空に高く舞う色とりどりの球体。
青を背景として、赤、黄色、緑………。
それらは地上を遠く離れ、高く高く上がっていく。
子供のころ、あると思っていた遠い世界−−空の国、ひょっとしたら天国まで。
飛べない僕らを置いて、高く遠く−−−
「やっぱ帰ろう………」
「祐一が来たいって言ったんだよ」
突然、行列から離れようとする祐一の襟首を名雪は捕まえる。
もう2時間近くも並んでいるのだ。
いくら暦は５月に入ったといえでも、ここは北国。はっきり言ってまだ寒い。
そんななかで、ここまで待った努力を無駄にしたくはなかった。
「いや、ほら、あんなのただ浮くだけでおもしろくないぞ、きっと」
他の人から、睨まれるようなことをサラッと言う祐一。
と、いうか前後に並んでいる人から実際に冷たい視線が注がれているが。
「私、気球に乗るの初めてなんだ。楽しみだよ〜」
とうの名雪は聞いちゃいなかった。
天使の一片
祐一がこちらに来てから４ヶ月。
もう冬は過ぎ去り、雪に覆われた町もすっかり装いを変えた。
日差しは暖かくなり、木々は緑をつけ、何より、雪がなくなった。
冬以外に、こちらに来たことがなかった祐一にとっては、なにやら不思議な気がする。
まあ、ここにも春がくるのは当然のことだけど。
「名雪、寒いぞ」
「今日はちょっと風があるからね……」
やっぱり寒かった。
「こんな寒風吹きすさぶ野原を退避して、せめて風の来ない場所に移動するのが吉だと思うんだが」
「あー、ほら、見て祐一。気球降りてきたよ、もうちょっとで私たちの番だよ」
やっぱり聞いてもらえなかった。むしろ、明らかに無視されている。
「聞いちゃくれないし」
確かに名雪の言うとおり、気球は空から降りて、もう地上に着陸している。
今まで乗っていた人を吐き出し、変わりに祐一たちの前に並んでいた人を飲み込んでいく。
気球は次々と人を飲み込み………祐一たちは最前列となってしまっていた。
はぁ、と祐一はため息をつく。次に気球が降りてきたら確実に乗らなければならない。
高所恐怖症の祐一には、あんな高い所にいる自分など、想像できない………いや、したくない。
だいたい、地上でも結構な風が吹いているのだ。これで、高度が高くなったら、もっと強く吹いてそうだ。
あんな風船みたいなもので本当に大丈夫なのか？
「ねえ、祐一」
どんどん悪い方向へ想像を働かせていく祐一に名雪が声をかける。
「お、どうした？やっぱりやめる気になったか？」
「ううん」
……くそ、秋子さんの了承クラスの速さで否定された。
「そうじゃなくて、どうして祐一はここに来ようって思ったの？」
現在、二人はＧＷの休みを利用して、ここへ遊びに来ている。
と、言ってもせいぜい家から一駅の近場。それでも、気球が乗り降りできる広い野原があるのは、ここが田舎だからだろうか。
そして、今日この体験気球なるイベントに誘ったのは祐一の方からだった。
晴れて、恋人同士となったこの二人がデートに行くのは、別段不思議でも珍しくもないのだが………
２階のベランダでさえ、あまり得意ではない生粋の高所恐怖症の祐一が、こんな’高い’イベントに誘うというのは確かに不自然だった
。
「だから、家を出る前に説明したろ」
「ああ、あの「俺はいつまでも苦手を苦手のまま放っておく男ではない！見事、高所恐怖症を克服し、ビッグフォールでもバンジージャン
プでも何でもござれになるんだ！」っていうの？」
「おう、それ」
「祐一、私が寝坊しなくなったから、くやしいんでしょ〜」
得意げに名雪がこちらを顔を覗き込んでくる。
「あの目覚ましのおかげだろうが……」
そう、あの’眠り姫’名雪はきちんと朝、自分で起きている。
祐一が少し………もとい、かなり恥ずかしい台詞を録音した目覚ましを使ってからは起床率１００％だ。
「お弁当だって作っちゃうよ〜」
「やっぱり毎朝走ってるけどな……」
名雪がちゃんと起きるようになったのは良いのだが……お弁当に手間をかけすぎて、やっぱり遅刻すれすれになる。
秋子さんに手伝ってもらうか、もう少し手を抜けば良いと思うのだが……そこはプライドがあるらしい。
