絡まった指からたゆるわずかな体温。その温かさに触れて、俺は少し大人になったような気がしていた。小さな女の子の、ちょっとはにかんだ幸せそうな笑顔。冷たい空気の中で、小指の周りと笑顔の周りだけが１．５割増しぐらいで温かくて。多分、その周りだけはタンポポだって咲けただろう。
嘘ついたら針千本飲ます。そう言いながら腕をぶんぶんと２，３回振った。この前針千本は動物で、それは約束を破って針を千本飲まされた人間の悲しい末路なんだ、なんて怖がらせたのはすっかり忘れた様子。だったらもう一度言ってやろう。どうせ機会はあるだろうし。そんなことを考えて、でもそれもこの暖かさに比べたらどうでもいいことだった。
雪が降っていたけど、もうあまり気にならない。ただその約束と、この少女のことだけを考えていたかった。
花火は空に、君は地上に
軽く髪をなでると、いつも通りのさらりとした感触が伝わってきた。わしゃわしゃ、と少し力を入れてみれば、それは滑らかに形を変える。窓から差し込む光が、熱を持っているような気がしてならない。お馴染みの景色は、相変わらずお馴染みのままだ。
（うぐぅ。そんな強くしないでよ）
聞こえない声は、耳元で強く俺の脳を打つ。お馴染みになった胸の疼きが、また一つ鼓動を伝える。病室の止まった清潔な空気はやはり自分向きじゃない。穏やかな景色は、何か人間を拒絶しているような気さえする。飾ってある花が、陽の光でやさしく笑っていた。
『眠っているように見えるでしょう』
秋子さんに連れられて行ったとき、医者は眼鏡を上げながらそう言った。
『そう、確かにただ眠っているだけです』
白い壁に、白い白衣。秋子さんと俺は普段着。
『何も異常は見つかっていません。手術は成功していますから』
外は晴れていた。こんな日には雨が似合う、と思っていたのに。
『何か、起きたくない理由でもあるのかもしれませんねえ……』
少しため息が混じっていた。俺も秋子さんも、黙って白衣を見つめていた。
「朝強いんじゃなかったのかよ……」
一日に一回は病室に来て、花をやったり掃除をしてみたりしている。掃除なんて病院の役目だけど、でも俺はそれをしている。それは意識的にじゃなくて、ただ、なんとなく。
「眠り姫は、王子様のキスで起きるもんだぜ」
あまり色が良くない唇は、だけどあゆの温度がした。顔を上げたあと、期待と別の何かでどきどきした自分が、とても腹立たしかった。あゆの頬に俺の涙が落ちて、それがあゆが泣いているみたいに見えて。それがやるせなかった。
病室の温度は、それでも温かかった。
「あれ、相沢また来てないの？」
始業チャイムの音と同時に入り込んできた北川は、鞄を放り投げながら誰ともなく言った。前の席の住人とは、最近話す機会がめっきり減ったようだ。
「みたいね。今週もう二回目かしら」
そのとなりで頬杖をつく美坂香里は、不機嫌そうな顔を隠そうともしない。それが北川には少し不思議で。
「どしたんだ美坂。なんか凄く荒れてるな」
じろり、と香里は北川を睨む。ヘビがカエルを睨むように北川を黙らせて、香里は目線でそれを知らせる。それを追って北川も、香里が不機嫌な理由に気付く。ああ、と吐き出す息は、ため息に近くなる。
水瀬名雪が座っていた。いつもの明るさもなく、ただじっと俯いて。髪の毛は水を一月あまり貰えなかったチューリップのように、空気は鉛の球のように。誰が見たって落ち込んでると分かる、そんな姿だった。
「相沢くんは何してるのよ……」
小声で、でも語気を鋭くして言う香里の声を、北川は耳の真横で聞いていた。
最近、よくここへ来る。確かに授業をサボってまで来る場所じゃないけど、それでも足が自然とそこへ向いてしまう。春先のくせに寒い空気と、ポケットの中の温かさ。吐く息はいまだに白い。
切り株は相変わらず少し霜が降りていた。それを手袋をはめた手で２，３度払って、そこにゆっくり腰を下ろす。あゆと俺との学校は、今日も穏やかにそこにあった。太陽はまだ東の方にあった。
透き通るような空気。それが俺の心を突き刺す。昔のあゆの笑顔と、今のあゆの笑顔が蘇ってくる。いやに鮮明なそれらは、俺の中から外側に出ようともがいている。声となって、涙となって。ここに座っていたって何もならないなんて分かっているのに、それでもここに来てしまう自分。ここで昔のあゆを感じようとしているなんて、それは。
「……ったく、最低だな」
一人言って、それがあまりに救われなくて。少し唇をゆがめて、俺は笑った。
何故かそれはほっとする空気。あたしはそれに気付いていて、やはり不愉快な気持ちになる。頭がそれに反応した時だけ、ぎゅっと顔をしかめることにしている。病院の匂いが好きなんて、年頃の娘らしくない。
