さて皆々様、お立会い。これは一人の喜劇を演じ続ける道化師のお話。否、その本人自身、道化を演じている事にすら気付かない、気付けない。馬鹿は死なねば直らない、とは終ぞ良く言ったもの。我々に出来る事は彼の未来が少しでも明るいものへとなる様、ただただ祈るのみ――
Perfect Boy
俺ははっきり言って完璧だった。勉強は何時でも上位に食い込んでいたし、スポーツだって運動部から助っ人を頼まれる程の実力だ。家事一般だってこなすし、極力皆の好かれる様にも接して来た。自分で言うのも何だが、ルックスにもそれなりの自信がある。事実、告白された事だって何回もあるんだ。俺は言わば、学園のアイドルだったんだ。
――アイツが来るその日までは
「ふぅ……」
学校の屋上で一人溜息。空は快晴、風が気持ち良い。果たして、俺の吐く息はこの風に乗って何処まで行くのだろう？ そんなちょっとした考え、想像する。アメリカの摩天楼まで届くのか、南米のジャングルの木々を微かに揺らすのか、はたまた２,３メートルで霧散するのか。恐らくはすぐに消え去るのだろう。
流行なんてそんなものだと思う。一時期だけ、案外に長いと言う印象を持たせるかもしれないが、歴史と言う名の膨大な時間の中ではやはり一瞬だけの出来事。刹那の時を必死に燃える蝋燭の様に、いやそんな必死ですらないそれはすぐにでも消え去る。何の抵抗も燃え続けようとする努力すらも何もしない。だってする意味が無いのだから。また違う流行がやって来て、今までのそれは忘れ去られる。きっとそう言うもの。
「……雲、一つ」
理由なんてはっきりしていたんだ。アイツ――相沢祐一が来てから、俺の流行は終わったんだって。そんな事は分かり切ってる。けれども諦めが付くって訳でもある訳が無い。納得がいかないのは当然だ。今まで俺に向いていた羨望の眼差しだとか頼って来る奴等とか、そんなもの全部が纏めて相沢の方に向いてしまったんだから。そんな奴等の俊敏過ぎる変わり身に嫌気がさしただけ。相沢自体は悪く無い。
「……」
五月の風が頬を撫でる。ようやく春らしくなってきた、この雪の街。かつての白銀の世界であったここからの景色も今は春色だ。風がもう一度吹く。気持ち良い筈のそれも、今は鬱陶しい。妙に苛立つのは、俺が焦っている証拠。
下が騒がしい。中庭の方だった。
「……ん？」
そこには相沢と彼の恋人の美坂栞とクラスメイトの水瀬名雪、そして美坂香里がいた。皆、楽しそうに多くの重箱弁当を食べながら談笑している。彼等の笑顔を見ていると、俺は何故だか非常に不機嫌になってきた。
大体、美坂も水瀬も現金なんだ。相沢が来るまでは、結構俺に頼ってきていたのに、今じゃあさっぱりだ。当然だろうか。ただのクラスメイトの俺よりは、従兄である相沢や、妹の恋人である相沢の方が頼りやすいのだろうか？ そんな事は無い筈だった。二人とも一年の頃からの友達だ。別に今更気がねする間柄でも無いと信じていたのに……。
「なーんか、面白くね〜の」
むかついたんで、ポケットから煙草を一本取り出す。何時だったかの誕生日に親父から貰ったジッポで火をつけた。煙を思い切り吸いこむ。
「げほっげはっごほっ!! ……かっこわりぃなぁ」
人には見せれない。
「いや全くだな。それぐらい吸える様になりたまえよ」
顔を上げるとそこには、生徒会長であり俺の親友である久瀬がいた。彼もまた煙草を一本咥えている。俺よりも様になっているのは、コイツの方が吸い慣れている証拠である。
「楽しそうだな、彼等は……。君はあの中に行かないで良いのか？」
「行きたく無いだけだ」
そうか、とだけ呟き紫煙をゆっくりと吐き出す久瀬。こいつ相手だと昔から知っている仲である故か、言葉に棘がある場合が多い。今じゃ大分マシにはなって来ていたと思ったのだが、やはり抜け切れていないみたいだった。
「何、奴の鍍金もすぐにはがれるさ」
「それは慰めのつもりか？ アイツのあれは真性だよ。俺みたいなのとは違うさ」
自虐にも似た言葉。慰めてもらいたい訳じゃない。悲劇のヒーロー気取ってるナルシストになるつもりも無い。ただ俺は……
「認めてもらいたいだけだった……かね？」
「うるせえっ!!」
久瀬の分かり切った言葉が癪に障る。俺はそのまま久瀬をそこに残し、屋上を後にした。これ以上久瀬と一緒にいると、奴を殴ってしまいそうだったから。それだけはしたくない。関係の無い奴に八つ当たりをする程落ちぶれちゃあいないつもりだったから。
「……君は十分に認められていると言うのに……何故、気付かないんだ」
