彼は友達
彼は友達
かりかり………。
「………ん？」
リズムよく問題集の上を走っていたペン先が不意に止まり、相沢祐一は顔をしかめた。
「どうしました？」
そんな祐一の姿を見て、テーブルの右隣で紅茶を飲んでいた倉田佐祐理は、カップを置き、祐一と、止まったペン先を交互に見た。
「ああ、ここの所がさ………。どうにも………」
「そこはですね。………ちょっといいですか？」
「あ、はいはい」
言われるままに問題集を差し出し、佐祐理と一緒に覗き込む。
「確かに、ちょっと難しいですね………。」
「やっぱり？」
「ええ。………………ここを、こう………っと。………出来ました」
やや長めの沈黙の後、動き出したペン先は、ほとんど迷わずに回答を書き出していた。
「………魔法？」
「はい？」
「いや、難しいって言いながら、あっさりと答え書いちゃったから。なんかこう、答えを透視出来る魔法でも使ったのかな………と」
「あははーっ。いくら佐祐理でもそんなこと出来ないですよー。この問題は、ちょっとコツがあるんです」
埋まった解答欄と佐祐理を交互に見ながら不思議そうに首を傾げる祐一に、佐祐理はニコニコと微笑みながら手をふった。
「コツ？」
「はい。いいですか。まず、ここを………」
そう言って、祐一曰く『魔法』、佐祐理曰く『コツ』の解説を始める。
「ふんふん。………あぁ。」
解かり易い佐祐理の説明に頷きながら、祐一は別のノートにその問題と解説を書き込んでゆく。
「最後に、ここをこうすると………、という訳です」
「なるほど………」
回答をノートに書き込み、祐一は感心した様に頷いた。
「解かりましたか？」
「ああ。もうバッチリ」
そう言って、親指をグッと立ててみせる。
「お役に立てて何よりです」
佐祐理は、嬉しそうに微笑んだ。
祐一がこの街にやって来て、もうすぐ一年が経とうとしていた。
様々な出会い、再会を経たあの冬は、恐らく、彼にとって一生の思い出となるであろう。
その記憶の中で、特に鮮明に印象付けられ、一生失くしたくないと願ったものがあった。
一つは、夜の校舎で、孤独な戦いを強いられた少女。川澄舞。
そして、もう一つは、今、祐一の隣にいる女性。倉田佐祐理である。
夜の学校という、一種幻想的な世界での舞との偶然の出会い。それは、実は再会であったのだが、彼女との接触から、今の祐一達の関係が始まった。
昼の学校で舞と再会し、夜、舞が追っていたものを問い質そうとしていた時に佐祐理と初めて会った。
それから、舞を中心にして三人は一緒にいる事が多くなり、いつしか、それは三人にとって当たり前の光景となっていった。
あの日から今日まで、様々な出来事が三人に起り、時には笑い、時には怒り、そして、時には奇跡の様な出来事すら体験しながら、三人は歩いてきた。
そんな祐一達の目下の目標は、『三人で同じ大学に通う』事であった。
上級生だった佐祐理と舞は、最初の春に学校を卒業し、無事近くの大学に入学する事が出来た。
それを追いかける形で、祐一は今必死になって勉強に取り組んでいる。
春の時点では、ほぼ絶望的といえた祐一の成績は、今ではかなりの上位に食い込む様になった。
しかし、まだまだ安心出来るレベルには達していない。
センター試験まで、もう何ヶ月も無い。
ここの追い込みで、いかに学力を伸ばせるかが、祐一にとって当面の課題であった。
「………もう、冬だな」
佐祐理を家まで送る途中、すっかり暗くなった空を見上げながら、祐一は呟いた。
「そうですねぇ」
佐祐理は、そう答えると、はあーっと。大きく息を吐いた。吐息は、辺りを照らす街灯の弱々しい光の中でも確かに白く、しかし、一瞬の内に、闇へと融けていった。
「ほら。息が真っ白です。」
そう言って、柔らかな笑顔を祐一に向ける。
「ああ」
その笑顔に、祐一は、曖昧な表情で返した。
「………不安。………ですか？」
その表情の意味を察して、佐祐理は祐一の顔を覗き込む様にして訊いた。
「ん？ ………まぁ、正直言って………な」
「祐一さんなら大丈夫ですよ。今まで頑張って来たじゃないですか」
佐祐理は、祐一の背を軽く叩く。
「佐祐理が保障します。祐一さんは、絶対合格しますよ」
「………」