長い期間の妹の闘病生活。あまりに長いその時間は、あたしを病院の空気に慣れさせるのには十分すぎた。弱々しくなる妹に、それでも変化をしない病棟。妹が息を引き取った時に、少しだけほっとした自分も確かにいたのだ。９０％以上の悲しみの中にある、いくつかの不純物。人間の汚さをその身にのせて。
その時を思い出すたび、あたしは暗い気持ちになる。いやらしい、最悪な思考。だけど、死に至る栞を直視し続けられるほど、あたしは多分、強くはなかったのだろう。妹がいない日々を、今はゆっくりと受け止めている。それがまるで自然であったと信じられるほどに。そしてそんな自分に、強く寂しさを感じている。
あたしをあたしに戻したのは、多分北川くんだ。栞が死んで、開放された、なんて気持ちが自分にあることに気付いた時。自暴自棄になりそうだったあたしのそばに、彼はいつでもいてくれた。じっと話を聞いてくれたし、笑ったり怒ったりしてくれた。こんなあたしのことを、好きだとか言ったりした。だからあたしは、今栞がいなくなった病院の中を、いくつかの謝罪と望郷を通して見つめられるのだろう。
我ながら自分勝手。でも、もうそれを否定してくれる人はいない。栞はもういないんだ。やめよう、今は風邪を治すことに集中しよう。そんな逃げを打って、あたしは少し急ぎ気味に角を曲がった。
そして、そこで思いがけない人物を目にした。
友人よりも少し薄めの青が、歩くたびに軽く揺れている。もっとも病院から縁が薄そうに見える後ろ姿は、なぜかいつもよりも小さく見えた。
「秋子……、さん？」
自分の声に振り向いたのは、やはり見知った、友人によく似た顔。水瀬秋子は、相変わらずの人を安心させる笑顔でにっこりとあたしに笑いかけた。
「あら、香里ちゃん。誰かのお見舞い？」
「あ、いえ。なんか、風邪引いちゃったみたいで」
「そう、それはお大事に」
少し走って横に並ぶ。あたしの視線の先で、秋子はいつもの笑みを浮かべている。でもそれは、どこか自分には見覚えのある笑みで。
「あの……」
「はい？」
「秋子さんは、誰かのお見舞いですよね」
そこで出てきた表情で、あたしには納得がいった。一時期、鏡の向こうでよく見た表情。心配、不安、僅かな希望。それらが綯い交ぜになった、それでも笑っている顔。
ただ、その不純物が少ないのはさすが秋子さんなのだろう。自分には、それしかなかったのに。それが少し不満で、それでも少しほっとしていた。
「ええ、知り合いの女の子が、ちょっと」
頬に手を当てて、少し首を傾ける仕草。でも、あたしにはその向こう側が透けて見えた。向こう側にいる自分の分身が、見えた気がした。
「……秋子さんの、大事な人なんですね」
笑みが、少し悲しかった。
水瀬家の空気は最近重い。重くしている原因が自分というのは分かっているけど、でもどうしようもない。子供の頃の思い出を、無責任にもすっかり忘れてしまった自分。それに気付いた以上、そう簡単には今まで通りの生活なんてできない。
名雪の視線が怖くて、最近では見つからないように部屋に篭ることが増えた。名雪の行為を無下にして、そのことさえ忘れていた。選んだはずのものを７年間もほったらかしておいて、正面から見据えた現実が辛すぎて。学校が終わる直前の時間に、滑り込むように玄関から家に入った。
何も出来ない自分が歯がゆい。眠り続けるあゆを見るだけしか出来ない自分が憎い。自分が原因なのに、７年も見捨てていたのに、今さら。そう、こんなのは苦しむフリじゃないのか。何も出来ない、何もしていない。
気付くと電話が鳴っていた。いつのまにか居間にいたらしい。こりゃ本格的にヤバいかな、と苦笑いして、俺はけだるく受話器を取った。
「もしもし、水瀬ですが」
「相沢か？ 俺だ、北川」
聞きなれた声が耳に飛び込んできた。普段の明るい声。いつもはほっとするような声だけど、今回は妙に頭に響く。
「……どうした？」
無意識に硬くなる声。しかし北川は気付かないのか、そのままの勢いで喋り続けた。
「ああ、お前最近学校休みがちだろ。だからさ、様子を見て来いって石橋がな」
水瀬に聞きたくても、なんかあいつも切羽詰ってるみたいだから。そんな声が、じわじわとマイナスに変換されていく。明るい、が脳天気、に。軽い、に。
「……別に変わらない。ちょっと、疲れてるんだ」
「そっか。まあ元気出せよ。俺たちも来年受験だ……」
何も言わず受話器を置いた。もう限界だった。受話器を置いたまま暫くそのままの姿勢で、自己嫌悪の渦に巻き込まれていく。北川は何も知らないのに、何も悪くないのに。