久瀬のそんな呟きが走り去った潤の耳に届いている訳も無く……
「完璧であり続けなければならない、か。……そんな事不可能だと言う事、お前も気付いているだろう」
久瀬はただ空を見ながら呟く。
「傍観者と言うのも……案外辛いものだな」
彼の呟きが果たして何処まで風に乗って運ばれるのか。彼自身、分かるわけも無かった。
「北川君……どうしたの？」
本日の授業が終わる。訝しげな様子で水瀬が話し掛けて来る。そんな事を気付いてはいたが、ただ席から離れなかっただけだった。何時もなら皆を促して百花屋にでも行く所だが、そんな気分でも無い。
「なあ、北川。皆で百花屋行こうぜ」
相沢が言う。こういう時に限って向こうからその話が舞い込んで来る事が煩わしかった。
「ん〜……気分が乗らんな」
少し悩んだふりだけしてみる。勿論、答えなど決まっていたのだが、相沢に悟られたくも無かった。
なんて子供っぽいんだ。いい加減に自分自身に苛立つ。自分の思い通りにならなければ、機嫌を損ねて不貞腐れる。本当にただの子供だった。
「おいおい、この頃お前付合い悪いぞ？」
相沢の言う事は事実だった。ここの所の俺は人との関わりを避けていた。特に相沢とは全くと言って良い程、彼から何か誘われる度に色々な理由を付けて断ってきた。少々、あからさまだったかもしれない。
「……あいよ、わかったわかった。たまには付き合ってやろうか」
「別に無理して付いて来る必要なんて無いのよ？」
「悪かったよ。すみませんでした、哀れな僕をどうか連れていって下さい〜」
「ったく……何よ、それ」
苛立っているとついつい嫌味っぽくなるのが俺の悪い所だ。美坂の機嫌も余りよろしく無いと見える。多分に俺の所為なんだろう。
「ささっ、行きましょ行きましょ。イチゴサンデーが水瀬を待っている〜」
無闇やたらに敵を作る必要なんて無い筈だった。だから俺は今まで通りの俺を演じ続けなければならない。人当たりが良くて"良い奴"である北川潤に。
「まあいっか……行くぜ、二人とも」
「うん、祐一。今日は栞ちゃんは良いの？」
「ああ、今日はクラスの奴等と一緒に遊ぶんだってさ」
「ふーん、そっかぁ」
後ろで水瀬と相沢の会話が聞こえて来る。一人足りないな、と思い俺は振向く。相沢と水瀬の後ろで俺の方を哀しく見詰める美坂がいた。
相沢と水瀬が俺を通り過ぎる。時を刻む速さと言う概念が無くなる。世界は灰色に、俺と美坂だけは今まで通り。言わば二人だけの世界。彼女に見詰められていては動けない。何故か？ それは彼女がメドゥーサだから。俺だけを惹き付ける事が出来る不完全な魔女。
貴方はいつまでそうやっているつもりなの？
彼女が呟いた……様に見えた。別に唇が動いていたんじゃない。元より俺は読唇術なんて持っていない。ただはっきりと、彼女の冷たいながらも俺を惹き付けてやまない甘い声が、確かに聞こえたのだ。動けない。メドゥーサに見詰められたんだ。逃げられない。何時からだろう、この束縛・呪縛が始まったのは？
「おい、北川？」
「えっ？」
「大丈夫か、お前……顔、真っ青だぞ」
何時の間にやら世界は元通りの色彩を取り戻し、時はちゃんとその役目を果たしている。時間は元通り。そして目の前で睨んでいた筈の美坂も今では俺を通り過ぎていた。
「北川君、早く行きましょう？」
「……ああ」
彼女は何時ものクールな顔と半分閉じかけた眼で俺を見ていた。けれども俺が見たかったのはそんな眼じゃない。俺が見たいのは……もっと違う彼女だ。
「何時か……取り戻すからな」
彼女を追い越す際に呟く。瞬時閉じ掛けていた彼女の眼は見開いた。だがやはり彼女は何時ものクールな魔女に戻るだけ。彼女は「何の事を言ってるの？」とでも言いたげな顔を見せる。そのとぼけた顔は俺のやる気を削ぐ所か余計に煽るだけだった。
「あれ、名雪に香里じゃない」
「あら、先輩。久しぶりですね」
「わわ、お久しぶりです〜。大学はどうですか？」
俺達に話しかけて来た彼女の名前は……忘れたな。確か一学年上の先輩だった筈だ。相沢も同じ様に知らない様子だったが、女性陣は互いを良く知っている仲の様だった。
「うん、忙しいけど楽しいよ。横の二人は彼氏？」
「えへへ、そう見えますか、先輩」
「相沢君には栞がいるんだから駄目よ、名雪」
女三人寄れば姦しい。彼女等には悪いと思うが、俺はそう思ったし、相沢の顔を見りゃ似たような事を考えているって簡単にわかる。まあでもこれは普通の日常って奴。
ドン!!