「ん？ところで祐一、高所恐怖症を治したいんだよね？そのわりにさっきから逃げようとしてる……？」
………せっかく話が逸れたと思ったのに。
「決心は変わるものなんだ。人間一つくらい弱点があったほうが良い」
「む〜、せっかくだから乗っていこうよ〜。こんなに待ったんだよ〜」
上目づかいでこっちに擦り寄ってくる名雪。
ぐ、可愛い。
惚れた弱みか、男の性か。こうなると断れるわけがなかった。
「…分かったよ」
「やった〜」
ちっちゃくガッツポーズをする名雪。
その姿もあまりに可愛らしかったから、祐一はそっぽを向いて言った。
「まあ、せっかくショック療法に来たんだからな」
「ふふっ」
名雪が笑う。それが普段とちょっと違う、何か引っかかる笑いだったから祐一は聞いてみた。
「何だよ？」
「祐一、可愛いなって」
聞かなきゃ良かった。
「あと、嘘つくのうまくないなって」
−−−−ますます聞かなきゃ良かった。
結局、最後のところでは、俺は名雪には敵わないんだろうか？
−−−−−−そう、俺は嘘をついていた。
ここに来たのは別段、高所恐怖症を治そうと思ったわけじゃない。
だいたい、こんなことで治るんだったら、とっくに治っている。
ここに来た本当の理由−−−それは、高い場所ならあいつに会えると思ったから。
あいつは天使の羽を生やしていたし、そして、天使は空に−−−天国にいるものだろうから。
冷静に考えれば、そんなことはないと分かっている。
気球でいけるのは、せいぜい地表数百ｍとかだろうし、生きてる人間が天国なんか行けるわけがない。
かと言って死ぬこともできない。それはあいつの願いを踏みにじることになるだろうし、何より俺を必要としてくれる人がいる。
だから、せめて高い所に行こうと思った。
このイベントを知ったとき、どうしても行きたくなった。
実際、来てみると、どうしても高い所は怖いし、自分のやっていることが無意味に思えて、やめたくなるけれど。
それでも………行ってみよう。
恋人とのデート中に他の女の子のことを考えるなんて、良くないことだろうし、それに根拠も全くない。
理性では無駄だと分かっている。だけど−−−−−−−−−−−
やっぱり、あいつは…………あゆは高い所にいるような気がするから。
気球が降りてくる。
数ある気球の中で一番小さな、赤い気球。
「お、君たち恋人どうし？………そうね、もう人も少ないし。今回のお客は君ら二人！」
確かに他にも気球は降りてくるし、祐一の後ろに並んでいる人も少ない。
もう、日も沈みかけようとしている時間となったし、当然かもしれないが。
気球を実際に飛ばす、20代後半の女性はもう最後の仕事を恋人のエスコートに決めているようだし。
「じゃ、お願いします」
祐一が先に気球に乗り込む。
気球は乗り込み口などなく、少し乗りづらい。
「次は私〜」
名雪も乗り込もうとする。
「ほら」
祐一は手を差し出す。名雪は一瞬きょとんとした後、
「ありがと〜」
微笑んで祐一の手を握った。
祐一も手を握り返す。
恋人の手を。
…………3ヶ月前にいとこから恋人になった少女の手を。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−３ヶ月前
秋子さんが車に轢かれ、名雪は笑顔を失っていた。
……………やっぱり来てくれない、か。
祐一は駅前のベンチで名雪を待っていた。
目覚ましに心からの−−−−−そう、本当に心からのメッセージを入れて。
朝からずっと待っていて、もう時刻はそろそろ12時。約束の’今日’は過ぎ去ろうとしていた。
でも………仕方のないことかも知れない、と祐一は思う。
名雪はこうやって、ずっと待っていてくれたのに、俺は約束をすっぽかしてしまったから。
7年前の記憶。やっと思い出した記憶。
好きだと言ってくれた少女。
壊れた雪うさぎ。
泣きながら、それでも少女はここで待っていると言ってくれた。なのに−−−。
辺りには舞い散る雪。
明かりは1本の街灯。
暗闇と雪が深い静寂を作りだしていた。
時刻は１２時を……………超えた。
−−−−−−−−−−でも、
「学校、さぼっている人発見」