今日も赤い夢を見た。うなされることを少し期待している自分に気が付いて、さらにうなされた。
「ねえ、名雪」
学校には来ているが、魂はどこかに置き忘れてしまったような名雪。友人のそんな姿を見るのは、あたしはもう嫌だった。それは、いつかの自分を見ているようだったから。
「ん？ どうしたの香里？」
少し窪んだ瞼、いつもの張りがない肌。それでも笑う仕草は、親子だからかよく似ていた。
似なくてもいい。そんなのはなくてもいい。心底、そう思った。
「正直、今のあんた見てると、あたしも辛いの」
辛い時は辛いって、言えられればいいのに。
「あたしは、名雪が、あんたが辛そうにしているのは嫌」
そして、自分ももう少し素直だったら、って思うけど。
「だから、今日は帰さないわよ」
少し面食らった顔の名雪に、あたしはにいっと、少し北川くんのまねをして笑ってみせた。
家中に大きな音が響いていた。暗い部屋にいた俺の覚醒を促すような音は、さっきから連続して響いている。どんどん、どんどん。それが玄関のドアをたたいている音だと気付くのに、暫くかかった。
「おらおら、出て来い相沢！！」
聞き覚えのある声が叫んでいる。大きな音でドアを叩きながら、近所迷惑など考えない大声で。
「さっさと出てこないと、俺の燃え滾る魂がこの扉をかち割っちゃうぜ〜！！」
喋っていることはおちゃらけているけど、でも本気なんだろう。響く音は、そのまま家を壊してしまいそうなぐらい大きい。何を考えているのか分からないけど、それでもドアを開けないとまずいようだ。少し痛む頭で階段を下りて、ドアの前に立った。
相変わらず音と声は鳴り響いている。声も続いている。開けたのは、もういいや、と思ったからかもしれない。扉の向こうで北川は、いつものように笑っていた。
「人の話は最後まで聞くもんだぜ。教えてやる」
そしてその笑みのままで、北川は思い切り両腕を広げて。
バシーン、と大きな音がするぐらい、俺の両頬を引っ叩いた。両手で顔を挟むようなそれは、頬だけじゃなくて脳の方まで衝撃を伝えてきた。ぐるん、と揺れるような、妙な肌触りが、頭の芯の方まで響いていた。
北川はにやりと笑っている。今更のように頬から熱さとか痛さとかそういうのが伝わってきて、ようやく北川の顔が見えた気がした。その向こうの青空とか雲とかも、見えた気がした。だから、俺もちょっと笑った。
青空を雲が泳いでいる。ずっと見ているより、たまに見た方が雲の形の変化は分かる。でも、じっと見ていて、雲が変化しているのを後から楽しむのも、それで１つの見方だろう。
屋上で名雪と食べた昼ごはんは、ちょっと湿っぽい味がした。購買で買ったパンの味は、今日だけは違っているように思えた。
「……なるほどねえ」
ずっと思いを寄せていた男の話。幼い頃に好きな子に怪我をさせた男の話。そして今も目覚めないその子への、届かぬ思いを募らせる男の話。
「思ったより、複雑なのね」
そしてその男が好きな名雪は、俯いたままで頷いた。あたしが買って来たパンは一つだけしか開封されていない。名雪の具合の悪さが、改めて確認できた。
「祐一、ずっと辛そうにしてる」
パンを見ながら名雪は言う。その大きな目からは、曇りの太陽のような光がしている。
「わたし、また見てることしか出来なくて」
ごめんね、心配かけて。そう言って名雪は、見ているほうが辛くなるような笑顔を見せた。それは、病院で見た秋子さんの笑顔に少しだけ似ていて。やっぱり親子ね、と少し思って、あたしも栞のような表情をしていたんだろう、と感じて。それじゃやっぱり、ダメだ。
「……ねえ名雪。今から遊びに行こう」
怪訝そうに顔を上げた名雪を横顔で感じて、あたしは携帯電話をポケットから取り出した。
「ここ、いいだろ」
暫く歩いて着いた場所は、少し小高い丘の斜面。だいぶ雨は降っていなかったので、下草はよく乾いている。そこに北川はどっこいしょ、なんてわざとらしい掛け声を出しながら腰を下ろした。
「小学校の遠足とかで、よくここで弁当食ったっけなあ」
呟いて、両手を腰の辺りに置いて身体を支える。そのまま北川はぐっと体を後ろに倒して、後ろに突っ立っていた俺を逆さに見た。
「鬼ごっことかすると、なかなか見つかんなくてな。一人足りなくて探してたら、そいつは家に帰った後だった、なんてこともあったよ」
そのまま逆さの笑顔で俺を見る。春先の太陽の光が、青空の向こう側から降り注いでいる。俺もじっと北川の目を見ていた。
「でな、一回、鬼の奴ほっといてみんなで帰った事あったんだ。もちろん嫌いとかそういうんじゃなくて、軽いいたずらのつもりだった」
