部屋の天井をじっと見つめてみても、天井は何かを語りかけてくるわけではなく、かといって突然
目の前に落ちてくるわけでもない。 ただその白さと沈黙を保ち続けているだけだ。 いつもなら、こんな事
を何分か続けているうちに頭がボーッとしてきて、次第に眠気が襲ってくるのだが、今日はそれがない。
原因は分かりきっていた。
俺が帰って来た時には、ありがたいことに玄関に鍵がかかっていなかった。 秋子さんに、あらかじめ
遅くなると伝えておくのを忘れていたため、今夜は締め出しを食らっても文句は言えない状態だったのだが、
秋子さんが気を利かせて、玄関の鍵を開けておいてくれたのだろう。 秋子さんの優しさと心遣いには、感謝
しなければならなかった。
その後しっかりと玄関のドアを施錠し、階段を登って、今はこの自分の部屋にいるのである。
栞のストールとスケッチブックは、机の上に半ば投げ捨てるようにして置いた。 冷静な判断力を失って
いる証拠だ。
寒空の中を歩いて頭を冷やしたおかげで、さっきより気分は落ち着いてきている。 だが、気分が落ち着い
ただけで、頭の中は相変わらずだ。
……それに俺はまだ、ついさっき起こった出来事を信じる事ができないでいた。
あの、雪の上に弱々しく横たわった栞の印象が強く残ったせいで、いつも元気に振舞っていた彼女との
ギャップが強すぎる。
信じられないというよりも、自分が夢を見ているのではないか？ という感覚の方がはるかに大きい。
もしも、もしもこれが夢だったならどんなにいいだろう。
ベッドから飛び起き、「悪い夢だったぜ……」の一言ですべてが済む。
それは、とても望むところだった。
寝汗で湿ったＴシャツから制服に着替えて。
いつもどおりに名雪を起こして。
秋子さんに朝の挨拶をして。
名雪のせいで遅刻しそうになって。
それでも朝食はなんとか食べて。
学校まで走って、香里にあきれられて、北川にはからかわれて。
みんなでくだらない話をして、授業を受けて。
そして、昼休みにはいつもの中庭で、栞と―――――
栞……と……？
頭の中で、想像が停止する。
同時に、俺の周りを包み込んでいた夢の衣が一瞬にして消え去った。
後に残るのは……冷酷な現実。
不意に机の上に置いた茶色のチェックのストールと、決して新しくはないスケッチブックが視線の端に
飛び込み、その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「栞ッ……！」
いままで直視するのを避けていた、圧倒的な喪失感と絶望感が俺を壊そうとする。
それは、俺が始めて栞の『死』の運命を、現実のものとして受け止めてしまった証拠でもあった。
「栞っ……、栞っ……！！」
俺が呼ぶのは、最も愛しい人の名前。
呼ぶたびに彼女の様々な表情が浮かび、一緒に過ごした日々の思い出が駆け巡る。
そのたびに心は悲鳴を上げているのが、頬を伝う涙で分かった。
それでも、俺は栞の名前を呼ぶのを止めなかった。
「栞、栞っ……、栞ぃっ………！！！」
呼べば呼ぶほど心が痛む。
俺は、栞に何もしてやれなかった。
あいつの悲しみを理解したつもりになっていただけで、結局は何もできていないじゃないかっ……！
どうしようもない悲しみと、自分に対する激しい怒りに気が狂いそうになってしまい、涙の量は一層
多くなった。 思えば、最後に泣いたのはいつだっただろうか。
外国へ行く両親と別れた時に泣くほど、精神的に子供ではなかったし、中学の頃も泣いた覚えは無い。
泣いてしまうほど、悲しい出来事が起こらなかったから。
久し振りに感じたその涙の味は、俺の悲しみをさらに増幅させるものとなった。
「っつ……ぐぅっ……、しおりっ………」
『……何ですか？祐一さん』
そう聞き返してくる少女は、もういない。
『そんな事言う人、嫌いです』
そう言いながら不機嫌な顔をして、でもすぐに笑顔に戻る彼女は、もう見られない。
記憶の中に残る栞の姿は鮮烈過ぎて、懸命に生きる彼女が儚すぎて、その一つ一つを思い出すたびに
また涙があふれる。
『さようなら、祐一さん……』
俺は、栞が最後に言ったこの言葉が意味するものを知っていて。
さっきまでは、その意味を受け入れまいとしていた。
だが今は、受け入れざるをえない状況になっている。
