制止も聞かず、美歌は体育館を飛び出していた。
祐一と名雪もまた、彼女に『気付かれた』ことを悟っていた。二人は互いに目配せし、申し合せたように同じタイミングで立ち上がると、美歌の後を全力で追いかけた。
「……これは、何とも」
そして最後に、動かない身体を無理やり引き摺って、久瀬もその場に立ち上がった。
「おい！ 久瀬！ お前まで行くのかっ」
「すみません、先生。事態が事態ですから」
連なる吐息の中で、それでも教師への敬意を崩さないまま、久瀬は一礼した。彼の姿が入り口から消えていった後、雨音に包まれた体育館で、教師と生徒たちが呆然としている。
――思えば最初から疑わしかったのだ。
美歌は歯噛みしながら三階に上った。急に腹痛を起こした北川、体操服を忘れた陸上部部長、普段とは違う香里や祐一の態度……。
生徒会室には鍵がかかっていた。窓から覗こうにも、擦りガラスの向こうを見通すのは困難で、中に二人がいるのかは判然としない。
彼女は久瀬のクラスに駆け込み「……ごめんなさい」と呟きながら彼の鞄を開いた。その中には『生徒会室』と名札のついた鍵が、誰にも盗られないままでそこにあった。
鍵がここにある以上、二人が生徒会室に侵入している可能性はゼロであると、そう考えられた。――普通ならば。
「騙されるものですか……！」
美歌は激情のままに叫ぶと、自分のクラスの自分の机の、筆箱の中に隠していた「スペアとしての生徒会室の鍵」をつかみ出した。すぐさま生徒会室に取って返すと、ぶるぶる震える指で鍵を穴に差し込み、渾身の力を込めて捻った。
「……あなたたちッ！」
中にいた三人が身を硬直させた。三人――人数は予想より一人多かったが、そんなことは今は些末事でしかなかった。
「……ああ、時間稼ぎにもならなかったわね」
香里が大げさな仕草で頭を抱えていた。その手には『家庭科室』と名札の下がった鍵がある。美歌がその鍵を思い切り睨みつけていた。
「私を舐めないでもらえますか、美坂さん、これでも頭の回転には自信があるんです」
「そうね、その通りだと思う。自分ではいいトリックだと思ったんだけど」
香里は『家庭科室』の鍵を長机に置いた。本来は生徒会室のものであるその鍵は、”名札を付け替える”というひどく単純なやり方で、見かけ上一瞬にして『家庭科室』の鍵へと変化したのだった。
「探偵を騙せないトリックなんて、三流もいいところですよ」
美歌は『生徒会室』の鍵を投げた。それが『家庭科室』の鍵にぶつかり、チンとくぐもった音を立てた。
「諦めてください。大方、あなたの恋人に恥をかかせないために、押収したビデオを別のものと交換するなどという非常識なことを思い付いたのでしょうけど、それは間違った行為です。そんなものは愛情じゃない、ただの甘やかしに過ぎません」
「……北川さん、お姉ちゃんと付き合ってたんですね」
「いやいや、違うんだ栞ちゃん、それは浅月が勘違いしてるだけ……」
後ろの方でぼそぼそと聞こえるのは無視する。
「へえ、言ってくれるじゃない」
香里が獰猛な笑みを浮かべていた。「ならあたしからも言わせてもらうわ、浅月さん、あなたたちは品行方正な生徒会役員として、あたしたちの学校生活を統括しようとしていたんでしょうけど、そんなものあたしたちには必要ない。『学校には勉強道具以外不要だ』なんていう、そんな押し付けの理論はね、あたしたちにとっては、エラぶった選民気取りの戯言なのよっ！」
気勢――と呼ぶのに、それは相応しい声量だった。
美歌は、それに気圧されることなく、毅然と香里を睨み続けた。
……しかし実際のところ、それは外見上のことでしかなかった。目には見えない心の奥、本当のところの彼女は、久瀬の言葉に動揺し続け、香里の言葉に追撃を受け、倒れまいと気を張り続けるのに必死なのだった。
「……あなたたちの考えは、享楽的で短絡的で近視眼的です。知識を蓄えることと、くだらないお喋りで時間を浪費すること、確かに一見後者のほうが魅力的に思えるでしょう。ですがその実、そこに中身はありません。言わば、メッキ貼りの像を見て『これは純金だ』と言い立てるようなもの。いつか人が大人になり、子供じみた一面的な観察眼から脱皮したとき、そのことを激しく後悔するようになるのは、目に見えているじゃないですか」
香里は反論をしなかった。二の句を継げないようだった。内心美歌は、極度の緊張にか、その喉と胸の奥をぶるぶる震わせながら、このまま無理やりにも押し切るつもりで、最後の言葉を口にしようとした。
「――メッキだから何だっていうの？」
しかし、彼女の口から、その言葉が出てくることはなかった。
栞と北川が、香里の後ろで顔を上げていた。
後ろのほうで、祐一と名雪が、ようやく生徒会室にたどり着いた。
美歌は、最後の言葉を吐き出せないままで、時間を無くしたかのように静止していた。