何かを懐かしむ表情。遠い過去の出来事が、今目の前で再現されているような、そんな。
「そいつ、暗くなってから泣きながら帰ってきたんだ。それがあんまり酷く泣くもんだから、みんなこっぴどく叱られてさ」
言って、北川は姿勢を元に戻した。両手は地面についたまま、前をじっと見つめている。俺からは北川の顔は見えない。見えるのは、早春の少し冷たい陽の光と、自分の曇った心だけ。
「うん。最近の水瀬の顔、そいつの泣き顔に、よく似てる気がするんだ」
自分の曇った心と、早春の少し冷たい陽の光。
「それに、お前の今の顔もな」
確かに、今のままじゃダメだって、思ってた。
「……昔、さ」
自分でも驚くような小さな声。振り向く北川から目を逸らす。
「好きな子、いたんだ」
こんな時には、風は吹かない。
「そいつ、変だけど、すごく好きだった」
こんな時にも、雲は出ない。
「でもさ。俺のせいで怪我して、俺のせいでずっと目を覚まさなくて」
北川は目を逸らさない。だから俺は喋っている。
「でも俺はずっと忘れてて、やっと思い出しても、結局何も出来なくて」
ふいに視界が曇った。なんだろう、と思って、自分が泣いていることに気が付いた。漫画とかみたいに落ちるわけじゃなくて、頬を伝って、じんわりと広がるような。じっとりと頬をぬらすそれに、たまらなくなる。俺には泣く資格も権利もないと思うから。
「俺……。どうすればいいんだろう」
こんな風に弱音を吐く資格も。こんな風に唇を噛む権利も。
風が吹いた。着ていたジャケットがバタバタとはたけた。うつむく視線の先の、生えかけの草花が滲んでぼやけた。
笑うあゆがよぎる。拗ねるあゆが通り過ぎる。『うぐう』といつものように言って、絡まるように飛びついてくるあゆが、感触つきで右腕に纏わりついている。
でも、どうしようもないんだ。
「……でもさ、相沢。それは……」
プルルルル。と北川の上着が鳴った。携帯電話の着信を知らせる振動が、音となり伝わっている。北川は少し助かった、という感じでごめん、と言い、そそくさと携帯に出た。そのおかげで俺も多少落ち着く。北川があたふたと対応している間に、俺は袖で顔を拭った。吐き出したせいか、胸の曇りが少し晴れた気がした。弱音を吐いてただけですっきりする、なんてどうしようもない気はするけど。
北川の声が響いてくる。『いやちょっと待てよ』とか『だって今まだ寒いだろ』とか。なに言ってんだろう、と勘ぐるぐらいにまで回復した自分に、ちょっと苦笑いした。この北川という男は、確かに妙な空気を持っているようだ。あの美坂香里の彼氏なだけのことはある。
考えていると、北川の電話は終わったようだ。少し困った顔で携帯電話をなでて、まるで話すのをためらうかのような仕草をしている。
「誰から？」
「いや、美坂なんだけど……」
そこで言葉を詰まらせる。俺は吐き出してちょっとすっきりした後。口調も軽くなる。
「どうした。デートかなんかか？」
「いや、そういうんじゃ、なくてな」
北川は少し迷っている様子。ぶつぶつと何か呟いて、まあいいか、と俺の方を向いた。
「なんか、花火がしたいってさ」
「花火？」
鸚鵡返しに聞き返すと、北川は真面目な顔でおう、と頷く。
「もともとさ、この辺の神社はこの時期に花火やってるんだ。今日辺りか、と思ってたら本当に今日だった」
それでな、と続ける。
「わざわざ空に花が打ち上げられる今日の晩に、俺とお前と美坂と水瀬で、普通の花火がしたいんだってさ」
やれやれ、と北川は肩をすくめた。
『祐一君、また遅刻だよ』
『気にするなあゆあゆ。遅刻の２回や３回で文句を言ってるようじゃ美人にはなれないぞ』
『うぐぅ。そんなことないもん。それにボク、あゆあゆじゃないよ』
『まあ拗ねるな。お詫びにあゆあゆの願い事を一つ聞いてやってもいいぞ』
『え、祐一君！！ ホントに！！』
『ああ本当だ。俺が今までに嘘をついたことがあったか？』
『いくらでもあるよ……』
遠い記憶が頭をよぎる。少し鮮明になったそれは、やはり鋭く脳を刺激した。少年の少し気取った声と少女の甘えるような声は、確かにそこにあったのに。
「……いいかもな。花火」
口から呟きが漏れる。北川が、お、と言うように口を開いた。
「いいよ。やろうぜ、花火」
「……いや、相沢までそんな乗り気とは」
「じゃあ早速買いに行かないとな。どの辺かな、こんな季節に花火売ってるのって」
「やっぱ、商店街だろ」
んじゃ行こうぜ、と俺は腰を伸ばす。弱音を吐いたり泣いたり、そして昔を思い出したりして、少し身体は軽くなった。向こうでよっこらせ、とまたオヤジ臭く身をおこす北川には、こんど何かを奢ろうと思う。イチゴサンデーよりも高いものは嫌だけど。
