幸せを掴んだ男
高校生というのはとても気楽なものだと思う。
そりゃ大学受験や中間、期末試験などの問題はあるが、
通勤ラッシュに揉まれ上司に扱き下ろされ、下からの突き上げにあい、
時には同期の奴や部下に出世で追い抜かれ、取り立ててずばぬけた能力もなく愚直に会社に忠誠を誓う事が美徳だと自分を納得させ、
自分を軽んじる家族のために日夜オロナミンＣ片手に２４時間働き続けながら日本を支える一般中年サラリーマンの皆様の苦労に比べれば、
自分が感じている苦労など笑止。むしろ親の金で学業に専念できるなど道楽と変わらないのだろうと思う。
大学生になると、みなキャンパスライフを満喫して自堕落な生活を送っていると言うが、それは所謂社会人になる前のロウソクの最後の輝きみたいなものなのだろう。
そう思えば、大学生になどなって確実に迫り来る未来に目を向けてやっきに遊ぶよりも、高校生のままのんびりと勉強に励んでいる方がよっぽどいい。
つまり自分はとても恵まれている環境にいる、と言うわけだ。
たとえ浮いた話の一つも無くても。灰色のような寂しい青春を送っていても。
調子こいて試験前も遊んでいたら、テストがまるで社会主義を象徴しているような状態になっても。
それは学生の今でしか味わえない貴重な体験。それができるだけ、自分はとても幸せだと言えるのであろう。
生徒思いで有名な担任、我らが石橋先生も本日の進路相談の時に「お前、このままだと代々木アニメーション学院にも入れないぞ？」と小粋なジョークで自分のささくれた心を癒してくれたではないか。
その後も親身になって、「高卒でもつけるような職業を探してやる」だの「お前はオタクだから漫画家になりなさい。え？ 絵が描けない？ なら小説家になりなさい」だの
「なぁに、気にするな。お前が大学に進学できなくても、それどころか留年しようとも、俺の評価はこれ以上下がりはしないさ。ただ来年からの給料が減る危険性が大きいだけだ。いや、本当に心配しなくていいんだぞ？ うちのクラスには東京の大学だって狙えそうな、美坂って逸材がいるんだからな。お前の分まで美坂が頑張ってくれるさ。ヨッ！ バランス取れてていいね！ 憎いぞこのお似合いカップル！！」だの
青筋立てながら穏やかに話してくれたではないか。
世の中には生徒の思想を自分色に染めたがる洗脳教師や生徒やＰＴＡの評価を気にして言いたい事も言えないこんな世の中じゃＰＯＩＺＯＮ教師がはびこる中、こんなにも生徒に本音をぶつけてくれる教師は他にいないだろう。
やはり、去年に「来年からは絶対に赤点取りません。約束します」と泣きながら土下座して進級させてもらった事がきいているのだろう。あれで自分と石橋の間に強い絆ができたのだ。
それは、そんじょそこらの学園ドラマのような薄っぺらい師弟関係ではない。
あの時の石橋の表情は今でも忘れない。ドラマのような作り物の表情では無い。厳しさの中にも優しさがあった。まさに『大人』の表情だった。
「学校というところは何かを学ぶための場所だ。生徒のお前が教師の俺に教わる事もあれば、教師の俺が生徒のお前に教わる事もある。自分自身で気付く事もある。大事なのは、学んだ事を自分のものにして、さらにそれを応用していく事だ。お前が今日の過ちを明日に生かそうと努力しようとするなら、俺は教師として、お前が学ぶ手助けをしてやる」
あの時の石橋の言葉は、今でも忘れない。生徒を信じ、応援してくれた。まさに『教育者』の台詞だった。
そして進級して、初めて赤点を取ったあの日。石橋は週末返上して補習に付き合ってくれた。
あの時の石橋の表情は今でも忘れない。ドラマのような作り物の表情では無い。厳しさの中にも殺意があった。まさに『鬼』の表情だった。
「…お前、去年「次に赤点取ったら１００万円払う」って言ったよな？ 出世するまで待ってやるから必ず払えよ。俺も去年、職員会議でお前が進級した後赤点取るような事があったら三ヶ月給料カットで構わないっつって、本当にカットされたんだからな」
