「誕生日、おめでとう……」
２月１日が、たった今から始まった。 時計の針は１２時きっかりを指している。
淡い照明に照らされた公園。 深深と、空から降り注ぐ雪。
凍ることなく流れつづける噴水の音が、無音の世界の存在を許さない。
相沢祐一、つまり俺は、普段一人では頼まれても行かないような深夜の公園で、誰に頼まれたわけでも
なく、ただ雰囲気にまかせて、雪の積もる地面に横たわっていた。
そして俺の眼前には、雪と同じくらいの肌の白さを持つ少女がいる。
茶色のチェックのストールを体にかけ、同じく雪の絨毯の上に横たわる小柄な少女。
２人とも、好きで雪の上に寝転がっているわけではない。 彼女は、軽度の衰弱状態にあった。
俺はその少女……栞へ、今自分の言える最高の言葉と共に、プレゼントを手渡した。高価なアクセサリー
でも、貴金属でもない。 代わりに、綺麗にラッピングされたスケッチブックと、画材用具一式を。
「これ……？」
「俺からの誕生日プレゼントだ。 ……受け取ってくれるか？」
「……ありがとう、ございます……。 嬉しいです……」
「これで、少しは絵が上達するといいな」
「ふふ…。 そんな事言う人、嫌い……です。 嫌いですけど…でも、嬉しいです……」
「そうか……。 よかった、俺も嬉しいぞ」
俺の問いに対して、栞はそうするのが当然かのように、拒むことなくプレゼントを受け取ってくれた。
それがなぜか、俺にはとても嬉しかった。
絨毯のように辺りに積もった雪が灯りに反射して、キラキラと輝いている。
栞は胸元で、しっかりとプレゼントを抱いていた。 眼の端に涙を溜めながら、精一杯の笑顔で彼女は
笑っている。 同じく俺も笑顔で応えた。 だけど、その笑顔が俺には嬉しくて……嬉しくて………同時に、
とても悲しかった。
「私……」
「ん？」
「私、今とっても幸せです……」
「……そうだな。 俺も幸せだ」
「大好きな人が傍にいてくれて、優しくしてくれて……。 今まで生きてきた中で、たぶん一番幸せです」
ひとつひとつ、自分の言っている言葉の意味を確かめるように。
栞は落ち着いた口調でゆっくりと話し始めた。 そのたびに、彼女の小さな口から白い吐息が吐き出さ
れるのが見える。 穏やかな優しい表情だった。
「でも……」
そう言った後、一瞬だけだったが、彼女は下唇を噛んだように見えた。
そして両手に抱くプレゼントをぎゅっと締めつけ、言葉を紡ぐ。
「今は１２時……。 ２月１日になりました」
……口にするのが一番辛いであろう、その言葉を。 あの日の、あの約束が、頭の中でリフレインする。
『１週間後の２月１日……私は祐一さんの前からいなくなります』
『それ以上の時間は、祐一さんにとっても、私にとっても、悲しい思い出を増やすだけですから……』
それが今。２月１日は、今。 彼女はその幕を、自らの手で下ろした。
「もう……、終わりにしないと……」
「………！！」
瞬間、俺の心に激しい痛みが走った。 たぶん、栞も同じ痛みを感じているだろう。
彼女は表情を変えずに、抑揚の無い声で続けた。
微かに風がそよぎ、静かに舞い振る白い結晶が空中で乱れる。 不思議と寒くはなかった。
「祐一さん、一週間前の約束……覚えてますよね？」
「……ああ」
心が荒縄で締め付けられるような感覚。むしろ、引きちぎられそうなほどの痛み。
俺は必死に感情を押し殺し、それだけを答えた。
一週間前の約束。
俺は栞と、この公園で二つの事を約束した。
誕生日までの７日間、彼女を普通の女の子として扱うこと。
そして、その期間を超えたら、お互いにもう会わないこと……。
栞の口から直接病気のことを聞き、それを承知した上で、俺は栞と約束した。
自分を犠牲にして栞のために、などという奇麗事を言うつもりは無い。
どんな形であれ、ただ栞と残された時間を大切に過ごしたかった。
自分の好きな人。
ずっと一緒にいたいと思える人。
例えその結末が望まないものであったとしても、美坂栞を受け入れるのは当然のことだったし、彼女が
許してくれる限り、全ての時間を栞に捧げるつもりだった。 彼女の許してくれた時間を、俺達は一生懸命
に過ごした。 この上なく幸せだった。 そんな夢のような時間は、宙を舞い散る塵のように儚く過ぎて……
