人間になりたい
判然としない意識から覚めると、真琴はどこか知らない部屋にいた。
四方を見渡すと全て真っ白な壁で覆われていて、目線を上げても下げても白が真っ先に映った。部屋は理想的な程、整えられた立方体に作られていた。
まるで、何かの箱の中に閉じ込められたような、そんな感覚が襲ってくる。
ここはどこだろう、真琴はそう思った。
自分の記憶の中にこんな場所は無かった。あるのは、妖狐の住むあの丘と、丘の下に存在する雪の街。それ以外の場所なんて知らない。
そこまで考えて思い出した。自分が消えてしまった存在だという事を。
一つ屋根の下で一緒に過ごしていた少年の腕に抱かれながら、自分が雪の街から消えていったという事実を。
つまりここは死後の世界、というものなのだろうか。でも、それも違うような気がする。真琴の中の死後の世界はこんな感じじゃない。もっと開いた場所で、ふわふわしてて、雲の上のなのだ。少し意味が分からない。
いつの間にか扉が出来ていた。真琴の正面とその反対側に、洋式の家屋を思わせるような木製の扉が現れている。
正面の扉を開こうと、ドアの手前まで近づくと、それが思ったより大きい事に気付く。自分の身長より50センチくらいは大きい。
ドアを開こうとノブを掴んだ瞬間、言いようのない恐怖が身を包み込んだ。
だめだ。
このドアを開いてはいけない。
このノブを回してしまえばあの場所に戻ってしまう。
……戻ってしまう？
そう、真琴はこの扉の向こうに何があるのか分かっていた。
暗くて、静かで、そんな空間をずっと一人でいなくてはいけない。向こうにあるのはそんな場所だ。
その感覚を思い出して、体中から汗が吹き出てくる。
じっとりと濡れた手は、いまだに離せないでいる金属製のノブの感触を、正確には伝えてくれない。
何とか手を離し、反対側の扉に視線を移す。
こっちではさっきの様な冷たい感触がしない。
うん、大丈夫。
真琴は頭の中でそう呟いた。
扉を開けると、そこには人影がポツリと一つあった。良く見るとそれはローブを頭から被っていて、顔立ちはおろか、性別すら分からないような姿をしている。
真琴は今までに読んできた漫画の中で、こんな風貌の魔法使いが居た事を思い出した。そうだ、魔法使いだ。この独特の雰囲気はそれを思い起こさせる。
だから、この人はおそらくいい人だ。
魔法使いは主人公の願いを叶えるとても素敵な人、それが真琴の中の魔法使いのイメージなのだから。
そこまで考えて、その魔法使いがこちらに近づいて来ているのに気付く。
表情が分からないまま無言で近づいてくるから、妙な圧力がある。真琴はそれに気圧されて少しだけ後ずさる。やっぱり怖い。
後ずさったものの、歩幅の違いか直ぐに距離は縮められる。
それから、その人物はどこからか、円錐形の物体を取り出した。真琴はそれ何なのか気になり、少し手元に顔を近づけた。すると、その人物はその物体を顔の前に掲げ、底を上に向けた。それは、どこか魔法の為に杖を掲げる姿にも見える。
そして、魔法使いは杖に力を込め……
ぱぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん！！
クラッカーを思いっきり鳴らした。
「おめでとーーーー！！」
ローブの下から、若干高めの女性の声が発される。その光景はとてつもなくシュールだ。
「いやいや、良かった良かった！ 何と！ 貴女は人間に戻れることになったのよ！ 良かったね！ といってもといっても、その前に条件があってぇ、めんどくさいんだけど今まで自分が見た過去を振り返って、その後で決めてほしいの。 さっさと戻りたいかもしれないけれどぉ、そこの所ヨロシク！ じゃあ早速……」
さっきの魔法使いのような雰囲気は何処へやら、物凄い勢いで喋りだす。真琴はあぅあぅ、と唸りながらその勢いに気圧されるしかなかった。というか、何故にクラッカー？
色々考えているうちに、話は最後までいってしまったようだ。
「そういうわけだから、とりあえずあの街に飛ばないと……って、聞いてる？ 私の話」
もちろん聞いてない。
「ああ、ごめん！ ビックリした！？ 落ち着いて、息を吸って。ほら、すぅーって」
「あ…ぅ、」
すーはー、すーはー、ふう。
やっと、落ち着いたので改めて彼女の方を見る。相変わらず顔を窺うことは出来ないのだが、先ほどの魔法使いのような雰囲気はぶっ飛んで、どこか柔らかな雰囲気を感じるようになった。
うん、この人は大丈夫。真琴は彼女がさほど害のない人間だと判断した。
「えっと、それでどういうことなの……？」