それは、１番認めたくない事実だった。
（もう……会えないんだ……）
そして俺からは、今の今まで耐えてきた悲しみの涙と。 嗚咽と。 泣き声が上がった。
枕に顔をうずめて力の限り泣き叫んだ。
何も考えられない。
ただ悲しい。
悲しすぎる。
涙と泣き声は枕に吸い取られていった。でも、自分の喉から来る嗚咽はどうしようもなかった。
外では変わらずに、静かに、止むことなく雪が降り続いていた。
……どのくらいの間、ベッドに伏していたのかは分からない。
ただ少なくとも、空が白み始めていた点からすると、４、５時間は経っていると思う。
一晩をずっと泣いて過ごしたわけではないが―――栞の事が頭から離れることは無かった。
全身が気だるい脱力感と虚無感に支配されているかのように、何もする気が起きない。
胸に大きく開いた、いや大きく開きすぎた穴から、色々なものが零れ落ちているようだ。
一言で言えば、無気力。 今の俺を形容するベストな言葉だった。
しかし、心が半分死んでいても、身体は生きようとするらしい。 俺の喉はひどく渇いていた。
滑稽だな、と思いながら、ベッドから身体を起こし、水を飲むためにドアを開けて廊下へ出た。
部屋のドアを閉める途中、机の上に乗っているストールとスケッチブックがチラリと目に入り、
（香里の気持ちはわからないでも……ないな）
昨夜の出来事が一瞬のうちに思い出されて、再度絶望感を味わう。
そんな中で、俺は階段を降りていった。
早朝すぎたのか、リビングには人の気配はしなかった。 多分、秋子さんもまだ起きていないのだろう。
まだ少し薄暗かったが、視界には不自由しなかったので明りは付けずにキッチンへ向かった。
主のいないキッチンも見慣れないが、気にせず水道の蛇口をひねり、コップを手に取る。
一口、二口と水を流し込んで、俺は一気に喉を潤すことができた。
だが喉は潤っても、心は潤わない。 一生潤うことはないのかもしれない。
乾いたままの心では、何かを感じることもない。
……栞は今、何をしているだろうか。
俺と同じように、泣いているのか？
それとも部屋のベッドの上で、寝込んでいるのか？
思考がさっきと同じようにループする。 頭が鎖で拘束されているようだった。
だが、それでもいい。 栞のことを忘れるよりは、ずっといいはずだ。
全てを忘れるよりも、ずっと痛みを感じていれば、栞を忘れることは無い。
そう、それが一番のはず―――
そう思いながら、空になったコップを流し台に置こうとしたその時、静まり返ったリビングに、それを
破る電話の音が響いた。
ルルルルル…… ルルルルル……
早朝には似合わない、電話の音が鳴り響いている。
…どうせ、間違い電話か何かだろう。
常識のある人間なら、こんな時間に電話をかけても誰も出ないことなど分かりきっている事だ。
ルルルルル…… ルルルルル……
電話は、その存在を音で示し続けている。
もしこの家に誰もいなければ、この電話を無視することも出来ただろうが、
名雪はともかく、呼出音で秋子さんが起きてしまうかもしれない。
ルルルルル…… ルルルルル……
しつこい電話主を胸中で恨みながら、キッチンからリビングまで移動する。
重たい身体をひきずりながら、電話のディスプレイを確認すると、そこには見慣れぬ『公衆電話』の
文字が表示されていた。
公衆電話から間違い電話、ということも考えられなくも無いが、珍しい事だけは確かだ。
間違い電話ではないとすれば、こんな時間なのを承知で公衆電話から水瀬家に電話をかける人物とは、
一体何者だろうか？
残念ながら、俺には思い当たらない。 ともかく俺は受話器を取った。
「もしもし…、水瀬ですが…」
『相沢君！？ 良かった、起きてたのね！』
いきなり電話口で自分の名前を呼ばれ、虚を突かれた。 だが聞こえてきたのは、女の声。
一瞬混乱するが、すぐにその声の主が誰なのか、パズルのピースのように情報が組み合わされる。
それは聞き慣れたクラスメートの、何より栞の姉である人物の声だった。
「え……？ あ………！！ 香里か！！？」
『お願いっ！ 相沢君！ 早く……早く来て！ お願い！ だからっ……！』
心臓の鼓動が瞬間的に跳ね上がる！ 香里がこんな朝早くから電話をよこす理由など、ひとつしか考え
られない。