「お、そのツラだぜ」
そう考えていると、傍に寄ってきた北川がニヤリと笑っていた。
「……なんだよ」
「だからさ、相沢にはそんな感じの、バカみたいな顔が似合ってるってことさ」
さっきみたいないかにも悩んでます、って顔は合ってねえよ。笑って言う北川の頭を軽くたたいて、俺も久しぶりに声を上げて笑った。
商店街を歩いていると、こんな季節にもかかわらず意外に花火は置いてあった。なんでも、神社での花火に影響される人が多いそうだ。とりあえず売ってある場所だけは見つけたので、４人が合流してから買うことにした。
「結構美坂って、そういうこだわりあるからさあ」
ハミガキ粉とかな、と不満そうに言う北川がおかしかった。
本当に、なにか随分すっきりした。状況は何も変わっていないけど、それでも何か、晴れていることが気にならなくなった。そんな俺を、あゆは自分勝手と責めるだろうか。それともらしくなった、と笑ってくれるだろうか。
目を覚まして欲しい、と痛烈に思う。あんなに笑ってて、あんなに走ってて。いつだって幸せそうだったのに。
「……なあ北川」
「ん？ なんだ？」
「花火、できるだけ派手なのにしようぜ」
「そりゃね。花火は派手じゃないとな」
あゆが、目を覚ますぐらいに。
香里と名雪は、集合時間の五分後に来た。二人の制服姿を見て、今日が平日だということを思い出した。
「悪かったな、北川」
「あ？ はは。出世払いでいいぜ」
笑って二人に手を振る。気付いた香里が、それに大きく手を振った.
「ごめんなさい。ちょっとホームルームが長引いちゃって」
「まあな。たまには美坂が遅れるってシチュエーションも悪くは……」
「今日欠席した誰かさん達みたいに、ズル休みはするなっていう注意で伸びたのよ」
相変わらず話が弾む二人の影に隠れて、名雪は少し俯いている。そしてたまにこっちの様子をうかがっている。どうしたんだろう、と思って、ああ、自分のせいだな、と気付いて。
７年前もそうだった。俺が全然ダメだったから、名雪まで巻き込んで傷つけてしまった。もう時間は経ったのに、俺はまたそれを繰り返そうとしている。
でも、もうそんなことは嫌だから。
「名雪」
名前を呼ぶ。そういえばしばらく呼んでなかった。名雪は驚いたように、ぜんまい人形のような仕草で顔を上げた。
「……ごめん、な」
そういえば、顔をこうやってちゃんと見たのも、随分久しぶりだったような気がする。
「いっつも、名雪は、俺のこと心配してくれてたのにな」
いとこの大きな目は、零れ落ちそうなくらい開かれている。秋子さんより幾分大きく見えるのは、それが涙で潤んでいるからかもしれない。
大きな目でよく笑っていた。いつだって俺を励ましてくれた。好きだったことも、ずいぶん昔だけどあったような気もする。
だから。
「だから、ごめんな」
向こうから二人がこっちを見ていた。名雪の目からひとしずく、透明な涙が零れ落ちた。それが何を意味するのか、なんて俺には分からなかったけど。時間すら止まったような空間で、そのまま名雪は少しだけ口元を緩めた。
「……今度、イチゴサンデー」
唇を動かして、僅かにそう言いながら。大粒の涙をぼろぼろと零しながら、それでも名雪はにっこりと笑った。俺はどんな顔をしていいのか分からなくて、だけど、どんな顔もしなくていいような気がした。
少しぬるい風が吹いた。香里と北川は黙ってお互いを見合っていた。俺は黙って目を伏せて、名雪は笑って泣いていた。
「二人にしておいて、良かったのかな」
紙袋を抱えて、ぽつりと北川くんは呟いた。
「当人たちの問題、じゃないの？」
その雰囲気に耐え切れず、花火とその他の買い出しに行ったあたしたち二人。泣いていた名雪はもう泣きやんだかしら、と空を見上げて思う。
「……辛いわよね」
花火の入った紙袋がガサガサと揺れている。火種があれば、それは勢いよく燃えてくれるだろう。それが少しであっても。
「７年越しの、失恋かあ」
隣で北川くんが両手に下げた紙袋も鳴っている。お茶とかお菓子とかが入っているそれは、ちょっとやそっとの火種じゃ燃えない。二人で目的地の丘へ向かって、俯いてアスファルトを見て。
「でも、水瀬は可愛いから、相沢よりもよっぽどいい恋人見つかると思うぜ」
「そうね。あたしが立候補したいぐらい」
「……。いやそれはそれで……」
「馬鹿はとっとと歩きなさい」
そして、あたしたちは友達で。それ以上に他人だった。
