もうすぐ春が来る。新しい学期。新しい季節。
今日は日曜日。皆が待ち望んだ日曜日。オレはたった一人で商店街を歩いている。ただ一心不乱に、ショーウインドウなどには目もくれず、コツコツと人通りの多くなった街路樹の合間を徘徊している。
ベルトから下げた小さなマルチポーチからは黒いコードが伸び、それは身体を伝って先端の方で分かれ、両耳の穴のところまで伸びていた。
耳の中に入ってくるのは人々の喧騒などではなく、ただイヤホンから流れてくる軽快なソング。切れのいいギターの音が、気分を明るい物に変えてくれる。英語の歌詞で、とても素直に元気になれる。身体が踊り出すような音楽だ。
しかし前は好きだったが、今はどうも好きになれそうにない歌だ。とても今の気分じゃ踊り出す気にもなれない。
こうして歩いていると、気付く事も多々ある。
例えば、雪が減った事。
銀世界も春の温かみには勝つことができず、土の中へとその身を引いていった。代わりに現れたのは、美しく萌え始めた雪国の草花達。春の到来は、遅くではあるが着実にこの土地にも訪れ始めているんだ。
そう考えたとき、流れていた曲が終わった。そして、リバース再生でもう一度、同じ曲が初めから流れ始めた。
MIND YOUR STEP!
ふと、こめかみの辺りが痛くなったように感じた。
あの日……あの日からあの物語は始まった。
転校生が来た。この冬、一月。三学期が始まると同時に。
名前は、相沢祐一。
一見取っ付きにくそうな外見と、それに似合わぬユーモアを併せ持つ、ちょっと変でやけに馴れ馴れしい奴だった。
オレ達は、席が近かった事、あいつの従妹の水瀬さんがオレの友人だった事もあって、すぐに仲良くなることができた。
それは、何気ない日常だったはずだった。ただ、新しい親友ができた。ただそれだけだと思っていた。オレと、相沢と、水瀬さんと……美坂。四人で楽しく駄弁って、昼食を食べて、時々帰り道に寄り道したりして……何も変わりはしないと思っていた。
女の子を見つけた。授業中、雪の積もる真っ白な中庭にたった一人、私服で佇んでいた小柄な女の子だ。
オレはその子を眺めていた。なぜ、こんな雪一面の世界でたった一人で佇んでいるのか？ひょっとして、誰か人でも待っているんじゃないかと思った。
オレがそのことを前の席にいた相沢に伝えると、あいつは授業が終わると同時にホームルームを投げ出して、彼女のいる中庭に向かっていってしまった。
この高校に入って二日目にして、まさかホームルームをサボってしまうとは……。中々豪気な奴だと思った。
オレは、その姿を後ろから眺めていただけ。結局何もしやしなかった。
その女の子は、毎日中庭に来ているみたいだった。
それから相沢は、その女の子と昼食を食べるようになった。オレは転校早々、女の子に手を出しているのかと心の中で少し嘲け笑っていた。
二人の中は、ほとんど恋人同然といった感じだった。昼休みのたび、二人はまだ雪の多い中庭に座り込んで昼食をとっていた。
雪の絨毯の上に座って、二人で他愛ない会話でもしながら時を過ごしていたんだろう。
それから数日、美坂の様子がおかしくなってきているのに俺は気付いた。全体的に元気がないというか、オレは美坂に抜け殻のような空しさを感じた。俺と水瀬さんで一緒に昼食に誘っても、気のない返事が返ってくるだけだった。
もう何日も昼食を取っていないのだろう。昼になると、ただ窓際に佇んで中庭でアイスクリームを食べている二人を見つめつづけていた。中には相沢の事が好きなんじゃないかとか噂するやつもいたが、明らかにそんな様子じゃあない。そう思いたかった。
そんな美坂に、オレは何度も話しかけ、笑いかけた。うざったいと思われても、無視されても、それでもいいと思った。このまま放っておいてはいけないと思ったから。その背中が、その表情が、今にも霞の中に消え入ってしまいそうだったから。
そして、こんなオレでも何か予感はしていた。彼女が美坂に何か関係していると。
また、イヤホンの声が終わりを告げた。リバースでもう一度流れ始める。
他の曲にしよう。このMDの中には沢山の曲を積めこんである。ジャケットの襟の所にとめてあった端末に手をかける。
今の気分……そうだ、もっと切なくて、悲しい曲がいいな。
選曲をするたび、小さくて無機質な電子音が耳に響く。オレは目的の曲の所で、手の動きを止めた。ゆっくりとピアノの音と共に、柔らかい女性の声が耳の中を通りぬける。
オレは一度、小さくため息をついた。情けない自分に。
……その女の子がうちの高校の制服を身にまとって登校してきたのは、それから３日ぐらいしてから知った。彼女がわざわざ、うちのクラスまで相沢を迎えに来たのである。この高校の生徒ではないかとは思っていたが、まさにその通りだった。
オレは美坂の様子を確認してみた。
その時の美坂の目は、絶対に彼女を見ないようにしているように見えた。中庭にいた二人を見ていたときの、寂しそうな目とは全く違う。姿だけではなく、その存在に怯えているかのような目。
その時、オレは美坂と彼女との間に何らかの関係があることを確信した。
それはオレの記憶。くっついて離れない、真夏の夕暮れ時の記憶。
一度、たった一度だけ、美坂が妹の事を口にした事があった。
商店街の小さな雑貨店。そこに並んでいた、ピンクと白の羊の人形。何故か白の方だけひどく汚れていた。店主に聞くと、この羊は姉妹でセットという設定で売られているそうだ。もうだいぶ昔から置いてある人形で、ピンクの姉の方は汚れが目立たないが白の妹はデリケートなので小さな汚れでも目立ってしまうらしい。