雪のカーテンの向こうに少女は来てくれた。
俺は名雪の支えになることを約束して………………
「遅れたお詫びだよ………それと、私の気持ち」
名雪と唇を重ねた。
−−−−−−今、思えば、
この時、この瞬間が夢の終わった日。
祐一が心から一つのことを願った時。
自分より大切なものを手に入れた時。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−願いは叶った。
名雪と唇を離して祐一が目を開けて見たものは、舞い散る雪ではなく、羽。
純白の羽が辺りを温かく照らして、美しく舞っていた。
それは一瞬だけの幻視だったけど、でも。
確かに羽は舞っていた。
家に帰った祐一と名雪を待っていたのは、秋子さんの意識が回復したという知らせだった。
「はいはい、祐一は外に出てでね」
そう言われて、祐一は秋子さんの病室から追い出されていた。
秋子さんの意識が回復して、一夜明け、名雪は秋子さんにべったりだ。
今も、医師の診察だから、ということでこのざま…………自分は絶対に離れないくせに。
まあ、仕方ないだろう。
最愛の、唯一の肉親である母親が目を覚ましたんだから。
秋子さんは外傷自体が大したことはなかったのだが、頭を強く打ってしまったことが問題だったのだが、意識さえもどれば、もう大丈夫
とのことなので一安心だ。
秋子さんが目覚めた事ももちろんだが、名雪が本当に喜んでいることが、祐一にも嬉しかった。
「おめでとうございます。本当によかったですね」
病室の前で、そんなことを考えながらニコニコしていたせいだろうか。
祐一は一人の看護婦に声をかけられた。
「え、ああ、ありがとうございます。おかげさまで」
「いえ、私たちも本当に嬉しいです。患者さんが良くなることは医者や看護婦にとって、最高のことですから。………………………………
…………皆さんが良くなってくれれば、本当にいいですけれども」
「え？」
「………ごめんなさい。変なことを言ってしまって」
目の前の看護婦が何故か、本気落ちしているように見えた。
確かに、秋子さんが目覚めたことを喜んでいるいてくれてるようなのに。
「どうかしたんですか？」
−−−−−−−−−−−−−どうして、この看護婦は祐一に話しかけたのだろう。どうして、この看護婦だったんだろう。
そして、どうしてここで聞いてしまったんだろう。
何かの運命の輪だったんだろうか。
それとも、彼女を哀れんだ神の優しさだったんだろうか。
……………それとも、奇跡は、まだ起こり続けていたんだろうか。
「………７年前からずっと意識不明だった女の子がいてね。それが昨日の夜から急に容態が変わって。ついさっき息を引き取ってしまった
の。だから、ね」
「…7年前、から？」
祐一は何かを思い出そうとしていた。
それは……………赤。赤い、色。
「あ、ごめんね。もう、いかないと」
「……………」
看護婦が祐一の前から去っていく。
祐一は何も看護婦に返さなかった。
頭の中は、赤い色でいっぱいだったから。
何かが思い出せそうで、何も思い出せない。
でも頭のどこかで分かっていた。
「コレ」をオモイダシテハイケナイ。
赤い色。
血、夕焼け………カチューシャ。
頭がずきん、と痛んだ。
どうやら、病院内をフラフラと徘徊してしまったらしい。
気付けば、祐一は見知らぬ病室の前まで来ていた。
−−−−−−−−−−−−何かに導かれるように。
意識がもうろうとしていた。
頭の中は、赤い色。
思い出してはいけないのに、赤い洪水は止まらない。
吸い寄せられるように、病室のプレートを見た。
そこには………そこにあった名前は「月宮あゆ」。
祐一はその病室のドアを開けた。
その白い、白い病室のベットに横たわっていたのは、
赤い色。
血、夕焼け、カチューシャ。
高い樹。学校。
それは、まぎれもなく、
赤い色。
血まみれの少女。
………天使の、人形。
いつも商店街で会っていた、「月宮あゆ」だった。
「嘘、だ、ろ………」
少女は月宮あゆだった。
確かに、祐一の知っているあゆとは違って、髪も肩より少し長い。
頬も少しこけて、痩せている。