そして今、終わりを告げた。
「祐一さんは、約束を守ってくれました……」
雪の上で横になっていた少女が、突然スッと上半身を起こす。
「………動いても、大丈夫なのか？」
栞は前を向いたまま、黙って頷いた。
少し横になって休んでいたせいか、彼女の体力はいくばくか回復したようだ。
多少悪かった顔色も、今は普段と変わらない、ほんのりとした桜色に戻っている。
栞は、上半身だけを起こした格好のまま俺の方へ向き直り、ニコリと笑って、
「今度は、私の番です」
今まで何事も無かったかのように。
自分が病に蝕まれ、体力が無くなっていることが全て嘘だと言うかのように、今度は立ち上がった。
さっきよりも少し強く風が吹く。 栗色の髪と、茶色のチェックのストールと、スカートを揺らしながら、
風が雪と共に吹き抜けていった。 だが彼女の体は、その風に揺らぐことなく、しっかりとその両の足で
立っている。 さっきまでの弱弱しさは、全く感じられない。
俺も慌てて立ち上がった。 栞は苦笑しながら、
「……ちょっと、体冷えちゃいましたね」
「雪の上で横になってたんだから、冷えて当たり前だ」
「でも、冷たくて気持ちよかったです」
「……寒いのか気持ち良いのか、どっちかにしてくれ」
「どっちかというより、両方です」
人差し指を口元にあて、悪戯っぽい視線をこちらに向けながら話す。
雪の上に横になっていたときの、それこそ力ない口調だった先ほどとは違い、普段どおりの口調。
「えっと……祐一さん、プレゼントありがとうございます」
「そんなに大したものじゃないけどな」
「女の子は、その気持ちが嬉しいんですよ。 私も女の子ですから」
栞は満面の笑みで答える。
前の方から聞こえる噴水の音が、徐々に大きくなってきた。
時間によって水の勢いが変わる機能が付いているのだろう。
パシャパシャと、絶えることなく水を叩いている。
「……祐一さん」
「ん？ なんだ？」
「もしかしたら、迷惑かもしれないですけど……」
「…………」
「これ、受け取ってください。 …プレゼントのお返しです」
そうつぶやくと、栞は一歩俺に近づき、そして。
「え……？」
肩口にかすかに感じる布の感触。ふわりと舞う羽のような軽さ。そして視界の端に入る茶色のチェック。
「よく、似合ってます」
傍らで彼女は微かに微笑んだ。
その微笑をたたえた少女の肩には、彼女のトレードマークであるストールが無くなっている。
代わりにそのストールは、俺の肩にかけられていた。
「私の、大切なものですから。 祐一さんに持っていて欲しいんです」
「でも……」
彼女の顔を見て、思わずハッとした。
優しく、悲しく、全てを悟ったかのような栞の瞳。 そして、安らかな笑顔。
何故この少女は自分の死を目前にして、こんな表情を作り出せるのであろうか。
思わず視界が薄くぼやける。
俺は、もう栞にしてあげられることは、ほとんど無い事に気づいていた。 だから、せめて自分の
ことに関する彼女の願いは、叶えてやりたいと思っていた。 だからこのストールが彼女にとって特別な
意味を持つものだと知っていても、今の栞の願いを断わることは出来なかった。
「……わかった。大切にする」
「はい。嬉しいです」
暖かな光を纏った雪が静かに、優しく舞い落ちてきている。
その中心で、噴水を背景にして栞も静かに笑っていた。 悲しいくらいの、笑顔だった。
でも、素直に抱きしめたいとも思った。 栞の方へと、足を一歩踏み出す。 刹那。
「ダメ、ですっ……！！」
不意に栞が口を開いた。 その言葉が発せられるのと同時に、俺の足も止まる。
見れば栞はうつむき、かすかに震えているのが分かった。
彼女の顔に先ほどの笑顔は、もうわずかにも残っていない。
そこにあったのは、口から発した強い拒絶の言葉と、目の端に涙を溜めて……
でも決して泣く事のない少女の、悲しみの表情だけだった。
「しお、り……？」
「ダメです……。 今祐一さんに抱きしめられたら、きっと私、もう離れられなくなります。
優しくて、あったかくて、とても安心できて……。 ずっとずっと、抱きしめられていたくなります。
そうしたら…………離れるのが、もっと辛くなるじゃないですかっ………」
