眠り姫に恋焦がれて
小さい頃から病気がちだった僕は、体調を崩すたびに入退院を繰り返す日々を過ごしていた。
そのせいか家に小学校、それに幼稚園で過ごした記憶はこれっぽっちも無く、思い出せる記憶は病院の中を駆け回る日々しかなかった。
だから僕にとって消毒の匂いが充満する病院は第２の家みたいなもの。
いや、家というよりも大きなお城と言ったほうがしっくりくる、だってそのほうが面白いし。
ほら、無数にある病室はお城にあるたくさんの部屋、看護士さんは召使いさん、お医者の先生はなんかの大臣さん、そして１番えらい理事長先生は王様あたり。
でもって僕はさしずめ王子様？ ううん、そんなわけがない。
個室を与えられない一般患者の僕は、どう頑張っても詰め所に待機しているナイトが精一杯。
でも、病気に寝込んでいるナイトなんて聞いたことが無い。
今は病人らしく大人しくしているけど、小さい頃の僕にとって退屈は苦痛でしかなかった。
体が弱いと言ったって結局の所子供と言う事には変わりないし、もちろんまだまだ遊びたいざかり。
何か面白いことはないかと、病院の中を走り回って棚に大激突をして中身を派手にばらまくことや、珍しく部屋にいるとしても最終的には暇をもてあましてのナースコール怒涛の１６連打。
当然ながら毎回何かをしでかす度に看護士さんの逆鱗に触れていたけど、一晩ぐっすり寝たら昨日のことを忘れて同じことの繰り返し。
今思い返してみればかなりのワンパクぶり、あの時の僕は若かった。
それでも子供のイタズラとしてそのまま放置したら性質が悪いものばかり、その時僕の父さんと母さんが何とかしようとしてとった方法は絵本を買い与えること。
普通そんなもので僕みたいなやんちゃ坊主が大人しくなる訳が無いと思うのだが、不覚にも僕は父さんと母さんの作戦にまんまとはまってしまった。
なんだかんだ言ったって所詮僕も子供、つまり物の魅力には勝てないって事さ。
それに普段読まない絵本は僕の退屈を解消させてくれた。
一枚一枚ページをめくる度の感動。
次の展開へのドキドキ。
それが小さな――たった３０ページの絵本の中に詰まっているのだ、子供心にワクワクが止まらない。
気付いたら毎回父さんと母さんが持ってくる絵本の虜になっていた。
その日から僕は看護士さん泣かせのイタズラ坊主から、絵本大好きの大人しい子供にクラスチェンジした。
春、夏、秋、冬が何度も僕を通り過ぎて訪れた１０歳の冬。
待ちに待って待ち焦がれた冬休みを、何の因果か知らないけどいつもの病院で過ごしていた僕は気持ちの良いくらい不貞腐れていた。
ここ最近は体の調子がよくて学校にも普通に通っていたのに、日頃の行いが悪かったのか、神様の気まぐれかは知らないが、最後の最後である終業式の最中に頭の中がふらっとしたと思った瞬間、派手にぶっ倒れて今に至る……と、まあそんな感じ。
お正月の楽しみにしていた、おじいちゃんの家に行くのだってもちろん中止、自分の体の弱さに乾杯だね。
そんな風に自分の体を呪っていると病室の外がなにやら騒がしい。
なんだろう？ 自然に思った。
そう思ったら最後、湧き出た好奇心はもう隠せないし、隠す気もゼロ。
寝ていたベッドから出ると、そっとドアを開ける。
１番最初に目に入ったのは目の前で走り抜けてく看護士さんだった。
看護士さんだけじゃない、お医者の先生も急いでいる。
何かあったのかな？
病院の中が慌しく動いているのを疑問に思ってみると、丁度よく僕を診察してくれる看護士のお姉さんが近くを通りかかってくれた。
お姉さんなら知っているかも、好奇心は僕の背中をトンと押した。
「ねえ、お姉さん。何があったの？」
僕の声に気付いてお姉さんが振り向く。
「あら潤君どうしたの、こんな所に居て？」
「部屋の外が騒がしいからなんか気になっちゃって」
「ああ、そっか。今ね、酷い怪我をした女の子が運ばれてきたの、だから病院の中はてんやわんやの大騒ぎなんだ」
お姉さんは僕の目線と同じくらいにして優しくあやすように話しかける。
「助かるの？」
会ったことも、それよりも誰だか知らないのに僕はその子のことがすごく気になった。
そしたら自然に口から言葉が出ていた。
「もちろんよ、お姉さんが嘘をついたことがある」
「ううん、ない」
「そうでしょ、そうでしょ」
うんうんと頷きながらお姉さんはにっこりと微笑みながら僕の頭を撫でてくれた。
くしゃくしゃと撫でられる感触がこそばゆい。
「そうだ潤君、女の子が治ったらお姉さんと一緒に遊びに行こうか？」
我ながら名案みたいな感じでお姉さんが僕に提案してくる。
「いいの？」
すごく嬉しい提案だけど、ちょっと不安。
見ず知らずの男の子が来て女の子は戸惑わないのかな。
「いいのいいの、大丈夫大丈夫、お友達が増えたって女の子だって喜ぶわよ。それに潤君って女の子顔だし」
「それって、褒めてないよ……」
お姉さんはいい人なんだけど、なんかイタズラ好きな所があるからやっぱし不安だ。
でも、女の子に会えるのだったらそんな納得のいかない理由でもいいかな。
「それじゃ、お部屋に戻ろっか」
お姉さんが僕の手をとって歩き出す。
僕も「うん」と言って、握られた手をぎゅっと握り返す。
「あ、そうだお姉さん」
「なあに？」
「女の子の名前って何て言うの？」
そういえば僕は女の子の名前を知らない、これじゃあお友達にだってなれない。
「えっと、確か……」
お姉さんは口に人差し指を当てて考え込む。いや、思い出すの方が正しいかな。