春先の夕暮れは淡く、少し膜がかかったみたいに。淡く広がるそのスクリーンに、熱くも冷たくもない太陽が幕を下ろしていく。小さな手と手を握り包み込むように、太陽は地平線へ、月は天上へ。
「花火なんて、今日びどこでもやってそうだけどな」
俺がそう言うと、あゆは面白いほど、ぷくりと顔を膨らませた。
「うぐう。ボクが見たことないんだからしょうがないよ」
それでも手は離さずに、逆に振る距離を大きくして。右腕の引力は強くなって、俺は少しだけ笑った。
「まあいいよ。それじゃ今度花火があったら、一緒に見に行こうぜ」
「ホントに！？」
あゆは俺の正面に回りこんだ。爛々と目を輝かせて、じっと俺の目を覗き込んでくる。あまりのそのはしゃぎ様に、また俺の心の悪戯心はむくむくと起き上がってくるわけだけど。
「……ああ、ホントだ」
でも、その嬉しそうな、期待に満ち溢れた顔を消すのは勿体無くて。なんだか妙な顔で、俺はあゆに右手の小指を差し出した。あゆは一瞬きょとんとして、すぐにすべてを了解した笑顔で自分の右手の小指を差し出した。
「ゆ〜びき〜りげ〜んま〜んウ〜ソつ〜いた〜ら……」
俺はハリセンボン飲まされるのかな、と暗くなっていく空を見上げて思う。夕暮れの『俺たちの』学校は春先でもやはり肌寒く、名雪は上着を取りに一旦家に戻った。
名雪のことを想う。いとこの、もしかしたら自分に一番近いかもしれない少女。それでも目を閉じれば、浮かんでくるのは名雪の泣き顔よりもあゆの笑い顔。いつでも眠そうな名雪の顔は、いつの間にかどこかに消えていて。
切り株に腰掛ける。視界は木々に遮られて、街を見通すことは出来ない。それでも木々の向こうに何かがあるような気がして、俺はじっと目を凝らした。子供の頃の森は、いつも秘密がある気がしていた。だからここが学校だったのかもしれない。
『花火って綺麗だけど、どうやって色をつけてるのかなあ』
『そりゃ絵描きさんに頼んでるんだろ』
『うぐう。本当に？』
そんな会話を思い出して、やっぱり首を振った。今度、みんなに百果屋で何か奢ろう。出来ればあゆも来れたらいい。そんなことを思いながら。
「あれ、水瀬は？」
北川と香里が並んで到着した頃には、既に陽は地面の下だった。
「寒いからって、一旦家に戻った。服とって来るってさ」
伸びをしながら立ち上がる。あまり長い時間、と言う気はしなかったけど、首の後ろや背中は派手な音を立てた。切り株の上に紙袋を置いて、香里は軽くため息をつく。
「今頃、秋子さんが大忙しでしょうね」
「え？」
「名雪は心配ないってことよ」
そのため息と共に香里はそう言って、相沢くんも幸せ者ね、と肩をすくめた。どういう意味だよ、と食い下がろうとすると、北川が寒いだろ、と缶コーヒーを投げてきた。少しぬるくなったホットコーヒー。
コーヒーは、ちょっとだけ甘かった。
「バケツ持ってきたよ〜」
マフラーにくるまって、名雪が大きな青いバケツを持って到着した。その妙なノリは何故か皆を笑いに誘って、俺たち三人は夜空に響くような声で爆笑した。腹を抱えて笑う俺に、むくれた名雪が紅しょうが、なんて言って。俺は即座に青くなって、北川と香里の笑いに拍車をかけた。
「よ〜し！！ 安全も確保できたし火つけまくるぜ！！」
「なんたらは火遊びが好きなのよね」
言いながらも、二人は楽しそうにがさがさと紙袋をあさっている。うんしょ、と持ってきたバケツを地面に置いて、名雪は俺に、持ってきていたらしいマフラーを差し出した。
「夜は、冷えるよ」
青色のマフラー。名雪の髪の色みたいなそれは、薄闇の中で僅かに光って見える。少し躊躇しながら名雪の顔を見て、そこに照れたような笑みがあったのに安心して。俺も苦笑いのような表情で、ありがとう、とそれを受け取った。
「そうだな。冷えるもんな」
うんっ、と名雪が頷いた後ろで、香里の笑い声とライターの発火音が響いた。
「北川一番星号、発射！！」
乾いた火薬の音と共に、北川がセットした打ち上げ花火が舞い上がった。何故か出た笑い声に混じった、大きな拍手の音がこだまする。
「続いて相沢二番星号だあ！！」
上がった灯が消えないうちに、既に次の破裂音。交錯しそうですれ違った緑と赤の光が、楕円を描いて落ちていった。そしてまた拍手と、一瞬の静けさ。
「向こうの方の花火って何時から？」
すでに異様な笑い声を上げている北川を完全に無視して、香里が名雪に話しかけている。もうそろそろかな、と言いながら、名雪もねずみ花火に火をつけていた。
「行くぜ。流星ジュンジュン号だっ！！」
北川は並べたロケット花火に連続して火をつけている。わーはははー、とか訳の分からない笑い声と共に、空をめがけてロケット花火が飛んでいった。