あいつの……栞の身体に何かがあったんだ！
「香里、落ち着け！ どうした！？ 栞に何かあったのかッ！？」
『う、うぅ……！ ぉりがっ……ょぅ室でっ……意識をっ……』
電話口から香里が涙声で状況を伝えてくる。 彼女の嗚咽で声がかすれてしまっていたが、
かろうじて聞き取れた『栞』と『病室』という単語。
頭の先から足の指までの全身の筋肉が、ほんの刹那の間に緊張した。
あの冷静な彼女が考えられないくらい取り乱している事から推測すると、栞に何かがあったことは間違いない！
それこそ、最悪の状況も……有りうる！
「病室？ 栞が、意識を…！？ 香里、お前は今病院に居るんだな！？」
『っく…ひっ……う、ん……』
病院に香里がいる、ということは、栞も病院にいるということ。
公園で別れた後、彼女は病院へ戻ったのだろうか？
「どうなんだ！？ 栞は一体……どんな状態なんだ！？」
『さっ、きまでは普通に寝ててっ……、でも、あの子急に苦しんでっ……。 い、意識が無くなっ……！
今は、先生が、処置っ……でも、危険、って……』
（栞が、危険ッ！？）
ドクン――。 心臓がより一層高鳴る。
『相沢く…！ 助けてっ……！ あの子を……。 お願いよ…！』
悲痛な叫びが受話器から響く。 早朝だろうが何だろうが、関係ない！ 行かなきゃいけない！
「分かった！ すぐに……すぐに行くから！ 商店街を抜けたところの病院だな！？」
『……お願い……早く来てっ……』
彼女から病院についての指摘が無かったので、その返事をＹＥＳと受け止め、受話器を強引に置いた。
涙声で、とぎれとぎれの会話だったが、香里が何を言わんとしているかは明確に理解できた。
栞が、たった今危険な状態にあるということ。 それだけで十分だ。
気がつけば足がすくみ、 ガクガクと身体が震え、両手は自らの二の腕を掴んでいる。
栞を失うという恐怖に押し潰されそうになっている自分は、とても弱い存在だ。
でも……それは当たり前の事だ。 だけど、失うのが怖いからと言って逃げていては、何も始まらない。
もう一度、栞に会いたい！
奇跡が起こることを信じて、彼女の笑顔をもう一度見たい！
まだ……終わらせたくない！！
弾けた様に、俺は玄関から飛び出した。
栞との約束は破ることになってしまうが、どうでもいい。
彼女はきっと怒るだろうが、謝って許してもらおう。
今俺に出来る事は……どんな状態であれ、栞に会いに行くことだ！
昨日雪を降らせていた雲はどこかに消え、外はとてもいい天気だったが、日の出がまだなので薄暗い。
早朝の雪道はとても気温が低く、身を切るような寒さだった。 そんなことは関係なかった。
ただ走る。 道路にある雪も、所々に残った足跡も、凍った水たまりも、何も眼に入らない。
一分でも、一秒でも早く栞の元へ！
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァッ……！」
毎朝の登校で身についた体力が、こんな形で役に立とうとは思いもしなかったが、
必死に急ぐ自分の気持ちに身体がついてくるのはありがたい事だった。
しかし流石に限界も来る。 心臓は張り裂けんばかりに鼓動を激しくし、全身の筋肉が悲鳴をあげ、
つまりは、身体が「もう走るな」と俺自身に命令している。だがその制止を無視して腕を振り、足を
持ち上げ、風を切り裂き、俺はがむしゃらに走り続けた！
見慣れた通学路を駆け抜け。
まだ無人の商店街を走り抜き。
そしてその先にある病院へ！
とにかく、走った。 休むことなく、俺は全ての道程を走りきった。
そして俺は精神力だけで、その病院の前までたどり着いていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ………！！！」
外の空気とは明らかに違う、独特の何かがよどんだ空気と、微かに感じる不愉快な薬の匂い。
俺の持つ病院の印象とは、まさしくそれだった。
持ち前の丈夫さから病院の厄介になる事は滅多に無く、おかげでこの２つの匂いには全く免疫がない。
表玄関がまだ閉まっていたので、急患を搬入するらしい裏口の前で立ち止まり、息を整えていた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ………！」