あの時の石橋の言葉は、今でも忘れない。生徒を睨み、脅迫してくれた。まさに『ヤクザ』の台詞だった。
その後、新学期早々給料三ヶ月カットされた石橋に対し、カンパをし続けた。
時には、校外で一緒に飯を食うようにもなった。もちろん、給料無しの石橋に奢る形だ。
やがて、学校ではケジメをつけるため敬語だが、校外では時にはタメ口で会話をする仲にまでなった。
「言っとくけどこれ、利息だからな。大人になったちゃんと耳そろえて百万払えよ」
「いやだなぁ石橋の旦那。冗談キツイっすよ」
そして三ヶ月が過ぎる頃には、ラーメンを食べながら「最悪でもギリギリ一年は赤点取らないと思ってたよ」「俺だってせめて一学期期末までは持つと思ってたよ」などとウィットに富んだ会話をするようにもなり、さらに深くなった絆を実感したものだ。あの時はラーメン屋の親父に追い出されるまで、延々３時間は説教…じゃなかった、師弟の会話を楽しんでたっけ…
そう思っていた時、ちょうどあの時のラーメン屋が見える。あの時以来、もう行かなくなった店だ。
小腹がすいていたのでよってみようかと思ったが、やめた。二人で作った思い出に一人で浸っていても仕方が無いし、そもそも出入り禁止が解けている保障も無い。
ふと、あまり親しくないクラスメートの後姿が視界に入る。別に聞き耳を立てるつもりは無いが、ちょうど今の自分に関係のある会話が聞こえてきたのでそのまま声をかけずにいる事にする。
「七瀬〜、あんた進路相談明日でしょ？ もう決めてるの？」
「もちろんよ。あたしの一生は、真の乙女道を極めるためにあるのよ！」
「…七瀬、それ進路違う。石橋先生、怒るよ？」
「嘗めないでよ、七瀬なのよあたし」
「…いや、関係無いんじゃないかなそれ」
「貴様は七瀬を嘗めたッッ」
「わけわからないよ」
俺は、フッと笑いながら立ち止まり、彼女らを見送る。
別に女子高生特有の不思議トークが面白かったわけではない。
彼女らの、石橋という人物についての認識の甘さに苦笑してしまったのだ。
石橋はそんな事ぐらいで怒るほど狭量な教師では無い。
そりゃ教師としてのポーズで怒る事はあるかもしれないが、本気で怒っているわけでは無いのだ。
今日の進路相談が終わった後、別れ際に和やかな会話を楽しんだ事を思い出す。
「…なぁ、お前結局将来どうしたいんだ？」
深いため息をつきながら聞いてくる石橋。
その様子が、とても疲れているように見えたので、俺は進路相談中の石橋と同じように、小粋なジョークで場を和ませる事にした。大事なのは、『学んだ事を自分のものにして、さらにそれを応用していく事』だからだ
「まぁ、将来は総理大臣にでもなってこの国を変えてやりますよ。その際には、先生に副総理のポストを与える事を約束しますよドワッハハハ」
俺の高笑いは、凄い勢いで伸びてきた石橋の手によって止められた。
石橋は俺の襟を掴むと、そのままねじりあげ、俺の身体を片手で持ち上げた。
中年とはとても思えないパワー。俺は何も言えなくなった。と言うか、喉が絞まって息もできなかった。
あの時の石橋の表情は今でも忘れない。ドラマのような作り物の表情では無い。無表情の中にも目を合わせられなくなるような迫力があった。まさに『ゴルゴ１３』の表情だった。
「…明日、また聞く。次は、無いと思え」
あの時の石橋の言葉は、今でも忘れない。生徒を脅し、死を覚悟させてくれた。まさに『暗黒組織のドン』の台詞だった。
そんな寛容な石橋が、乙女がどうたらこうたらで目くじら立てるわけないじゃないか。
むしろ石橋も一緒になって乙女を目指してオカマになってくれるぐらいしてくれるかもしれない。
あぁ、なんて素晴らしい教師なんだろう。
ここまで教師に恵まれた自分はとても幸せだと思う。
そう思うと、足取りも軽くなり、世界も輝いているように見える。
そうだ。自分は幸せだ。
見てごらん。世界はこんなにも輝いている。
公園から聞こえる、子供達が楽しげに遊んでいる声。
こんにちは坊や達。君らも俺みたいに幸せな大人になるんだよ。