ちょっと頭を回転させて思い出したお姉さんが僕を見て笑いながら教えてくれた。
「あゆちゃん、月宮あゆちゃん」
女の子らしくて可愛らしい名前。
僕は早く彼女――月宮あゆちゃんと会ってお友達になりたいと心から思った。
でも、僕の願いはかなえられる事は無かった。
あゆちゃんはお姉さんが言った通り助かったけど、それは助かっただけだった。
彼女は目を覚まさなかった。
まるで何処かの陰険な魔女に、眠りの魔法をかけられたお姫様みたいに眠り続けるあゆちゃん。
お姉さんに手を引かれて連れて行かれたお部屋で、すやすやと眠り続ける彼女。
ちょっと手を伸ばして揺り動かしたら、何事も無かったように目を覚ましそうなんだけど、そんなことじゃ彼女にかけられた魔法は解く事は出来ない。
昔に読んだ『眠れる森の美女』のように王子様のキスみたいに、どんな魔法でも解除できるようなものじゃなきゃ彼女が目を覚ますこと無いんだ。
僕はベッドの上で起きることのない眠りにつく彼女を見ながらそう思った。
それから僕は毎日のようにあゆちゃんの病室に顔を出すようになった。
彼女が目を覚ましたときに１番最初に「おはよう」って言ってあげたいから、時間が空いているときはずっと彼女の病室に入り浸っていた。
そのせいで看護士のお姉さんにめちゃくちゃからかわれたりしているけど、僕はそんな声を気にもしない。
僕は悪い魔女にかけられた魔法によって眠り続けるあゆちゃんを守るナイト。
そばにいるのが当たり前、自分でもよく分からないナイトの使命感。
絵本の中のナイトのように僕もあゆちゃんを守れるのだろうか。
心の中になんかしこりみたいなものは感じるけど、僕は彼女のそばに居ることができればそれだけで幸せだった。
今だって鏡に映る僕の顔は情けないくらいににやついている
こんな顔を誰にも見られたくない。
「あら潤君。今日もあゆちゃんの部屋にいたの？ 本当にマメな男の子ね」
アーメン、神様の馬鹿。
こんなときにお約束は酷いです。
そんな僕の落胆にお姉さんは気付いていないのか、１人納得したような感じで喋り続けている。
「あたしの彼氏もこれくらいマメだったら良いんだけどな〜。まぁ、無いものねだりをしたって仕方ないかぁ」
だからと言って自分の彼氏の愚痴を言われたって困ります、なんだかんだ言ったって僕は１０歳の子供ですから。
お姉さんはあゆちゃんが眠るベッドに近づいてくる。
それは必然的に僕にも近づいてくると言う事であり、そしてお姉さんの目的は僕をからかうこと。
僕の隣に椅子を持ってきて腰をかけると僕の顔をじっと見る。
「毎日あゆちゃんの顔を見ていて飽きない？」
変な質問をしてくる。
「飽きないよ。だって僕はあゆちゃんのナイトだから」
「ナイトっていうと全身に鎧を着ている、あのナイト？」
「うん」
「ふ〜ん、へぇ〜、そ〜なんだぁ」
いやらしい笑みを浮かべてお姉さんは僕の顔とあゆちゃんの顔を交互に見る。
何か感じ悪いなぁ。
「潤君はあゆちゃんのことが好きなんだ」
ぼん。
そんな効果音が聞こえるくらいの勢いで僕の顔は真っ赤に染まった。
頭から湯気が出てくるみたいだ。
「べべべ別に、そそそそんなことないよ」
「ドモリまくっているよ。あはっ、カワイイカワイイ」
僕みたいな子供をからかって何が楽しいのか知らないけど、お姉さんはおなかを抱えてケラケラと笑っている。
これじゃあ、どっちが子供何だかよく分からない。
「ふん」
僕は不貞腐れたようにそっぽを向く。
あゆちゃんのそばにいるのは彼女を守るため。
それ以上も、それ以下も無いのに何か勘違いをしているのかなぁ。
でもお姉さんは僕の気持ちなんて１億光年先に投げ捨てたみたいにお構い無しで喋り続ける。
「でも、今の潤君ってお姫様を守るナイトというよりかは王子様って感じかな」
「なにそれ？」
「ふふっ、言葉通りの意味だよ。お子様にはまだ分からないかな？」
意味ありげに微笑むお姉さん。
でも僕にとっては不快なものにしか感じられなかった。
からかうのはいい加減にして欲しい。
僕が言う前にお姉さんはすくっと椅子から立ち上がった。
「さて、お姉さんはお仕事の続きといきますか。潤君、あゆちゃんが寝ているからって変なことをしちゃだめだぞ」
「へ、変なことってなんだよ」
お姉さんの言葉に思わず立ち上がってしまった。
「あはは、潤君にはまだ早かったかな」
顔には笑み、手はひらひらとさせながらお姉さんは部屋から出て行った。
……しっかりと僕をからかってからだけど。
あれがなきゃ良い看護士さんだと思うのだけどなぁ、僕は大きな溜息をして深く椅子に座った。
目の前にはベッドで眠るあゆちゃん。
おとぎ話の眠り姫のようにすやすやと覚めない眠りについている。
覚めない眠り、か。
こういうときってお姫様は王子様のキスで起きるんだよな。
『でも、今の潤君ってお姫様を守るナイトというよりかは王子様って感じかな』
さっきのお姉さんの言葉が頭の中をよぎった。
また顔がぼんっと赤くなる。
今まで普通に見ていたあゆちゃんの顔がまともに見られない。
おかしいおかしい、一体僕の中で何が起こっているんだ？ 皆目見当がつかない。
『潤君はあゆちゃんのことが好きなんだ』
また、お姉さんの言葉が僕の中を通過して、今まで感じた事の無い感情が僕の中に生まれる。
初めて感じた感情に対する初めての戸惑い。
僕の中で色んなものがお祭り騒ぎのように暴れまわってドキドキが止まらない。