心臓は尋常ならざる速度で脈を打っていたし、外の寒さのせいで汗はかいていないものの、既に
疲労困憊の域まで達している身体は、あらゆる運動を拒んでいるようだ。
酸欠症状で、視界も軽くぼやけている。 少し休憩しろと、俺の細胞全てが警告を出している。
しかし、休んではいられない。 その間にも時間は確実に過ぎている。
このつらさが何だ？ 栞の方が、精神的にも肉体的にも、何十倍も苦しかったはずだ。
栞に比べたら、俺の辛さなど有って無いようなもの……！ 急がなけれれば！
ＫＯ寸前の身体を無理矢理引きずり、ドアを開けて病院の中へと入っていった。
「美坂さんの、ご親戚の方ですね！？」
「ハァ……ハァ……。 はい……」
一番近くにあったナースステーションで『美坂栞』の名前を出すと、暇そうに待機していた看護士の
表情が一変した。 親戚ではなかったが、説明するのが面倒なので、そのまま返事をする。
「こちらです！ お急ぎ下さい！」
そう言うとその看護士は、ナースステーションから飛び出し、俺を連れて廊下を走り出した。
俺が記憶するに、たしか病院内では走ることは禁止されていたはずだが、彼女はそれに構う様子はない。
（栞の容態は、それほど一刻を争う事態なのか！？）
雀の涙ほどしか体力は回復していなかったが、もう一度身体を奮い立たせて、院内を駆ける。
（栞……。 頼むから、間に合ってくれ！ 栞っ……！！）
もう俺の身体を動かしているのは、栞に会いたいという想いと、意地。 それしか残っていない。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ………！！！」
俺は必死で、前を走る看護士の背中を追いかけ、人気の無い長い廊下を力の限り走った。
どれほどの距離なのかは分からないが、その廊下の距離が、俺には１００Ｍにも２００Ｍにも感じられる。
ほどなくして大きなガラス張りのドアの前に到着した。 ドアの向こう側には、先ほどと同じような
ナースステーションと、その前には規則的に椅子が並んでいる。 ごく一般的な病棟の様子に見えたが、
ただ、普通の病棟と違っている点が一つ。
それは、ガラス張りのドアに『末期治療特別病棟』と書かれている事だった。
（特別病棟って………ホスピスとか、そういうのか！？）
疲弊しきった身体に、改めて戦慄が疾る。
栞の今置かれている状況がどれほどのものなのかを、その文字は何よりも雄弁に語っていた。
看護士が、ゆっくりとそのドアを開ける。
早く！早くッ！
心の中でそう叫んでも、声には出ない。 激しい呼吸が言葉を遮ってしまう。
ドアが完全に開かれ……その視線の先には、私服姿の香里が俺を待っていた。
「香里ッ！！」
俺は叫んだ。 前にいた看護士を押しのけ、その先に居る彼女の元へ駆け寄る。
特別病棟の空気はとても清涼なもので、薬臭さのようなものは一切気にならなかったが、それが一層
ここが特殊な場所なんだと実感させられて、とても嫌だった。
「あ……相沢君っ！ こっちよ！ 早く！」
「ああ！」
香里に制され、『美坂栞』と書かれたルームプレートの付く病室のドアに手をかける。
（もう一度絶望を味わうだけかもしれない。 だが、それでもいい！
一人でなんて絶対に逝かせはしない。 側にいて、手を握っているだけでもいい。
少しでも安心させられるなら……！
俺は、栞にしてやれる最善を尽くすべきなんだ！）
そして、一気に開いた。
まず最初に飛び込んできたのが、真っ白な空間。
一点の曇りも汚れも無い白の壁紙が、部屋全体に貼られた病室だった。
思わずその白さに吸いこまれそうになるほどの白さ。
ベッドは勿論、ベッドの側にある点滴や、たくさんの管のついた医療機器も白で統一されている。
そして、こちらを向いている二人の夫婦。 おそらく彼女達の両親だろう。
部屋の色と同じく、白の衣装に身を包んだ医師と、看護士らしき女性も２人ほど、ベッドの側にいた。
ただ変わっていたのが、なぜか全員がその場に立ち尽くしている。
香里は電話で、医者が栞に処置をしていると言っていたが、その男の医師の手は既に止まっているようだ。
ということは……もう処置が、完了したという事なのか。
どうにか間に合った！