そして微笑みながら公園を覗いてみると、ベンチで身支度を整えて帰ろうとしていた中年のおっさんと目が合う。
そういえば、朝もいたっけな。昨日も、この時間に帰ってたな。夜になったら冷えるから、早めに帰るんだろうな。でも、家族にバレるといけないから、まだもう少しコンビニとかで時間を潰すんだろうな。
そんな事を考えつつも、目があった気まずさから互いに頭を下げる。
おっさんの目は自分にこう語りかけていた。
こんにちは坊や。君は俺みたいな不幸な大人になるなよ。お前は、負け犬にはなるなよ。
おっさんの異常に小さい背中を見送ると、俺の膝は地球の重力に引かれるまま地についた。
駄目だ。このままでは駄目だ。自分は幸せなのだ。幸せな人間は地に膝をついたりはしないのだ。
幸せなら手を叩くもの。幸せなら態度で示すもの、ならば、俺は俺が幸せである事をアピールせねばならない。
「俺は！ 北川潤は！ 今、最高に幸せだぁぁぁぁぁぁぁぁ！！」
膝をついたまま天を仰ぎ、腹の底から叫ぶ。『プラトーン』と言う単語が頭に浮かぶが気にしない。なぜなら俺は幸せだからだ。
夕暮れの風がとても冷たいが気にしない。なぜなら俺は幸せだからだ。
子供達や親御さん達の視線もとても冷たいが気にしない。なぜなら俺は幸せだからだ。
「お姉ちゃん、あれ…」
「しっ！ 見ちゃ駄目よ！！」
「でも、あれお姉ちゃんのクラスメートの…」
「あたしにクラスメートなんていないわ」
「クラスメートぐらいいると思うけど…」
「見ちゃ駄目って言ってるでしょ！ いいから気付かれる前に行くわよ！ アイス買ってあげるから！！」
「わ〜い、お姉ちゃん大好きです〜」
…本人曰く、『クラスメートじゃない』クラスメートの声がしても気にしない。だって俺は…俺は…幸せ………なのか…？
いい加減、自分を騙すのが辛くなってきたので、もう真っ直ぐ家まで帰る事にする。
不幸な自分を幸福だと偽っている間は楽しいが、現実に戻るとたまらない寂寥感が胸になだれ込む。
こういう日は、さっさと帰って飯食って風呂入って漫画読んでネットやって溜まったアレをヌいて寝るに限る。
なぁに、人生万事塞翁が馬と言うし、明日になったら明日の風が本当の幸せを運んできてくれるだろう。
そして俺はゆっくりと立ち上がって帰途につく。
コンビニの窓ガラスを見てみると、すっかり負け犬の目をしていた。
俺の目は、こんなにも曇っていたのか…？
自分の変貌ぶりが信じられなく、思わず目をこらして窓ガラスを見る。
すると、ガラスの向こうの濁った目が、移動する。
目で追っていると、それはこちらを気にかけながら会計を済ませ。
大量の紙袋を持ってドアを開けてでてくる。そして、濁った目と目が合う。
「…よぅ…北川…相変わらず…腐った鯖のような…目を…しているな…」
「いや、お前ほどじゃないと思うぞ。相沢」
そう、ガラスの向こうの曇った目は俺では無かったのだ。
そいつは、今日学校を休んでいたクラスメートの相沢祐一だったのだ。
そして、こいつは同じく今日学校を休んでいた水瀬名雪の従兄弟でもある。
一応、再度ガラスで自分の目の輝きを確認してから相沢に返答する。
確かに、自分の目は濁っている。まさに腐った鯖そのもののような目だ。
しかし、相沢の目は腐った鯖どころか、ＣＭで見た道頓堀の川の流れのような目だ。
ヘドロが溜まったような輝きのそれからは、奥底の真意を見通す事ができない。
「何があったんだよ、お前」
溜まらず、俺は相沢に問いただす。
俺の知っている相沢はそんな目はしていないはずだ。
いつもおちゃらけてて、周りのみんなを巻き込んでふざけていて、
しかし本当に大事な時は、自分よりも他人を優先し、『正しい』と信じる行動をする。
そして何より、手当たり次第に女に手を出してハーレムのような環境を築いている男だ。
外はとにかく、家でも美人の叔母と従姉妹、同じく美人な二人の居候と５Ｐ…じゃなかった、五人で暮らしている。
そんなこの世の春を独り占めしたような男が、今は冬のキリギリスのような表情で遠くを見つめて何かブツブツと呟いている。