そんな時だ。ちょっとしたアクシデント、人生全体を見れば些細ないざこざ、ゲームで言う所の中ボス戦って具合。ホントに些細なイベントだったけど、俺のプライドは少しずつ崩れ落ちる。そんな自分勝手な理由付けをさせてしまった出来事が起きたんだ。
「おいおい、姉ちゃん。道のど真ん中でピーチャラ喋ってるからぶつかったじゃんか？」
「えっ、すみません!?」
美坂達と話していた彼女にぶつかるように歩いて来たチンピラ風の男が二人。人の事言えたもんじゃ無いが、髪の色は日本人とは言い難い鮮やかな色合いだった。二人とも嫌らしい笑みを浮かべている。俺はそいつらを一瞥しただけで、はぁと一度溜息を付いた。この手の輩など大抵が分かりやすい連中だったから。
「おっ、お姉ちゃん達可愛いねえ。どう、これから俺らと遊ばない？」
その俺達男二人を無視したかの様な物言いにむかついた。三人とも嫌がっているのは、容易に察する事が出来たので俺は前へ一歩踏み出した。
「嫌がってんのわかんねえのか、あんた等」
「ああ？ んだよ、てめえ」
「どっか散れって言ってんだよ」
俺は奴らに睨みつけた。こんな連中を一々対応してたんじゃ面倒臭い事この上ない。そう思ってた。言い訳がましいけど油断してた。
「うっせんだよぉ、てめえ!!」
「北川っ!!」
「!?」
チンピラの一人が俺に殴りかかって来る。そんな隙の大き過ぎるパンチ、簡単に避けれた筈だった。一瞬、目に映ってしまった美坂の哀しげな視線が目に映る。また時が止まる。ああヤベエって思った瞬間の事だった。
「ごふっ」
相沢が俺の前に出て殴られた。頬に思い切り食らってた。俺は足が動かなかった。
「ったく、ウザってえ奴だ。行こうぜ」
チンピラ達はさっさと行ってしまった。
「祐一ッ!!」
「相沢君ッ!!」
二人が相沢に駆け寄る。相沢はイテテ、と小さく呟いて笑った。
「ったくよ……あんな奴ら相手にすんなよ、北川」
「……お前」
ちょっと頬に出来た痣が目立つ顔で、本来なら端正な美青年って具合の顔で、恨み・妬みなんて全く知らない様な顔で……笑ってた。
「大丈夫だって二人とも」
「でもぉ」
「大丈夫大丈夫。さあ、百花屋行こうぜ？」
明る過ぎるアイツの顔が眩し過ぎて、俺は少しの間、足が動かなかった。
「北川君もほら行きましょう？」
何処か冷たい目。メドゥーサの瞳。
貴方は何がしたいの
彼女の音無き声。抑揚の無い言葉。俺だけに聴かせる絶対零度の弾劾。
どうしてだ、なんでだ？ なんで俺をそんな眼で見る？ 俺が見たいのはそんな眼じゃないのに!!
俺が発する音無き声は彼女には届かない。美坂→北川間の一方通行。Ｕターンは出来ない。返信も出来ない。リダイヤルだって無理。手を伸ばせば届きそうな距離、けれど徐々に徐々に遠のく背中。
「……だっせえな、俺」
空を見上げる。青くて蒼い。少し白い。俺が発したボリュームのある呟きだって彼女には届かない。だったら、あの高い空に届く事無く消えてしまうんだろう。そんな事をぼんやりと考えていた。
ストローを通して飲むオレンジジュースは喉を潤わせ、水分補給と微かな安堵をプレゼントしてくれる。目の前では美坂がアイスコーヒーを同じ様にストローで飲んでいる。俺の右隣の相沢はコーラだった。水瀬は言うまでも無くイチゴサンデー。百花屋に来た場合の彼女がこれを頼む確立は今の所１００％だった。春夏秋冬、何時でも彼女の場合は苺で満足なのだろう。……言い過ぎたか？ まあ兎も角、俺達は全員余り多くないと思われる小遣いを遣り繰りしながら一時の安らぎを買っている訳だ。安っぽいけど暖かい、そんな日常の良く有り勝ちなワンシーン。楽しそうに談笑する水瀬と美坂も、それを隣で見ながら微笑んでいる相沢と俺もいつも通り。
いや……違ったな。相沢の左頬に痣が有る。先ほどのチンピラに殴られた時出来た奴だった。一瞥して視線を窓の外に向けた。直視なんか出来やしない。
「気にすんなよ」
奴が呟く。
「……気にしない訳が無いだろ」
頬杖を付いて窓の外を見ながら、俺も呟いた。気にしない訳が無いのだ。俺が、あの相沢祐一に助けられたんだ。恩義を作ってしまったんだ。それが癪に障るんだ。
「……」
「……」
水瀬も美坂も黙っている。何とも気まずい。全ての要因が俺に帰結するのも、これまた腹立たしい。結局全てを壊してたのは俺だってのに気付いたから……面白く無いんだ。
結局俺達は、あの後気まずさが無くなる事も無く百花屋で解散した。自分の部屋のベッドに寝転がりながら考えた。気にするなよ、奴の言葉が繰り返される。
「何で殴られてんのに笑ってられるんだよ!!」
叫ぶ。苛立ちは募るばかり。
「何でテメエはやりかえさねえんだ!!」
壁を殴る。俺だったら殴ってた。あんな理不尽な連中にかける情けなんかある訳が無い。
「糞、ムカツク……」
俺と言う存在は消えかかっていく。相沢祐一って言う完璧な男の存在によって。少しずつ、少しずつ……確実に俺の存在が、価値が、意義が、奴に取って代わっていく。
「俺は……完璧じゃなきゃいけないのに」