その話を聞くと、美坂はその人形を買うと言い出した。
『白い羊……あの子にプレゼントしてあげないとね』
もう一年以上も前の事だ。だが、美坂に本物の妹がいるなんて考えもつかなかった。ここにきて、それが真実味を帯びていった。
そして、オレは二人の事を思いっきり茶化してやった。もっと近づいて彼女の顔を見て、その事を確かめるために。
やっぱりそうなのかと思った。
やはり彼女は似ていた、美坂に。その瞳の色とか、どこか悲しげで寂しげな雰囲気がそっくりだった。
二人が学食へ向かった後、オレは一年生のクラスへと走った。この仮説を確かめるために。
事実が判明するのに、そう時間はかからなかった。彼女の名前は美坂栞。入学式の当日に病に倒れ、そのまま復学せずに今に至っていたという。その彼女が学校へ来たのだから、一年生の間で話題になるのも無理はなかった。
オレはどうしたらいいのか、わからなかった。どこまで他人の中に踏み込んでいいのかがわからなかった。ただ目の前に見える一線を前にして、それを踏み越えられずに立ちすくんでいるだけだった。
そして、それから二日後の放課後。帰り道でノートを忘れてしまったという事に気が付いて、オレはそれを取りに夕暮れ時の教室に戻った。期末試験前にそんな物を忘れてしまっては致命的だ。
夕暮れの教室に入ったとき、中は真っ赤で一瞬目がくらんだ。
教室の奥に誰かがいる。真っ赤な光の中に、オレのよく知っている人物の影が映えていた。
そこに彼女はいた。いつもはオレが座っている、窓際の一番後ろの席に腰掛けて、抜け殻の様にただ夕日に染まる中庭を眺めていた。
「美坂……何してんだ？」
「北川君、２週間ってこんなにも早いのね……」
美坂は振りかえらず、俺の質問にも答えなかった。でも、久々に美坂と『会話』したような気がした。
今だ。今しかない。いま、この時を逃してしまったら、きっと後戻りができなくなる。
「美坂、お前、最近おかしいぞ」
美坂に反応はない。俺の言葉には、ほとんど耳を貸していないかのようだった。
オレは構わず言葉を続けた。
「……美坂栞ちゃんの事か？」
オレは決心し、美坂に訊いた。きつく靴紐を結んで、一歩踏み出した。
「栞……って誰よ。あたしはそんな子知らないわ」
オレの問いに、美坂は答えた。
前に相沢が妹について質問したときも、たしか同じような言葉を返していた。
「知らないって、お前の妹じゃないのかよ？」
「知らないわ。あたしに妹なんていない」
「じゃあ、何にそんなに怯えているんだ？」
僅かに、美坂の肩が震えた。
「まさかお前、栞ちゃんから目を背けているんじゃないだろうな？」
栞ちゃんという子は間違いなく美坂の妹だ。
そして、これはオレの予想だが、何らかの理由で美坂は栞ちゃんから目を背けている。おそらく、彼女の病気……もしこれが不治の病で、彼女の命がもう残り少ないものだとしたら？
「何でそんな事をするんだ……意味のある事なのかよ！？」
オレは言葉を続ける。それは、美坂の心をえぐっていくものかもしれない。でも、ここで止めても何の解決にもなりはしないと確信していた。
美坂の表情が、真っ白な色からどんどん染まっていく。激情の色に。
「あんたに何がわかるっていうのよ！？」
「わからねぇよ！！」
オレも美坂も、声を上げて叫んだ。
「わからねぇよ……。オレは美坂の事も、栞って子の事も、何一つ知らない。彼女が一体どんな病気におかされているのかも、な」
病気、その言葉を聞いたときに美坂の瞳が動いた。そして、みるみる顔色が変わっていく。普段のポーカーフェイスの彼女からは、信じられないほど簡単な反応。それだけでも、美坂の狼狽ぶりが覗えた。
「だけど、今のお前は間違ってる。このままじゃ絶対にいけないって、どっちも幸せじゃないんだって、一番わかっているのは美坂自信だろ！？」
帰って来たのは言葉じゃなくて、張り手だった。乾いた音が誰もいないクラスに響いて、俺の頬が朱色に染まっていた。
そのまま美坂は、机の上においてあったカバンを持って走り去ってしまった。
夕日を浴びて走り去っていくその背中は、まるで泣いているように見えた。
オレが追いかけるよりも先に、美坂の背中はすでに見えなくなっていた。そうして、オレはその場に立ちすくんでいる事しかできなかった。
その後すぐ、美坂は学校を休んだ。
一緒に栞って子も、学校から姿を消した。
気にならないわけがない。でも、オレにできる事はもう何もない。チャンスはあったのに、オレはきっと何もできなかった。
それが、オレに残された痛みだと思った。見ているだけだったオレの罪。
それからしばらくの間は、相沢は茫然自失と学校生活を送っていた。水瀬さんが昼食に誘っても、気のない返事を返すだけの様だった。
そういや、オレもあの時は何日も昼飯食ってなかったな。
ただ何も知らないオレが、不器用な姉とその妹が仲良く笑っている姿を願っていた。それだけで、胃の中までもが重くなって何も喉に通る気がしなくなる。
正直、笑った。
なぜ、自分があの姉妹の事をここまで案じているんだろう。おこがましいのではないか？最後まで何もできなかった無力な自分は、彼女達を心配する権利すら無いんじゃないか？