了見の狭い並の男なら、ハーレム男のこんな状態を嘲笑って立ち去るところだろうが、親友の俺としては見過ごせない。
「何があったって…？ あったよ…あったさ…嫌な…事があったさ…」
そして再び遠くを見つめてブツブツと呟きだす。
流石に逃げたくなったが、乗りかかった船なのでそうもいかない。
それに、いらぬお節介を焼き続ければ、女の子にモテる事もありうる。
それもこれも、目の前のコイツが自身の実体験をもって俺に教えてくれた事だ。
『大事なのは、学んだ事を自分のものにして、さらにそれを応用していく事』、ですよね、石橋先生？
すると、相沢は遠くを見つめながらポツリポツリと呟きだした。
よっぽど嫌な事があったらしく、たまに急に止まったり奇声を発したりして中々要領を得なかったが、要約するとこんな感じだ。
「ＨＥＹ、キタガーワ！ ちょっと聞いてくれヨ！」
「なんだよアイザーワ！」
「昨日、家主のアキーコさんに買い物頼まれたんだヨ！ 『晩御飯のおかずを買ってきて下さい』って」
「フムフムそれ〜で？」
「『何でも好きなものを買ってきていい』って言ったから、俺は本屋に向かったんだヨ！」
「なんで本屋なんかに行ったヨ？」
「それで俺はエロ本を買った！ アキーコさんにこう言った！ これがホントの『夜のオカズ』ですヨ…ってね！ ＨＡＨＡＨＡＨＡＨＡ！！」
「そりゃいいヤ！ ＨＡＨＡＨＡＨＡＨＡ！！！」
「…そしたら…秋子さん…『了承』って…一秒で…俺から…エロ本を…ひったくる…ように…エロ…本を…」
「……ひ、ひったくるように？」
俺は思わず聞いてしまう。
流石に、もうこれ以上はヤバイ。
俺の本能が全力で警報を鳴らしているが、悲しいかな。この愚かな好奇心もまた人のサガなのだ。
「俺は…冗談だ…って…言ったのに…冗談…だったのに…まさか…本当に料理できるなんて…」
「…マジかよ」
うずくまり、肩を抱いてガタガタと震える相沢。
何かよっぽど『ありえない』ものを見てしまったらしいな。
それがなんだったのか？ 俺は知りたくなかったし、相沢も言わないだろう。
しばらく呆然と震える相沢を見ていたが、ようやく落ち着いたらしく、濁った瞳で俺を見上げてきた。
「その後の晩飯で、俺がどれほどのストレスを味わったかわかるか？」
「……いや…正直、想像もつかん」
俺は正直な気持ちを口にした。実際、わかりようも無い。
食卓に並ぶのは、エロ本を原料に作られた、食えるのかどうかもわからない『何か』
ニコニコと菩薩のような微笑でそれを薦める叔母。
そして、怨むような視線を自分に向けてくる従姉妹と居候達。
恐ろしい負荷をかけられながら食事。それは、陸上部の部長である自分に誇りを持っている水瀬さんですら学校を休むほどの代物。
どれ程の地獄を相沢が覗いたか、俺に分かろうはずもなかった。
「…『ピチピチ女子高生図鑑・ブルマ編』は瑞々しくてさっぱりとしていたが濃厚な味わいで活きが良かった…『不倫人妻投稿天国・旦那に内緒でドンと恋！』はインモラルな風味で、もったりとして重かったが、複雑で年季を感じさせる旨みがあった…『ナースのイケナイ診療室〜イくのはお医者様ばかりなり〜』は………………『ロリっ娘大集合！ 児ポ法なんてぶっ飛ばせ！！』は……………『「お兄ちゃん」って呼んで欲しい妹ギャル全集』は………………」
相沢が遠くを見つめながらブツブツと呟きだし、ますます分からなくなった。
特に、『ＳＭ悶絶地獄』とか『初心者にお勧めソフトスカトロ』などと言った単語が聞こえてきた時には、思わず耳を塞いでしまった。
一体どんな料理だったのか気になるよりも、恐ろしさの方が先に来る。
「で、お前…その買い物は…」
とても気まずくなり、わざとらしく会話の内容を変えてみようとする。
すると、相沢は虚ろな笑顔を俺に向ける。あまりにもはっきりと分かる空元気は痛々しすぎる。
「今日の晩飯はな…名雪達からのリクエストで…イチゴと…タイヤキと…肉まんが材料なんだ…」