「あら、ホントに聞いてなかったのね。まあ、いいわ」
呆れと申し訳なさをブレンドしたような顔をしながら、彼女は言葉を続けた。
「結論から言っちゃうと、元の世界に戻れることになりました。そう、アナタがいたあの街に」
びっくりさせるような事を彼女が言っているのが分かる。
真琴は恐る恐る聞き返す。
「それって、本当？」
彼女は、真琴の表情を見ながら、にひひ、と笑って質問に答えた。
「ホントよ、ホント。だけどその前に…」
「やったあーーーー」
真琴はそこで両手を上へと伸ばし歓喜の声を上げた。知らない人の前だと、臆病になって大声も出せないのが普通であったが、この大きな喜びの前ではそんな事はどこか遠くの地平へと追いやられてしまったようだ。
「あっ、待って。だけどその前にやることがあって」
「あぅ？」
嬉しさに水を差すようなタイミングで、彼女が制止の声を上げる。
「ちょっとね、戻る前に今までいた街の過去に行って欲しいの」
過去の世界に行って何をするのだろう。
何か昔の自分や祐一に忠告でもするのだろうか？
疑問に思いながらも、真琴は続きを促した。
「といっても、ただ戻って自分や周りの人の事を見るだけなの」
「……それって、何か意味があるの？」
自分としては、一々そんな事しないでさっさと人間に戻りたかった。帰れると分かっている以上、その間の時間なんて無意味でしかない。
「あからさまに面倒って顔してるわね……分からなくもないけど」
彼女は渋い顔をしながら、更に言葉を続けた。
「それと、見るだけって事にしてもらう様に、基本的に過去に世界に影響を与えることは出来ないから。分かりやすく言うと、声は届かないし、人にも物にも触れない、雪道を歩いても足跡が残らない状態」
それって、本当に何も出来ないって事じゃない。と、言いたくなったが、良く知らない人にツッコミを入れられるような真琴じゃなかった。
「じゃあ、質問も無いみたいだしそろそろ行こうか」
そういって彼女は黙り込み、手を上に掲げ、何かを念じるような仕草を見せた。
あ、今度は本当に魔法使いっぽい。
そんな事を考えているうちに、周りの空気が変わった。草は揺らめき、風の音が遠くの方で鳴っている。今たっている場所を踏みしめている実感がない。
どこかに移動するのだろう、そう思った矢先、目の前が真っ白になった。
気が付くと真琴は夕暮れの商店街に出ていた。以前と変わらない風景。しかし、何か違うと感じてしまう。それはおそらく、周囲の人が自分の姿を全く認識しない事とか、靴の上から雪の感触がしてこないからだとか、その辺りに理由がありそうだ。
周囲を見渡すと電気屋や、ゲームセンター、あとはスーパーマーケットなどが目に付く。
なんとなく、スーパーに目が止まった。そういえば、ここで何かあったような気がする。大切な記憶がここにはあったような、それは一体なんだったのだろうか。
思い耽っている間に、紅く染め上げられた建物の中から見覚えのある人が出てきた。
「祐一！」
彼の姿を認めるやいなや、真琴はそう声を掛ける。しかし、こっちを向く気配は無い。それはここから彼の場所までが遠いとかそんなことじゃなく、全く届いていない、そう感じさせた。
「だから、声を掛けても無駄なんだって」
「あう！」
びっくりして、後ろを振り返る。そこには、先ほどの彼女がいた。
「ななななんでっ」
自分一人で見に行くものだと思っていたので、反射的にそんな言葉が口をついて出た。その言葉にあからさまに不満そうな声を彼女が出した。
「なんでって、いちゃいけないの？」
「そそ、そんなことないけど……」
言われてみれば、拒絶する理由はない。別に彼女がいても、なんらすることに変わりはないのだから。
納得して真琴は改めて祐一の方へ振り向いた。いつのまにか、彼に良く分からない人影が近づいていた。
全身を古い毛布のようなもので包んでいる。
…というか、見覚えがあった。
『やっと…見つけた』
そういって、体を覆っていた布を投げ捨てた。
現れたのは、自分にそっくりな人間――というか過去の自分なんだが。
『…あなただけは許さないから』
『お前のような奴に恨まれるような覚えはないぞ』
一連のやりとりを見ているうちに、一つの考えが沸いて出てふと後ろにいる、もう一人の全身布づくめを見やる。
うーん、と唸りながら、じっと彼女を見つめていると、その視線に気付いたようだ。頭をこちらにむけてきた。その布の中の顔を覗く事は出来ない。
ひょっとしたら、彼女の毛布を取ったりしたら、中から真琴と似たような人が出てくるのでは？ と、中々にありえない事を真琴は空想する。
