「祐一の馬鹿っ！　もう知らないっ！」





　あの冬、あの奇跡から一年後の、雪の降る街。





「ああ、好きにしろよっ！」





　奇跡の後も、これから先も、ずっとずっと続いていくはずの物語の中。





「ぐすっ……祐一の…………ばか…………」





　その長い長い物語から、ほんの少しを抜き出しましょう。




「…………くそっ！　…………ああもう、どうして俺はこうなんだよっ……！」





　これは、その“少し”の物語。短い短い物語。

　あの奇跡の冬から一年後、今年もまたやってきた、雪が降る季節のある日。
　ちょっとしたすれ違いをした二人は、ちょっとした喧嘩をしました。

　これは、その“ちょっと”の物語。短い短い、ちょっとしたお話。















そして世界は、またひとつ

















　Ｓｉｄｅ１・Ｔｈｅ　Ｑｕｅｅｎ














「…………で、そろそろ白状して欲しいんだけど？」
「…………うー」

　クッションを抱きかかえて唸る名雪に、私はベッドの上からため息を返し、時計を見る。
　時計は午後八時を少し回っていた。

「もう二時間になるわよ？」
「…………うー」

　日が完全に沈んだころ、急に訪ねてきた名雪をとりあえず部屋に上げ、――――そしてずっとこの状態が続いている。
　付き合いも長いので、なんとなく用件の内容は解ったのだが、求められるまでは答えないのが私のスタンスだ。名雪が話し出すまではと、本を読んだり北川君にメール打ったりして時間を潰していたのだが、流石に二時間を超えるとなると…………

　もういい、私の負け。早く話して帰りなさい。

　送ってくれる男手もいないというのに、夜遅くまで外出するとは何事だ。

「あーもう。どうせ相沢君と喧嘩したんでしょう？」
「え、ええ！？　何で解るの！？」
「何年の付き合いだと思ってるのよ…………」

　アタマ痛。

「なら今すぐ解決してあげるわ」
「え、え？」
「相沢君。もう要らないなら私に頂戴」
「だっ、だめ――――！」
「はい解決。帰りなさい」
「……………………うー」

　少しの間絶句して、それからまた唸り始めた名雪に、私はこれ見よがしにため息を吐く。

「何をどうやったって結局その結論になるんでしょうが。これ以上話したって無駄。もう遅いんだから早く帰ってさっさと仲直りしなさい」
「…………だって」

　…………ため息。

「何よ。何があったの？」
「祐一がね…………最近素っ気無いの」

　布団を被る。

「お休み」
「わーわーわー！　最後まで聞いてよー！」

　名雪が立ち上がって布団をまくる。

「…………はぁ」
「うー。そんないかにも『呆れたわ』ってため息つかなくても…………」
「…………もういいわ。最後まで聞いてあげるから話しなさい」
「うん…………」







　あのね、最近祐一が構ってくれないの。
　朝は起こしてくれなくなっちゃったし、一緒にお昼ご飯食べる時だって何処かよそよそしくて、北川君とばっかり話してるし、夜は夜で何処か行っちゃって、私が寝てから帰ってくるし。
　それでね、今日聞いてみたの。私、なにか悪い事しちゃったって。祐一は違うって言ってくれて、でもじゃあどうしてなのって聞いたらはぐらかして、お前の気のせいだって…………
　それで私…………







「食い下がって聞いて、そのうち両方とも意地になった挙句、喧嘩して家を飛び出したって？」
「うん…………」

　名雪はそこでしばらく沈黙して、それから、

「ねえ…………香里は北川君とどんな風に付き合ってるの？」
「私は別に、北川君とは付き合ってないわよ」
「でも好きなんでしょ？」

　臆面もなく言い放ってくる。答えは解ってると言いたげに。
　少々忌々しいけれど、まあ、

「好きよ、誰よりもね」
「うん…………きっとそれは、北川君も同じだよ」
「でしょうね」
「…………ねえ、だったらさ、何で二人は付き合わないの？」
「今はそんな話してないでしょうが」
「うん」

　でも聞きたいよ、と名雪は言った。
　私は今日何度目かのため息を吐く。

「私は北川君が好き。きっと北川君もそうだと思う。でも私は北川君に好きだなんて言った事は無いし、北川君から言われた事も無い」
「…………言ってくれるのを待ってるの？」
「違うわよ。最後まで聞きなさいな…………」

　そこで一度、言葉を切って。

「私たちは、今のままがいいのよ。…………少なくとも、まだしばらくは」
「…………？」

　名雪は怪訝な顔をする。

「北川君は時々ここに遊びに来るわ。その逆もね。でも私たちは恋人じゃない」
「私たちは互いの家では本当に普段通りでいるわ。それぞれ勝手に本を読んだり、一緒にゲームをしたり、料理を作ったり作ってもらったり、一日中雑談してたり、逆に挨拶以外は一言も話さずにごろごろしてたこともある。…………そうね、時々気まぐれに、抱きついて押し倒したり、抱き寄せられて押し倒されたりするぐらいかしら」

　顔を赤らめた名雪に、微笑を返す。

「でも、それでも、私たちは、恋人じゃないのよ」
「…………なおさら解らないよ。それってさ、もう――――」
「違うのよ。違うの」

　なんて言ったら解らないけれど、と前置きし、

「これが私たちの距離なのよ。親友より少し上で、恋人より少し下。その関係には名前が無いけれど――――私たちが言葉ではなく絆で、こう在ろうと決めた距離。“友達”と“恋人”の良いとこ取り、その日の気分で変わる関係」