涙を流すのは何時以来だろう。完璧な男に涙は要らない。そう思ったから流す事も無くなった。だらしなく弱々しく涙を流す今の俺はきっと……完璧な存在である訳が無かった。
次の日、重い気分は晴れる事も無く、何時もよりも暗い気持ちで足を引張る様に歩いた。朝の教室は何時もよりも早い時間に来た為に席はかなり空いている。いずれは慌しい何時もの朝がやってくる。その最後尾には相沢・水瀬のコンビがやって来る訳だが、近頃じゃ美坂もそのグループに入る事が多くなった。その理由の大部分が栞ちゃんである事は言うまでも無いが、面白く無いのもまた事実だ。
「……はぁ」
ここの所、溜息が多い。そんなネガティブな人間に成り下がってしまった俺は、当り前ではあるが前程に他人を寄せ集めない、言ってしまえば他人を拒絶するテリトリーを作ってしまっていた。だがそんな俺とも今日でおさらばだ。昔の通りの完璧な存在に俺は戻る。戻らなくてはならないんだ。
「……あと五分……か」
携帯で時間を確認する。予鈴まで後５分。相沢と水瀬は勿論、美坂も来ていない。心に余裕があった時なら相沢達が来るのを楽しめたの物だが、今じゃ俺の中で燻る闘争心を煽るだけだった。
キーンコーンカーンコーン、と鳴り終える。来ていない。今日こそ遂に間に合わなかったか。クラスの連中が同様の感想を抱いているのが見て取れる。それが面白く、且つつまらなかった。
「……？」
どどどどど、なんて音が聞こえて来る。複数人が走る音。
「だーーーーっ間に合った!!」
「新記録だよ〜」
「はぁ……はぁ……も、もう栞には付き合わないわ……ぜっ、たいに」
三者三様とは言ったものだ。相沢は心底で間に合った事を安堵していたし、水瀬は記録更新を喜んでいる。一番辛そうなのが美坂だ。
「よっす、お疲れ」
一応の労いの言葉。
「お、おう……疲れたぜ」
「……もう嫌、絶対……一人でも行ってやる」
「私は全然平気だけどね〜、二人とも運動不足だよ？」
最後の水瀬の意見は絶対違うと思う。曲りなりにも長距離で俺や斉藤を抜く相沢や、運動神経がかなりの美坂がへこたれるのだ。相当にハイスピードなのだろう。この件だけは相沢に同情してやっても良い。自分が体感するのは勘弁願いたい所だが。
「お前等……いい加減早く登校する様に心がけないか」
後ろから溜息と共に現れた我がクラス担任、石橋教諭３７歳、実は二児の父親。モテ無さそうでちゃっかり美人な奥さんがいたりする。授業に関しては不真面目極まりない生徒に好まれる良い先生だ。
「先生！ ついぞたった今、我が記録が更新されました!!」
「あ〜はいはい、良かったな。判ったから、席につけ。ホームルーム始めっぞ」
「は〜い」
石橋の対応も慣れた物だった。アイツが転校して数ヶ月、三年に上がってからも毎朝の如く続いた出来事だけに、それは当然と言える。うんざりと言った具合で学級名簿を開けながら、点呼を始める石橋。それだけで許してもらえる、そういうキャラクタを作り出す相沢。たった数ヶ月かそこらでクラスに溶け込む相沢。嫌みったらしく感じられる程、嫌味じゃない相沢。全てが嫉妬の対象だった。俺の中で渦巻く黒い感情は、蛇の様に俺の臓腑に絡み付き、その顎門を俺の心に牙を突き立てんと忍び寄る。相沢をどうにかしなければ、俺の望みは叶わない。
無論、これらの考えがただの愚かしい強迫観念だと言う事はとうの昔に気付いている。だかしかし、俺はそうする事以外に道が無いと信じて止まない。そうする事以外に道が無いから突き進む。そうしなきゃならないと駆り立てられる。ただのピエロだっただけだ。
「……北川君、貴方は何を考えてるのかしら」
教壇では石橋が近しい学校行事の説明をあくまでやる気無さげに説明していた。そんな時に横から美坂が話し掛けて来る。前の席に座る相沢と水瀬に気付かれない為なのかは判らないが、声のボリュームは小さかった。その涙ぐましい努力も、当の本人達が夢の住人と化している今の状況下では、全くもって意味を成していなかったが。
「聞きたい？」
「ええ、そうね……暇つぶしになりそうだし」
俺はにやぁと笑いながら言った。
「美坂の事考えてた」
「冗談」
「これが冗談を言っている顔に見えるか？」
「当り前じゃない。そんなニヤニヤしながら言われたら、そう思うわ」
お見通しだった。まあ当然ではあるのだが、もうちょっと恥らう表情をしてもらっても良いと思う。
「正直に言いなさいよ」
「そうだな……悪巧みってのでどうだ？」
今度は真面目な顔で言ってやった。これこそ冗談めかして言うべきなのかもしれないが、美坂をこれ以上からかうと酷い仕打ちを受けそうなので止めた。
「ふーん、それなら納得かもね」
「何か複雑だな、そりゃ」
彼女も納得した様子。俺は複雑、心の中もやもや。けれどそんな混沌とした俺の心理状態は、彼女の笑顔を見ただけで大分クリーンになる。ここまで来て今更だとは思うが白状しよう。俺、北川潤は美坂香里を好いている。恋だとかのレベルじゃない。愛しているのだ。そんな微笑みを俺は何時でも見ていない。幸せな笑顔を俺に見せて欲しい。だからこそ俺は……