自虐的な心。そうして自分を痛めつけて、少しでも傷付いて、美坂達と同じ痛みを味わいたかったのかもしれない。そうすることであいつらの苦しみが少しでもわかるのなら……って。
一週間もすると、相沢は少しずつだが元気を取り戻していった。水瀬さんと一緒に学食にいくようのもなった。深く傷付いた傷は癒えないけど、それを周りに悟られない様に隠す……まだ友人になって期間は短かったが、とてもあいつらしいことだと思った。
オレも一緒にと誘われたが、断った。
オレは心底、相沢って奴をすごいと思った。尊敬した。
あの子は相沢の恋人だった。普段の様子を見ていればわかる。あの子と二人でいるとき、二人とも本当に楽しそうだった。きっと一緒に笑って、一緒に街の中を歩いて、一緒に食事して……きっとそんな明るい日々を過ごしていたに違いない。
それが一転、彼女は学校から姿を消した。相沢の様子を見ると、最悪の場合も考えられる。その苦しみはオレの悩みの数十倍……いや、もっと上かもしれない。それなのに、もうあいつは笑う事ができる。痛みをたった一人で背負い込んで。
オレは弱い人間だ。
弱いから、自分に痛みを与えて、それで逃げようと思っている。
こうして振りかえるたびに、そう思う。
それから、美坂が学校に戻ってきた。先週の月曜日。もう春がすぐそこに迫ってきてからのことだった。中庭の雪も、雪解けでだいぶ姿を消した。
美坂は一ヶ月近く休んでいたが、高校側も寛大な処置を取ったらしい。学年成績トップの美坂の長期休業でこその判断なのだろうが。
久々に教室に入ってくるときも、普段と変わらぬ様子で、まるで何も起こっていなかったかのようだった。
「心配したよ、香里」
そう言って水瀬さんは美坂に駆けより、抱きついた。そこにその存在があることを確かめるように、強く、そして優しく。
「名雪……ごめんね、心配かけて」
「ううん。帰って来たんだからそれでいいんだよ」
水瀬さんは、それ以上何も聞こうとはしなかった。美坂から身体を離した水瀬さんは、きっと少し泣いていたんだと思う。窓際からその様子を見ていたオレには、真実はわからない。
「よ、香里」
「あ……相沢君」
相沢も、何事も無かったかのように美坂に挨拶をする。それには流石の美坂も戸惑った様子だった。
相沢は、美坂が帰って来たのを本当に喜んでいるようだった。
「あのね、相沢君」
「ストップ、それ以上言うな」
何かを言いかけた美坂を、相沢の声と掌が制止した。
「俺はあいつを信じて待ってるから。いつまでだってな」
「そう……」
美坂は俯いて、何かを言葉にした。それはオレの耳に届くはずもない。きっとあいつら二人は、近すぎてそれには気が付かなかっただろう。
オレは、そんなあいつらを少し外れた所から見つめていた。その時、顔を上げた美坂と目が合ってしまった。オレは無意識のうちにその目を逸らしてしまった。
足音が聞こえた。こちらに近づいてくる足音。
それはオレの机のすぐ前で止まった。
見上げると、そこには美坂がいて、「おはよう、北川君」と、微笑みかけてくれた。
だから、オレはその笑顔に縋った。もう一度、この笑顔をオレの前で見せてくれるのならそれでも構わないと思った。あのときは。
だからオレも微笑み返した。
「おはよう、美坂」
オレは、自分の弱さを認めた。
その日から、心が凍りついた様に動かなくなった。
朝から商店街を歩き回って、どのくらい時間が過ぎただろうか？腹の虫も空いてきた頃だから、もう昼時なのかもしれない。
歩いているだけでも色々な事がある。人とぶつかりそうになったり、石をふんずけたり、
それでつまずきそうになったり。女の人に声をかけられたりもした。もとよりそんな気も無かったし、第一そんな気分にもなれなかったのですぐに断った。そもそもオレは女の人と二人っきりで歩いた経験なんて、これっぽっちもない。
それから、オレはMDの音量を上げた。
さすがに歩いているだけというのも飽きてきたので、考え事をしていた。あの時の情けない自分について、もう一度おさらい。
それも終わってしまって、仕方ないので本屋やCD屋に行って、特に用もないのに中を見て回ったりもした。結局、それも長続きはしなかった。
そうして、今に至る。
正直腹は減っているが、何も食べたい気分ではない。
両手をブーツカットのブラックジーパンに突っ込んで、またただ単に歩き回っている。きっと今のオレは近寄りがたい存在だろう。
白いブーツは靴底と靴紐だけは黒。上着のジャケットはレザー製、中には黒一色の厚手のＴシャツを着こみ、首からは十字のネックレスをぶら下げている。右の人差し指には、装飾用のシルバーの指輪。
オレなりに、結構きめてきたつもりだ。理由なんて特にはない。なんでだか、そうしたい気分になった。ただ、それだけ。
商店街の中を見ても、もう雪はだいぶ少なくなった。何度もそう思う。雪国の長い冬も、いずれは終わりを告げる。永遠なんて存在しないし、願っても訪れる事のないあまりにも寂しい希望。
……明るさだけが取り柄のオレも、こうまでネガティブになるなんてな。何年ぶりだろうか？たぶん、オレ自身も忘れてる。
曲がり角を曲がると、いつも見なれたレストラン街。そもそも買い物する所の少ないこの街では、商店街の中でもそれぞれの店が同じ系列同士で固まっている場合が多い。この場所は食事所が密集している地域なので、一部の間ではそう呼ばれているのだ。今日はここ、明日はここ、という様に、客のローテーションでも狙っているのだろう。