「美醜、優劣、巧拙、善悪……その基準はどこで決まるの？ 浅月さん、今あなたの持っている、その価値観は本当に立派なもの？ すべての価値の始まりが、遠い昔、最初の最初の人間が……いいえ、それよりさらに前、あらゆる生き物のもととなる、最初の生命の生まれた瞬間なのだとしたら――あなたはそれを魅力的だと感じられるの？」
「…………それ、は」
美歌は答えることが出来なかった。
屁理屈だと思った。だが彼女は同時に、それを指摘することに、意味がないことに気付いていた。
「あなたがどんな価値観を持とうと、それはあなたの自由で、あたしなんかに説教される筋合いはないでしょう。でも、それはあたしたちも同じなの。例えあなたが、どんなにあたしたちを否定しても、あたしたちは自分の価値観を捨てないと思う。……ひょっとしたらそれは、あなたの言うように近視眼的で、ひどくばかなことなのかもしれないけど……それでもあたしたちは……こんな毎日が大好きなの。自分の中の感性が、理屈よりずっと深いところで、そんな時間を望んでる……それだけは絶対、間違いのないことだから」
香里は美歌を見つめている。どうしてなのか、美歌はその視線に惹きつけられて、目を離すことが出来なくなっていた。
……それはまるで、世界の美しさをよく知る絵筆が、歓びという色彩で塗り上げた、一冊の絵日記を見たような。
生徒会室で、残された美歌が独り、床に座り込んでいる。
彼女は、自分が泣いていることをきちんと知覚していた。濡れた頬を拭うと、思ったよりも冷たくて、ああ、私の涙はこんなにも冷たかったんだ……とぼんやり思い、ただ思っただけなのに、そうしたらやっぱりまた悲しくなって、せっかく拭った頬の上を、また新しい涙が伝い始めた。
「使うかい」
振り返ると、久瀬が彼女と同じ高さに身を屈めて、真っ白いハンカチを差し出していた。
美歌は憮然とした表情を繕おうとし、しかしそのタイミングで思いっきり鼻をすすってしまったので、全部台無しになってしまっていた。失笑を漏らす久瀬から、今度こそ憮然たる態度でハンカチをむしり取ると、一息に頬を拭いてから乱暴に突き返した。
しかしそれでも、この久瀬という男は、自分に向けて柔和な笑顔を浮かべている。
美歌の頭の中、さっき聞いた香里の言葉が、確かな重みを持ってフラッシュバックした。
（――もっとも、この気持ちは『楽しい』じゃなくて……『嬉しい』……、なんでしょうけど）
「え、何？ よく聞こえないんだけど」
「何でもありません」
突っぱねるように言い捨てると、その後で、美歌は改めて別のことを言った。
「生徒会長、……持物検査に関することで、修正案を出したいのですが」
「つーかさ、結局全部香里がいいとこ取りだったよな」
「お姉ちゃん、かっこよかったよっ」
「はいはい、その話はもういいから……まったくもう」
祐一たちが下校する頃には、すっかり雨は止んでしまっていた。記憶の中の降り様を思い浮かべるに、こんな短時間で止むなど考えにくかったけれど、詰まるところ空の御使いは幼児の如く気まぐれなのだろう。
「結局鑑賞会も、雨と一緒にお流れかぁ」
祐一が残念そうに言った。「あーあ、いっそ俺らが何もしなけりゃ、北川をコケにするネタが増えてたのにな」
北川になぐられた祐一からは、パキャン、と中身の軽そうな音がした。
「でも、今回クラスメイトにこそバレなかったものの、北川君がいやらしいビデオを所有している事実には変わりないのよね」
香里が指摘すると、北川は途端にへこんだ。祐一はその隙を見逃さなかった。
「全く、お前はホントにヘンタイだよな、今日からお前のあだ名はヘンタイだ。このヘンタイ」
「うるせえ、お前だってなあっ」
「あ――でもさ」
名雪が唐突に、人差し指を立てながら、にこやかに言った。
「わたしこの前、祐一の部屋で、えっちな本見つけたんだよー」
「ンな！？」
驚愕する祐一、彼を尻目に、名雪のもとに他の三人が集まっていく。
「そうだよな、やっぱ相沢が潔癖なわけないもんなっ」
「ああもう、やっぱり相沢君も同類だったのね……」
「で、で、どんな本があったんですかっ？ すっごく興味深々ですっ」
もちろん、その四人の顔は、一様にどこか嬉しそうで、
「あのね、最初に見つけたのは『ピチピチ爆乳アイランド』」
「やめんかーっっ！！」
それはほんの今、雲の切れ間から差してきた、雨上がりの陽光のように輝いていて、
「よっしゃ！ 放課後の予定が決まったぜ、今日は相沢の部屋でエロ本漁りだッ！」
「さんせーっ」
「ふざけんな！？ ちょっとふざけんなよお前ら！？ おい名雪！ 北川、香里、つーか栞までッ！？ 普通彼氏がンなもん持ってたら引くだろ！？ おいこら！ マジで止めてくれってば――――――――っっっ！！！」
祐一の絶叫をバックに、他の四人が、嬉しそうに走り始める。
……きっと彼らは、これからの時間も、こんな風に生きていくのだ。
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