その屈託の無い笑顔に、祐一は思わず見惚れてしまった。
「？ どうしたんですか？」
「あ、い、いや………」
不思議そうにこちらを見つめる佐祐理に対して、どもりながら顔を背ける祐一。
「あ、ひょっとして…」
「えっ？」
「舞の事、考えていたんでしょ？」
「は？」
予想していた答えと違っていた事に、祐一は思わず、間抜けな顔をしてしまった。
「最近、祐一さんは会ってませんからねぇー。やっぱり、お互いバイトをするようになっちゃったから、どうしても二人が自由になる時間って、作るのは難しいです」
そう言って、やや残念そうな顔をする佐祐理。
二人は、大学に入学してからそれぞれバイトを始めた。
理由は、『祐一が卒業したら、三人で住もう』という夢を実現する為だ。
「あ、ああ………。でも、佐祐理さんは、大丈夫なの？」
ここの所、祐一はずっと佐祐理に勉強を見てもらっている。放課後から夕食前までの約２時間だ。バイト経験の無い祐一だが、クラスメートとの会話の中で、どの位の時間にバイトに入るかは、何となく理解していた。
だから、もしかしたら、自分の為にバイトを休んでいるのではないかと心配になったのだ。
「佐祐理は、遅めのシフトを入れてもらってるんです。ですから今日も、実はこれからバイトなんです」
「え？ ………ごめんな。無理に家庭教師頼んじゃって。解かってれば頼まなかったんだけど………」
申し訳なさそうに祐一が手を合わせる。
「いいんですよ。佐祐理が好きでやってるんですから。それに、祐一さんと一緒の大学に行く為ですから、そんなの全然辛くなんか無いです。むしろ楽しいくらいですから」
そう言って、佐祐理は微笑んで見せた。
「ああ。そう言って貰えると助かるよ」
「はい。ですから祐一さんも、もう少しですから頑張って下さいね？ 舞だって楽しみにしているんですから」
「分かってるって」
「でも、あまり無理はしないで下さいね。ここで体調を崩したら、出来る問題も出来なくなっちゃいますから」
「ああ。言われた通り、快眠、快食、快便を心掛けてる」
「なら、きっと大丈夫です」
「ああ。………っと、着いちまったな。じゃあ……」
「はい。わざわざ送って下さってありがとうございます」
ぺこり。と佐祐理は頭を下げた。
「いやあ、俺も、いい気分転換になるしさ。それに、佐祐理さんみたいな美人を夜一人で歩かせる訳にもいかないだろ？ 最近は物騒だし」
「あははーっ。お上手ですねー」
「いやいや、マジだって」
「でも、ありがとうございます。祐一さんが隣にいてくださると安心しますから。心強いです」
「そう言って貰えれば何よりだよ」
「はい。それでは、明日もお伺いしますから」
「おうっ。頼むよ先生」
「はいっ。それではー」
最後に手を振って、佐祐理は自宅の中へと入っていった。
「また明日………か」
その姿を見送った後、祐一は、そう、一言呟いた。
部屋のドアを閉め、佐祐理は、ポツリと呟いた。
「また、明日………」
とくん。
胸が、高鳴る。
「ダメ………」
高鳴りを鎮める様に、両手で胸を押さえつけた。
私は、祐一さんと二人っきりになるのを喜んでいる。
私は、祐一さんが私に好意を持っていると期待している。
私は………。
「ダメ」
佐祐理は、祐一さんの学力向上のお役に立てる事を喜んでいる。
佐祐理は、祐一さんが佐祐理達と一緒に大学に行く事を期待している。
佐祐理は………。
「祐一さんは、友達」
そう。友達。
決して、それ以上ではない。
決して、それ以上にはならない。
「祐一さんには、舞がいるから」
そう。舞がいる。
舞がいたから、祐一さんと出会えて。
舞がいるから、祐一さんが仲良くしてくれる。
「………そう。そうなんだよ」
ようやく鎮まってきた胸から手を離し、佐祐理は顔を上げた。
「さてっ、バイトに行く準備をしなきゃ………」
努めて明るく言うと、佐祐理は準備に取り掛かった。
ぼんやりと空を見上げながら、祐一は帰路についていた。
「………また、明日」
先程の佐祐理とのやり取りを思い出して、そう、呟いた。
また、明日、佐祐理さんに勉強を見てもらえる。
また、明日、佐祐理さんと二人っきりで話が出来る。
また、明日、佐祐理さんと会える………。