「どうしたの？ 思い詰めたような顔してるけど」
「何でも無いさ。悪巧みの続きを考えてただけ」
俺は微笑み言った。聡明な彼女には、こんな些細な嘘などすぐにばれてしまいそうではあったが、歯の浮いた様な台詞を吐くよりは百倍良い。
「さて……ＨＲの間は寝とくかね」
「はいはい」
美坂はやれやれとジェスチャーすると、俺に向けていた視線を教壇の石橋へと移した。美坂は長くウェーブの掛かった美しい髪に手櫛をかける。俺はそんな彼女の一挙手一投足を寝た振りをしながらの半眼で傍観し続けた。そうしながら思うことは、彼女こそが本当のパーフェクトな存在だと言う事だ。容姿端麗、秀麗眉目、学年主席、エトセトラエトセトラ。彼女を表す四字熟語は誉め言葉ばかりになる。それだけ俺の頭が彼女一色って訳でも無く、そう言わせるだけの実力が彼女には備わっていた。
（それだけで……俺から見りゃ遠い存在だった筈なんだよな）
半眼で彼女を観察しつつ、意識をそう遠く無い昔へと遡らせる。あれは高校一年の秋ぐらいだったと思う。もう少しで街は馴染み深い冬色へと染まり上がる一歩手前の季節。赤と黄色が良く鮮やかなセピア色の季節の話だ。
「美坂、すっすっ……好きだ!!」
「……」
俺の必死の告白。夕焼けが空を茜色に染め上げ、樹木達はより一層命を散らしている証拠の朱色は余計に鮮やかを増す。俺達以外に誰もいない教室、並べられた机、紅い太陽、紅い俺、紅い美坂。この眩し過ぎる太陽が一つだけ与えてくれる利点と言えば、紅葉に負けぬ程に赤くなっている俺の頬をカムフラージュさせる事ぐらいだった。
「ねえ……一つ聞いて良いかしら？」
「えっ？」
彼女の言葉。それは今以上に温度を感じさせない言葉で、俺の身体を熱く流れる血さえも全部凍らせて、身体中にカサブタを作っちゃうんじゃないかってぐらいに冷たい言葉だった。今、思うと不思議な表現だった。傷が出来ている訳も無い身体の内側でカサブタ等が出来る筈も無いのに。
「あたしのどんな所が好きなの？」
美坂の顔。やはり温度は感じられない。
「……多分、完璧な所……じゃないのかな」
俺は直感、と言うか思っていた事を素直に表現しただけだった。その瞬間、彼女に変化が起きた。普段は能面って評されてしまう程に、クールな仮面を被り続けていた彼女が歪んでいた。傷が出来ていたのは俺の身体等ではなく、彼女の心だったのかもしれない。それもズタボロの雑巾レベルだ。
「あたし……完璧なんかじゃないわ」
「そっそんな事無いよ!! 美坂は頭良いし、綺麗だし、優しいじゃないか!!」
彼女が自責の言葉を止めようと必死だった俺。
「じゃあさ……北川君があたし以上に完璧になって……あたしを惚れさせてよ」
「……」
その時、始めて見た気がした彼女の悪戯好きな顔。涙でぐしゃぐしゃになってても、必死に微笑むその健気過ぎる顔。今でこそ良く見る事になった彼女の笑顔が、この時を境にまるで悪い魔法使いに奪われたかの様に見なくなった。
そう、相沢祐一が来てしばらくしてから彼女は度々その顔を見せる様になった。それを取り返すのは俺の役目だった筈なのに、あの男は横からそれを奪い取った。泣きそうになった。自分が惨めだった。一体、何の為に俺は完璧な存在になろうとしたのか。報われない悲劇のヒーロー。いや……そんな大層なものでもない。ただのピエロだ。
「北川〜、中庭に行こうぜ？」
「ん？ ああ、栞ちゃんか」
「ああ、頼むよ。男が俺だけだと処理が大変なんだ」
相沢の言葉で今が既に昼休みだと言う事に気付く。何時の間にやら本当に眠っていたらしい。午前中の記憶は先程のHRの時点で止まっていた。疲れていたのだろうか。ここまで学校で熟睡出来たのは久しぶりだ。
「お前ね、愛する栞ちゃんのお弁当を"処理"とは何だ、"処理"とは」
「五月蝿い。あの量は正に致死量だ」
「残念、俺には先約があるの。またな〜」
俺はそう言って買っておいたパン、飲み物などが入った袋を持ちながら屋上へと向かった。
「ええーい、この薄情者〜!!」
後ろから聞こえる相沢の泣きそうな声に俺は気分を良くしながら階段を駆け登る。俺ってきっと悪役が似合うんじゃないかな、そう考えて笑った。
（今でも十分悪役だよな）
きっと物語の主人公は相沢、俺はその主人公に醜く嫉妬する典型的な悪役。多分、俺を好きになってくれる奴なんて一人もいなくて、それでも俺はこのままを通すんだろう。美坂だけでも良い、そう思ってはいても結局、彼女にすら見捨てられる。そんな未来がありそうで、信じたくなくて、それでもそうなってしまうんじゃないかって妙に達観してる自分もいて……やっぱり少し哀しかった。
屋上への重い扉を開けると、そこには蒼い空が広がっていた。気持ちの良い快晴だった。
「……雲一つ無い空って奴かね」
パンの袋を開けながら呟く。空とは対象的に俺の心は澱んでいる。俺が元の俺に戻るにはどうすれば良いのかが判らない。パンを齧る。味気ない味だった。ヤキソバが挟んであるソレは、皆と食べる安い学食の何倍も美味しさを感じない。舌すらその仕事を完璧にこなせない俺は、一体何処まで堕ちていくのか。それを考えて俺はこみ上げる吐気を我慢できなかった。