何より、あの元気な……元気すぎるくらいの生気がなかった。
でも、間違いなく「月宮あゆ」。
赤い色。
頭だけでなく、視界も赤く染まって…………
自分の手のなカニ、
血塗レノ、
少女ガ、
ミエタキガシタ。
「ああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ」
祐一は駆け出していた。
病室を飛び出して、どこへともなく。
−−−−−−−−−−−−−−−そう、どうして忘れていたんだろう。
なぜ、俺は名雪の雪うさぎを壊したりしたんだろう。
なぜ、この町に来るのが嫌だったんだろう。
それは、ここで辛いことがあったから。
初恋の少女が自分の手の中で、血塗れで何も喋ってくれなかったから。
商店街。
泣く少女。
たいやき。
天使の人形。
とっておきの場所。
大きな樹。
二人だけの学校。
夕焼け。
…………………赤い、カチューシャ。
祐一は7年前の記憶をすべて取り戻した。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ………………」
息が荒い。
心臓は体から飛び出そう。
視界は………、もう赤くない。代わりに真っ暗。
足は………、足は？
もう、立っているのかどうかさえ祐一には分からなかった。
ただ、冷たく澄んだ空気と、緑の匂いが、ここが病院ではないことを示していた。
「はあっ……………はあっ……………」
徐々に息が収まっていく。
体が楽になっていく。代わりに意識がクリアになっていく。
何も考えたくない、何も考えたくないけど……………。
−−−−−−−−−−目を瞑っていると、ぼんやりと、だんだんとはっきりと少女の姿が見えてくる。
血塗れで、それでも微笑む…………白いリボンの少女が。
「う……あっ」
祐一は無理やりに目を開けた。
目に映るは高い木々………そして、青い空。
…………少女の幻視は見えない。
「どこだ…………ここ」
祐一は、とりあえず……いや、最優先に自分が今、どこにいるか確認しようとした。
何か考えることを決めておかないと、別のことを考えてしまいそうだったから。
祐一は森の中で、雪の上に仰向けに倒れているようだった.
倒れたまま視界を巡らしても、雪を纏った高い木々と空以外は何も見えなかった。
ただ、祐一が倒れているあたり一帯は空き地のようになっているようで、木々は少し遠くに見える。
「次は、怪我は………と」
口に出して、考えを確認しながら、体の様子を見る。
まず、上半身を起こしてみるが、特に痛みもなく起き上がれる。
足も……別に普通についているし、痛みもない。
服やズボンは雪と泥だらけで、ところどころ擦り切れているが、それはまあ仕方ないだろう。
ただ、頬がぬれている感じがした。
「枝か何かで切ったかな」
少し血が出ているのかと思い、手で頬に触れる。
手に触れたものは、血ではなく、水だった。
「え…………」
祐一は泣いていた。
さめざめと泣きつづけていた。
今でも、きっと病室であゆを見たときからずっと。
−−−−−−−ああ、そうだ。相沢祐一は、悲しいんだ。
忘れられるわけがない。
もう忘れられるはずもない。
そうだった。俺はちゃんと考えてやらないといけない。
想ってあげなきゃいけない。
いままで忘れてしまっていた、彼女のことを。
7年前、自分の手の中で血塗れで、それでも微笑んでくれた、あゆのことを。
「あ、ゆ……」
あの時、血塗れのあゆに俺は何もできなくて。
そして、思い出すと悲しいから。
悲しくて、心が耐えられなかったから。
俺はあゆを忘れた。
忘れてしまった。
商店街で一人ぼっちで泣いていた、彼女のことを、せめて俺だけは憶えていて上げなきゃいけなかったのに。
どんなに辛くても、苦しくても、初めて守ってあげたい、と思った−−−−−−−初恋の少女のことを。
そう、きっとあれが初恋。
本来なら、暖かく思い出せるはずだった大切な、記憶。
ひょっとしたら、二人で、ちょっと恥ずかしいけど微笑みながら。
共有できたかも知れない、大切な思い出−−−−−。
でも、あゆは死んでしまった。