「………そう。なんだろうな………」
確かな気持ちを感じて、祐一は呟いた。
俺は、佐祐理さんが、好き。なんだ………。
………舞よりも。
いつからかは祐一にも分からなかった。
しかし、二人でいる時間が長くなるにつれ、小さかった想いが、はっきりと形を成してきた。
「でも、今は、まだ………」
その先を飲み込んで、祐一は家路を急いだ。
「それではーっ。祐一さんのセンター試験終了を祝して………」
「かんぱーいっ」
佐祐理の号令の元、居合わせた人達がそれぞれグラスを重ねる。
水瀬家のリビングに、小気味良い音が響いた。
「くあーっ！ 俺ぁ、この一杯の為に生きてきたぁっ！！」
コップ一杯の炭酸飲料を一気に飲み干し、祐一は心底爽快そうな声を上げた。
「祐一。のんべえさんだよ………」
従姉妹の水瀬名雪が、呆れた視線を祐一に向ける。
「うるさいっ。スポーツ推薦取ったヤツに、この一年の俺の苦労が分かってたまるかっ」
「だからって、くあーっ。はないと思うけど」
名雪の隣に座っていた美坂香里が、ツッコミを入れる。
「香里だってそうじゃねぇか。推薦で真っ先に進学決めやがって」
陸上で推薦を取った名雪と、学年トップの成績で国立大の推薦を取っていた香里は、祐一が必死になって勉学に勤しんでいる間、悠々自適な生活を送っていたのだ。
「あたしも名雪も、初めから地道に努力したもの。今楽出来るのはその結果だから」
「何か、俺が悪いみたいじゃないか」
「悪くは無いけど、あたし達が悪く言われる筋合いは無いわね」
「ごめんなさい。チョーシん乗り過ぎました」
全くの正論に、祐一は素直に頭を下げた。
「よろしい」
「オレはー？ ねぇ、オレはー？」
微妙に取り残されていた北川潤がオロオロと周囲を見渡す。
「北川は就職じゃん」
「特に苦労してないわよね」
「なにおうっ。この御時世、高卒が就職する事がどれだけ辛いかお前ら分かってんのかっ？」
だんっ。と、テーブルを叩き、北川は立ち上がった。
「オヤジのコネで公務員になったヤツが偉そうな事を言うな」
「よほどの不祥事起こさなきゃ一生安泰じゃない。あたしたちなんかこの先どうなるか判らないっていうのに、恵まれすぎよ」
「そうだそうだ」
「まあまあ、祐一さんも香里さんも…。北川さんだってそれなりに苦労はあったでしょうし………」
見かねた佐祐理が、二人を嗜める。同時に、北川をフォロー。
「く、倉田さん………」
その時、北川の目には、佐祐理が悪魔二人の口撃から護ってくれる天使に見えた。
「いいや。北川は言った。『試験問題解からなかったから全部エンピツ転がしてマークしちまった。』ってな」
「さらにこう言ってたわ。『面接の試験官がオヤジの知り合いだったから、多少甘く見てくれた筈だ。』って」
「あ、あははー………」
しかし、事実を踏まえた口撃の前に、守護天使もフェードアウトしてしまう。
「お、お前ら、そこまでオレを貶して楽しいのか………？」
半泣き状態で、祐一と香里に問いかける北川。
「まあ、余興程度には」
「前座としては申し分なかったかしら」
それでも二人は容赦なかった。
「祐一と香里、鬼だよ………。もうちょっと北川君に優しくしてもいいんじゃないかな………」
「み、水瀬さんだけだよ。そう言ってくれるの………」
名雪の肩をぽんぽんと叩き、北川は腕で涙を拭うフリをする。
捨てる神あれば拾う神あり。そんな格言が北川の脳裏に浮かんだ。
「でも、北川君、楽して就職出来て良かったね」
しかし、すぐに捨てられてしまった。
「………」
「あれ？」
真っ白な北川に、名雪が首を傾げる。
「さすがだ名雪。フォローで更に抉りやがった」
散々苛めた祐一だが、さすがに北川が哀れに思えてきた。
「北川、固まってるけど………」
硬直した北川を突付きながら、舞が呟いた。
「気にするな舞。これが北川の宿命なのだ」
「分かった」
素直に頷く舞。
「………フォロー、無し？」
「期待してたの？」
「もう、いいです………」
香里は、最後まで容赦が無かった。
パーティーは夜遅くまで進み、名雪の睡眠を以ってお開きとなった。
香里と北川は先程帰り、リビングに残っているのは祐一、佐祐理、舞だけになった。