最初の一つはともかく、後の二つは材料ではなく立派な完成品だ。
「イチゴさえあれば御飯三杯いけるよ〜」と言っていた水瀬さんなら食えるかもしれないが、常識的な味覚を持った人間にはその三つを混ぜた食事など、罰ゲーム以外の何者でもない。
「…食えそう…か？」
思わず、心配になってしまい聞いてみる。
相沢は、やはり虚ろな笑みを浮かべると力なく答える。
「…聞くなよ」
一言だけ言って相沢は「そろそろ帰らないとまずいから」と、背を向ける。
「…すまなかったな…辛い事思い出させて…」
居たたまれなくなり、俺は思わずうつむいてしまう。
すると、相沢の持っているコンビニの袋の中に、本のような物が見えた。
目を凝らしてみると、『月刊ピンククラブ〜ロリ系エロ漫画特集〜』と言う文字が見えた。
「ちょっと待て。これはなんだ」
俺は相沢の肩を掴むと、もう片方の手でそのブツを指差す。
相沢は、一瞬動揺した様子を見せ、そしてさらに遠くを見つめた。
「お前には分からないだろうな…性欲と食欲が一体となった快楽を味わっている最中、女の子から冷ややかで恨みがましい視線にさらされる、天国のような地獄が…だから、今度こそ…今度こそはただひたすらに至福を堪能しようと…」
吐き捨てるように言った後、相沢が再びうずくまり、肩を抱いてガタガタと震える。
トラウマに怯えてるようにも見えるし、未知の快感を知って喜んでるようにも見える。
少なくとも相沢の態度は変わらないように見えるのに。これは、俺の主観が変化したからなのだろうか？ 俺は少し混乱する。
「待て。一度整理させろ。お前、エロ本料理食った感想を一言で言うとどんな感じなんだ？」
「珍味だった。だが、俺は少なくとも楽しめた。だから俺には奴らが望む晩飯にも付き合う義務がある。たとえそれが、俺にとっての毒であろうとも」
きっぱりと相沢が言い放つ。
その男らしさは、まさにいつもの相沢の姿だった。
「じゃあどうして水瀬さんは今日学校を休んだんだ？」
「名雪には…名雪達には、流石に刺激が強すぎたらしくて…食った後に熱出して寝込んだんだ」
それが正しい反応だと思う。
むしろ、食っただけでありえないぐらいだ。
「幸い、特に別状はなく、一晩寝たら治ったんだが、秋子さんが大事を取るように言って一日休ませる事にしたんだ。一応、俺も何かあるかいけないからと言って学校を休ませられたんだ」
どんどん俺の体から気力が抜けていくのが分かる。
しかし、一応最後まで確認しておかなくてはならないので、なんとか気力を振り絞る。
「…じゃあ、なんでお前はそんなに目が濁ってんだ？」
「ああ…昨日は名雪達の看病で寝てないし、今日はずっとあいつらの文句につき合わされて一睡もしてないんだ。流石に眠い」
なるほど、この濁った目は単なる寝不足だったわけだ。
「…じゃあ、なんでお前はさっきからうずくまったり怯えてたりしたんだ？」
「まぁ、お前はあの料理を食っていないからな。あれが二度と食えないと思うと…恐ろしい…しかもそれで気が途切れると睡眠不足で立ちくらみ起きるからな。大変だよ」
なるほど、あの奇行は、二度とエロ本料理が味わえない恐怖と寝不足が原因だったわけだ。
「…遠くを見つめながらブツブツ呟いてたのも、寝不足のせいか？」
「げっ。またいつもの癖が出てたか…どうして俺は考えてる事が口に出るのか…そう言えばこの前も名雪と話してる時に…」
なるほど、遠くを見つめながらブツブツ言ってたのはいつもの癖か。
おい、散々引っ張っておいてこのオチは何だ？
「とにかく、俺はなんとかして名雪達の機嫌を取って、週一でいいからエロ本料理解禁にしてもらわねばならんと言う弱みがあるからな…まったく、大変だよ」
大きく欠伸をする相沢。
そして目をこすると、その中に一瞬、ダイアモンドのような輝きが見えたような気がした。
まったく関係ないが、聞いておかねば気のすまない質問ができたので聞いてみる事にする。
「なぁ、相沢…お前、進路とか決めてるのか？」
「進路？ それは何だ？ 食えるのか？ それともエロいのか？」