薄暗い病室の中、窓からの日差しがあゆちゃんの顔にかかった。
その瞬間――心臓がバクンと高鳴る。
今まで出来なかったパズルのピースがぴったりの当てはまったような感じだった。
何であゆちゃんを守ろうと思ったのか、何であゆちゃんのそばにいたいのか、答えはすぐそこにあった。
僕はあゆちゃんのことをいつの間にか好きになっていたんだ。
それに気付いた僕の行動は早かった。
あゆちゃんのナイトままじゃ満足していられない、僕はあゆちゃんの王子様にレベルアップしたかった。
そして思いついた王子様へのレベルアップの儀式、それは目覚めのキス。
でも寝ている彼女に本当にそんな事をしていいのかと僕は思う。
だけど彼女に起きて欲しいから、彼女の一番になりたいから、人として反則かもしれないけど僕は見たかった、彼女の「おはよう」の笑顔を――。
ベッドの脇に手を載せる、ベッドは僕の全体重がかかってギシっと音を立てた。
目の前に彼女の寝顔が広がり、ピンク色をした彼女の小さな唇が僕の視界に入る。
それと同時に僕の心臓の音は最高潮に達した。
自分の中から聞こえてくるドキドキのオーケストラが鳴り響く。
この世界中でただ２人きりのような不思議で甘い感覚……。
僕は彼女の魔法と解こうと顔を近づける。
鼻先が触れ合う……そして、唇が――触れ合った。
だけど彼女は起きることなく眠り続けたままだった。
僕は彼女の王子様じゃなかった。
そのことを知ると何だか自分に腹正しくなって何かに当たりたくなった。
グリム兄弟のうそつき。
その後すぐに僕は病院を退院する事になった。
だから、あゆちゃんとはあれ以来会っていない、いや正確には僕があゆちゃんの眠る部屋に足を運ばなかっただけ。
彼女には聞こえるわけも無いのだけど、僕は彼女にお別れの言葉の一つも上げることなく慌しく病院を退院していった。
僕の甘くてほろ苦い初恋は、こうして幕を下ろした。
偶然にも程があると思った。
もう会うことは無いだろうと思っていた初恋の人、月宮あゆに再会したのは俺が高校３年に進学するつい数日前だった。
しかも彼女は、ここ２ヶ月で親友レベルの付き合いになっていた相沢祐一の彼女として俺の前に現れた。
もちろん再会といっても、それは俺の中だけのことであって彼女が俺のことを覚えている事も無いし、知っている事も無い。
それでも運命とは残酷なものだと感じた。
そんな俺の心の葛藤に気付かずに相沢と月宮は色んなことを俺や美坂に話した。
３度の飯よりもタイヤキが好きだということ。
７年前に両親を亡くしたこと。
今は水瀬のおふくろさんが保護者になって水瀬家に居候をしていること。
そして、相沢と月宮が体験した奇跡の１か月のことを――。
話を聞くと皮肉にも彼女を救ったのは俺も絡んでいるらしい。
以前に相沢が切羽詰った顔をして俺や美坂、水瀬に頼んだほとんど当ての無い『探し物』。
相沢の頼りにならない記憶を頼りにスコップと針金を片手に掘り続け探し当てた、小さく土で汚れた天使の人形。
月宮と相沢の思い出の人形を見つけたのは俺だった。
だけど彼女を最終的に救ったのは俺じゃなくて相沢。
俺が彼女の王子様になれなかったってことを、７年たった今になっても突きつけられるのは酷なものだった。
やはり俺には彼女を守るナイトが精一杯なのだろうか。
あの時２人の話を聞いていた俺の表情は苦虫を噛み締めたようだったに違いない。
なぜかって？
話を聞いていて気付いたからさ、俺はまだ月宮のことが好きだってことを。
そして、俺たちは誰１人として落第することなく、３年へと進級をはたした。
進路の違いや運などで、俺は美坂や水瀬とは離れ離れとなり、唯一同じクラスになったのは相沢１人だけだった。
それでも俺たち美坂チームの友情は壊れることなく、受験戦争の合間をぬってみんなで遊びに出かけたりしている。
みんなで集まり遊ぶのは嫌いじゃない。
だけど、俺の心は心底楽しめない。
それは相沢の隣にいつも月宮がいるからだ。
月宮は相沢の彼女だってことは分かっている。
俺なんかが入る隙間が無いことは、相沢が俺たちに月宮を紹介したときから見ているので理解はしている。
でも……それでもだ、２人を見ていると俺の心に醜い嫉妬の感情が生まれてくる。
どうにかして２人の仲を裂いて、その隙間に俺が……。
そんなことを考えている俺がいる。
幼かったあの日、俺は月宮を護るナイトになると誓ったはずなのに、今の俺はまるで王子様に嫉妬する魔女のように醜い奴。
情けない、諦めが悪い、自分が最悪な人間に思えてくる。
だから俺は自分の感情を心の奥にしまった。
彼女の幸せのために、彼女の笑顔のために。
そして、自分の弱い心を守るために――。
「告白……だって？」
俺の言葉に水瀬は静かに首を縦に振った。
夏が過ぎこの街に秋が訪れたある日の放課後、俺は突然水瀬に呼び出された。
昼休み、普段はとろんとした表情をしている水瀬が真面目な顔をして『放課後、相談したいことがあるんだよ』と言われると断るわけにもいかず俺はしぶしぶ了承した。
その結果がこれだ。
「俺に……ってわけじゃないよな」
「……うん」
否定の意味を込めて水瀬は頷いた。
俺だって伊達に水瀬の友達をしているわけではない。
彼女が俺に友達以上の好意を持っていないことは分かっているつもりだ。
それに彼女が恋愛感情を抱いている相手だって知っている。
「……相沢の奴にか？」
相沢祐一。
水瀬の従兄弟であり、俺の親友、そして月宮あゆの恋人でもある。