栞は自分の中から、やっとのことで言葉を搾り出しているように見える。 実際そうなのだろう。
消え入りそうな、微かな涙声で、拒絶の意思を示す。
「抱きしめるのは……やめて下さい……」
強い少女だった、いや、俺が強いと思い込んでいた少女の面影は、どこにも見られなかった。
今目の前に居るのは、どこにでも居る普通の女の子。
ただ、初めて自分の弱さをむき出しにした、重すぎる運命を背負う少女がいた。
抱きしめられることが、栞にとって最も辛い事だと知らされた俺に、それ以上歩を進めることは出来なかった。
「栞……ごめんな」
「優しい言葉も、もうダメです……」
「……ごめん」
「もう、謝らないで……下さい……」
「…………」
「…………」
沈黙に申し合わせたように、噴水の音が小さくなっていく。
地面に落ちた２つの伸びる影は、ピクリとも動いていない。
俺に出来たことは、ただ栞の涙の溜まった瞳を見つめているだけだった。
「祐一さん。 ……これが最後の、お願いです」
「……なんだ？」
先に、栞が口を開いた。
最後の、という単語に、自分の心に波が立つのが感じられる。 うつむきがちに彼女は続けた。
「私……。 これで、祐一さんの前からいなくなります」
「…………」
「約束ですから……」
「そう、だな……」
俺は引き止めたい気持ちと言葉を飲み込んで、肯定の言葉だけを搾り出した。
彼女は……たった今、俺の前から去っていくだろう。 自らの運命を享受するために。
それだけは、確信できた。
「お願いです。 後ろを、向いてください」
「後ろを？」
「はい……」
突然、想像していたこととまるで違うお願いをされ少々戸惑ったが、言われるがままに体を反転させ、
栞に背を向ける。
彼女の顔が見えなくなった代わりに、公園内を点々と照らす照明がいくつか見え、先ほどより地面に
積もった雪の層が厚くなっているような気がした。
「絶対に振り返っちゃダメですよ」
「……分かった」
「それじゃ……」
すぐ後ろで栞の、スゥと少し息を吸って、吐いた音が聞こえた。 一拍置いて、彼女は言う。
「これで、帰ります」
「……そっか」
相手の顔が見られないのは、辛い。 どんな表情を浮かべて、今の台詞を言ったのだろうか？
多分、栞はとても悲しい顔をしている。 今までに、俺が見たことないくらいに。
その顔を見られたくなくて、栞は俺に後ろを向かせたのだと思う。
耳に届いた栞の声のトーンは――――やはり少し低いものだった。
「次は目を、閉じてください……」
「……？」
「お願い、します」
多少疑問に感じたが、言われたように瞼を閉じる。 瞬時に視界が暗転した。
栞にどのような意図があるのかは、俺には分からない。
だが、彼女がここにきて無意味な事を俺にさせるとは到底思えない。
とにかく目を閉じたままでは動くに動けず、栞に背を向けたままで次の言葉を待った。
「閉じましたか？」
「……閉じた」
「じゃあ、そのままで……」
栞は、それだけしか言わない。 雪を踏むサクッという音から、彼女が移動していることだけが理解
できた。そのまま栞が帰ってしまうのではないかという不安に駆られたが、足音は遠く離れるのでは
なく、近づいてきている事に気がつき、そのまま目を閉じていた。 が、次の瞬間。
俺は唇に、柔らかな感触を感じた。
視界は完全に閉ざされていたが、彼女が何をしてきたのかは分かる。
互いの体温を唇で交換する、恋人達にとっては当たり前の行為。
だが、それは不意打ちだった。 突然の、予想だにしない感触で、思わず目を開けようとしてしまう。
だがその刹那、一抹の不安が脳裏に浮かぶ。
目を開けたときに……もし、栞が涙を流していたら？
もし彼女の体が、自らの運命の重さに耐え切れず、カタカタと震えていたら？
そのときのことを考えると――――俺は怖くて目を開けることが出来なかった。
そんな彼女を、抱きしめて……それがさらに栞を苦しめる事になりそうで、怖かった。
そのまましばらくして、唇が離れる。 目は閉じたままだったが、唇と、顔全体を覆っていた暖かさも
同時に引いていくのが感じられた。 そして。
「さようなら、祐一さん……」
か細い、声だった。
いつもの彼女からは想像できないほど、細くて今にも壊れてしまいそうな声だった。