午後からの授業なんて何も覚えてはいなかった。俺の独り善がりな想いだけがぬくぬくと育っていく。居眠りする訳でも無く、ただ空を見て、雲を見て、相沢を見ていた。忙しなく移る視線、そして渦巻く感情。何をすれば良いのか判らない。どうすれば良いのかを判断するなんてできやしない。
そんな愚かしい事をずっと考えながら、やっと放課後になる。部活動へ行く者、帰宅する者、そして俺みたいに何らかの目的があって教室に残る者、教室の様子は様々だった。
「北川君は帰らないの？」
「水瀬か。……俺はちょと用事があるんだ」
「ふ〜ん、判ったよ。何か知らないけど頑張ってね〜」
水瀬はただ何も尋ねず笑顔で俺を激励する。そのまま部活に行くとだけ言って彼女は教室を去った。
「あっそうだ、北川君！」
「うわっ!? 部活行ったんじゃなかったのかよ」
「驚かせちゃった？ あはは、ごめんね。えとね、祐一を起こしておいてくれないかな？」
見ると相沢は気持ち良さそうな寝顔を浮かべている。
「ん？ ああ、このままじゃ夜まで寝てそうだな」
「うん、お願いね」
「水瀬も頑張ってな」
「うん!!」
また走り去る彼女。やれやれ、と心の中で苦笑。彼女に何か問い詰められていたら、良からぬ事を口走ってしまいそうだった。水瀬名雪にはそう言う才能がある。それも無意識でだ。溜息を軽く吐き、俺もようやく重い腰を上げる。目指すは未だ寝息をたてている我がライバル君の元。
「おい起きろ、大将」
「んあ？」
「ボケ面下げてんじゃねえよ。ほれ、授業終わったぞ」
「よぉ、北川。おはよ」
「うむ、起き抜けに悪いが……ちと話がある。付き合え」
俺は悟られぬ位の真剣さで、何時も通りの俺を演じながら、彼を誘った。それでも相沢は何か悟ったのか、特に何も尋ねようとはせずに俺に付いて来た。教室を出る時も、階段を上る時も、踊り場に付いた時も、屋上へ出るための扉を開ける時でさえも俺は無言だった。相沢はやはり何も尋ねようとはしてこなかった。
「……ん〜……で何の話だ、北川？」
「ああ……お前とさ」
俺は彼の方へ振り返り、微笑み言った。
「お前と……喧嘩したくてよ」
「……な!?」
そして俺は右の拳を奴の鳩尾の辺りに捻じ込んだ。
「がはっ!?」
「……ハハハ、いてえか？」
俺は笑った。笑うしか無い。
「な、何でだ……北川」
相沢は疑惑と憤怒と絶望と他の何かが入り混じった様な感情が含まれた眼で此方を見ていた。俺にはそれがどうしようもなく面白く可笑しかった。きっと俺は真性Ｓなのだろう。
「ただの八つ当たりだ。気にするな」
そう言ってもう一発、今度は頬に……まだ少し痣が目立つ右頬に拳を打ち込む。少しだけ心が痛い。でもそれ以上に愉快だった。あれだけ俺を悩ませていた相沢、皆の羨望の対象、美坂すら認める完璧人間。そんな奴が俺程度に殴られたぐらいで反撃もせずに倒れている現実。愉快だった。
「おい、どうした。……やり返してみろよ」
「馬鹿が……出来る訳ねえだろ、親友だろ」
「今更何言ってんだ、この馬鹿はっ!!」
俺は寝転がる相沢の腹目掛けて蹴りを見舞った。
「ぐふっ!!」
「やり返せよ!! 何でやり返さねえ!?」
「お前が……何でそんな事するのか、理由を……聞いて無い」
この馬鹿はこの後に及んでこんな事を言う。まだ俺なんかの話を聞こうとしている。飛んだ大馬鹿野郎のチキン野郎だ。
「うるせえ、何も聞かずに殴り返せってんだ!!」
「……北川ぁ、話せよ!!」
「ただの八つ当たりだって言ってんだろうが!!」
相沢が立つ。痛々しい。何で一発も殴り返してこない。俺が理由を言うまで何もやらないつもりなのか？ そこまでお前は聖人君子様を気取るか？ ふざけている。
「お前、優しい奴じゃんか。そのお前がこんな事するんだ。何か訳があるんだろ？」
「てめえ勝手な印象付けてんじゃねえ……。俺は元々こんなだったんだよ」
そうだ、元々の俺はこんなだった。中学の頃はただただ喧嘩に明け暮れる毎日。目に写る全てのものが面白く無くて、ウザったくて、暴力に物を言わせていたんだ。俺を変えたのは美坂だ。彼女に振られたからこそ、俺は仮面を被る事が出来た。"良い奴"の仮面を付けたままでいられた筈だった。
「……何でだ、北川ぁ」
見ると相沢はだらしなく涙を零している。それは俺の嗜虐心を煽るのにこれ以上無い程だった。
「……何で泣いてやがんだよ。馬鹿じゃねえのか」
「俺ら……友達じゃなかったのかよ」
相沢が泣きながら言う。完璧なコイツだって涙を流す。何故だ、何故泣く必要がある？ 俺には理解出来ない。痛いから泣くのか？ 今更、友達じゃないのかよ、だと？ 解らない。何も分からない。
「北川、理由を教えてくれよ!!」
またコイツはこんな目で俺を見る。馬鹿みたいに人を信じて……こんな痛い目をみてるのに、尚も俺を信じようとしている。
「お前さえ……」
「え？」
。もう少しで美坂に認めてもらえる完璧な人間になれる所だった。それなのにコイツがいたから……コイツがいたから!!