「舞達はどうするんだ？ 一応、部屋に空きはあるんだけど………」
「どうしよっか？ 舞………」
「………」
佐祐理の問い掛けに、舞は俯いたまま何かを考えているようだった。
「………やっぱり、泊まる」
顔を上げると、舞はそう言って佐祐理を見た。
「佐祐理も、いい？」
「うん。舞がいいなら、いいよ」
「ＯＫ。じゃあ、部屋を案内するよ。」
そう言って、祐一はソファから立ち上がり、二階の空き部屋へと案内した。
こんこん。
「………ん？ はい………」
二人が客間に入り、大分経った頃、不意に聞こえたノックの音に、まどろんでいた祐一はもそもそと体を起こした。
「私。舞」
「ああ。どうした？」
「入って、いい？」
「おう」
祐一の返事を待って、舞はゆっくりとドアを開けた。
「どうした？ いつもの枕じゃないと眠れないのか？」
「うん」
からかい半分で言った祐一の言葉に、舞は素直に頷く。
「ウチにはいつもの枕は無いんだが………」
「祐一に、言いたい事があるの」
「言いたい事？」
こくり。
舞は静かに頷いた。
「何だよ？ 言いたい事って…」
「祐一………」
真剣な眼差しで、舞は祐一を見つめた。
「私は、祐一が好き」
そして、はっきりとした声で、そう、告白した。
「え？」
「返事を、聞かせて」
あまりに唐突な告白劇に、祐一は狼狽する。
祐一の本心としては、遅かれ結果を出すつもりでいた。どのような結果になるにしろ、このままでは、三人の関係が悪くなっていくのは目に見えていたからだ。
しかし、こちらの準備が整う前に、舞の方から結果を求めてくるというのは、完全に祐一の予想外だった。
「い、今すぐか………？」
「今すぐ」
舞の言葉には、真剣さ以上の何かがあるように、祐一には感じられた。
「………分かった」
そう言うと、祐一はベッドから立ち上がって、真っ直ぐ舞を見つめた。
「ごめん」
そして、そう、一言だけ謝罪すると、静かに、頭を下げた。
「………そう」
祐一の頭上から聞こえてきた声は、以外に冷静なものだった。
「好きな人が、いるんだ」
顔を上げた祐一は、そう、舞の気持ちに応えられない理由を告げる。
「佐祐理？」
「………お見通しか」
「親友だから」
「そうか………」
舞の言葉に、祐一は俯く。
「多分、佐祐理も、祐一が好き。」
「そうか？」
こくり。
祐一の問いかけに、舞は頷いた。
「佐祐理が、祐一に言えないのは、きっと私の所為。………佐祐理は、きっと私に遠慮しているから」
「遠慮？」
こくり。
「祐一は気付いてる？」
「何をだ？」
「佐祐理の笑顔」
「笑顔？」
祐一は、訝しげな顔をした。
「佐祐理は、いつも楽しそうに笑っているけど、本当は、笑っていない時があるの。無理に笑顔を作ってる時がある。………私は、それに気付いた時から、どうにかしてあげたかった。親友の佐祐理に、心から笑ってもらいたかった………」
「………」
祐一は、言葉が無かった。
（舞は、佐祐理さんの、親友のそんな所まで気付いていたのか………。俺は、全然気が付かなかった………）
言葉にならない気持ちが、自然、祐一の拳を強く握らせていた。
俯く祐一に対し、舞は、言葉を続ける。
「祐一と出会ってから、佐祐理は、本当に笑う様になったの。三人でいる時は、無理に笑う事が本当に少なくなった。………でも、最近、また前の様に無理に笑う様になった………」
言葉を切って、舞は、少し俯いた。
「原因は、きっと私」
顔を上げて、言った。
「だから、祐一に告白したの。あなたは、どっちが好きなの………って」
そう告げる舞に対し、祐一は申し訳ない気持ちで一杯だった。
自分の曖昧な態度が、本来内気な舞にここまで大胆な行動をさせてしまうまで、苦しめていたのだ。
本当は、もっと気の利いた事を言いたかった。
しかし、今、祐一の口から言える言葉はこれだけだった。
「ごめんな………」
「謝らないで。こうなる事は、分かっていたから」
軽く首を振って、舞は言った。
「じゃあ、どうして？」
「自分に対するけじめ。子供の時の様に、何時までも待っている訳にはいかないから」
それは、幼い日の約束。
彼女を縛り付けていた呪縛。
「………ごめんな。待たせた挙句に、期待に応えられなくて」