再び大欠伸をしながら相沢が答える。
よほど眠たいらしく、思考がまるで働いてないようだ。だが、それを差し引いても酷すぎる答えだ。
「…お前、将来も水瀬家のヒモでいるつもりじゃないだろうな？」
すると、相沢の目が急に見開かれ、俺を睨みつけながら叫ぶ。
「馬鹿を言うな！ 女の家に転がり込んで特に将来の展望も決めずにただ毎日を自堕落に過ごすだけのヒモなんてものは、男として最低の姿だ！！」
いや、今のお前の姿だよそれ。
「いいか北川、モテないお前には分からないだろうがな…」
フッ、と相沢が微笑みながら言う。大きなお世話だこの野郎。
「腕っ節でも経済力でも、女に頼られたら苦笑いしながらでもそれに応えてやるのが男ってもんなんだよ…」
そう言って相沢は背を向ける。心なしか、その背中はとても大きく見える。
だけど相沢、お前バイトしてないだろ？ お前の経済力って、結局親の仕送りか秋子さんからの小遣いだろ？
だが、俺はあえて口に出さなかった。どんなに正論を吐いても、この男は論破できない気がした。むしろ、これ以上関わってはいけないような気がしたが、これも口に出さないようにした。
「…つーか、エロ本料理ってさ。お前、女には不自由してないだろ？ いや、高校生同士だからそういうのはまだ無いとは思うが…」
俺がそういうと、相沢は途端に目をそらした。ちょっと待て。
俺は相沢の顔を手で掴み、無理矢理視線を合わせて聞いてみた。
「お前、まさかもう誰かすでに食っちゃったとかは無いよな？ 責任取るような事してないよな？」
相沢は必死に目線を合わせないようにしている。
「お、俺はお前と違って二次元だけじゃ我慢できないんだよ…」
「俺だって二次元じゃ我慢できねぇよ！！」
思わず、叫んでしまった。
だが、すぐにその手を離して距離を開ける。
人だかりが出来て、自分達に視線が集中しているのが分かったからだ。
「まぁ、とにかく俺は行くよ。みんなが待っているんでな」
そう言って相沢は、荷物を持ち直すと俺に背を向ける。
誤魔化せたと思ってるようだが、今度体育館裏でじっくり問い詰めてやる。
「お前も今度食いに来てみろ。秋子さんの手料理…天下一品だったぜ」
ほんの少しだけこちらを向き、一点の曇りも見られないようなニヒルで幸せそうな笑みを浮かべ、相沢は立ち去って行く。
ふと思ったんだが、また例によって『エロ本のジャム』とかじゃあるまいな。
それでトリップしてたとかだったら、『それ』を食いに行くのは命に関わるかもしれない。
もしくはさきほどの俺みたいに、必死で辛い現実から逃げようとしていた可能性も見受けられる。
念のため、もう一度聞いてみようと思ったが、すでに相沢の姿はそこには無かった。
そして、俺はふと石橋が言っていた事を思い出す。
「相沢みたいな生徒はな、たまにいるんだ。何やっても楽しそうで、いつもはしゃいでて、そういう奴はいくつになろうが何になろうが変わらずに楽しそうだし、むしろ大物になったりする」
話半分に聞いていた言葉だが、信憑性がでてきた。
さっきから俺は無理矢理に自分が幸せだと信じ込もうとしていた。
だが、相沢は、エロ本料理を食わされたりそれが元でパシリをさせられても、
自分が幸せであると信じ続けていた。いや、それが当たり前だと思っていたのだろう。
俺の目には、それが最初は不幸であるように映った。
だが、相沢にとってそれは不幸なだけではなかったのだ。
確かに、パシリや寝不足は不幸かもしれないが、それを補えるだけのものをあいつは得たのだろう。
…ただ単に不幸慣れしてるだけのような気もするが、とにかく幸せなのだろう。
不幸を嫌い、偽者の幸せに浸るのではなく、不幸の中に本物の幸せを自分で見つけてそれに浸る。
自分に足りないのは、そういう事なのかもしれない。
そう思い、俺ははっきりとした足取りで家に向かって歩く。
明日、石橋に再び進路を尋ねられたらこう言おう。
「俺は、幸せになります」と。
「…これは何だ？」
原稿用紙の束を掴んだ石橋がプルプル小刻みに震える。