　いい、名雪。唖然とする名雪にそう言って、

「私は凄く気分屋なところがある。気分が欝なときには恋人にだって会いたくないし、その逆なら親友にでもそれ以上を求めたくなる。私は恋人にするには面倒で、親友のままでも面倒な女だから。だからこれでいい。これがいい。この距離が私は好き。そして――――」

　そしてそれは、北川君も同じなのよ。

「…………」

　名雪はしばらく考え込むように沈黙して。
　それから口を開く。

「…………なんだか、羨ましいよ。おかしな話だけど。……恋人じゃない、相思相愛の人、かぁ…………」
「羨ましい？　……そんなはずはないでしょう？」
「…………え？」

　心底解っていない顔でこちらを見る名雪。くすりと笑みが零れた。

「…………そんなのは嫌なはずよ、名雪。あなたは常に一緒に居て、常に本気で自分を愛してくれる、そんな人でないと駄目なはず。その愛され方じゃないと我慢できないはず。だから――――」

　たっぷりと溜めを入れて。

「だからあなたは相沢君を好きになって、そして最近その愛し方をしてくれなくなったから、喧嘩して今ここにいるんでしょう？」
「………………………………」

　ゆっくり、ゆっくり。理解がその顔に広がる。
　それを見計らって、畳み掛けるように言葉を続ける。

「一つだけ訂正するわね。相沢君は、最近その愛し方をしてくれなくなったんじゃないわ。そう見えるだけよ」
「え？」
「だって相沢君はそのやり方でしかあなたを愛せないもの。その愛し方でしか我慢できないもの。常に本気なのが相沢君。そういう人格が彼。――――断言するわよ、名雪。相沢君以上にあなたに合うパズルのピースはいない。相沢君には自分の常在の本気を受け入れ、喜んでくれるあなたでしか。あなたには自分を常在の本気で愛してくれる相沢君でしか。――――互いでなければ満足できない。耐えられない」

　そうでしょう？　このバカップル。
　最後にそう言って、言葉を締めくくる。

　今度は随分長く沈黙した名雪は、やがて笑みを浮かべて、

「バカップルは酷いよ、香里」
「事実だもの。仕方がないわ」

　ちっとも嫌そうに見えない笑顔の名雪に、私も笑顔で返した。

「…………うん。ありがとね、香里。帰ったら祐一に謝るよ」
「そうね。それがいいわ」

　立ち上がり、椅子にかけてあったコートを、防寒具もなしにここまで走ってきた名雪に渡す。

「もう遅いから、背後と物陰に注意して、急いで帰るのよ。痴漢が出たら大声上げて、全力で逃げなさい。…………相沢君以外の男に襲われたくないでしょう？」

　名雪は顔を赤らめつつも、死んでもごめんだよ、と言って立ち上がった。

「じゃあ香里、また明日、学校でね」
「ええ。お休みなさい」

　ぱたん。
　ドアが閉まる。

『あれ、名雪さん、今帰りですか？』
『あ、うん。ちょっと長居しちゃった』
『気をつけてくださいね』
『うん、ありがとう。…………じゃあ栞ちゃん、また明日、学校でね』
『はいっ』

　そんな会話が聞こえる。
　また明日、学校で、か。

　栞が助かったのは、きっと相沢君のおかげだ。なにせ彼は、奇跡を他に四つも起こした男だ。

　…………でも。

（え、美坂、妹なんていたのか？）

　全てが終わった後、初めて私は北川君に栞のことを教えて、そして確信した。

　北川君は知っていた。
　教える前から既に、私に妹がいたことを。そして病の事も、きっと。

　北川君は知っていた。でも知らないフリをしていた。
　さほど時間も置かず、私はその意味を悟った。
　多分そのときだ。私が明確に北川君を好きになったのは。

（よう美坂。なんか暗いぞ？）

　それは、きっと北川君の優しさだったのだ。

（何があったか知らないが、暗い顔しててもいい事なんて一つもないぞ？）

　無知と無神経を装った笑顔、心遣い。
　常に付かず離れずで、解らないところで手を貸して。
　その臆病な優しさが嬉しかった。ほんとうに、ほんとうに、嬉しかった。

　相沢君は奇跡を起こす男だ。
　そして彼は脇役で、臆病だ。

　…………“でも”だ。
　…………“だからこそ”だ。

　自覚する。
　私は――――ああ、こんなにも。
　
　…………彼にベタ惚れなのだと。



「大好きよ、北川君――――きっとこれからも、貴方以上の人はいないわ」



　確かな確信を持って呟いたその言葉は、実に心地よく部屋に響いた。
　その余韻に浸りつつ、私は携帯に手を伸ばして――――

　ぱたぱたぱた。

　携帯を取ろうとした手を引っ込めて、私はドアを見る。

　ぱたぱたぱた――――ガチャッ。

「あのさ、香里」
「あら、まだ居たの」
「うん、言い忘れた事があってね」
「……なに？」

　聞き返すと、名雪はとても綺麗に微笑んだ。

「ありがとう香里。私、香里が親友でよかったよ」
「――――恥ずかしいこと言うんじゃないの。早く帰りなさい」

　我ながら照れ隠しもいい所なその台詞に、名雪は微笑を深くした。

「じゃ、今度こそバイバイ」
「ええ。…………また明日、学校でね」
「うん！」

　ドアが閉まり、足音が遠ざかる。

「…………やれやれ」

　本当に、世話の焼ける二人だこと。
　私は改めて携帯を手に取る。

「ありがとう？　私が親友でよかった？」

　携帯のメモリから北川君のアドレスを呼び出す。

「私もよ、名雪。でも――――明日になっても、その台詞が言えるかしらね？」

　顔が意地悪く微笑むのを自覚しながら、私は通話ボタンを押した。











『よう美坂。ナイスタイミングだ。相沢も今帰ったぜ――――』


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