「いい。祐一は、来てくれたから。私は、それだけでいい」
そう言って、ほんの僅か、微笑んで見せた。
「そうか………」
その笑顔で、祐一は、心が救われた気分になった。
「でも」
舞は、祐一に近付くと、額を祐一の胸に当てた
「少し、悔しいから………。少しだけ、こうさせて」
微かに震える声で、そう呟いた。
「ああ」
その声に、祐一は、ただ、そう言って頷く事しか出来なかった。
「………まい？」
深夜、不意に目を覚ました佐祐理は、隣の布団に舞の姿が無い事に気が付いた。
（トイレかな？）
そんな事を考えていると、自分も、急にそんな気分になってきた。
真冬の廊下に出て、染み入る様な寒さに震えながら祐一の部屋の前を通りかかった時、不意に中の声が聞こえてきた。
「私は、祐一が好き」
（えっ？）
思わず足を止め、ドア越しに中の声に耳をそばだてた。
「返事を、聞かせて」
「い、今すぐか………？」
「今すぐ」
「………分かった」
「ごめん」
（えっ？）
ごめん。と言った祐一の声に、佐祐理は声を上げそうになるのを必死に堪えた。
（祐一さんは、舞を好きじゃ、無い………？）
「………そう」
「好きな人が、いるんだ」
「佐祐理？」
「………お見通しか」
「っ！？」
二人の会話に、佐祐理は、愕然となった。
（祐一さんは、私が、………好き？）
両手を口に当てて、今の言葉をもう一度繰り返してみる。
（祐一さんは、私が、好き………）
その場にへたり込みそうになる足腰を無理矢理動かして、佐祐理は客間へと戻っていった。
布団に潜り込み、もう一度、今の言葉を繰り返す。
（祐一さんは、私が、好き）
（私が、好き）
（私が好き）
（好き）
（好き）
（好き）
「私が、好き…………………」
言葉にした瞬間、今まで経験した事の無い様な感情の嵐が、佐祐理を襲った。
歓喜。
好きな人が、自分を好いてくれているという事実。
その事実に、佐祐理は眩暈すら感じる程の歓喜に包まれた。
しかし、全く同時に、もう一つの感情が駆け抜けた。
（舞は、どうでもいいの？）
（佐祐理は、舞を幸せにするんじゃなかったの？）
（舞から祐一さんを取ってしまったら、舞は幸せになれるの？）
（舞が幸せになれなかったら、佐祐理は幸せなの………？）
それは、まるでハンマーで殴られたかのように、佐祐理の心に衝撃を与えた。先程感じた歓喜さえも、一瞬の内に吹き飛ばしてしまうほどの衝撃だった。
「ダメ」
佐祐理は、呟いた。
「ダメ」
舞の幸せを奪ってはダメ。
「ダメ」
自分だけ幸せになってはダメ。
「だから………」
祐一さんを好きになってはダメ。
「佐祐理は、舞を幸せにするって、決めたんだから。舞を幸せにする事で、佐祐理も幸せになるんだから………」 そう、繰り返し呟く佐祐理の瞼からは、熱い涙が止め処なく溢れ出ていた。
翌朝。
「それでは、佐祐理達は帰ります。名雪さんや秋子さんに宜しく言っておいて下さい」
佐祐理は、そう言ってぺこりと頭を下げた。
「ああ。………あ、所で。」
「はい？」
「家庭教師、もう少しお願い出来るかな？」
「………………ごめんなさい。ちょっと、バイトが立て込んじゃってるんで………」
申し訳なさそうに、佐祐理は頭を下げた。
「そうか………」
残念そうな表情を見せる祐一。
「本当に、済みません。大事な時期にお役に立てなくて………。あ」
何かを思いついた様に、佐祐理は顔を上げた。
「舞は？ 舞に教えてもらうのはどうでしょう？」
「舞に？」
「はい。舞だって頭いいですし。きっと佐祐理より祐一さんの力になれると思うんです」
「佐祐理？」
その姿を、舞は訝しげに見詰めた。
「舞。お願い出来るかな？」
「………ごめんなさい。私も、少しバイトが忙しい」
舞は首を横に振る。
「はぇ〜。そうなんだ………」
佐祐理は、残念そうに表情を曇らせた。
「いや、俺も、少し甘え過ぎてたと思うし。ここまで佐祐理さんに面倒見てもらったんだ。最後は自力で何とかするよ」
そう言って、祐一は笑って見せた。
「はい。祐一さんならきっと大丈夫ですよ」
佐祐理も微笑む。
「佐祐理………」
その横顔を、舞は、悲しげに見詰めていた。
それから、佐祐理は祐一の家に一人で行く事は無くなった。