感動してるのだろうか？ そうだといいな。流石にもう老衰とかだと不憫すぎる。
ふとそんな事を考えてると、石橋が再び唇を震わせながら言う。
「これは何だと聞いてるんだが？」
しかし一目見て分からないんだろうか？ やはり老衰の線もありうるな。
「だから俺が書いた小説っすよ。題名は『幸せを掴んだ男』。拘ったところは、全編一人称で書いた事ですかね。俺の主観だけ書いて、相沢の主観を描かなかった事で『幸せ』って主観がどのようなものかを読者に考えさせるという…って、聞いてます？」
石橋がますます震える。ヤバイ。完全にボケたか？
「…俺は昨日、進路を書いて来いと言わなかったか？」
「いやだから、昨日石橋……先生が、「絵が描けないなら小説家になれ」って…」
最後まで言い終わる前に、目の前を大量の紙の束が目の前を塞いだ。
一瞬、何が起こったのかわからなかったが、すぐに石橋が俺の小説を投げつけてきたのだと分かった。
「な、何を…」
『何をするんだ』。そう言いたかった。しかし、言う事はできなかった。
石橋の両手が俺の襟首を掴み、たかだかと吊り上げたからだ。相変わらず、凄まじいパワーだ。
「お、おま、おま、おま…」
石橋が火病にかかったようにうめく。これはいけない。俺のクールなジョークで冷静さを取り戻させてやらないと。
「おま○○？｛自主規制｝」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ！！？」
『お前はイヤミも分からないのかッッ！！？』
確かそんなような事を石橋は言っていたような気がする。
しかし、思い切り地面に投げ捨てられた俺にはそれどころじゃない。
背中から床に叩きつけられ、悶絶する。
「な、何すんだこの体罰教師！」
何とか上体を起こして叫ぶと、目の前の石橋は腹を抱えてうずくまる。
「アイタタタタタタ…」
「ど、どうしたんだよ、大丈夫か？」
俺が慌てて駆け寄ると、石橋は座ったまま俺の胸倉を掴んで睨みつける。
「お前のせいで胃に穴が空きそうなんだよ…あと、学校では敬語使えって言ってるだろうが…アイタタタタ…」
そう言って石橋は再びうずくまってしまった。
むぅ、流石に悪ノリが過ぎたか。俺は少しだけ反省する。
そして、ちょっぴり本気だったためまたちょっぴりだけショックを受ける。
「小説家になって印税ガッポリ稼げば、すぐに１００万返せると思ったのに…」
「俺にとっちゃ、お前が心を入れ替えて真面目に生きてさえくれればそれぐらいの価値はあるよ…」
腹を押さえつつも憎まれ口を叩いてくる。まだ余裕がありそうだ。
でも、俺の更生に１００万円分も価値があると言ってくれるとは。ちょっと感動。
しかしその直後、背後からツララが後頭部にささるような冷ややかで鋭い視線を感じ、咄嗟に振り向く。
「…よぅ、相沢」
そこには、南極の氷のように透き通り、かつ冷ややかな瞳をしている相沢の姿があった。
ちなみに、この小説は相沢が出てた辺りまではノンフィクションなのだが、筆が乗ったので後半からフィクションで書いている。
一応、キャラの性格は俺なりにリアリティを追求して書いたつもりだったんだが、相沢の表情から察するにどうやらお気に召さなかったようだ。
「う〜、酷いよ北川君。いくらお母さんでもそんなものを料理したりしないよ……」
原稿用紙の束から顔を上げ、非難がましい視線を向けてくる水瀬さん。どうでもいいけど、最後に小さく『多分』って言わなかったか？
「北川…小説家を志すんなら、無闇に実名でフィクション書かない方がいいと思うぞ？」
相沢は、顔は笑ってるが目は笑ってない。
俺は、あの目を知っている。生徒会長の久瀬が政敵を見る目だ。
そういえば最近相沢は久瀬とも付き合いがあるようだから癖がうつったのかもしれない。
とにかく、俺はその視線の危険性を熟知してるので咄嗟に逃げようとする。『三十六計逃げるが勝ち』と昔の中国の武将も言っていたしな。
しかし、次の瞬間、何者かに襟首を捕まれ、思わずヒキガエルのような悲鳴を漏らしてしまう。
