美坂香里は、頭を抱えていた。
「なんでこんなことに……」
秀麗な眉目をゆがめ、ベッドにうずくまる。
その原因は――
「お姉ちゃん、どうしたんですか？」
――ふよふよと、宙に浮いていた。
めぐり、ひとひら。
「引越し……？」
栞との告別式の後。香里は両親に呼び出されて、リビングに入る。そこでは、ずっと沈んだままの両親がソファにうずくまり、その前に置かれたテーブルを睨みつけていた。……実際に睨んでいたのは、そこに映る自身の顔だったのかも知れない。
俯いたままの両親が告げた言葉が、「引っ越そうと思う」というものだった。
香里はそんな両親に何も聞けず、ただ静かに頷くしかなかった。それに、それは、自分も考えていたことだったから。
「そう、ね。この街は、辛いことが多すぎたから」
それは主に、家族の愛する次女にまつわるものだったが、今まで誰もそのことに対して、不平を述べたことはなかった。しかし。その少女が永遠に家族の前からいなくなったことで、それまでの気疲れが、一度に襲ってきたのだろう。もちろん、そうと口にするものは誰もいなかった。
「……寝るわ。おやすみなさい」
詳しい話は日を改めるということになったので、香里は早々に部屋に引き上げた。今は何も、する気力がなかったから。
はぁ、と溜息をつきながら、香里は自分の部屋に入りながら、パタン、と後ろ手にドアを閉じた。そして、まっすぐベッドに向かって倒れこむ。一瞬宙に引っ張られるような感覚が、心地よかった。このまま星になれたら、と香里は思う。しかしそれは、誰も望まず、そして叶わぬ思いだった。
「引越し、か」
香里は、辛いことから目を背けていながら、今更だとは考えたが、同時に。後ろ髪の引かれる想いをしているのは、否めなかった。
もやもやしたまま、纏めきれない気分を振り払うように、ころんと仰向けになる。
――そして、目が合った。
「引越しなんて、困りますっ」
向こう側が透けて見え、真上から香里を覗き込むように見つめていた、ストールを羽織った少女と。
「え……な、なな、な」
「奈々……七？ 七日には引っ越すって言うんですかっ!?」
驚きのあまり、ろれつが回らなくなる。しかしその対象は、別の意味で驚いていた。
「だったらなのかって言うわよってそうじゃなく！」
「わっ。お姉ちゃん、ノリ突込みというやつですねっ」
「な、なんであんたがいるのよっ!? しかも宙に浮いてっ！」
「お姉ちゃん、近所迷惑ですよ？」
そこで、香里は口をつぐむ。近所はともかく。両親にできるかぎり気を使わせないよう生きてきた香里の、それは反射的な行動だった。同時に、落ち着こうという意識がはたらき、とりあえず、といった風に深呼吸する。
そして、必死に状況を理解しようと、考えを巡らせた。
「なんでこんなことに……」
「お姉ちゃん、どうしたんですか？」
分かるわけが無い。こういうときは、本人――というのだろうか――に聞くしかなかった。
「……えっと。こういう場合、どこから突っ込めばいいの？」
十分に吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出したあと、疲れたように口にする。とあるクラスメートなら、また違った反応をしただろう、と香里は思う。しかし香里は、芸人じゃなかった。
「んー。せっかくまた会えたのに、お姉ちゃんあまり楽しそうじゃないね？ 私は嬉しいのに」
対する、霊体らしき、香里の妹――栞――は、なんだかとっても落ち着いていた。
「状況にもよるわよ……」
いきなり妹が幽霊に化けて出てきたら、大抵の姉は驚いて、怖がると思う。香里は、そう言いながら息をついた。
「お姉ちゃん、落ち着いてるじゃないですか」
「そりゃ、ね。あんたがあまり変わってない……どころか、ちょっと明るくなってるんじゃない？」
死んだのに、とは、香里は続けることができなかった。栞はそれを察したのか、尚更明るく答えた。
「だって、もう病気に怯えることもないし、お姉ちゃんを苦しめなくていいんだから」
その言葉にこみあげるものがあった香里だが、なんとかそれをおしとどめることができた。状況がどうであれ、再会できて嬉しいのは、香里も一緒だったから。