祐一から電話しても、「忙しいので」と言って、電話に出ない事も多かった。
直接会いに行っても、いつも佐祐理は留守にしている様だった。
「なぁ、舞。お前、佐祐理さんから何か聞いてないか？」
ある日、祐一はバイト先の舞をつかまえて、そう訊いた。
「………私も聞いてない」
だが、舞も首を振るだけだ。
「そうか………。どうも避けられてる様な気がするんだ。俺、何か不味い事したかな？」
「分からない。けど………」
「何か、心当たりあるのか？」
「………………」
祐一の問い掛けには答えず、舞は暫らく考え込んでいた。
「祐一。明日、時間ある？」
そして、顔を上げると、そう訊いてきた。
「明日？ ああ。取りあえず試験はもう終ったからな。いつでもいいぞ」
「じゃあ、明日の一時に公園で待ってて」
「公園？ ………ああ、あの噴水のある所だな。分かった」
「じゃあ、私はバイトがあるから」
祐一が頷くのを確認して、舞はバイトに戻ろうとした。
「おお。悪かったな邪魔して。バイト、頑張れよ」
「うん。祐一も、頑張って」
「？ ああ………」
何の事か分からずに、祐一は曖昧に頷いた。
翌日、舞が指定した公園に祐一が来ると、噴水前で待っていたのは佐祐理だった。
「さ、佐祐理さん………。どうして、ここに？」
「佐祐理は、舞が話があるから。って………」
佐祐理も、祐一同様不思議そうな顔で答えた。
「俺も、同じ。舞が………、………ああ」
「どうしたんですか？」
「舞のヤツ。………余計な気を」
つまり、二人の仲を取り持つきっかけを作ってくれたのだろう。
（ぶきっちょなクセに………）
祐一は、心の中で舞に感謝した。
「え？」
「いや、こっちの話。それはさて置き、折角だから話して置きたい事があるんだ」
「………はい」
「最近、俺、辛かった。何か、佐祐理さんに避けられている様でさ」
「………」
「もしも、何か気に障るような事をしたり、言ったのなら謝る。そして、これからは、そういう事があったらすぐに言って欲しい。俺に、変な気を遣わないで欲しい」
「………」
「俺は、佐祐理さんが………」
「ダメですよ………」
祐一の言葉を遮って、佐祐理が言った。
「佐祐理さん…？」
「舞は、……舞も、あなたの事が………」
「それは………」
「祐一さんだって知っている筈ですっ。………なのに、何で………」
その先を、佐祐理は辛うじて飲み込んだ。
「………だから、祐一さんは、舞の事を想って上げて下さい。………今は、ちょっと戸惑っているだけです。だから、佐祐理なんかを………」
そして、顔を上げて、努めて笑顔で言った。
「そんな事………」
「祐一さんはもう知っていると思いますけど、舞は本当にいい娘ですよ。素直で、優しくて………。佐祐理なんかとは比べものにならない位、いい娘なんです」
笑顔を絶やさずに、佐祐理は続けた。
「ですから、今言った事は、忘れてください。佐祐理も忘れますから。………絶対に、忘れ、ますから………」
笑顔のまま、掠れそうになる声を必死で押さえつけて、佐祐理は言った。
その言葉を聞いた祐一は、すっと、顔を俯けた。
「………忘れない」
「え？」
暫らくの沈黙の後に出た言葉に、佐祐理はそう、声を出した。
「忘れてなんかやらない。」
「祐一さん……？」
訝しがる佐祐理の顔を正面から見据えて、祐一は言った。
「佐祐理さん。いい加減長い付き合いだから知っていると思うけど、俺って基本的に我侭なんだ。だから、自分の気持ちに嘘はつけないし、それを忘れるなんて事、出来ない。」
「でも………」
「それにな、少し頭にきた」
「え？」
「佐祐理なんか、佐祐理なんか………って、どこまでも自分を卑下して身を引いてっ。いつまでもそんな事されて、舞が幸せになれるとでも思ってるのかっ？ 俺が幸せになれるとでも思ってるのかっ？ ………何より、佐祐理さん。あんたが幸せなのかよっ！？」
語調を強めて、祐一は言う。めったに見せない祐一の強い感情に、佐祐理は表情を強張らせた。
「この際だから言うけど、そういう佐祐理さんは、もう見たくない。俺が見たいのは、自然に、………本当に自然に、幸せそうに笑っている佐祐理さんなんだ」