ほら、実はこの人は生き別れの姉とか、姉は妹が困ったとき何時でも助けられるように見張っているの。だってだって、似たような感じに布をかぶっている辺りがなんだかそれっぽいじゃない？
頭の中で滅茶苦茶な妄想が繰り広げている間に、祐一と過去の真琴のやりとりは若干の展開を見せていた。『覚悟』と言って祐一に飛び掛っていく昔の自分。
ああ！ と、ここで自分が何をしたか思い出して、声を上げる。
この後は確か…
スカッ、スカッ、スカッ
過去の記憶通り、祐一の前で空を切りまくる拳。
なんというか、その、見ていて結構恥ずかしい。いや、自分なんだけど。
しかし、外から見るとこんなに恥ずかしいものだったとは。正直こんなもの見たくないし、誰にも見せたくない。
そう思って、後ろの彼女の方に振り向く。
やはりその表情を覗うことは出来ないが……思いっきり肩がぷるぷる震えていた。
「ちょっとちょっと」
「んぁ、何？」
あからさまに笑いを堪えている声だった。
「出来ればさ、見ないで欲しいんだけど……」
本当はもうちょっと強引に言いたいのだけど、人見知りの激しい真琴は怖くてそんな事言えない。
「え？ いいじゃない、そんなの。減るものじゃないんだし」
「そうかもしれないけど……」
こっちの気などお構いなくそんな事を言う。
それ以上何もいえる筈もなく、しかたなくそこで口をつぐむ。
こっそりと彼女が「だって、こんな面白いの見なきゃ駄目じゃない」と言ったのは聞こえなかったようだ。
視線の先には祐一と過去の自分。
丁度、彼が頭を押さえつけているところ。リーチの差があって、拳が届かないで空回り。これは相当に恥ずかしい。なんたって、ちっちゃい子供みたいに腕をぐるぐる振り回しちゃってるんだから。
そこで、真琴の怒りのゲージが上がっていく。
なんでこんなもの見なきゃいけないのよぅ！ こんなの全然どうでもいい過去じゃない！
そんな文句が浮かんできた矢先。
「ぷっ、くっ、あははははははは！！」
豪快に笑う声が聞こえてきた。
ぷつりと、真琴の中で何かが切れる音がした。もう我慢できない、と頭の中で言っている。
「あぅーーーーーーーーーー！！」
「わわわっ」
真琴、怒り爆発。
何でこんなのずっと見なければいけないのよぅ！ とか。
全然どーでもいいところじゃない！ とか。
ていうか、そんな笑わなくてもいいんじゃない！？ とか。
そんな辺りの不満が一気に爆発したのであった。
「いつまでもこんなの見せないでよー！」
「いや、ここに居るんだからしょうがないじゃない」
「だったら、他の場所に連れて行ってよーー！！」
「あ、ごめん無理。無理です」
「そっちが行く場所決めてるんじゃないの！？ いいから、早く場所を変えてよぅ！！！」
「いや、ランダムだから、無理」
「変えて！ 変えなさい！！ 変えなきゃ許さないんだからぁ！！！」
「めちゃくちゃな活用ね。あ、場所変わるみたい」
ここで一旦フェードアウト。
辺りには見慣れた風景。立ち並ぶ店、電子音を外まで撒き散らすゲームセンター、入り口には制服の学生がたむろしている。
「って、また商店街じゃない！」
「まま、偶然だからしょうがないでしょ」
のんきな声がした方をキッとにらむ真琴、どうやら気後れしなくなったようだ。
そう、移動したと思ったらまた同じ商店街だった。違うのは先ほどは夕暮れだったが、今はその前のちょっと薄暗くなるあたりの時間だという事だけ。
「わざとじゃないでしょうね！？」
「いや、ホントにランダムなのよ、ホントに」
「うーーー！」
「まあまあ、時間が違うんだから、もうあれは見ないから大丈夫」
そう、たしなめられて落ち着く。まあ、確かにそうだ。
それだったら、これから何を見るのだろう、と新しい疑問が浮かぶ。
「あ、そだ。言い忘れていた事があった」
「え、なに？」
「移動場所はランダムだけど、ひとつだけ決まりがあって、時間を追ってみていく事になるの」
「あぅ？」
「要は次に見る世界は、さっき見た世界よりも後の時間になるって事」
つまり、さっき祐一と会ったの時だったのだから、今はそれより後の世界にいるって事だ。
まあ、さっきの様な醜態を見なくていいのなら別にどこでも良かったのだが。
商店街の入り口から、またしても昔の自分が現れた。
上機嫌な顔をして、やや駆け足でどこかに向かっているようだ。
どこに行くのだろう？ と思ったが、だいたい自分が商店街のどこに行くのか見当は付く。おそらく本屋か肉まんを売っていたあの店だ。肉まんの店を通り過ぎた事で、目的地が本屋であると分かった。
何となく、いやな予感がする。