「もしそうだとしたら止めたほうが身のためだぞ。結果なんて決まっているようなものなんだからな」
俺に思い浮かぶ光景は振られる水瀬の姿。それ以外は思いつかない。
相沢の心の中に、月宮以外の女性が入り込む隙なんてないだろう。
「うん、祐一があゆちゃんしか見ちゃいないことは分かっているつもりだよ」
自嘲するかのような水瀬の言葉。
水瀬自身も告白した結果どうなるかは理解しているみたいだ。
さっきから浮かべている辛そうな表情が何よりの証拠だ。
「でもね、わたしずっと前から祐一のこと好きだったんだよ、それなのに『はい、あきらめろ』なんて納得できないよ。だから自分の気持ちに決着をつけたいんだ、結果なんて分かっているけどいいの、告白することが大事なんだから」
強がっている水瀬を見て俺は心が痛む。
でも心の奥から精一杯の空元気を表す水瀬はなんだか輝いて見えた。
それに比べて俺なんて情けない、水瀬と同じような立場にいるはずなのに最初から諦めている。
月宮の幸せのために……と自分勝手な枠線を引いて、俺は一歩離れたところから月宮を見ていた。
だけど彼女は違っていた。
その先にどんな結果が待っていようと自分の思いを伝える強さを持っている。
「水瀬は強いんだな」
「えっ、どういうこと？」
「言葉どおりの意味さ」
水瀬は理解を苦しんでいるのか、頭の上ではてなを浮かべている。
「それで水瀬はいつ告白する気でいるんだ」
「多分、あさっての土曜日。学校が休みだから」
「その日にする理由にしてはなってないと思うんだが」
「それにその日、お母さんは出張だしあゆちゃんは定期健診で家にいないから」
なるほど、そういうわけか。
確かに月宮が同じ屋根の下にいるときに告白なんてできるわけがない。
一応この天然なクラスメイトもその辺のことは考えていたわけだ。
「それでもう一つ、実はこのことで北川君にお願いがあるんだけど」
「何を？」
「ちょっとの間だけでもいいから、あゆちゃんを足止めしてほしいんだよ」
水瀬の突然なお願いに俺は言葉を失った。
固まった俺のことをかまわず、水瀬はなおも言葉をつなげる。
「定期健診といったってそんな時間がかかるわけでもないし、やっぱし時間はあればあるほどいいから」
「何で俺なんだ、そういうことなら美坂のほうが適任だろ」
何とか出した声で俺は水瀬に聞いてみる。
「香里その日予備校なんだよ、それに……」
「それに？」
同じ言葉を鸚鵡返しに俺は繰り返す。
「北川君のあゆちゃんの見る目ってすごく優しいから」
俺は危うく手に持っていた鞄を落としそうになった。
水瀬は俺がみんなに知られないよう隠していた気持ちに気づいていたのだろうか。
それとも自分では隠していたつもりだったのは、実は他人から見ればバレバレだったのかと俺は不安を感じた。
「何となく適任かなって思ったんだよ」
だけど水瀬の答えは俺の危惧していたものとは１８０度違っていた。
確かに安心はしたが、しかしそんな理由で選ばれたことは光栄なことなのだろうか。
そのこと水瀬に聞いてみると、さぁと首を傾げて笑いやがった。
「それで引き受けてくれるの？」
俺の顔を覗き込むように水瀬が俺に聞いてくる。
「……他に頼れるやつがいないんだろ」
「それってＯＫってことだよね」
「ＮＯに聞こえたか？」
「ううん」
ほとんど無茶に近いお願いを聞き入れてくれたことがよっぽど嬉しかったのだろうか、水瀬は首を横に振ると俺に向かって満面の笑みを浮かべた。
「その笑顔は告白する日にとっとけ」
「うん、何か言った？」
俺の独り言に近い呟きが水瀬の耳に少し入ったらしく、疑問詞を投げかけてくる。
「なんでもねーよ。で、月宮の定期健診っていつぐらいに終わるんだ」
誤魔化すようにして俺は話題を別なものに変えた。
不自然だったかもしれないが、水瀬には通じたらしく俺が投げかけた質問に頭を悩ませている。
「えっと、確かお昼過ぎ……多分１時くらいだったと思うよ。自信はないけど……」
「それだけで十分だ。何とか不自然じゃないように出会うようにするさ」
「大丈夫？」
「任せろ、俺のアカデミー助演男優賞並みの演技に期待してくれ」
「わっ、そうなの？」
「いや、そこはツッコミを入れてほしいところなんだがなぁ」
どこか道を１本外れている天然の女友達に俺は苦笑しか生まれなかった。
その日の夜、俺はなぜか眠れなかった。
理由なんてものはとっくに分かっている。
何で俺は水瀬のお願いを引き受けたのだろうか、だ。
もし、もしもだ。
一万分の一、いや一億分の一くらいの確立で相沢が水瀬の告白に応じてしまったらどうするのだ。
相沢が月宮のことを心の奥底から愛しているのは知っている。
それでも人生の中において『必ず』ということはありえない。
最悪の結果が起きた場合、その先に待っているのは月宮の涙であろう。
となれば俺は月宮の不幸への道の手助けをしているということになる。
護るべき存在のはずなのに、護ろうと誓ったはずなのにまったく別なことをしている俺。
「何やっていんだか……な」
天井に向かって自嘲にも近い呟きを吐く。
それでもいくら考えても答えは見つからない、いくら悩んでも進むべき道は出てこない。
無意味に部屋の中でごろごろと転がってみる。
何も変わらない、やっぱり無意味だった。
「馬鹿馬鹿しい、無理やりにでも寝るぞ」
答えを見つけられないまま俺はベッドの中に潜り込んだ。
しばらくして睡魔によりまどろみ落ちていく意識の中、俺は水瀬の告白が実らんことを願った。
「よう、月宮」
「あっ北川君だ、こんにちは。こんな所で会うなんて珍しいね」
「俺と病院ってそんなに変な組み合わせか？」
「だって北川君って健康そうなイメージがあるから」
色々と悩んだ結果、結局俺は水瀬のお願い通りに月宮の足止めに来ている。
今頃水瀬は相沢の奴と２人っきりになって告白をしているのだろう。
水瀬に協力はしているが、玉砕することを願っている俺って一体何なのだろうな。
「そいつはどーも。それにしても月宮は何で病院に？」
「定期健診を受けにだよ。一応ボクって７年間寝ていたわけだし、体に異常がないかを月に１回調べなきゃいけないんだよ」
「それは大変そうだな」
「初めの頃はね、それでも最近は慣れてきちゃった」
そう言って、月宮はえへへと笑う。
その笑顔をすごく可愛らしいもので、俺の心は月宮の笑顔に完全に奪われた。
今思うことは、願わくは俺のこの気持ちが顔に出ないことだ。
「北川君はどうしてここに？」
俺がつまらないことを考えているうちに月宮が俺の近くまで来て顔を見上げる。
こんな近くで月宮の顔を見るのはあの時以来、つまり７年ぶりなので思わず心臓がドキッとした。
「ん、いや、なんとなくかな。昔ここに入院していたこともあったから自然に足が向いたのかもしれないな」
ドキドキのためか、初めどもった。その後、慣れない嘘をついた。
「ふ〜ん、北川君もこの病院に入院していたんだ」
疑いもなく月宮は俺の言葉を信じる。
苦し紛れの嘘は何とか月宮に通じたようだ。
まあ、入院していたってことは本当なのだがな。
それにしても、言葉が出てこない。もしかして俺は緊張をしているのだろうか。
さっきから話題を振っているのもどちらかというと月宮のほうが多い。
こういうときは男から話題を振って楽しませなければ。
「……ねぇ北川君、これから何か用事があるかな？」
次も話題を持ち出したのは月宮だった。
俺、男失格。
「ん、特にはないけど、どうしてだ？」
「えっとね、ボクずっと前から北川君と話したかったんだよ。北川君と会うときって名雪さんや香里さんに祐一君と一緒だったし、それに天使の人形を見つけてくれたことを改めてお礼言いたかったんだ」
「そういえばそんなこともあったっけ」
「ひどいよ北川君。ボクにとってあれは『しかつもんだい』だったんだから」
「悪い悪い」
嘘。
忘れるわけがない、鮮明に覚えている。
俺があの天使の人形を見つけたから、彼女は今現在をこうしていられるのだ。
「それじゃあ、行こっか」
月宮が唐突に回れ右をする。
「は、何処へ？」
「ボクと北川君に共通する思い出の場所だよ」
そのまま月宮はどんどんと進んでいった。
俺と月宮の思い出の場所だって？
まさか彼女は俺が７年前に月宮の病室に入り浸っていたことを知っていたのか。
そんなことがあるわけがない。
今だってこの目の前の彼女は俺が昔この病院に入院していたことを知らなかったじゃないか。
だけど、月宮は真っ直ぐに病院へと続く道を真っ直ぐ歩いて――その横にあるわき道に入った。
へっ、何処行くのですかい、あなた様は？
俺の戸惑いなんて知る由もなく月宮はどんどんと道を進んでいった。
目的の場所に辿り着くと月宮はくるりと回って俺のほうを向く。
「到着だよ」
そして満面の笑顔を浮かべた。
そこは木々に覆われた場所だった。
「ここは……あの人形があった場所か」
なるほど、確かにここは俺と月宮に共通する思い出の場所といえるだろう。
「やっぱし、お礼を言うならこの場所かなって思っていたんだ。ここは祐一君との大切な思い出の場所の１つだし、そして天使の人形が埋まっていた場所だもん」
月宮は適当な木の前まで行くとそっと手をその幹に手を当てる。
その行動はあまりにも自然で、あまりにも神秘的のものだった。
俺は彼女をその幻想的な仕草に心奪われて、何も喋ることもできずにただ立ち尽くすことしかできなかった。
「この木の下にあの人形は埋まっていたのかな」
月宮は俺のほうを見てそっと呟く。
「いや、半年以上も前のことだから詳しくは憶えてないんだ」
掘った穴はすぐに埋めていたし、何しろあの天使の人形を見つけたときにはすでに太陽はオサラバしていて、月がこんにちはと顔を出していたのでこの辺りは真っ暗だった。
だから、どの木の下にあの人形が埋まっていたかなんて流石に思い出せない。
「そっかぁ……ちょっぴし残念かな」
「悪いな、憶えていなくて」
「ううん、そんなに気にしなくてもいいよ。ボクだって駄目もとで聞いたんだから」
そう言いながらも月宮の表情からは残念そうな雰囲気が漂ってきた。
こんなことを聞かれるなら覚えておけばよかったなと少し後悔の思いが俺の中をよぎる。
「あっ、なんか暗い雰囲気にしちゃってごめんね」
「いや、気にしなくてもいいさ」
「それに何でここにきたのかすっかり忘れていたよ」
月宮は近くの木を背にして立って、その童顔からは似合わない真面目な表情で月宮は俺を見つめてきた。
いつも笑顔を浮かべている月宮とはまた一味違っていて、それはそれで魅力的でもあった。
「北川君、ボクの大切な人形を見つけてくれて本当にありがとうございます」
言葉口調丁寧に、月宮は深々と頭を下げてきた。
「別にそうあらたまって礼を言われるものじゃないさ。たまたまその日は暇だったから相沢の頼みを聞いて、たまたま俺がその人形を見つけただけだぜ、そう大層なものじゃないさ」
そう、あの時の出来事は単なる偶然だった。
まさかそのことで終わったと思っていた初恋を引きずり出してくるとは思いもしなかった。
「それでも、ボクにとっては大切なことだよ。北川君のおかげでまたこうして自分の足で歩けるし、大切なタイヤキもいっぱい食べられるし、いろんな友達と笑い会えるし、それに……」
「それに？」
俺は鸚鵡返しに言葉を繰り返す。
「それに、また祐一君と一緒にいられるから」
そう言って月宮は笑顔ながらも頬を真っ赤にして照れを表す。
月宮のナイトとして誓った俺としては月宮の笑顔は嬉しいことなのだが、俺の心は月宮の喜びを素直に祝福できなかった。
報われない恋に恋焦がれる愚かなナイト。秘めた思いを告げることができない気の弱いナイト。
今の俺を的確に表している形容詞だと思う。
それを考えれば水瀬の行動は勇気あるものだと心の中でもう一度感心する。
たとえ結果が分かりきっていようと、思いが叶わないものだとしても、今の自分の気持ちをはっきりと言葉として伝えているのだから。
それに比べて俺は何なのだろう。
気持ちは決まっているのに伝えることもできない、伝えようとも思わない、ただ笑顔を見守るだけで満足してしまった恋の敗北者そのものだ。
「情けないよなぁ」
小さく呟く。
月宮に聞こえないように口の中で小さく呟く。
だから神様お願いします。
自分の思いを伝えることができるくらいの小さな勇気をください。
ほんの少しでいいですから、一握りの勇気をください。
「なぁ、月宮」
「どうしたの北川君、そんな真面目な顔をして？」
「ごめん」
「へっ？」
俺は月宮に向かって頭を下げた。
いきなり謝られた彼女はキョトンとしている。
それもそうだろう、彼女に俺が謝らなければいけない理由を知っているわけがない。
「な、何で北川君が謝っているの？ ボク北川君に謝られることをされた覚えなんかないんだけど……えっと、えっと、うぐぅ」
混乱が月宮の周りを走り回っている。
慌てふためいている様も凄く可愛らしい。
もう迷わない、空から舞い降りてきた小さな勇気を胸に俺は口を開く。
「実は俺が月宮の前に現れたのは偶然じゃないんだ」
「そうなの？」
「水瀬に頼まれたんだ」
「名雪さんに？」
俺の言葉の相槌に月宮は疑問符で繰り返し答える。
「水瀬に相沢と２人っきりになりたいからと言われて、今日俺は月宮の足止めをしに来たんだ。そして、当の本人である水瀬は相沢の奴に告白をしている」
「……本当？」
「本当だ」
「嘘ついてないよね？」
「嘘じゃない」
何度も聞いてくる月宮に対して、俺は何度も真実を示した。
俺の返答を聞くたびに彼女の表情が強張っていく、心の内を思うと俺の心は痛いが仕方がない。
それは俺が招いた結果であって彼女が悪いわけではない、すべて俺の責任だ。
「水瀬はずっと昔から相沢のことを思っていた。相沢の奴には月宮がいると分かっていても、水瀬は自分の気持ちに決着をつけたいと言って俺に相談してきたんだ」
「それで協力したんだ」
「ああ」
俺は静かに肯定を認めた。
「でも、それだけが理由じゃないんだ」
「えっ」
月宮は驚いたような顔をして俺を見つめる。
不意に俺の頭の中であの時の場面がリピートされた。
気持ちが、心が、あの時に戻る。
今、この世界には俺たち２人きりのような不思議な感覚があたり一面に広がってゆく。
喉がカラカラに渇いてくる。
頭の中が真っ白になって何も考えられない。
それでも俺のなけなしの勇気が背中をトンと押してくれた。
「俺、月宮のことが好きだ」
短く、それでいてすべてを表した言葉が俺の口から飛び出した。
一瞬世界が止まったような感覚が俺たちの周りに漂う。
「冗談……だよね、北川君？」
「こんなこと冗談で言えるものじゃないさ」
俺の突然の告白に戸惑いを隠せない月宮。
月宮にとっては青天の霹靂なのかもしれないが、俺にとってはずっと心に秘めていた想い。
いくら信じられないからとしても冗談だなんて言われると少し傷つく。
「突然そんなことを言われても、ボクどうしたらいいのか分かんないよ」
月宮がそう思うのは無理もない。
例えば俺が同じの立場に立ったとしたら、彼女と同じように戸惑って何をすればいいのか分からなくなっていただろう。
「難しいことは言わないさ、月宮が俺に対してどう思っているのかが知りたいんだ」
だけど戸惑っている彼女に対して答えを求めようとしている。
なんて俺は酷い奴なのだろう。
彼女を困らせるようなことをしている。
「言わなきゃだめ……かな？」
恐る恐るといった感じで月宮は自分なりに考えたこの場の対処法を提案してくる。
「だめ」
だけど俺はその提案を一言でバッサリと切り、月宮に対して答えを求めた。
また空間に静寂が広がり、重苦しい空気が辺りを占める。
俺は彼女が口を開くまでずっと待った。
待っている時間は一瞬とも永遠とも感じられるくらいの長さに思えた。
「好きだよ」
静寂を打ち破って月宮が声を上げる。
素直に嬉しかった。
だけどその嬉しさは彼女の顔を見るまでだった。
「でもそれは……」
月宮の顔が涙をこらえるようにしてくしゃくしゃに歪んでいる。
それなのに無理にでも笑顔を作ろうとしていた。
「友達としてだから……」
目の端から涙があふれ出ていた。
あふれ出る涙は頬を伝わり地面を濡らしている。
「ひっく、ごめんな……さ……」
言葉は最後まで聞こえなかった。
そのまま月宮はしゃがみこんで嗚咽を漏らし始めた。