相沢が来る前には３人でよく行った喫茶店の看板も見える。オレはその看板から目を背けた。
「……北川君！！」
後ろからオレを呼ぶ声がした。しかも、今一番聞きたくないと思っていた声で。
同時にオレの肩に誰かが手を置いた。
俺の胸が、ビクッと波打ったような気がした。
オレはゆっくりと振りかえる。目の前にはウェーブのかかった綺麗な長い髪の少女が、少しムッとしたようにオレを睨んでいた。
「よう、美坂」
オレはMDのスイッチを切る。イヤホンを耳から外し、両肩から下げる様に垂らした。
「よう、じゃないわよ。何度呼んだって気が付かないんだから」
美坂は、呆れた様に小さくため息をついた。
「……音漏れ、すごかったわよ」
「別に構わないさ。その位わかってた事だし」
「ふーん……」
美坂がニヤニヤと笑いながら、オレの体をまじまじと見つめる。
「随分きめちゃって……デートかしら？」
「別に、そんなんじゃないさ」
「じゃあ一体何してたのよ、ナンパ？」
「だぁから、違うって言ってるだろ」
淡々と否定する。オレには、いつものように笑いを取るための行動を起こすような気力は無かった。
「だったら、暇ってことよね？」
「まぁ、そういうことになるかな」
「だったら……ちょっとそこのレストランに寄っていかない？あたし、お昼まだなんだけど」
状況がいまいち呑み込めない。つまり、どういうことだ？
オレは僅かに眉をしかめた。
「別に、たかろうってわけじゃないわよ」
そんなオレの表情を見てか、美坂は微笑んでそう言った。
「悪いけど、パス」
「あら、どうしてよ？」
「オレはもう昼飯は食べたんだ」
そう言ったそばから、オレの腹の虫が鳴き声をあげた。
オレはしまったと思ったが、これだけは自分の意思でどうこうできる問題ではない。
「ふ〜ん……」
美坂がオレの事をジト目で睨む。
オレは背水の陣に立たされた。与えられた武器は……ない。
潔く、身投げするしかないだろう。
「だぁっ！！わかったよ、行く、行きます！！」
やけになって、オレはそう叫んだ。
美坂はしてやったりといった表情で笑っている。
「よろしい」
そうして、オレ達二人は並んで歩き出した。
そもそも美坂の事で悩んでいたが為にここに歩きに来たのに、ここで美坂にバッタリ会ってしまうなんて、偶然とは怖い物だ。
とにかく、今のオレにはもう逃げる手段なんてないっていう事だけは確かな事だ。
オレ達が入った店は、見た目も内装もどこにでもあるレストラン。全国にもチェーン店が結構あるらしい。強いて違いを言うのならば、メニューの中心がパスタ類である所ぐらいか。
オレ達二人は店員に先導され、窓際の一番隅の席に案内された。
席についてからも、特に大きな会話は無い。美坂はじっくりとメニューを見て選んでいる様だが、オレはサッと目を通しただけで立て掛けに置いてしまった。
「北川君、もう決まったの？」
窓からボーっと外を眺めていたオレに、美坂がそう問いかけてきた。
「ん、ああ。まぁな」
「そう、じゃあ店員さん呼んでもいいわね」
そう言うと美坂は、席についたまま近くにいた店員に声をかけた。ウエイトレスの女性は、慌てる様子と一つも見せずにこちらに向かってきた。
「あたしは、コーヒーとカルボナーラ」
美坂はウエイトレスに注文すると、手にしているメニューをパタンと閉じた。
かしこまりました、とウエイトレスは電子伝票にそれを打ち込む。
「北川君はどうするの？」
「オレは……オレンジジュース」
頬杖を突いて外を眺めたまま、気の抜けた声でそう言う。
「ちょっと、それだけ？」
美坂はあからさまに不満そうにそう言った。
それでも、オレは窓の外に向けた目を戻そうとは思わなかった。
「だから、オレは腹が減ってないんだって」
「ふ〜ん……まだ言うんだ」
美坂の顔を見ると、ジーッとオレの顔を睨みつけている。まるで相手のミスを探るチェスプレイヤーのようだ。
「そんな嘘、通るわけないわよ」
美坂が言い終えると同時に、オレの腹の虫が再び鳴き声をあげた。オレは頭が爆発しそうなほど恥ずかしくなった。
美坂は子悪魔のような薄笑いを浮かべ、オレの事を見ている。
「あと……ボンゴレ」
オレは再び窓の外に目を戻し、小さな声で注文した。
ウエイトレスはそれを書き留め、メニューを回収すると、軽く頭を下げて調理場の方へと姿を消していった。
「今日、あなた変よ？」
美坂がそう言った。
オレの事を気遣ってくれているんだろうか？正直、よくわからない。
「そうか？あんまりかわんないと思うぞ」
「それも嘘ね」
キッパリと、美坂はそう言いきる。なぜそう言いきれるんだろう？どうしてこうもオレの嘘は見破られてしまうんだろうか？
不思議でたまらない。
「……ねぇ、何で嘘ばっかりつくの？」
核心を突かれた……というより、当たり前の質問である。それでも、オレの心臓は一瞬大きく痙攣した。
一言前の気丈な美坂と違い、弱い一面というか、そんな顔をオレの前にさらけ出した。あの日の夕焼けが、頭の中に甦る。
「ゴメン、そんなんじゃないんだ」
美坂にそんな顔をされては、はいそうですなんて言える訳がない。
「ただ……」
「ただ？」
脳が体を制止する。言おうと思っていた事が、言えない。訊こうと思っていた事が、訊けそうもない。
「いや、相沢のやつは元気かなって」
「は？」
急に変な話題を出され、美坂はすっぽ抜けたような声を上げてしまった。
「……たぶん、元気だと思うけど」