せっかく思い出せたのに、彼女は…………………。
「あ…ゆぅ………、あゆーーーーーーーーーーーーーーーーっ」
もう、これは慟哭。
彼女を失った……二度目の喪失。
そしてこれは、きっと多分、永遠の別…………
「やっぱり、思い出しちゃったんだね……………………」
声。
声が聞こえた。
二度と聞けないと思っていた、たった数日聞かなかっただけなのに、何故かとてもなつかしい声が。
「あ、ゆ………」
振り返った祐一が見たものは、切り株の上に立つ、小さな羽根を持つ少女…………月宮あゆ。
彼女はそこにいた。黄色いダフッルコートを着て、羽のあるカバンを背負って、赤いカチューシャをつけて。
まるでいつもの格好で、でも少し俯いて、その表情は悲しそうで、切なそうで。
「あゆ……」
もう一度呟いて、祐一は彼女の方へ歩き出していった。
−−−−−−−−−−−−−−ああ、どうして気付かなかったんだろう。
あの大きな樹が切られて、切り株になってしまったからだろうか。
ここは、俺とあゆの学校だったというのに−−−−−−−−−−−−−
「祐一……君」
あゆは顔をあげて祐一を見た。
目に涙を溜めて、今にも泣いてしまいそうな…………そんな顔で。
祐一は少しずつあゆに近づいていく。
体も心もぼろぼろで、今は走れないけど、少しずつ、少しずつ。
あゆの方を真っ直ぐに見て、きっと再会を喜びあうために、少しずつ、少しずつ。
……でも、どうしてそんな悲しそうな顔をするんだろう。
俺たちはまた、会えたというのに。
病院で寝ていても、会えたのなら。
今、またもう一度会えたのなら。
これからも、きっと会えるというのに。
……それなのに、涙は止まらない。
さっきからずっと泣き続けだ。
男だっていうのに情けない。
これは嬉し涙？
いや、違う。悲しいから泣いてるんだ。
あゆに会えたというのに。
なのに……………。
−−−−−−−きっと、二人とも分かっていた。これが本当のお別れだってことを−−−−−−−
雪化粧の山の頂上、ぽっかりと木々の途切れた空き地の中央。
雪の上に佇む少年。
その前で、切り株の上にのって、ようやく少年より背の高くなった、小さな少女。
あたりは静かで。
わずかに吹く風もここにはほとんど届かなくて。
青かった空が、赤みを少しずつ帯びていって。
たぶんお別れ会が始まった。
二人だけしかいない学校。
男の子は遠くに行ってしまって。
ようやくその子は帰ってきてくれたけど、一人で待ってた女の子はもうこの学校には来れそうもないから。
だから、きっとお別れ会。
二人だけのお別れ会。
だって、ここは学校なんだから。
二人だけしかいなくても、ここは二人の理想の学校なんだから…………………………。
「あゆ……」
「祐一、君」
少年は泣いていて、少女は泣きそうで、でも少女は涙をぬぐって、そして無理やりに笑顔を作って。
お別れ会が始まった………………。
「ねえ、祐一君、これ憶えてる？」
あゆが取り出したのは小さな天使の人形だった。
祐一が７年前にあげたプレゼント。
３つの願いを叶える不思議な人形。
１つめの願いは、あゆのことを忘れないこと。
２つめの願いは、ここを二人だけの学校にすること。
３つめは……、未来のあゆか、もしかしたら、他の誰かのためにと、叶えずに埋めた。
「これが、ボクの探し物。やっと見つけた宝物」
「ああ、憶えてる。タイムカプセルにしたんだよな。あと１つ願いを残しておこうって」
「……………うん。お願いはもう３つ使っちゃったけどね」
「え…………？まだ２つだろ。俺はあゆから３つめのお願いなんて、まだ聞いてないぞ」
「ううん、３つ。使ったよ。………………………ねえ、祐一君、こんなお話し知ってる？」
あゆは続ける。とうとうと。多分本当に分かりきっていることだから。
「あるところにずっと夢を見続けている女の子がいたんだよ。その子は夢の中で、最初は泣いていることしかできなかった。でも待つこと
を決してやめなかった。だから、神様は女の子が一つだけ願いを叶えることをできるようにしてくれた。それがどんな奇跡でも。…………
ただ、それだけのお話」
奇跡。
祐一のまわりで起こった奇跡。