周りにいる通行人、日の傾き具合、どこかで見たことがある。いや、過去なのだから見たことあるのは確かなのだが。
しかし、そうではなく、この光景にはどこか忌まわしい記憶を想起させるものがあった。それがなんなのか考えている内に過去の自分は本屋の入り口に向かっている。
とりあえず真琴はその後をついていく。それに応じてローブの彼女も追いかけてきた。
「なになに、なんか面白い記憶なの？ なんだか楽しみだなぁ」
こんな事言ってくる辺りからして、やっぱり何か知ってるんじゃないの？ とか疑ってしまう。
どっちにせよ、この人が何か真琴がやらかしてくれる事を期待しているのは間違いないので
「一々期待しないでよっ」
とりあえず文句を言った。
「まま、そういわずにどうせ何か見るなら面白い方がいいでしょ」
「そんなの真琴に期待しないでよぅっ！」
こんなやりとりにも慣れてきたようだ。まあ、そうなった原因はあちらの性格に因るものなんだけど。
『すいませーん』
その声を聞いて思い出した。この後、何が起きたのかを。
物凄い勢いで振り返って、声を張り上げる。
「見ないで見ないで見ないでーーー！！」
「わっ、どうしたの？ 何か面白い事でもあったの！？」
「そんな事はどうでもいいからっ！ ああっ、そっちの方もそれ以上喋るのはやめなさーーい！！」
真琴は後ろでローブの彼女の目を押さえながら、過去の自分に喋るのを止めるよう、大声を出す。色々と忙しい。
しかし、そのどちらも効果は無かった。元よりこちらの声は聞こえない。手で覆うにもローブに隠れて目が分からない上、頭をヒョイヒョイ動かされるので視界を妨げる効果も期待できない。
そうこうやっている内に、過去の真琴が口を開く。ああ〜っ、と制止の声を掛けてみるがもちろんそれも届かない。
『エロ本くださ〜〜い！！』
ずこっ！ と店で立ち読みしている人たちが一斉にこけた。
「あっはっはっは！！ 止めて止めて！ 死んじゃう！！」
こっちはこっちで大爆笑。
もういいや……
「ホラ、落ち込まないで、ね？」
真琴は拗ねて本屋の店先に座り込んでいた。
「確かに笑いすぎたのは悪いと思うけど……くくっ」
そして、半笑いで慰めているローブの彼女。
何故半笑いかというと、過去の真琴がエロ本が何なのか店員に丁寧に説明されているからだ。
そんなもの見ながら真剣に慰められるはずなどないわけで。
「もう、いいのよっ！ 笑っていればいいでしょう！」
『だから、エロ本ってのは、大人になってから買うものなのよ、わかった？』
「ぷぷっ……って、そんなこと言わないで、ね？」
笑いながらそんな事を言ってくる。
そう言われたって信じる事なんて出来るわけ無いじゃない！ とか、思うのだけれども真琴はそんな事言う気力も沸かなかった。
「あ、どっか移動するみたい」
といっても、体育座りで目をつぶっている真琴には、まぶたの裏が真っ暗闇から、ほんのり赤く染まったくらいしか分からなかった。
次に出た場所は開いた草原。
緑がベースではあったが、所々の草が枯れていて、お世辞にも綺麗とは言いがたい場所だった。
人の手入れをうけていない場所。
もちろんこの場所は分かっている。
真琴の一番大切な場所。思い出の原点の場所。
そう、ここはものみの丘だ。
夕日によって、赤に彩色されたこの風景は見慣れたものだ。
しかし、これが何時のものなのかが分からない。
なにより、肝心の過去の自分がいない。
今までの傾向を考えれば、しばらくしたら出てくるはずなのに。
後ろを振り返る。
予想した通りそこには全身ローブの彼女。
こちらが聞きたいことは察してか、彼女がそっと口を開いた。
「ああ、別にアナタがいない場所に行くこともあるのよ。さっきの商店街だって最初はいなかったでしょ？」
そういわれてみればそうだ。
納得して、再び辺りを見渡す。
過去の自分どころか人の気配すら感じない。
あたりまえだ、本来ここは人間のいるような場所じゃないのだから。
眼下に広がる街並み。
過去の世界とはいえ、この街に住む人たちが今も動いている。
この時、自分は何をしていたのだろう、そして祐一は。
そういえば、ここにぴろと二人で来たこともあった。
あの時、疲れて眠っていた自分を家まで運んできてくれたのは彼だった。
彼は自分を両手で抱えあげながら何かを囁いていた。
その言葉は一体何だったのだろう。
声がしてきた。狐ではなく、人間のものだ。
こもり気味の声はこの開いた場所へくるための道の方から聞こえる。
次第にそれは大きく、早くなっている。
そして、声はある瞬間からはっきりとした輪郭を持って響いてきた。
『はぁ、はぁ、はