「ん……」
春の陽気にあてられたのか。放課後の教室、窓側の席で寝入ってしまっていた。それを遮ったのは、廊下の奥から聞こえてくる騒ぎ声。
眠気を振り払うように、軽く頭を振ってから、教室の天井を見上げた。
「栞？」
「はいはい。分かってますよ。本当に守護霊使いが荒いんですから」
毒づきながらも、あたしの望んだとおり、騒ぎを見に行く栞。もっとも、言われなくても見に行っただろう。好奇心の強い子だから。
いつもなら、多少の騒ぎを気にすることはないけど、何か嫌な予感がした。夢見が悪かったせいかも知れない。夢の内容は覚えていないが、寝汗と動悸が、それを裏付けていた。
「お姉ちゃんっ、大変ですっ」
そのとき。栞が大慌てで戻ってきた。壁や床が障害物にならないので、行って戻ってくるまでが早い。しかし、栞が告げたのは、そんなことも吹き飛ぶような衝撃だった。
「祐一さんが、階段から落ちたって！」
「え……？」
静かに、保健室の扉を開ける。大きな外傷は見当たらなかったことで、とりあえず保健室に運ばれたらしい。打ちどころが悪くなければいいんだけど。
「いらっしゃい。美坂さん」
部屋の中に入り、扉を締め切る前に、声がかかった。
いつもはカーテンによって遮られている、ベッドの横に座ったまま。こちらに顔を向けたのは、白衣を羽織った保健教諭だった。名前は、よく覚えていないけど。
普段、柔らかな笑顔の耐えない先生なのだが、今は若干厳しい顔をしている。
「ごめんなさいね、今取り込み中だから、少しだけ待ってくれる？」
「あ、いえ。用があるのは……」
静かに近づき、先生の上から、ベッドを覗き込む。そこには予想した通り、相沢君が眠っていた。
「……やっぱり」
「相沢君と知り合い？」
問いに、ゆっくりと頷く。以前、生徒たちの顔と名前を全部覚えていると言っていたけど、さすがにその交友関係までは、完全には把握していないらしい。
「そう」
先生はそう呟くと、ふうと息をつく。その仕草に、嫌な予感がますます膨らんだ。
「階段から落ちたらしいの。外傷はないんだけど、どうも頭を打ってしまったようね。病院で精密検査を受けてもらおうと思って、救急車をお願いしたところ」
そして、悪い予感は、得てして当たる。
「そう、ですか……」
あたしと栞の心配にも関わらず、相沢君の表情は穏やかだ。
「祐一さん……」
栞も嫌な予感を感じだのだろうか。相沢君の真上、近くまで飛んでいった。
「そうだ。相沢君のご家族に連絡したいのだけど、美坂さん分かる？」
先生が思い出したように言う。
「え？ あ、はい。名雪……相沢君のいとこが同級生なので」
名前だけじゃ分からないかも知れないと思い、言い直した。しかし先生には、それで通じたようだ。
「ああ、水瀬さんね。じゃあ悪いけど、連絡とってくれる？ 私はここで、相沢君の様子を見ているから」
「分かりました」
名雪は、この時間なら、まだ部活だろう。ここからグラウンドまでなら、さして遠くない。あたしは、すぐに保健室を後にする。
栞は、相沢君の傍に残った。
半ば駆け足で、グラウンドにでる。少し乱れた息を整えて、あたりを見回した。そこでは丁度、女子陸上部の面々が、トラックに沿ってランニングをしていた。先頭は名雪。引継ぎがまだなので、変わらず部長をやっている。
「名雪っ」
近くまできたところで、声をかける。名雪はそれに気づくと、後ろの部員たちに一声かけて、そのままあたしのところまで走ってくる。あたしの様子から、急用だと思ったのだろう。
「どうしたの、香里？」
息を乱さず、声にした。さすが、とは思ったが、今はそういう関心をしている場合ではない。
「相沢君が、階段から落ちたのよ。今保健室で寝てるけど、もうすぐ救急車がくるわ」
「わっ、大変！ すぐ着替えてくるからっ」
言うやいなや、さっきまでのランニングが嘘のようなスピードで、部室に向かって駆け出した。途中で他の部員に、言葉を投げかけている。
あたしはそれを最後まで見ずに、保健室に取って返した。このままでは、置いていかれてしまう。
あたしと名雪が保健室に入ったのは、ほとんど同時だった。名雪は、いつどうやって着替えたのか分からないけど、きちっと制服を着込んでいる。
「祐一っ」
「しっ」
大きな声を上げようとする名雪を、保健の先生が口元に人差し指をあてて、制した。
相沢君は、まだ眠っているらしい。
名雪が相沢君の方へ近づこうとすると、あたしの後ろ、廊下の奥が俄かに騒がしくなった。