律儀にも、答えてくれた。
「そっか、ありがとうな」
「それがあなたの様子と何か関係あるの？」
「ん、いや、ふと気になっただけ」
いまだに気のこもっていないオレの発言に呆れたのか、美坂が大きくため息をついた。
「今ごろ、きっと遊園地よ」
「遊園地？」
「そう」
美坂はコップに入った水を、一口飲んだ。
「栞と一緒にね」
そして、少し……でも心底嬉しそうにそう言った。
オレの思っていた通り、栞ちゃんは美坂の妹だった。
オレが全てを知ったのは、美坂が学校に戻ってきた当日。その日、相沢と栞ちゃんも涙の再開を果たした。
偶然見かけた中庭での再開シーンは、まさにドラマ顔負けだった。
五人で中庭に集まって、二人は真実を全てオレ達に話してくれた。もっとも、重苦しい雰囲気ではなく、あくまで思い出話として……だ。
彼女が侵されていた病魔は、やはり不治の病だったそうだ。確か、白血病の一種だとか言っていた気がする。それが完治した……それも、こんな短期間でというのは、医学界でも例を見ないと言われたそうで、奇跡とまで言われたそうだ。栞ちゃんは少し自慢気にそんな事を語っていた。おかげでこれからも沢山の検査を受けさせられるらしいが。
栞ちゃんは長期休業のため、もう一度一年生をやり直すそうだ。まぁ、それも仕方のないことだろう。相沢の言った冗談に、栞ちゃんは何度か頬を膨らませて拗ねている場面もあった。
それとどうやら、水瀬さんと栞ちゃんは前に面識があったらしい。一緒にイチゴサンデーを食べに行く約束をしてたりもしていた。
和解した姉妹と、彼女達の為に屈力した人達の微笑ましい光景。それは、オレが入るには眩しすぎて、その中に入ったら影のようなオレはかき消されてしまいそうだった。
だから、オレはその四人の中に入るのが怖くなった。良く取れば自責の念。悪く取れば臆病者。オレはきっと後者だ。
「ほんと、よかったよな」
オレは精一杯微笑んで言ったつもりだが、逆に自嘲的な笑みになってしまったかもしれない。
「ええ、本当に」
美坂は瞳を閉じて、大切な何かをそっと抱きしめるように、その両手を自らの胸にそっと添えた。
「あのとき程嬉しいと思えたときはないわ。それだけで、生きていてよかったと思えるくらい。ううん、あの時だけじゃない。きっと、これからもずっと」
開かれたその両目は、流れ落ちそうな涙を堪えている。悲しみではない、心からの喜びの涙。
「そして、奇跡って願えば起きてくれるものって思えるようになった」
溢れた涙が一滴、頬を伝って流れた。
「美坂……」
「あ、ごめんなさい」
「バカ、我慢する必要ないだろ。そういう涙は」
「……うん、ありがとう」
美坂は頷いて、そう言った。
「でも、あと一つ、問題が残ってるのよ」
「まだ何かあるのか？」
特に引っかかる所はないと思うが……一体なんだろうか？
「あなたの事よ」
「オレ？」
思わず自分を指差してしまう。
「そうよ」
キッパリと美坂は言い切った。
「あなた、最近あたし達の事避けてるでしょ？」
両腕を組んだ美坂の視線がオレを捕らえる。
「学食に誘っても満腹で来ない、帰りにどこか寄っていこうって言っても用事があってこない。挙句の果てに掃除までサボってどこかへ行っちゃうんだから、怪しいと思って当然でしょ？」
「う……」
訊かれるのは当然の事なのだろうが、いざ訊かれてみると返す言葉がない。そもそもそんな事など考えていなかったのが致命的だ。
オレは黙って俯くしかなかった。
「あたし達の事、嫌いになったわけ？」
「違う」
か細い声で、美坂は言った。
でも、それだけは違う。今のオレでも、それだけはハッキリと言える。
「じゃあどうしてよ？本当のことを言って」
心配そうな顔でオレの事を見てくれている。オレの事を案じてくれている。
オレは、自分が恥ずかしくなった。そして、美坂に全て話す決心をした。
「相沢ってすごいよな」
「また相沢君？」
「そう。相沢」
美坂は怪訝そうな表情で、俺の顔を覗きこむ。
オレはどんな表情をしているんだろう？思いつめた顔？それとも、爽やかな、全て吹っ切ったような顔？
オレには知る術はないか。
「近くにいてわかったんだ。あいつはすごい。周りの人への気配りも、人のために尽くせる積極性も、優しさも……どれを取ってもオレより上だ。オレは美坂のそばに２年間もいたっていうのに、お前が苦しんでるとき、何もしてあげられなかったもんな」
自分で言って自分の胸が締め付けられた思いがした。
美坂の表情が、段々と哀れみだろうか……そんな色に染まっていく。
「なんだか、惨めな気分になるんだよ。役立たずだった自分が。相沢を見ていると……美坂達四人の輪の中に入っていくと」
「そ、そんな事ないわよ！」
オレが言い終わるのと同時に、美坂はいつもらしくない強い口調でオレに言った。
不意を突かれたオレが目を丸くしていると、美坂ははっとした様に俯いてしまった。
「そんな事ないわ……」
今度は、呟く様に言った。
「ねぇ、あの日。放課後の、夕焼けが綺麗だったあの日、憶えてる？」
オレは多少戸惑いながらも、頷いた。
忘れられるわけがない。あの日の事は。
「あの日、あたしがあなたに言った事、ほとんど憶えていないの。でも、あなたが言った事は全部憶えてる。だって、全部本当の事だったから」
「……本当の、事」
胸の鼓動が早くなるのを、オレは感じた。
美坂は瞳を閉じて、言葉を紡いでゆく。
それは、オレへの救いの言葉。