肩を震わせて泣く彼女の姿は俺の心に辛く響く。
「ごめんな月宮、なんか辛い思いまでさせちまって」
ズボンにねじ込んであった愛用のハンカチを月宮に渡して、泣いている月宮の隣に俺も座る。
ある程度彼女が落ち着くのを待つ間、俺は遠くのほうに映る病院を見ながら話を続けた。
「こうやってはっきりと自分の気持ちを伝えるってことは案外すっきりするものだな。胸の中にあったもやもやが綺麗さっぱりなくなったみたいだ」
「……凄いね北川君」
少し落ち着いたのか月宮は伏せていた顔を上げ、俺と同じように遠くに見える病院へと視線を向けた。
「想いが届かなかったのに、伝わらなかったのに、いつもと変わらないでボクに優しくしてくれる」
「そんなことは当たり前さ、俺は今だって月宮のことが好きなんだ」
今は言える、まっさらで正直な気持ちを、偽りない真実を。
自分の本心を言えるということは、なんてすがすがしい気持ちなのだろう。
「もし、相沢のことでなんか問題があったらいつでも相談に乗ってやるぞ。俺は月宮の笑顔を見ていたいんだからな」
「うん」
「別に振った相手だからって躊躇うことはないぞ」
「うん」
「……そこは少し遠慮してほしかったな」
「えっ、そうなの？」
「まぁ、そんな月宮だから好きなんだけどな」
「なんかボク馬鹿にされているのかな」
「そんなことないぞ」
そう言って俺は大声で笑い出した。
月宮もそれにつられ声を上げて笑い声をあげる。
何が面白いのか分からない、何が楽しいのかも分からない、それでも自然と俺たちの間には笑いが生まれていた。
「……そろそろボク帰るね」
一頻り笑いあった後、月宮がすっと立ち上がる。
ああ、と俺は返事をして彼女を見て――心を奪われた。
日の光が木々の間から漏れて辺りを美しく染め上げ、同じように彼女にも自然の化粧がかかっていた。
その瞬間だけ幼い外見を持つ月宮が大人に見えた。
「そうだ、北川君のこれからの未来が上手くいくようにおまじないをかけてあげるよ」
「ちなみにそのおまじないにはどんな効能があるんだ」
「うーん、あえて言うなら『次の恋が上手くいきますように』かな？」
「なぜに疑問詞」
「文句言うならかけてあげないよ」
「俺が悪うございました」
思わず卑屈に謝ってしまった。
気づいたら立場が逆転している俺と月宮。
もしかしたら月宮には悪女の資質があるのじゃないのだろうか。
まあ、それも相沢の前では何の役にも立ちそうもないがな。
「うん、じゃあ目つぶって」
そう言って月宮は俺に顔を近づけてきた。
俺も月宮の言った通りに目をつぶる……って、ちょっと待て！
あまりにも自然に話すから疑いもなく従ったけど、この流れってもしかしてアレへのパターンじゃないか。
「月宮、お前何を――」
するんだと言えなかった。
俺が話している最中、俺の頬に触れた温かくてこそばゆい感触。
その慣れない感触に俺の頭の中は完全にショートしてしまい、無意味に瞬きの回数が増える。
俺は呆けた感じで彼女を見上げると、小さな口から舌をぺろっと出し小悪魔のような笑みを浮かべていた。
確かめるようにして俺は感触が合った自分の頬に手を添える。
ほんの少しだけ湿っぽくて温かい。
その感触がキスだということを認識するのに数秒間を要し、彼女の大胆な行動に冷静を装いつつ軽く混乱を起こした。
「えっ、今のってまさかキ――？」
「祐一君には内緒だよ！」
混乱さめやまない俺を尻目に月宮はすでに来た道を駆けていた。
残された俺はただ呆けるだけ。
気づいたら月宮の姿は俺の視界から消え去っていた。
「お役目、ごくろーさま」
月宮が走り去った後も呆けていた俺に誰かが話しかけてきた。
今の俺に向かって「お役目」なんていう奴は１人しかおらず、ゆえに誰が話しかけていたなんておのずと分かる。
いつまでも返事をしない俺に不思議に思ったのか、そいつは俺の顔を覗くために隣に座ってきた。
そうなると必然的に俺の顔の前にそいつの顔が現れる。
「聞こえている？」
「ああ」
「だったら、返事くらいしてほしかったな」
「ちょっと、ボーっとしてた。で、やりたいことはやったのか水瀬」
水瀬はそう俺に話題を振られるとなんか満足そうな顔でしっかりとした口調で遠くを見ながら答えた。
「うん、告白して振られて来たよ」
「辛くないのか」
「分かりきっていたことだけど、やっぱり涙を我慢することができなかったよ。祐一の胸でわんわんと泣いちゃった」
「そっか」
よく見ると水瀬の目が赤く充血している。
どれくらい涙を流したかは一目瞭然だろう。
「でも、７年間のもやもやを全部言えたんだから私は満足かな」
「実は俺も」
「俺も？」
鸚鵡返しに訊ねてくる彼女に俺は苦笑交じりで答えた。
「ああ、俺も水瀬と同じように７年間秘めていた想いを伝えて、同じように振られたんだ」
「誰に……って、もしかしてあゆちゃん？」
「そのまさか」
水瀬は信じられないというような表情を浮かべる。
それもそのはずこの事は親友の相沢はもちろんのこと、誰にも言ってない俺だけが知っている秘めた思い。
彼女が知らないのも当たり前のことである。
「北川君があゆちゃんを見る目が優しかったのはそんな理由があったんだね」
「まっ、そういうこと」
「そっか、北川君ってあゆちゃんのことが好きだったんだぁ……なんだか意外だな」
水瀬にとって何が意外なのだろう。
俺自身そのことに心当たりがあるわけが無く、それが何なのか水瀬に聞いてみた。