そしてその瞬間、遠くに腹に響く音。後を引く、まるで空気の抜けるような音と舞い上がる光筋が、天空で大きく花開いた。一発目の花火。ぱあん、と弾けるような音、そして同心円状に広がる光。地上にいるものすべての視線をひきつけながら、華は静かに闇夜に消える。
俺たちは声も出ない。それに続いて打ち上げられる花火に、ただ立って見とれるだけ。香里がせっかちにもつけていた線香花火は、すでに落ちて地面に浸透していた。
「たーーーまやーーー！！」
口元に手を当てて、俺は空に向かって叫んだ。声は花火の音にかき消されて、ここにいる連中以外には聞こえないかもしれないけど。それでも、花火のあたりで、天に昇るか地面に降りるか決めかねているあいつに、聞かせてやりたかった。
「まーーたやーーー！！」
無意味に文字を入れ替えて、北川が続いた。本当に馬鹿みたいに両腕を突き出して、まるで花火に挑戦するように。
「たーーーまやーーー！！」
今度は香里が。持っていた線香花火の燃えかすを放り投げて、誰かに何かを聞かせるように。とても必死に声を張り上げて、腰を折るようにして香里は叫んでいた。打ちあがる花火の、多分その向こう側に。
「たーーまやーーーー！！」
普段声を張り上げることをしない名雪までも。身体全体で踏ん張って、首が折れそうなほど天を仰いで。叫びが闇に消えていくのもかまわずに、ただ全力で叫んでいた。
第一陣が終わるまで、多分五分あまりだった。その間、俺たち四人は、ずっと花火や空に叫び続けた。北川の無駄に大きな声、香里のいつものけだるそうなのとは正反対の声、名雪のやはりどこかとぼけた声、そして俺の、いやに必死な声。
多分どこにも届かない、どこに届けたいのかもよく分かっていない声たち。それでもそれは、確かに大切な何かだった。そんなことを、小休止中に喉を湿らすためのジュースを飲みながら思った。
「うわっ。ちょ、ちょっとまて美坂」
「誰が美坂よ。あたしは香里なの。いい？ か・お・り！」
「いやいいから落ち着け！！ そんで火をよこせ」
香里が北川を追い詰める珍しい光景。叫んでテンションが上がったのか、それとも北川が買って来た缶ジュースの群の中に違う何かが混じっていたのか。どっちにしろ俺に罪はない、と俺と名雪は遠くに避難して成り行きを見守ることにした。
「あなたはいつでもそうよ。あたしのこと名字で呼んだりからかったり……」
「分かった。分かったから美坂もロケット花火は人に向けるものじゃないって分かってくれ」
「美坂って呼ばないでよ！！」
じり、じり、と前進そして後退する二人。それを笑い転げながら見ている俺と名雪。空には思い出したような花火。そして舌の根がかみ合っていないような香里の叫び。
「あたしたちカップルでしょ！！ 付き合ってるんでしょ！！ 愛し合ってるんでしょ！！」
「おう、それはもちろんだ。もちろんだから……」
「だったら名前で呼びなさいよ〜！！！」
完全に目が据わっている。逆に北川は怯えきっている。両手を身体の前に出し、香里を何とか制しようとする姿がとても弱々しい。
「か、香里。うん、香里。これでいいか美坂」
「ほら！！」
「……あっ……」
「もうっ！！ 北川くんの馬鹿〜！！」
あ、火がついた。
「そんなの、美坂だって苗字じゃないか」
「あたしはもう北川くんのものなのに！！ 早く奪いに来なさいよっ！！」
「だから話聞けよ！！」
そして花火は発射されて、名雪があーあ、と笑った。
「香里、寝ちゃったね」
「そりゃあれだけ暴れたらなあ……」
持ってきた花火が尽きた後、四人で切り株の回りに座って夜空の花火を見た。また香里が興奮したり、北川の服が焦げているのが見つかったりしたけど、その他は概ね平和だったと思う。香里の寝顔も安らかだ。
「北川。香里運んでやれよ」
「分かってるよ。しかし彼女に服を燃やされる日が来るとは思ってなかった……」
「もっと女の子は大事に扱わないとダメだよ〜」
よいしょ、香里が北川におぶわれた。う〜、といううなり声と共に、香里の手が北川の首に回される。それを穏やかに微笑いながら受け入れる北川が、ちょっと羨ましかった。
もう聞きなれた音が連続して、夜空に花が一気に咲いた。深くなっていく闇に映える、最後の花火の群れたち。フィナーレを飾る連続花火は、やはり今まで見たどれよりも豪華だった。
「綺麗だね……」
隣で名雪が呟いている。北川も香里を背負ったまま、半ば呆然と空を見上げている。鮮やかな色彩を闇に鮮烈に残して、揺らめくように花は透けていく。