「そう、本当の事。あたしが栞から目を背けていたのも、それが最悪の選択だって心の奥底では気付いていたってこ事も、全部本当の事だったの。あの後あたし、よく考えたの。あなたの言ってた言葉について」
美坂の、その言葉を聞くたび……
「役立たずなわけないわ。だって、あなたの言葉のおかげであたしは栞と向き合う事ができたんだから」
オレの胸に張りついていた氷塊が……
「あたし、あなたに謝りたかったの。でも、あたしが帰って来たときにあなたは笑いかけてくれた……。だから、あたしはずっと逃げてたの。このままでもいいんじゃないか……って」
まるで春を迎えて、新しい命を生み出す糧になるかのように……
「でも、きっと本当はお礼を言いたかったんだと思うわ。だから、ありがとう。北川君」
ゆっくりと、解けていった……。
「美坂、オレってお前の役に立ててたんだな……」
「もう、今言ったばっかりでしょ」
仕方ないといった風に答えるその仕草は大人びていて、やっぱり『お姉ちゃん』をやっているんだなって思った。
そして、オレは美坂の顔を見る。
「お礼を言うのはこっちの方……かもな」
「あら、どうして？」
美坂が微笑んで答える。
「ん〜……秘密だな」
「あ……」
「ん、どうした？」
「やっと笑ったわね。いつもの北川君みたいに」
自分でも気が付かないうちに、いつものオレのように笑えるようになっていたらしい。
そんなオレの事を、美坂が嬉しそうに眺めてくれる事が少し嬉いと思った。
「うん、やっぱり北川君はそうやって笑っていた方があなたらしいわ」
「やけにハッキリ言うな……オレってそんなにお気楽な奴に見えるか？」
「そうじゃなくて、笑顔が似合うってことよ。相沢君も名雪も心配してたんだから、後でちゃんと謝っておきなさいよ」
「あ、ああ」
確かに、あいつらにも心配をかけてしまっていたのだろう。あいつら、いいやつだから自分のした事をきっと許してくれるだろうが、そうしたら自分に対して腹立たしくなりそうだ。結局、オレの独り善がりだったって事か。
「それに、もっと自分に自信持ってもいいと思うわよ。だって、あたし達の事でこんなに悩むなんて、十分優しいって証拠じゃない。あなたが周りに気をつかっているって証拠よ」
「……本当か？」
「……でも、積極性はもっと必要かもね」
美坂は、唇に人差し指を置いて、最後に付け加えた。
「積極性が足りないって……どういう事？」
「言葉通りよ」
「わかんないから訊いてるんだけど……？」
「北川君があたしにお礼を言った理由、聞かせてくれたら話してもいいけど」
美坂はそう言うと、ニヤニヤと不敵な笑いを浮かべ始めた。
自然と胸の奥の方が熱くなって、冷や汗が吹き出そうになる。今のオレには、残念ながらこっちを告白する勇気はないらしい。
「う……だったらいいや」
「あら、そう……」
美坂は少し残念そうにそう言った。
そして最後に少し、唇が動いた。何かをいったようだが、オレには聞こえる事がなかった。
「美坂、なんか言ったか？」
「……何にも言ってないわよ」
答える美坂の声が、少し不機嫌そうに聞こえたのはオレの気のせいだろうか？うん、きっとそうなのだろう。
「ところで、北川君。この後暇なんでしょ？」
「まぁ、一応な」
「だったら、これからあたし買い物に行かなきゃいけないの。付き合ってよ」
「……へ？」
あまりに唐突で、意外な出来事だった。
オレは間の抜けた声を出してしまった……らしい。
オレが思うに、これはきっと『でいと』の誘いというやつ……なのかもしれない。
「せっかくいい格好してるのに、もったいないわよ」
「……そうだな。行くか」
「そうそう」
美坂が微笑んで答えた。
『クールビューティー』美坂香里からの誘いなんて、そうそうあるものではない。
そもそも断る理由もないのだし、一緒にショッピングができるなんて願ってもないことだ。
「それより、美坂」
「ん、なに？」
「急に腹が減ってきた……追加でなにか注文してもいいか？」
美坂は呆れたような表情を一瞬見せると、特大のため息をついた。
オレは何かまずい事を言ったんだろうか？
美坂は熱でもあるかのように、額に手を置いてうな垂れてしまった。
「やっぱり北川君って……」
「オレって、何？」
「バカ」
「バカ！？」
美坂の言葉に、いつも通りの大きなリアクションで返した。
そうして、久々に二人して笑い合った。
「もうこんな時間ね」
二人で川沿いの道を歩く。気付けばもう日も落ち始めていて、その真っ赤な夕日はやっぱり眩しかった。
レストランを出た後、オレ達は電車に乗ってちょっとした都会の方まで出ていった。美坂が、どうしても買わなきゃいけない物があるだのなんだので……。何を買うんだと訊いても、結局その時は教えてくれなかったが……。
「まさかあそこまで行って、買ってきたのがアイスだなんてなぁ……」
「うるさいわね、仕方ないでしょ」
美坂が手から下げているビニール袋……そこには、ある有名（らしい）アイスクリーム店の名前が印刷されている。さらにダンボール箱に入っている上に、ドライアイス付きだ。買った数も半端じゃない。普通に２桁を超えていた。２０個位だったかもしれない。なんでも、普段から纏め買いをしているのでこれくらい普通だそうだ。
栞ちゃんのアイスクリーム好きは聞いていたが、まさかこれほどとは……。なんで美坂がお使いに行く羽目になったのかを聞いても、それも答えてくれなかった。