「……ごめんね」
過ぎた冬を思い出しながら、呟く。いろんな、意味をこめて。
「もう。あのとき散々謝ってもらったじゃないですか。私は最初から、怒ってないって言ったのに」
「そう、だったわね」
奇妙な縁で、それぞれ別々に知り合うことになった、一人の少年。その少年が、かすがいとなり、姉妹は互いの壁を崩すことができた。妹の、生きているうちに。
「うん、あたしも嬉しいわ。また会えて」
香里はそれで、やっと笑うことができた。
「でも、ずっと一緒にいられる訳じゃないんでしょ？」
そして、そう問いかける。
既に香里には、先ほどまでの悲壮感はなかった。一度悲しみの底にいたというのに、当の本人がこれでは、拍子抜け。今なら、笑ってさよならできる気がした。
「ずっと一緒ですよ？ お姉ちゃんの守護霊になりましたから」
「はぁ？」
栞の突拍子もない話に、香里は、先程からひびの入っていた自分の常識が、がらがらと音を立てて崩れていくのを感じた。
「守護霊って……。本当にあったのねえ」
呆れたような言葉を言いかけたが、目の前に生きた、というか死んだ、というか、見本があるのを思い出し、途中からしみじみと呟いた。香里は、目の前の現実を否定するほど、常識に固執してもいなかった。少なくとも今は。そんな香里の心情にも関わらず、
「そんなわけですから。引越しは止めるように、お父さんとお母さんにも言ってください」
守護霊になっても、栞はマイペースだった。
「どういうわけよ」
流れを無視した栞の発言に、思わず繰り出した裏手は、しかし栞の身体に当たることはなかった。それが、香里には、少しさびしかった。
「だって、祐一さんと、離れ離れになっちゃうじゃないですか」
「……姉より彼氏優先なのね」
呆れ半分、揶揄半分の、香里のセリフ。その言葉に、栞は、姉と再会してから、はじめて寂しそうな表情を見せた。
「……もう、祐一さんは彼氏じゃありませんから」
言い過ぎた、と香里は思う。しかし、それに気づいた栞に、気を使うような笑顔を見せられたら、謝ることはできなかった。だから、香里は憎まれ口を続けるしかない。
「でも、引越しが嫌だったら、相沢君の守護霊になればよかったのに」
「……先客がいましたから」
「先客？」
「あぅーって鳴く狐さんでした」
「……それ、狐憑きって言うんじゃないの？」
それから姉妹は、刻の経つのも忘れて、語り合った。
永遠と思った別れから、まだ日は浅い。しかし、共に言葉を交わさなかった時間は、もっと長かった。だから、話が尽きることはない。
やがて、話し疲れた香里は、静かに眠りにつく。それを、穏やかに見守る栞。生きているうちに、見ることができなかった、姉の表情。静かな寝顔は、そのひとつだった。
「栞……」
夢でも見ているのか、香里は、妹の名前を呟いた。そして、悲しげな表情と共に、目尻を涙が伝う。
そっと、指を伸ばし、それを拭おうとする栞。しかしその指は、するりと香里の顔を通り抜ける。
「また会えたのは、嬉しいけど」
そっと、指先を目の先に持っていき、うつろな瞳で見つめる。
「もう、お姉ちゃんの涙を拭くのは、他の人に任せるしかないんだね」
寂しさと、自分から解放されるかも知れない可能性に対する喜びとが、栞の中を渦巻く。そんな想いを振り払うように、栞は首を振った。
「私がこんなふうじゃ、ダメだよね」
今の栞は、姉を幸せに導くためだけに存在しているのだから。
栞は雑念を振り払うように頭を振ると、そっと家の外に出た。霊となった栞には、壁や窓は障害物にならない。
見上げると、満点の星空。
見とれてしまいたくなるような情景にも関わらず、栞は言い知れない恐怖のようなものを感じた。その景色は、生きているときよりも身近に見えながら、生きているときよりもなお遠くにあるように思える。
世界に含まれながらも、うつし世とは隔たりのある存在になったことが、そんなことを感じさせた。
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