…待てよ？ 処置が終わったという事は……栞の身体を、治せたということか？
栞の容態を、回復させることができたのか？
どうしようもない状態だと、栞は言っていたのに？
奇跡。 ふと以前栞が口にした単語が脳裏に浮かんだ。
奇跡。 それが今起こったというなら、栞が助かっても、不思議じゃない！
そうだ！ 奇跡は、起こったんだ！！
「……午前６時１３分。 ………ご臨終です」
「なッ…………！？」
「いやあああああああああああああああああああああッッ！」
香里の悲痛な叫びが、病室に響いた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
私は、暗い暗い闇の深淵へとゆっくりと落ちている。
暗黒は全てを包み込み、そして何も生み出さず、あらゆるものを黒く静かに染めてゆく。
……ベッドで寝ていたはずなのに、どうしてこんなところへ？
身体は……動く。 起き上がれる。
起き上がれたけれど、上下の感覚がはっきりしない。
足場のない無重力空間にいるように、身体が浮かんだまま、深淵に落ちている。
ここは、どこ？
当たり前の疑問だったけれど、答えてくれる人は誰もいない。
上を見上げてみると、頭上を照らしていた大きな光が、だんだんと黒い物体に覆われはじめ、
気づけば私自身も例外ではなく、指先から少しずつゆっくりと。 身体が周りの闇に侵食されてきていた。
「なに、これっ……？」
怖くなって、必死で手を振り回してみても何も掴めず、冷たい空気を掻き回すだけ。
重さの無い闇がまとわりつき、私の存在を消していく。
ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、けれど確実に。
漆黒の深淵と同化するように、私の身体は黒く染まって、そしてその部分が消えてゆく。
これが『死』？
そう自覚した瞬間、私の意識は遠のいた。 同時に意識も、身体も、何もかもが闇の中に溶ける。
「あっ……！？」
大きな『闇』が、私の身体を一瞬で飲み込んだ。
これで自分は、消えてしまう。 全てが終わる。 心に秘めた弱さも、想いも全て。
「お父さん、お母さん、お姉ちゃん、ごめんなさい……。
そして……ごめんなさい。 祐一、さん……」
――けれど次の瞬間、目の前に大きな光のカタマリが現れ、激しい閃光が私とその空間を照らした！
全身を包み込んでいた闇は一瞬で吹き飛び、底の見えなかった深淵は消え去り、空間は白い光で満たされた。
私は、突然起こった事態に目を白黒させる。
なにがなんだか。 正直な感想だった。
すると、目の前にある光のカタマリは徐々に形を変え、やがて人の形へと収束していく。
そして。
「え……。 あゆ、さん……？」
「えへへ……。 こんにちは、栞ちゃん」
目の前に現れたのは、紛れも無く、あゆさんだった。
始めて出会った時と同じダッフルコートに、茶色の手袋。 羽根のついた可愛いリュックサック。さすがに
たい焼きは持っていなかったようだけど、間違いなくあゆさん。 ただ、いつもの元気な印象は感じられず、
落ち込んでいるような、悲しいような、そんな表情をしていた。
「どうして……ここに？」
「ボクの探し物が、ここにあったから……」
「探し物……？」
詳しい話は知らなかったけれど、あゆさんは、何かを探しに商店街に来ていた。
私はてっきり落し物だと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。
あゆさんは力なく笑い、話し出した。
「ボクの探し物っていうのはね……祐一君の、望むもの。 ボクは祐一君の願いを、ひとつだけ
叶えてあげることが……出来るんだ」
「…………？」
「最近までは、祐一君の欲しいものが何なのか分からなかったんだけど……ようやく見つけたんだよ……」
「……何、ですか？」
そう聞くと、あゆさんは半ば諦めたような笑顔で、
「栞ちゃんの、笑顔っ」
こう答えた。
「え………？」
「祐一君が望んだものは、栞ちゃんの笑顔。 栞ちゃんといる祐一君は凄く楽しそうだし……
なにより、今の祐一君の姿を見てたら、ボクも悲しくなる……」
今の祐一さんがどんな状態にあるのかは、私は知らない。 でも、私は祐一さんにとても悲しい思いを
させたことは間違いない。