どうせ、栞ちゃんの気に障ることをつい言ってしまったんだろう。胸が小さいとか、中学生にしか見えないとか、留年とか……小さな姉妹喧嘩ってやつかな。それで、栞ちゃんが拗ねちゃったんだろう。シスコンだな、美坂。笑えるぞ、まったく。
「ちょっと、何がおかしいのよ」
「ん〜、いや、美坂って優しいんだなって思って」
「な、何よ急に。バカじゃないの」
美坂はプイっとオレの方からそっぽを向けてしまった。
結局、アイスを買ったのは一番最後。それまでは街中を一緒に歩いたり、ウインドウショッピングをしてみたり……オレはその最中、ちょっとした緊張していた。けど、段々リラックスしてきて、本当に楽しかった。ちょっとした『デート』気分だったのかもしれない。
周りから見たオレ達は、その目にどう映ったんだろう？仲のいい友達？仲のいい兄妹？それとも、仲のいい恋人……だったらいいなぁ。
「美坂、よく笑うようになったと思うぞ」
「そうかしら……自分ではよくわからないわ」
「なんていうか、心から笑ってるようになった」
「そうね……そうかも」
これまでの、栞ちゃんの病気が完治する前の美坂は、水瀬さん以外の人をどこか避けている節があった。もちろん、オレも含めて。
笑っていても、仮面をつけているような、無理をしているような……何とも言えないような雰囲気を持っていた。
「あたし、弱くなっちゃったのかも」
美坂はオレを見て、微笑んで言った。
ヤバイ、胸がドキドキしてる……。
「お、女の子なんだから弱くってもいいだろ、別に」
「あら、北川君の口からそんな言葉が出るなんて、意外ね」
美坂がオレをからかうような口調で言った。
オレは気恥ずかしくなって、美坂から目を逸らしてしまった。
「支えっていうのかなぁ……よくわかんないけど」
美坂はオレより一歩前に出て立ち止まった。オレも同時に歩くのを止める。
両手を後ろに回して、振りかえらずに言い出した。
夕日に照らされたその背中は、前とは違って見えた。
「前までは、あたしが栞を守らなきゃいけないとか、しっかりしなきゃいけないとか思ってた。……あの子から目を背けていたときも、自分を追い詰めていたんだと思う」
「美坂……」
「でも、今はそうやって自分を厳しく追い詰める理由なんてないから……」
「バカ、その方がいいじゃないか」
美坂は振りかえらないで、その場で首を横に振った。
「だめよ、あたし弱いもの。でもね……」
美坂は振りかえって、
「新しい支え、見付かりそうだから」
微笑んでそう言った。
「新しい支え……？」
「そうよ」
「それって……」
夕日のせいか、真っ赤になった美坂は俯いてしまっている。
そうか、やっぱりそうだったんだな。これはもう、間違いない。
認めたくない。けど、受け入れるしかないんだ。
オレは自分の上にどこまでも広がっている空を見上げた。
「相沢の事……か？」
「は？」
美坂の表情が一瞬にして凍りつく。
「あんた……バッカじゃないの！！」
大きく前のめりに上半身を突き出して、美坂はオレにそう一喝した。これこそ、普段は絶対に見られない美坂香里の姿だ。オレはその気に圧されて、２、３歩後ずさった。
オレとしてはとても嬉しい答えなのだが、何故に美坂が怒っているのかがいまいち理解できない。オレが何かまずい事でも言ったか？
「うわっ、なんだよ違うのか？」
「あったりまえでしょ、バカ！！相沢君は栞の恋人なのよ。何でその人を支えにしなきゃいけないわけ！？」
「ああ、そうか。それもそうだな」
言われて初めて気が付いたが、よく考えればそうだ。
まさか、妹の恋人を奪うなん事をこの姉がするわけがない。
「それに、相沢君には感謝の気持ちはあっても、恋とか好きとか、そういう気持ちはないわ。確かに頼りにはなるけどね」
その言葉を聞いて、何やら最後の胸のつかえが流れ落ちた気分だ。
実に晴れ晴れしい……って気分。
「そっか……」
美坂の支えか……
オレはなれるかな、美坂の支えに。頼りにしてくれるかな、オレの事。
「美坂、オレでよかったら、いつでも寄りかかってきてもいいからな」
「え……」
真剣に言ってから、やっぱり気恥ずかしくなる。
とにかく破裂しそうで、オレは仕方なく自分の頭をポリポリと掻いた。
「その、水瀬さんもいるし、美坂は一人じゃないんだから……」
「うん、そうね。でも……」
「でも？」
「ここ一番って時は、北川君にお願いするわ」
笑顔で言われて、やっぱりオレの胸は高鳴ってしまう。
美坂は、やっぱり人をからかうのが好きなんだと思う。うん、間違いないな。
「あ、ああ……オレでよければ大歓迎さ」
「ふふ、ありがとう。北川君」
そうして、オレ達はどちらからという訳でもなく、再び歩き始めた。
夕焼けに染まった美坂の横顔は、いつもの『綺麗』って感じじゃなくて、どこか『可愛らしい』ようなものに見えた。
美坂が一人の女の子に戻った。それはオレの力でじゃないけど、これからもそうあり続けられるように……オレはこいつが悩んでいたら、自分の力を出しきって、絶対もう一度こいつを笑わせてやろう。
そして、オレは美坂が選んでくれるような男になってやろう。
「北川君」
不意に、美坂が俺を呼んだ。
「あたし、夕焼けが好きになったわ」
家屋の形をくっきりと残した地平線に落ちゆく真っ赤な太陽を眺めて、美坂はそう言った。
「急にどうしたんだよ」
「ほんと、急にどうしちゃったのかしらね」
「おかしなやつだな」
「あなた程じゃないけどね」