語調をやや弱めて言った祐一の言葉を、佐祐理は、俯いて、ただ黙って聞いていた。
「………」
そして、俯いたまま、呟いた。
「私は、舞を裏切れない。………私は、舞より先に幸せになっちゃいけない。………私はっ」
キッと顔を上げて、佐祐理は祐一を見据えて、言った。
「誰かを犠牲にして、幸せになんかなりたくないっ！！」
「佐祐理さん………？」
「私は決めたのっ。舞を幸せにするってっ。舞が幸せに出来れば、きっと自分も幸せになれるって思うからっ！………なのに、舞を悲しませて、私だけ幸せになるなんて出来ないっ。私には、そんな事をする資格が無い！！ ………一弥を殺した私には、分かっていて人を犠牲にするなんて事出来ないよっ！！」
目に涙を溜めて、佐祐理は叫んだ。
「その自己犠牲を止めろって言ってるんだっ！！」
佐祐理の心の傷〜弟の一弥の死〜を引き合いに出した事で、祐一の感情に火が付いた。
「自分の中に閉じ籠るのもいい加減にしろっ。それじゃ何時まで経っても、誰も幸せになんかなれないってどうして気が付かないんだよっ」
「でもっ！ 私の罪を償うにはそれしか思いつかなかったっ！ 教えてよっ！ 他に、私に何か方法があったの！？ 一弥を殺して、何も無くなった私がやっと見つけたこの方法以外に、どんな方法があるって言うのっ！？」
「どうしてそこまで弟が死んだ事を、自分の所為だって決め付けるんだよっ！？」
「私が一弥に辛く当たったからっ。まだ赤ん坊の頃から厳しくして、楽しい事なんか何一つして上げなくて、何一つさせて上げなくてっ。もし、もっと優しくして上げられたら、………もっと笑ってあげていたら、一弥はきっと苦しまなかった。悲しい思いをしなかった。………きっと、きっと死ななかったっ！！ 言葉が喋れなかった事も、体が弱かった事も、苦しんで死んでいった事も、みんな、………みんな私の所為だったのっ！！」
髪を振り乱して、瞳から涙が流れるのも厭わずに、佐祐理は絶叫する。
それは、今まで笑顔の中に押し込めてきた、佐祐理の感情そのものだった。
「本当は、もうこんな世界で生きていたくなんて無かった。でも、死ねないまま何となくここまで来て、初めて、自分を必要としてくれる人………、舞に出会った。」
やや、語調を弱めて、佐祐理が言う。
「これは、きっと一弥が私にチャンスをくれたんだと思った。一弥を殺した私に、一弥がくれた唯一のチャンス………。私を許してくれるチャンスだと思った。舞を幸せに出来れば、私はきっと許してもらえる。私も幸せになれる。………幸せになってもいいって、胸を張って言えるっ！」
「………」
「………だから、舞を幸せにするまでは、私が幸せになっちゃいけないの」
そう言って、力なく微笑む佐祐理の姿は、祐一には全てを諦めている様にしか見えなかった。
この人は、きっと、幸せになりたくないんだ。
そういう風にしか見えなかった。
「………俺が一弥だったら。あんたを許さないだろうな。」
だから、そう言った。
佐祐理に気付いてもらう為に。
「え？」
「それじゃいつまで経っても、誰も幸せにならない。みんなが皆自分の気持ち殺して、どうして幸せになれるっていうんだよっ！？」
「それは………っ」
「舞の為って言って自分の気持ち殺してっ。そんなあんたを、舞が喜ぶとでも思ってるのかっ？ そんな舞を俺が幸せに出来るのかよっ？ そして、あんたは幸せになれるのかよっ！？」
佐祐理の肩を掴んで、祐一は声を荒げる。
「それが、一弥の望んでる事なのかっ？ 舞との出会いはチャンスじゃなかったのかよ？ それとも、こうやって俺達を苦しめる為の罰だったっていうのかよっ！？」
「違うっ！！」
一際大きな声で、佐祐理が叫ぶ。
「だったらっ、自分に素直になれよっ。無理して笑う必要なんて無いっ。あんたが幸せになれば、きっと舞だって幸せになれる。俺も幸せになれる。………きっと、一弥はそれを望んでる。」
そして最後に、優しい表情で、そう言った。
「………わ、私は………」
涙に濡れた顔を上げ、佐祐理は祐一を見詰めた。
「幸せになれる………？」
「ああ。」
力強く、祐一は頷いた。そして、佐祐理を抱きしめる。
「みんなで、幸せになろう………。」
「………はい。」