「北川君って香里のことが好きだと思っていたから」
周りから見るとそういう風に見られているんだ、と俺は意味も無く感心した。
確かに美坂とよく話すフリーの異性は俺ぐらいなもんだろう。
相沢は月宮という立派な彼女いるから問題外。
そして他の奴らは何が畏れ多いのかは分からないが、親しく話しかけてくるということは無い。
それらのことから水瀬が言ったような結論が導き出されたのだろう。
「それは無いさ、美坂とは仲の良い友達としか思ってなかったし、それに美坂との間には恋愛感情というフィルターにかけて見たことは無かったしな」
「ふーん、初めて知ったよ」
「人様の恋愛なんてなかなか分からないさ」
そう言って沈黙が俺たちを包み込む。
だけど沈黙は決して苦痛ではなく、むしろ安らぎを感じる。
同じ経験をした２人だからこそなしえる不思議な空間。
「ねぇ、北川君」
「なんだ」
「振られた者同士、仲良くヤケ酒でもしようか？」
唐突に水瀬がよく分からない提案をしてくる。これだから天然って分からない。
しかし彼女が提案した案は魅力的ではあるが、休日の昼間から酒を飲むほど俺は落ちぶれても無いし馬鹿でもない。
それ以前に俺たちが飲酒するのに大きな障害がある。
「俺たちは未成年だ」
「じゃあ、百花屋でヤケジュース」
一気にレベルが下がったような気がする。
「なんか瞬間で情けなくなった気がするが……まぁ、いっか。今日はとことん付き合ってやるよ」
「北川君の奢り？」
「ワリカン」
「残念」
「振られた者どうし助け合うのもいいだろ」
俺は立ち上がって水瀬に手を差し出す。
初めは差し出された手を何のことか分からずキョトンと見つめていた彼女だったが、数秒間たった後ようやく俺の意図に気づいて、俺の手をぎゅっと握り締めた。
「では百貨屋までエスコートいたしますよ、お姫様」
少しおどけた感じの言葉と一緒に水瀬を引っ張って立たせる。
「うむ、くるしゅうない」
水瀬も俺の悪ふざけに乗ってくれる。
「そのセリフ似合わないぞ、水瀬」
「その言葉を北川君にそっくりそのまま返すよ」
そう言って水瀬はにっこりと笑う。
俺もつられて笑みがこぼれた。
笑っている間、ふと思う。
振られた同士の俺たちなのにそんな雰囲気が微塵と出ていないのはなぜだろう。
今この場でも、いつものように話して、いつものように馬鹿をして、いつものように笑って――と、変わらない俺たち。
たとえ振られた本人に出会っても、俺と水瀬は変わらないで笑っていられるだろう。
「気どったセリフなんて言うもんじゃないね」
「それに関しては俺も同意だ。自分で言って首の辺りが痒くなってきやがった」
「実は私も一緒だよ。なんかぞーってきちゃった」
俺は首を引っ掻くジェスチャーをして苦笑いを浮かべ、水瀬はペロっと舌を出して首を少し傾けた。
「慣れないことはするものじゃないな」
「そうだね。それよりも早く百花屋に行こうよ」
そう言って水瀬は俺の手を引っ張るようにして駆け出した。
「おっ、おい。そんなに急ぐなって」
俺の声が水瀬に聞こえるわけも無く、彼女に引っ張られている俺も必然的に走ることになる。
いくら引退したからといったって彼女は元陸上部の部長。
毎朝遅刻ぎりぎりの地獄マラソンを行っていない俺にはかなり辛いスピードだ。
「頼むから、走るじゃなくて、歩かないか、運動神経平均の俺には、このマラソンは辛い」
「あっ、ごめん北川君」
息切れから俺の辛さに気づいてくれたのか、ようやく水瀬は走るのを止めてくれた。
「あと出来れば手も離してくれないか、流石に人に見られるのは恥ずかしい」
「わっ、私いつの間に握っていたんだろ」
慌てて水瀬は俺の手を離す。
恥ずかしさからかその顔は赤く染め上がっている。
水瀬にそういう反応をされると俺も恥ずかしくなってくる。
「ごめんね、恥ずかしかったでしょ」
「いや、割と役得だったから五分五分ぐらい」
女の子の手を握る機会なんて滅多に無いからな。
俺の手を握っていた水瀬の手が柔らかく心地よくドキドキしたのはここだけの秘密。
「まあ、ゆっくりと行こうぜ。急がなくても百花屋は逃げるもんじゃないし」
「それもそうだね」
水瀬を促して俺たちは百花屋へと歩いていった。
そして俺と水瀬は百花屋でヤケジュースを片手に飽きるまで話しあった。
月宮のことを、相沢のことを、そして自分たちのことを――。
俺たちの周りには悲しみとは程遠い笑い声に包まれていて、時間なんてものは無いに等しいものだった。
気づくと時計の短針は７を示していた。
水瀬と別れた帰り道、ふと月宮の顔が頭に浮かんだ。
『おまじないをかけてあげるよ』
そう言ってかけてくれた、２人だけの秘密のおまじない。
月宮は『次の恋が上手くいきますように』と言ってくれた。
そんな彼女の心遣いは俺自身が情けないと思う前に素直に嬉しかった。
だけど、振られてすぐに次の恋に進めるほど俺は器用じゃない。
水瀬と百花屋で話しているのは確かに楽しかったが……って、ちょっと待て。
次の恋ということから、何で俺は一番初めに水瀬のことが頭に浮かんだんだ？
俺の中に一つの可能性が浮かび上がる。
もしかして、俺は水瀬のことを――。
「まさか……な」
自分の中に生まれたぼやけた気持ちを否定しながら、俺は月宮にかけられたおまじないの場所を指でなぞる。
不思議と頬は微かな温かみを帯びていた。
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