それは羽が舞った後に−−−−−−−−。
「あゆ……お前」
「うん…………、ボク、秋子さん大好きだもん」
「−−−−−−−−−−っ」
祐一は何も言わなかった。
言えなかった。
彼女は、祐一のために奇跡を使ってくれたのに、何を返していいか分からなかったから。
奇跡に見合うことなんて、何もありはしないと思うから。
でも言ってみた。言うことにした。
今しかあゆに言葉を伝えられるときはないから。
例え、何も返せなくとも−−−−−−
「違う、あゆ。この人形の願いは俺は叶えるんだぞっ…………。神様からの奇跡は別だ。だからまだ願いは１つ残ってる……」
「そうだね……。だから、祐一君はここに来てくれたんだよ。奇跡を起こすとき、ボクは望んでしまったから。最後に祐一君に会いたいっ
て………、ボクのこと思い出して欲しいって………。ごめんね。祐一君が苦しむって分かってたのに……ボクは…………っ」
最後のほうにはもう涙が混じっていて、言葉にすらならなくて。
それはたぶん奇跡を、ほんのわずかだけ奇跡を自分のために使っただけにすぎないのに。
祐一は首を振って答えた。
「これは、俺が自分で思い出したんだ。やっと、やっと、思い出すことができたんだ………っ。だから、違う。これは……っ」
「違う…よ、祐一君はお願い事、叶えてくれたよ…………」
辺りに赤い日差しが差し込み始めた。
７年前も、こうやって二人でここにいて。
でも、あゆはまた泣き出しそうで…………だから、祐一は言った。
「……じゃあ、特別サービスだ。今ならもう一つ願いを叶えてやる」
「………もうひとつ？」
「ああ、俺は気前が良いんだ」
あゆは少しだけ微笑んでくれて。
「……そうだね。昔もタイヤキ奢ってくれたね」
「ああ、だから…………」
長い逡巡のあとで。
「……………………………本当に……いいの？」
「ああ、もちろん」
「じゃあ…」
あゆは顔をあげて。
「それでは、ボクの、最後のお願いです」
今度こそ、ちゃんと微笑んで。
「−−−−ボクのこと、忘れてください」
彼女はきっと−−−−−悲しい願いを。
「ボクなんか最初からいなかったって、そう思ってください。祐一君は、ボクのことなんか忘れちゃって、幸せに生きてください。名雪さ
んと一緒に、笑って暮らしてください」
あゆの笑顔から涙が零れて、それでも笑顔のままで。
「それが………ボクの最後のお願いです」
空はもう真っ赤に染まって、風もここまで届きはじめて。
そして、あゆの背中から輝く羽が大きく開いて。
「それが……………そんな願いで」
「いままでありがとう、祐一君」
夕日があたりを真っ赤に染めて。
輝く羽も舞って。
「待ってくれ、あゆ………っ。俺はお前に何もしてやれてないのに。7年前からずっと待たせっぱなしで。それで……………っ」
あゆは祐一を抱きしめて。
大切に胸に抱きしめて。
「そんなことないよ…………祐一君は色んなものをボクにくれたよ」
あゆの体は少しずつ空に浮いていって。
祐一を抱きしめた手が少しずつ離れていって。
「………………………さようなら、祐一君」
赤い世界の中、羽が、舞って。
−−−−−−−祐一君は、本当に色んなものをボクにくれたよ。
お母さんを失って、哀しみしかなかった、あの冬に、あんな暖かさをくれた。
泣いてばっかりだった、ボクだけど、あの冬はきっと今までで最高の日々。
毎日、ドキドキして、明日が来るのが、君と会えるのが待ち遠しくて仕方なかった。
あのキラキラ輝く、宝物のような日々を君はボクに与えてくれた。
さようなら、本当にありがとう、祐一君。
ボクの初めての……………そして最後の恋を教えてくれた人。
どうか、祐一君には、これからも笑顔の日々が続きますように−−−−−−−
「あゆ−−−−−−−−−っ…………」
そうして、天使は霞むように夕焼け空にとけていった………。
−−−−−でも、もし。もし許されるなら、もう一度祐一君と………っ−−−−−−−
「祐一〜、祐一ってば」
名雪は祐一の袖をぐいぐいと引っ張る。
「ほら〜、すごいよ、いい眺めだよ〜」
祐一と名雪を乗せた気球はもう高く舞い上がっていた。