祐一の腕に包まれて、佐祐理は、幸せそうに目を閉じた。
二人が抱き合ってしばらくした頃、舞が姿を現した。
「舞………」
祐一の声には答えず、舞は佐祐理を見詰めた。
「佐祐理」
その声に、佐祐理は、肩を震わせる。
「あ、あのね………」
怯えたような声で、何かを言おうとする。
「祐一は………」
それを遮るように、舞は言った。
「正直言って、頼りない」
「待てコラ」
祐一のツッコミを無視して、舞は続けた。
「けど、最後はちゃんと頼れるから………。それを私は知っているから。………だから、安心して、幸せになって欲しい」
「でも、舞は………」
不安そうに佐祐理が呟く。
「私は、もういい。祐一にフラれたから。………それに、二人が幸せな方が良い。」
佐祐理を安心させるように、舞は、優しく微笑んだ。
「舞………」
「大丈夫。男くらい自分で探せる」
「信用出来ねぇ………」
妙に自信たっぷりに言う舞に、祐一は疑惑の視線を向けた。
「昔からラブレターと果たし状は誰よりも貰っていたから」
「は、果たし状？」
引きつった表情で、祐一は聞き返す。
「よく、女の子に絡んでいた不良を懲らしめていたから」
ちょっとだけ胸を張って、舞は言った。
「ひょっとして、ラブレターの相手って………」
「………女の子ばかりだった様な気がする」
今気が付いたという感じで、舞が呟く。
「ダメじゃん」
「あはは………」
そんなやり取りの中、佐祐理が小さく笑った。
「佐祐理………」
その笑顔が、作ったものではない、本当の笑顔という事に気が付いて、舞は安心した。
「私も、舞の事大好きだよ」
その笑顔で、佐祐理は言った。
「私も、佐祐理は大好き」
舞も、笑顔で応える。
「あはは。両想いだね？」
「うん」
「じゃあ、付き合っちゃおうか？」
「佐祐理なら良い」
「待て待て待て待てっ。俺の立場はどうなる？」
何気にキケンな方向へ話がいってしまいそうなのを、慌てて祐一は止めにかかった。
「佐祐理の恋人」
さらりと舞は言った。
「舞は何だ？」
「佐祐理の恋人」
これまたさらりと言う。
「両手に花だねっ」
嬉しそうに佐祐理が両手を重ねる。
「そういう問題じゃないだろ………」
「好きな気持ちに素直になれって言ったの祐一くんだし」
「それに………」
佐祐理の言葉を、舞が繋いだ。
「それに？」
「そうすれば、３人一緒にいられるから」
そして、二人の気持ちを、そう、言葉にした。
「………個人的には、もう少しノーマルな関係で一緒にいたいのだが………」
二人の気持ちが嬉しくて、でも何となく恥ずかしくて、祐一はそう言った。
「祐一は細かい」
「お前が大雑把すぎるっ」
呆れ目の舞に、祐一はツッコむ。
「冗談はさて置き」
「冗談だったのか………」
「本気ならそれでもいいけど」
「冗談でいいです」
「残念」
「佐祐理さん。残念言わない」
本気で残念そうな佐祐理にツッコミを入れる。
「私は、二人が側にいれば、それでいいから。二人が親友なら、それだけでいいから」
「………ああ。俺は、いつまでも、舞と親友だ」
「私も、いつまでも、舞とは親友だよ」
「ありがとう。佐祐理、祐一」
そして、三人は互いに手を重ねた。
それは、三人がいつまでも永遠に共にある事を誓い合う儀式の様であった。
「よっ。お二人さんっ」
「あー。祐一くんだっ」
「おうっ。祐一くんだぞっ」
「卒業おめでとうー」
「おめでとう」
「ああ。サンキュ。二人共。無事に大学も決まったしな。これで、もう何の心配も無く遊び倒せるぞっ」
「じゃあ、早速行く」
「分かった。分かったから袖を引っ張るなっ」
「あははーっ。舞ってば朝からずっとそうなんだよー」
「子供か。お前は………」
ぽかっ。
「いてっ」
「祐一の方が子供」
「何をっ！？」
「私の方が年上」
「精神年齢は俺の方が上だ」
「祐一はオヤジなだけ」
「………言うようになったじゃねぇか」
「祐一に鍛えられたから」
「あははーっ」
「はあ。………まあいいか。さ、行こうぜ。今日は思いっきり遊ぼう」
「うんっ」
「うん」
春の気を柔らかく含んだ風が舞う中。
じゃれあいながら歩いていく三人の先には。
眩しい太陽が、輝いていた。
結果のページ
戻る