「祐一君にはいつも笑っていて欲しいし……。 祐一君が望むなら、ボクは『力』をそのために使うよ……」
私には、あゆさんの言っていることが、半分も理解できなかった。
けれど、一人で混乱しているところで突然、私の身体が煌煌と輝き始めた。
「えっ……？ あゆさん、これ……？」
「いつかまた、会えるといいねっ！ 栞ちゃん！」
あゆさんは、いつものようにニッコリと笑っている。 今まで気がついていなかったけれど、あゆさんの
両手には、小さくて可愛らしい、天使の人形が握られているようだった。
そして私の体の輝きはどんどん光を増していき、先ほどのように、意識が遠のいてくる。
闇に包まれて消えるのではなく、今度は光に包まれて、身体が白に溶けてゆく。
とても、気持ちがいい……。
朦朧とする意識の中で、あゆさんの声が聞こえた気がして……。
『ボクの、願いは…………』
同時に、視界が完全に真っ白になって……。
その時点で、私の意識も溶けていった。
……なんだろう。 遠くから、何かが聞こえる。 私を呼ぶ声？ ……よく、分からない。
でも、ちょっと寒いかな。 なんだか鼻がむずむずする。 こんなときは、くしゃみをすればいい―――。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「いやあああああああ！ 栞ぃぃぃぃっ！！！」
香里は、静かに眠る妹の横で、そう叫びながら泣いている。
彼女の母親は香里と同じく涙を流し、父親はそんな母親を抱きしめていた。
俺は……ベッドの側で、立ちつくす事しか出来なかった。
ご臨終って……どういうことだ……？
ただ眠っているだけなんだろう？ 栞。
すぐ、目を覚ましてくれるんだよな？
目を覚まして、こんなところに俺が居るなんて知らなくて、慌てるんだろう？
『祐一さん、嫌いですっ』って、頬を膨らませて言うんだろう？
ほら……俺はここにいるから。
栞の側に居るから。
ずっとお前の隣に居るから。
だから、目を覚ましてくれよ、栞っ……！
寝坊が得意技なのは、名雪だけで十分だから……！
早く、起きてくれよ……！
栞！ おい、栞っ！ しおっ……
けれど、無表情で眠る栞の顔はとても無機質で、それが今まで否定していた『死』の風貌を表しているようで。
必死で抑えていた感情が、一気に外に溢れ出す。
「……栞ぃッ！ 頼む！ 起きてくれよ！」
届くはずのない言葉を、栞に向けて送る。 もちろん反応などなかった。
その無反応さが、心を深くえぐる。
「起きろよ！ くそっ……！ おい、栞ッ！！」
「っく……ぃ沢、君っ……やめ、て……」
「栞！ 早く……起きろよ！ くそっ！ くそおっ！ ……ちっくしょおおおおおおおおッ！！」
形を持たない感情が限りなく沸いてくる。 両の拳をベッドに叩きつけ、俺はその場に崩れ落ちた。
胸が激しく痛む。 栞を失った痛みが、次から次へと襲い掛かる。
結局何も出来なかった……。 側に居てやることも、痛みを和らげてやることも、何も！
「しお……り……っ！」
そして、全身の力が抜けていった。 あの気丈だった香里も、今ではその面影すらない。
彼女は栞の手を握って、泣き続けていた。
俺はこれからどうすればいいのか……？ 栞を失った今、何をするべきなのか……？
空っぽの頭で考えてみても、全く答えは出てこなかった。
だが。
「……ちくしっ」
病室内の時が、凍った。
だが凍ったように感じたのはほんの一瞬で、次の瞬間には、ベッドの横に設置してあった
心電図を表示する機械から、ピッ…ピッ…という規則的な音が流れ始める。
心電図のモニターが表示するものは、心電図。 だが、その心電図は……誰のもの？
コードの先を目で追いかける。 機械から、床へ。 床から、ベッドへ。 ベッドから、布団の中へと、
コードは潜りこんでいた。 その布団の中には、栞の身体がある。
ふと、栞に目をやる。 するとベッドの上では、一人の小さな、白い肌を持つ美しい少女が……
少し照れながら、笑っていた。
「あ……！？ ああ……！？」
ガクガクと小刻みに震え、目を見開き、口も開け、声にならない声をあげる香里。
かく言う俺も、きっと同じ格好をしているだろう。
栞が笑っている。 一度死んだはずの栞が、目を開けて笑っている？ これは……夢か？
「おはようございます……、お姉ちゃん、祐一さん……」
言葉に力は無かったが、やはり照れながら、彼女はそう告げた。
「しお……り……？」
「恋人と姉が、病気の妹のために涙を流す。 ドラマみたいで、かっこいいですよね……」
恐る恐る栞の頬に触れてみる。 冷たくない。 彼女は生きている！
一度死んだはずなのに、どうして息を吹き返したのか？ いや、そんなことはどうでもいい！
夢じゃない。 幻なんかじゃない。 ここにいるのは……正真正銘の、栞なんだから！
俺と香里は顔を見合わせ―――お互いの顔は涙でくしゃくしゃになっていたが―――
「し……、栞ぃぃぃっ！！！！」
栞を２人で、泣きながら抱きしめた。
起こるはずのない奇跡は、俺の目の前で起きたのだった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
うららかな日差しが地面に差し込んでいる。
あれほど積もっていた白い雪は姿を消し、冬の間雪に包まれていた中庭は、その本来の姿を
取り戻していた。 雪を降らせていた黒い雲は、今では影も形も見えなくなっている。 せっかちな草花の
いくつかが花を咲かせ、春の足音がすぐそこまで迫っていることを感じさせていた。
しかし、ときおりそよぐ風の温度は暖かいとは言えず、ここで昼食を取る生徒が現れ始めるのは、
もう少し時間が経ってからだろうと、俺は予想した。
あの後行った検査で、栞の病状は完全に回復した、と医師は診断した。
ただし、病状が完治した代わりに、なぜか栞の身体の筋肉は異常なほど衰え、立ち上がるどころか、
ベッドから起き上がるのでさえ困難な状態にまで筋肉が落ちてしまった。 担当医の話では、６，７年
ずっと寝たきりになっていると、そんな状態になるらしい。
栞が助かったはっきりとした理由は分からなかったが、自己治癒力を最大限まで高め、病状を回復させた
代わりに筋力が低下したところから推測すると、一種の人間の生命維持の方法ではないか、という話だ。
無論、非常に稀なケースらしいが。
衰えた筋肉を元の状態に戻すため、栞はそのまま入院した。
命に別状は無いようで、俺は毎日でも見舞いに行きたかったのだが、
「祐一さんは私との約束を破ったから、もう病院に来ちゃダメですっ」と、突っぱねられた。
「元気になって退院しますから、それまでは待ってて下さいね」とも言われた。
そして、その時から２ヶ月が経ち、明日栞は退院できるらしい。
２ヶ月間、彼女と会えなかったのは厳しかったが、毎日香里から栞の回復状況を聞いたり、栞から手紙を
もらったりしていたので、長くは感じなかった。
今は、昼休み。
明日栞が退院するということで、俺は気持ちを整理するために、一人でこの中庭に立っている。
俺が栞と始めて出会った場所。
雪で彩られた頃とはずいぶん風変わりしてしまったけれど、大切な場所なことに変わりはない。
寒い中アイスクリームを食べたことも、今ではもう過去の笑い話だ。
ドタバタしているけれど、それでも楽しい毎日が過ぎていく。
仲間達と共に、かけがえのない思い出を築いていく。
俺も、名雪も、香里も、北川も。
そして。
「…で、何やってんだ、こんなところで」
刻むことの出来なかったはずの思い出が、またここで増えていく。
「来たら、ダメなんですか？」
迎えることの出来なかったはずの時間を、２人で感じられる。
アイスクリームの袋を抱えたその少女は、今まで隠していた涙を隠そうともせず、俺の目の前に来た。
俺を驚かそうとして、こっそり病院を抜け出してきたのだろう。
動かなくなってしまった彼女の時計は、春の訪れと共に、また動き出す。
今まで耐えてきた多くの悲しみが、せきを切って流れ出す。
冬の寒さで凍りついた彼女の涙は、静かに、静かに溶け始める。
「……祐一、さんっ……！」
……栞と一緒に、たくさんの時間を過ごしていこう。
今はまだ無理だけど、今までの事を全部、笑って話せるくらいに。
栞の身体を抱きしめながら。
やわらかな初春の光を背中で感じながら。
流れる涙をそのままに……。
栞の笑顔を、ずっと見守っていこう。 俺は、そう心に誓った。
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