「おお、そうだな。いい眺めだ」
「目を開けなきゃ見えないよ、祐一」
「俺は心の目で見るから良いんだ」
祐一は気球が浮いてから、一回も目を開けていない。と、いうか開けられない。
「わっ、祐一凄いよ。私たちの街まで見えるよっ」
「今日の夕焼けは８５点かな〜」
目を瞑ったままコメントする祐一。
最初の頃の目的も何とやら。今では、もう怖がりのあゆがこんな所にいるはずなし、と自己正当化を施している。
つーか、足はガクガク。いまにも座り込みそうだった。
「あ〜、本当だ。夕焼け綺麗〜」
名雪も自分の世界に入っちゃてるし。
「……だめね。彼氏」
インストラクターの女性の独り言は、誰の耳にも入らなかった。
赤い夕焼け空に舞う、やっぱり赤い熱気球。
高く、高く。
地面は遠く。
まるでここは別世界。
そう、だから…………………
その時、突然風が捲いた。
それはとても強く、まるで竜巻みたいのように空に浮かぶ気球を直撃した。
「うあっ」
「な、なんだお〜」
「きゃ」
まるで、荒海に浮かぶ船のように気球がガタガタ揺れた。
「だ〜、死ぬ〜」
「じ、じしんだお〜」
祐一と名雪は完全にパニック。
名雪に至っては、空で地震に遭うという不思議な出来事を経験しているようだ。
「一体………なん、なのよっ」
インストラクターの人だけは一人、気球の制御を図る。
必死に高度を下げて、気球をもとの場所に下ろそうとする。
「どうして、こんな、風」
まるで海流のような、強烈な西風にのってしまった気球はどんどんと流されいった。
もう、もとの野原まで戻ることはできそうもない。
風にのって………もう気球は街の上。
気球はまだガタガタを揺れている。
女性は何とか気球の降り場所を探して少しずつ高度を落としていく。
気球は小さな山の頂上を掠めて行こうとしていた。
ガタガタ、ガタガタッ
やばい、マジでやばい。
祐一は冷や汗を一杯にかいてあせっていた。
たまに、
「じ、じしんだお〜」
と、声が聞こえてくるので、名雪が無事なことは分かったが。
他は目の閉じた祐一には何も分からない。
それ以前に、普通に人でもパニックになる環境で、高所恐怖症の祐一が冷静になれるはずもなかった。
瞑った目に入るのは時折、差し込む夕焼けの赤色。
感じるのはゴンドラの感触と大きな揺れ。
耳にはいるのは同乗者の女性の声と、風の音。
「……祐一、君」
それに、別の声が混じった。
それは、きっと………
揺れが止まる。
祐一はその声に導かれるように目を開けた。
まず、目に入ったのは気球。
−−−−−赤い気球が輝き、羽を舞い散らせていた。
「祐一くん……」
また、さっきの声。
今度はもっとはっきり聞こえた。
そう、これは間違いなく……
「あゆっ」
祐一は立ち上がった。
気球はゆっくりと降りていく。
山の山頂のぽっかり開いた空き地。
中央には大きな切り株。
そして…………
「綺麗、だね…………」
遠くに見えるミニチュアみたいな建物。
小さな学校。細い道。
林も、商店街も小さくて。
もっと向こうに大きな夕陽。
祐一は見たものは、夕焼けに染まる街。
それは遥か彼方まで。
祐一たちが住む街を高く、空から。
−−−−−−いつか、祐一君と一緒に見れたらいいね−−−−−
…………ああ、そうか。お前はそう言ってたっけな。もう、7年も経ってしまったけど、やっと見れたよ。
街に雪はないけれど、７年前もきっと彼女はこんな光景を。
−−−−−そう、本当は僕も見たかったんだ。あゆと一緒に。
高いところが苦手でどうしても登ることができなかったけど。
あの高い樹の枝で、君のとなりに座って………大事な、大事な君の隣に座って。
一緒にこの、赤い夕焼けを−−−−−−−−
「やっと一緒に見れたね……………」
あゆの姿は見えないけれど、きっと俺の隣にいて。
そして、微笑んでくれているだろうか。
ゆっくりと、気球は降りていって……………。
きっとそこに残るのは、色褪せない、あの夕陽の街並みと。
−−−−−−−たった一枚の天使の羽。
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