でも、俺は。その鮮やかな光彩よりも、それに隠れるように登っていく煙に目を奪われていた。花火の火薬の燃え痕。それは光の作り出す闇にまぎれて、ほとんど見えなくなっている。
あゆに被せているのかもしれない。そんな風に黙って消えて欲しくない。そんな風に切なく逝って欲しくない。そんな願いが、遠い空に少しだぶって。だって、この世界には俺がいるんだから。これからはあゆと生きようって決めた、俺がいるんだから。世界中があゆを忘れたって、俺だけは覚えている。世界中があゆを嫌いになったって、俺は絶対に好きでいてやる。
だから、早く目覚めてくれよ。あの煙みたいに、黙って消えていったりしないで。『次の』っていう約束は守れなかったけど、それでもまだ、花火を見に行ってないだろ。
「やっぱ花火っていいよなあ」
「うんっ。またみんなで来ようね」
それに、こんなに気のいい奴らだっているんだ。だから、だからさ。あゆ。
いつでもいい。俺はいつまでも待ってる。だけど俺は、ほんの少しでも早く声を聞かせて欲しいんだ。あゆの笑顔が見たいんだ。俺は俺のままで、おまえに心配なんてかけさせないから。
祭りの残滓が残る丘の中の学校を、俺たちは笑いながら後にした。
「……ひどいよ、祐一君」
暫く前にやんだ音とは違い、それは弱々しい音。
「ボク抜きで、見に行っちゃうなんて」
少し涙声。シーツをぎゅっと握る音。見回りに来る看護士の靴音。
「でも次からは、一緒に見に行くんだよね……」
そして小さくても、しっかりとした声。
「あれ？ 相沢はまだ？」
「あゆちゃんと最後まで見てから来るんだって」
予約していた店に入ってきた北川くんが、あたししかいない席を気の抜けたような顔で見渡した。それはちょっとむかっときたけど、仕方ないかな、とも思う。みんなで集まるのは久しぶりなんだし。
「水瀬は？」
「合コンだって。女を磨きたい、とか言ってたけど」
肩をすくめると、なんか似合わねえな、と北川くんは苦笑いをして、あたしの隣の席に腰掛けた。あたしも軽く苦笑いで、ほんのちょっとだけ、北川くんのほうに身を寄せた。
「しかし、あれからもう一年たつのか」
ウエイトレスが持ってきた水を少し飲んで、ため息まじりに北川くんは言った。軽く相槌を打って、あたしは少し物思いに沈む。
花火大会の日に目覚めた相沢くんの彼女、月宮あゆという少女に初めて会ったのはその一週間後だった。七年も寝ていたその身体は確かに痩せてはいたけど、でも相沢くんにからかわれながらの瞳はきらきらと輝いていて。それが少し胸にちくりと刺さったけど、北川くんが手を握っていてくれたから。
『香里さんに、潤さん。はじめまして』
少し舌足らずな声での挨拶にも、はじめまして、と素直に応じることが出来た。
その彼女ももう退院して、今は水瀬家に同居しているらしい。アルバイトをしながら通信教育をしている彼女に最近会ったら、目の輝きはそのままでとても元気そうだった。その元気さは名雪と五分かな、とか考えて、笑って頭を振った。
「ま、あれだ美坂」
思い出す記憶が最近になったところで、北川くんの声で現実に引き戻された。いつのまにか彼はあたしの顔を、少しにやにやしながら覗き込んでいて。
「パワーオブラブってやつ」
「あははは。相変わらずギャグが上手いわね北川くんは」
乾いた声を出すと、やっぱり彼はしゅんとなる。いじいじ、と口に出してコップの水滴に絵を書きはじめる彼は、お世辞にも格好よくはないけど。
確かに、あたしを愛してくれた。あたしはあの子を救えなかったけど、彼はあたしを愛してくれた。そのことはあたしをいつでも地獄に引っ張り込もうとするけど、お墓に行くといつも後悔の涙に流されるけど。
それでも、栞には申し訳が立たないけど。北川くんがあたしを必要としてくれる、愛されたいと願うこの世界を、あたしは捨てることは出来ない。過去にどれだけの過ちを犯していようと、栞に自分勝手とののしられようと。
「愛の力、か」
呟いて、いまだいじけている北川くんの髪の毛を、少し力を入れて引っ張った。
「なあ、あゆ」
指先から感じる体温は、やはり少し熱い。体温が高いあゆの身体は、抱きしめるととても安心する。
「なに？ 祐一君」
それを指摘すると、あゆはとても怒る。『もうボクは子供じゃないよっ』っと、まるで子供のような顔と仕草で。
「花火、綺麗だな」
でも、浴衣を着て髪を切ったその姿は確かに大人っぽくなったかな、とは思っていても絶対に口には出さないけど。
「綺麗だねえ」
繋いだ指の温かさを、絶対にもう、離さない。
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