「どこに行く気だ北川？」
そこには、復活した石橋が立っていた。前門の石橋、後門の相沢。
馬鹿な！？ いつの間にか俺は死地に追い込まれていたらしい。この策の緻密さ、まさか孔明か！！？
「…今まで可哀想だと思ってたから穏便に済ませてやったがもう勘弁ならん。これから家庭訪問だ。親御さんの前で徹底的に絞ってやるからな」
石橋の口からとんでもない言葉が飛び出す。
「そ、そんな！ それだけは！ それだけは勘弁して下さい！！ これからはもう心を入れ替えて粉骨砕身頑張りますから！！！」
そんな事になって下手をすれば、どんな制裁が待ち受けているか分からない。
小遣いカットやＰＣ封印はもとより、安らぎの地である家が針のむしろになってしまう。
それはマズイ。俺は涙を流しながら土下座する。誠心誠意謝ればきっと石橋も分かってくれるはずだ。
石橋は、土下座する俺の前でスッと膝を曲げ、俺の肩に右手を置いた。そして…
「その芸は去年にもう見せてもらったからな」
そう言って石橋は、左手で素早く俺の胸元から目薬を抜き取った。
「あ……」
まさか、リーサルウェポンの存在に気付いていたなんて…俺は唖然とする。
そして、恐る恐る石橋の顔を見上げて見ると、意外な事に石橋は笑顔だった。
ただし、予想通りに口元はひきつり、こめかみには青筋がくっきり浮かんでいたが。
「き、気付いてたんですか？ 嫌だなぁ、それならそうと…あ、でも、気付いててなお騙されたフリして俺に優しい言葉かけてくれた石橋先生にはほんと、感謝して…痛ッ！？」
「じゃ、これからすぐにお前の家に向かわせてもらおうか。心配するな。もてなしもいらんし、ちらかっててもかまわんからな」
石橋の右手にはかなりの力がこめられている。流石に、親は洒落にならない。
なんとかしてこの窮地を脱するための策を練るが、何も思い浮かばない。小説のネタ作りで思考力を使いきってしまったらしい。
「良かったな北川。じゃあ明日はお前を慰めるために水瀬家へ招待してやろう。秋子さんにはちゃんと伝えておくからな。『北川はジャムが好きで甘いものが嫌い』だって」
相沢の口から発せられる死刑宣告。
俺は再びこの窮地を脱するための策を練るが、何も思い浮かばない。
なんと言うか、頭の中がオレンジ色一色になってしまってまともな思考もおぼつかない。
「お姉ちゃ〜ん、迎えに来たよ〜…って、何してるんですか？」
「いいのよ。あたしはもう帰るところだし、あっちの話もあたしには関係ない話なんだから」
「でも、あの人確か昨日の…」
「あたしの記憶に昨日プラトーンのポーズで叫んでた人はいないわ」
「記憶に残ってるじゃないですか」
「気のせいよ。それより栞、帰りにアイス買ってあげるから早く帰りましょうね」
「わ〜い、お姉ちゃん大好きです〜。私はお姉ちゃんにアイスを奢ってもらう時が一番幸せなんです♪」
「まったく、調子いいんだから…」
その幸せ、ちょっと分けて欲しかったな。
石橋に引きずられながら、俺はそんな事を思っていた。
相沢は、俺の力作をビリビリに破いてゴミ箱に捨ててしまっている。
だが、もし相沢なら、こんな状態でも幸せを見つけられるんだろうか？
とりあえず、言える事は一つ。俺は今、とても不幸だ。
「って、こんなオチ嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁ！ お、俺はただ、幸せになりたかっただけなんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ！！」
「えぇい往生際が悪いぞ！ 安心しろ、一日６時間以上勉強すれば、あまり重いペナルティをつけないように俺からも言ってやる！！」
「たぁぁぁぁぁぁぁすけぇぇぇぇぇぇぇてくれぇぇぇぇぇぇぇ！！ って、俺結局幸せ掴めてねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ！！？」
結果のページ
戻る