「お前さえ……お前さえ来なきゃ……俺は、俺はぁ!!」
右のストレート、奴の顔面目掛けて放つ。けどそれは阻まれた。寸での所でガードされた。相沢の手じゃあない。
「もう気が済んだろ、潤」
「久瀬……？」
そこに立っているのは確かに久瀬だった。俺も相沢も何故ここにコイツがいるのかが、理解出来なかった。
「学園内での暴力行為を生徒会長である僕は見逃せないよ」
「ふざけんなっ!! これは俺と相沢の問題でっ」
がすっ、と音を立てる。そして左頬が熱くなる。殴られた。久瀬に殴られた。
「……久瀬」
「我侭を言うのも大概にしろ、潤」
「くそっ……畜生っ!! 畜生ぉぉお!!」
久瀬は侮蔑の視線を俺に向ける。久瀬は親しい人間には優しい奴だが、敵と見なした相手には徹底的に高圧的で冷酷な視線を向ける男だと言う事を知っていた。今までその対象が俺に向いた事は無かった。けれど今、久瀬はそうやって俺を見ている。敵として俺を見ている。
「はは……ハハハハハハ!!」
涙が零れた。嗚呼、そっか……そう言う事か、相沢。
「久瀬にまで嫌われちまったよ……ハハハハハッハハハ……はは、は……」
涙が止まらない。痛い、痛過ぎる。久瀬は親友だった。ガキの頃からお互いを知り尽くした仲だった。
「相沢……ゴメンな……ゴメン、ゴメン、俺……ごめんな……」
今更俺が何を言おうと償えるとは思えもしなかった。だらしなく涙を流し、頭を垂れ、うずくまる。これで俺もやっと本当の惨めな嫌われ者になったって事だ。久瀬に殴られて、やっと夢から醒めて、俺の熱も冷めちゃって、ただ虚しくなった。
「北川」
「ホント……馬鹿だよ、俺。ゴメンゴメン……ごめんなさい」
「北川、こっち見ろ」
相沢が言う。
「……痛かったぞ」
「……」
相沢が怒っている。そりゃそうだろう。
「一発殴らせろ」
「一発なんて遠慮する事……ねえよ」
「ん、わかった」
目を閉じた。だって相沢のパンチ痛そうだし、そう考えた時に額に痺れる様な痛みが走る。目を開けるとデコピンの構えをした相沢がいた。
「あ、目あけんな!! あと、９発ぐらいやらにゃ気がすまん!!」
子供のような顔で怒ってやがる相沢。横には顔を手で覆い必死に笑いを堪えている久瀬。
「……なんだそりゃ」
「馬鹿、殴るかどうかは……理由を聞いてからだ」
相沢はやはりニカっと子供らしく笑って言った。何だかやっと美坂が認めた相沢祐一って男が始めて解った気がした。
「……俺、さ。相沢が羨ましかった」
俺も相沢も久瀬も屋上で横になって川の字を作った。まだ左頬は痛い。けど久瀬の利き腕は右腕だった。俺が利き腕で殴ってしまった相沢はもっと痛かったのかもしれない。
「俺が必死になって手に入れようとしていたものを簡単に手に入れちまってて」
「……」
相沢も久瀬も無言で聞いてくれていた。俺は罪の独白を続ける。
「美坂にただ認めてもらいたかっただけだったのにさ……なんか俺暴走しちゃってたな」
人が高みを目指すのに理由を挙げるとすれば、やはり誰か大切な人に認められたいってのがあると思う。そりゃあ自分の欲望の為にって人もいるだろうけど、俺は美坂に認めてもらいたかったから、それだけの為に頑張ってた。相沢は俺が手に入れようとしていたものを全部手に入れてた。それが悔しかった。このままじゃ美坂に認めてもらえないって強迫観念が出て……それでこんな事をやってしまった。
「馬鹿……だろ？」
自分の思っていた事、全部吐き出した。相沢に愛想尽かされても仕方が無い。
「ああ、大馬鹿野郎だな」
相沢は怒りを存分に込めて言った。そりゃあそうだろ。こんな理不尽な事で殴られ蹴られたんだ。
「お前が言った事全部、お前だって手に入れてんのに殴られたのがむかつく」
「……え？」
相沢は起き上がり背中と尻を叩きながら言った。
「香里はお前の事認めてる。香里だけじぇねえ、俺や栞や名雪や久瀬や皆が認めてる」
俺は呆然として……何でこんな事言われてるのかも理解できずにいた。
「俺……だって完璧じゃねえし」
「完璧な人間なんてこの世にはいねえんだよ!!」
「……」
「皆、長所短所を持っているから個性が出てくるんだ。何も悪い所の無い人間なんていたら、それこそ気持ち悪いっつんだよ!!」
「……」
「俺にだって短所はある!! テストは苦手だ!! 男の友達作るの何故だか苦手だ!! 思ってる事口に出してしまう癖いい加減直さなきゃなあとか思ってても直せない!!」
相沢は既に日が落ちて暗くなっている空に向けて叫んだ。
「僕にだってあるさ。女性と話すのは苦手だ。内気だし嫌みったらしい性格も自分で判っている。それでも直せない。だからこそ人間なんだ」
久瀬も言う。
「俺は……」
「お前のは早とちりなだけさ。お前は良い奴だよ」
相沢が笑う。久瀬も横で微笑んでいる。……俺も久しぶりに少しだけ笑えた気がする。
「本当に……馬鹿だったんだなあ……俺」
夜空に煌く星達は俺達を優しく見守っていた。その視線が何よりも優しいものに感じられたのは錯覚なんかじゃ無いと思う。思えば何とも恥ずかしい青春劇をしてしまったものだ。こんな馬鹿な友人達に恵まれていた事に気付かなかった俺は、大馬鹿者だってやっと気付けた。
「……ごめん、そしてありがとう」
俺は素直に二人に頭を下げる。
「よせよ、今更だ」
「全くだね」
下げた頭が二人の拳に軽く小突かれる。イテテ、なんて間抜けな声を上げて、また三人で笑った。
「さて……僕はそろそろ帰るとするかな」
「じゃ俺も帰ろっと」
久瀬と相沢がそれぞれに言う。
「ああ……じゃあな、おやすみ」