振り返ると、担架をわきの下に抱えた二人組み。救急隊員が到着したようだ。
あたしたちは、扉の前から離れる。そのタイミングを見計らったように、隊員たちが保健室に滑り込んだ。そして、手早く相沢君の容態を確認すると、ゆっくりと担架におろした。
「ご家族に連絡は？」
二人の隊員のうち、年配の方が先生に確認すると、先生は名雪を手招きした。
「この子が家族です」
「では、付き添いを……」
「はいっ」
言葉を途中で遮って、勢いよく返事をする。よほど相沢君が心配なのだろう。
あたしはふと思いついて、もう一方の、比較的若い救急隊員に聞いてみた。
「相沢君がどこの病院に運ばれるかって、分かりますか？」
「ああ。たぶん、駅の近くにある市立病院だと思うよ」
「ありがとうございます」、と礼を言って、名雪に向き直る。
「秋子さんには、あたしから連絡しておくから。名雪は気にしないで相沢君に付き添って」
「ありがとう、香里」
挨拶もそこそこに。名雪は、相沢君を運ぶ救急隊員たちについていった。
「栞も。行きたいんでしょ？」
「でも、私は一応、お姉ちゃんの守護霊ですから……」
「そんなそわそわした態度で何言ってるの。あたしがいいって言ってるんだから、さっさといきなさい」
「う、うん。ありがとう、お姉ちゃん！」
栞はそう言い置いて、慌てて飛んでいった。
「美坂さん、誰と話してるの？」
……人がいるの、忘れてた。
「いえ、なんでも」と笑って誤魔化しながら、あたしも保健室を後にする。名雪の家に、連絡を入れないと。
校内の公衆電話で秋子さんに用件を告げて、学校を出る。
「お姉ちゃん……」
するとそこには、泣きそうな顔で佇んでいる栞がいた。
「どうしたの？」
相沢君を追いかけて、救急車に乗り込んだはずなのに、という意味をこめて聞く。
「車に追いつけなかった」
「あ、そ、そう。それは残念ね」
考えてみれば。このままで車に乗ることなんて、できないだろうし。加えて、どうやら飛べる速さには限界があるらしい。
「とりあえず、病院に行く？ 名雪に聞けば、相沢君の容態も分かると思うけど」
「是が非でも！」
「あら。難しい言葉覚えたのね」
「時間だけはありますから」
すぐに病院に向かっても会えないだろうということで、一度家に帰って着替えることにした。
着替えて、多少身だしなみを整えてから部屋を出ると、いつのまにか着替えた栞もついてくる。冬によく着ていた、タートルネックのセーターとスカート。その上に、ストールを羽織っている。でも、栞は、相沢君がどうなったかが気になって仕方が無いのか、落ち着きがなかった。
「じゃあ、行きましょうか」
そう告げる。そろって我が家を後にした。
病院の受付で聞くと、あっさりと病室を教えてくれた。やっぱり、大事にはいたっていなかったのだろう。
少し安心して、病室に入った。
「あ、香里。来てくれたんだね。そうだ、お母さんに連絡してくれて、ありがとう」
「お久しぶりね、香里ちゃん」
そこには、名雪と秋子さんがいた。二人に軽く挨拶を返してから、中に進む。
相部屋みたいだけど、今は相沢君の他に、患者はいないようだ。
「お、香里か。見舞いの品はどこだ？」
唯一埋まっているベッドの上では、相沢君が元気に片手をあげて、あたしを迎えてくれた。
「……やっぱり相沢君ね」
「どういう意味だ？」
「言葉通りよ」
頭に巻かれている包帯が痛々しいけど、元気そうで安心する。
「怪我をしても変な人ってことよ」
「大きなお世話だ」
「あら、誉め言葉よ？」
あたしの言葉に、名雪と秋子さんが、くすりと笑った。
そのとき。看護婦さんが一人、入ってくる。秋子さんに何か告げると、そろって出て行った。
「一応、今日は入院するみたいだね。わたしも行ってくるよ」
「そう。まあ、頭を打ったらしいからね。行ってらっしゃい」
名雪も二人の後に続き、病室を出て行く。
広い病室には、あたしたち二人と、栞だけが残された。
「祐一さんが無事でよかったですー」
「栞も、相沢君が無事で喜んでるわ」
瞬間、相沢君が怪訝な表情をする。
どこか、楽観的に見ていたのだと思う。
どうしても、栞のときと比べてしまうから。多少の怪我くらいは、と。
それだけに、相沢君の、その言葉は、ショックが大きかった。
「栞……？ 誰だったっけ」
目の前が、真っ暗になる。
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