「どう言う意味だよ？」
「言葉通りよ」
でた、本日２発目の必殺技『言葉通り』。この言葉の恐ろしさは、本人しかわからない道理にしか沿っていないということだ。本人からすれば言葉通りだが、聞いているほうからすれば何の事やらさっぱり……という事態も多々ある。今のオレも同じ状況だ。
「ま、いいか。今日は美坂の意外な一面を沢山見る事ができたしな」
「意外な一面って、例えば？」
「辛い物が全くダメなとことか」
「う……あれは仕方がないでしょ。ダメな物はダメなんだから」
美坂は急に小さくなってそう呟いた。
あの後、レストランでオレが追加注文したチョリソー（唐辛子や香辛料の沢山入っている、辛いソーセージ）を一本わけてくれと言ったのが美坂の運の尽きだった。
それを食べた瞬間、大噴火。顔を真っ赤にして噎せ返り、コップの水を飲み干してもおさまることがなかった。涙目で何度も水を店員もらっている姿は、普段の彼女のイメージを壊してしまうには十分過ぎる威力があるだろう。
オレはその姿を必至に笑いを堪えながら眺めていたっけ。だってチョリソーったって、そこまで辛いわけじゃないんだぜ。実際オレだってそんなに辛いとは感じなかったし。
まぁ、オレはそういう美坂の方が好きだけど。女の子っぽくて。
「あ、あたしこっちだから」
川沿いの曲がり角で、美坂はオレにそう告げた。
「ん、そうか」
「今日は本当に楽しかったわ」
「こちらこそ、ありがとうな。美坂」
微笑んでそう言った美坂に、オレも笑顔で返した。
「あの……」
「ん、なんだ？」
「……その、えーっと……」
やけにモジモジしている……。何か恥ずかしい事を言おうとしているような。
まさか、オレのズボンのチャックが開いているとか！？
心配になってさりげなく確認してみる。うん、ちゃんと閉まってるな。
じゃあ一体なんだ？オレは美坂の口が開く、その瞬間を静かに待つ。
そして、美坂が思いきって何かを口にした瞬間、オレ達の後ろをバイクが横切った。マフラーを切って爆音を発しているバイクが。
この街にもまだあんなバイクに乗っている奴がいたのか……。
それはともかく、なんと素晴らしくいいタイミングだろうか。まるで狙っていたかのようだ。おかげで、オレは美坂がなんて言っていたのか聞き取ることができなかった。
「なんだ、あのバイク。こんな狭い道をあんなに飛ばして……危ないなぁ」
「は……」
美坂は脱力したようにその場にペタリと座り込んでしまった。
そして、大きくため息をついている。ひどく落胆している様だ。
「どうしたんだ、美坂？」
「……なんでもないわよ」
それにしては、やけにぐったりしているような……。
「ところで、さっきなんて言ったんだ？」
「やっぱり聞こえなかったのね……」
美坂は重そうにその体を起こした。
それにしても、さっき美坂が言っていた事がどうしても気になる……。
「なぁ、なんて言ったんだよ？」
「……別にたいした事じゃないわよ。またいつでもあなたに伝えられることだから」
「そうか……？そうなのか」
いつでも伝えられること……。どういう意味だろうか？
まぁ、美坂と話す楽しみが増えたと思って気長に待つとしようかな。
「それじゃ、また明日、学校でね」
「おう。また、明日な」
オレ達は笑顔でそう言って、それぞれの帰路についた。
帰り道を一人歩く。
もう真っ赤な太陽もほとんど地平線の影に落ち、代わりに天からは夜の帳が張られ始めていた。まだ薄いお月様は、今夜は自分の身体全てでこの地上に優しい光を届けてくれるのだろう。 とりあえず、明日相沢達になんて謝ろうか考えている。
素直に一言、『心配かけて悪かったな』って言えば、あいつらは今までの事なんて笑い飛ばしてくれるだろうな。いいやつらだから、本当に。
そして、四人と新しい一人を加えて、また楽しく昼飯を食える。
よく考えれば、こんなに嬉しいことはない。
空を見上げる。空に浮かぶ星達は、今日も元気に輝いてくれている。
立ち止まり、腰のベルトに下げてあったCDポーチに手をかける。
チャックを開いて、しまっていたMDのイヤホンを取り出した。
端末をジャケットの襟の所に引っ掛ける。
イヤホンを両耳まで引っ張り、そこに引っ掛けた。
再生すると、昼の間に聞いていた、ピアノのゆっくりとした旋律が切なさを醸し出す曲が流れ始めた。
オレは端末を手に取り、選曲を開始する。
あの曲がいい。あの曲にしよう。
明るい電子音が耳に聞こえる。オレは目的の曲の所でその手を止め、再び端末を襟に引っ掛けた。
曲が流れ始める。オレの大好きな曲が。
切れのいいギターの音が、気分を明るい物に変えてくれる。英語の歌詞で、とても素直に元気になれる。身体が踊り出すような音楽だ。
今聞かずして、いつ聞けというのだ。
音量を上げよう。音漏れしたって構わない。
オレは頭上の星々に向かって大きく背伸びをして、再び歩き出した。
もうすぐ、遅い春が来る。
オレにも春が来るといいなと思ったら、最後に見た美坂の笑顔が頭の中で重なって、顔が急に熱くなってしまった。
「This is my life……か」
ふと、今流れている歌の歌詞を呟いてみる。
人生、躓く事もあれば、ステップを踏み間違える事もあるだろう。
それでも、今なら踊りつづけていたいと思える。自分のベストを尽くして……
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