「おやすみ」
「グッナイ、北川」
久瀬はいつも通りに、相沢は少し気取って妙に様になっていない英語を使って、俺は笑いながら手を振っていて別れた。もう一度寝転がる。空には星が相変わらず賑やかに、そしてひっそりと輝いている。
カツンカツン、と足音が聞こえる。二人が戻って来たのだろうか？ 閉じていた目を開けると、そこには美坂香里の整った顔があった。俺のすぐ横に体操座り。彼女は空でも俺でも無いものを見ていた。ただ顎を膝に置いて空と大地の境界線をずっと見詰めている。妙に絵になるその姿。自然とスカートの下から露にされた健康的な太腿に視線がいく。
「……パンツ見えるぞ」
「見たら殴るわ」
即答。それでは見ない様に努力しなければならない。美坂はやはり境界線を見ている。俺は空に煌く星をまた見た。キラキラと輝くその光が果して何年前の輝きなのだろうか、そんな事を考えた。
「何でココにいるの？」
「アンタが悪巧みしてるって言ったでしょ？ それで久瀬君を問い詰めたの」
「なるほど」
そんなに口が軽くて生徒会長が務まるのか、久瀬。今は帰宅して風呂にでも入っているであろう眼鏡の親友を思い浮かべる。
「痛かった？」
「……何が？」
質問を質問で返す。答えなど分かり切ってはいたが、それでも鸚鵡返しをしてしまうのは、俺の捻くれた性格の所為。
「久瀬君のパンチ」
「全然」
今度は俺が即答。美坂は、そう、とだけ呟くとゆっくりと眼を閉じた。
「身体は痛くなかったけど……心は痛かった、かな」
「ぷっ」
「おい、笑うなよぉ」
軽く吹き出す美坂。我ながら臭い台詞だな、とは思ったが事実を言っただけ。それを笑われるのは少し哀しい。
「ごめんごめん。でも……やっと北川君らしくなってきたかなって」
「俺らしくってのはどう言う意味だ？」
彼女の方を見て尋ねる。やはり彼女は俺の方なんか見向きもしていない。空でも俺でも無い、空と地面の境界線をただ見詰めているだけ。彼女はそこに何を見出しているのだろうか？ 分からないけど、きっと何かがあるんだと思う。俺なんかじゃ到底理解できない事象ではあるんだろうけど。
「ただ馬鹿みたいな事を言っているだけの軽い人」
「それは酷く無いか」
そう思われていたのだと考えると、やはり哀しい。
「けどその馬鹿みたいな笑顔に救われた馬鹿な女もいるって話」
「……誰が？」
「わざわざ言わせるの？」
そりゃあ……聞きたい。
「あたし……アンタの事嫌いだったわ」
「……マジか」
「いつもいつでも悩みの無いような馬鹿な笑顔を浮かべたアンタが大嫌いだった」
「あー……スマン」
怒ってる美坂の眼は俺を見ていない。境界線も見ていない。多分、今彼女は過去を見ている。そんな気がする。
「告白された時……コイツを思い切り困らせてやろうって思った」
「うわ、意地わりい」
そんな理由だったなんて今更聞かされるとへこむ。
「けどアンタはそれをやってのけた。勉強も頑張ってたし誰にでも優しくしてた」
「……」
「あたしにだって前以上に優しくしてくれた。コイツ、本当の馬鹿なんだって思った」
夜風が冷たかった。
「あの頃から栞……結構酷かったのよ。だからかしらね、あたし凄く余裕が無かった」
「そうだったのか」
「栞が次の誕生日までに生きられないって医者に聞かされた。もうね、お先真暗って奴よ。本当に目の前が暗くなった」
冗談めかしたその言葉も辛く切ない。
「……俺はお前のそんな気持ちに気付けなかった。お前の為にって思ってたのに……何やってんだろうな」
「貴方は頑張ってたわ。あたしは貴方に笑顔を貰った」
「けど」
「良いのよ、北川君はそれで。そりゃ余裕が無い事には変わり無いけど、学校で貴方や名雪と馬鹿な話してた時は楽しかった。これは本当」
「……」
「相沢君が栞を救ってくれた。あの娘に生きる為の希望を与えてくれた。栞が助かったからあたしも救われた。相沢君と名雪と……貴方のお陰」
良かったと思う。栞ちゃんを助けて美坂の笑顔を取り戻したのはやっぱり相沢だったけど、俺も少しは役に立ってた。星空が歪んで見える。眼が熱い。
「泣いてんの？」
「……ゴミが入っただけだ」
せめてもの強がり。けれどやはり聡明な彼女を騙されるわけも無く、美坂は優しい微笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。
「ガキみてえじゃねえか……これじゃ」
「アンタは子供よ……本当に子供」
この笑顔に甘えられるのなら、ガキってのも多分に悪く無い。
「美坂〜膝枕してくれ〜!!」
飛びかかろうとして殴られる。痛いってば……。
「アンタってどうしてシリアスモード壊すかな？」
「俺とお前だからだろ？」
俺は尻を叩きながら笑った。美坂は、それもそうね、と同意。
「帰るか」
「送ってってくれるんでしょう？」
「はいはい」
差し出された手をしっかりと握り、彼女を立ち上がらせる。そのまま勢い余って彼女を抱き寄せる様になってしまった。
「……」
「……」
「……えっち」
「何でじゃ!!」
「アハハハハ!!」
笑いながら走っていく美坂。俺もまた笑いながら追い掛ける。近所迷惑だよなあ、とか考えてしまう俺はやっぱり何処かおかしいんだろう。でも今の俺には関係無い。彼女や相沢や水瀬や久瀬や他の皆とまた元通りになれるんだったら、変人でも何でも良い。
見上げた夜空に煌く星達は……相変わらず俺達を優しく見守っていた。
The End
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