その言葉の意味するもの。 おそらくは、永久の別れ。
少女は、俺の横を通り抜けて―――走っていった。
規則的に雪を踏む音が耳に届いて。
だんだんと小さくなって。
……やがて、聞こえなくなった。
……栞は、泣いていたのだろうか？ 閉塞された視界の中で独りごちる。
彼女の気配は既に無くなっていたが、何故だか俺は目を開けることが出来ない。
むしろ、このまま眠ってしまいたいとすら思った。
目を閉じる前までは、俺の前には確かに栞が居た。 だから、余計に彼女の居ない公園の様子を
見たくはなかった。
だが、このままでは動くことも何も出来ない。 心に重いものを感じながら、俺はゆっくりと目を開いた。
―――そこには、おそらく公園が造られてから、何も変わってないであろう噴水の姿と、
真っ白な雪に覆われ、照明に照らされた公園の景色だけが残っていた。 栞は……いない。
「…………」
ただなんとなく、視線を下に落とす。 そこには、雪の絨毯の上につけられた俺自身の足跡と、
公園の出口へと向かって栞の足跡が残されている。
そして、もうひとつ。
ストールの他に、栞が俺に残してくれたものが、地面に落ちていた。
―――足元にあったのは、栞の似顔絵が描かれた、彼女のスケッチブックだった。
＜ 溶けよ、春の涙 ＞
一人、暗い夜道を家に向かって歩いていた。
一定間隔に設置された電灯のみが、闇に包まれた雪道を明るく照らし、雪は、俺の残した足跡を消すかの
ように、津々と降り続いている。
肩に茶色のチェックのストールをかけ、右手に栞のスケッチブックを持ち、帰り道を行く。
深夜という事もあってか、俺が雪を踏みしめる音以外は何も聞こえてこない。
立ち止まれば、辺りにはたちまち夜の静寂が訪れるだろう。
不意にその静寂を感じてみたくなり、足を止めた。
……静かだった。
まるで世界中の音がすべて消え去ってしまったように感じる。
目の前をちらつく雪と、自分の白い吐息を消し去れば、時間が止まったように感じるのだろうか。
そんな無意味な事を考えていたが、やがてその内容は別のものになっていった。
それは、とある一人の少女の事。
（あんな姿の栞は、初めてだ……）
彼女が、重大な病気に冒されているというのは直接聞いた。
だが栞は、自分を『普通の女の子』として扱いやすいように、気を使ってくれていたのだろう。
今の今まで栞は、俺の前では全く変化を見せなかった。
笑顔の裏側に、一体どれだけの苦しみを抱え込んでいたというのか？
その彼女が見せた悲しい笑顔に、驚きと戸惑いを感じずにはいられない。
頭の中で栞の別れ際の姿が、何度も何度も。 繰り返し、再生されてゆく。
『さようなら、祐一さん……』
それだけを告げて、栞は去っていった。
見る事は出来なかったが、きっと彼女の後ろ姿はひどく頼りなく、いつもより小さいものだっただろう。
そう、それはまるで―――病に、冒されているかのように。
（どうして栞が、あんなに重い運命を背負わなければいけないんだ……？）
（あいつに何もできない俺は、なんて無力なんだッ……！！）
悲しみ、疑問、戸惑い、怒りといった様々な感情のせいで、頭の中が混乱し始めてきた。
今の俺では冷静な判断や思考はできそうにない。 夜の寒さの中に身を置いているにもかかわらず、だ。
「くそっ」
俺は自分自身を罵り、そしてまた歩く事を再開した。
立ち止まっているよりは少しは落ち着くだろう……。
「栞……」
そうつぶやいてみたけれど、その言葉は一瞬にして夜の静寂の中に飲み込まれていった。
さっきと変わらずにいつまでも降り続いている雪は、街灯の光に照らされてちらちらと踊っている。
その光景に、どこか神秘的なものを感じ取ることができた。
ふと何かを思い出したのかのように、俺はこの神秘的な雪空にひとつの願い事をした。
それは、何かに願わずにはいられない、俺という人間の弱さを象徴していたのかもしれない。
何の解決にもならない、現実逃避を望む願いだ。
雪よ。
そのまますべての悲しみを。
痛みを。
苦しみを。
最初から、何も無かったように。
何もかも無かったように。
真っ白に、埋め尽くしてくれ………と。
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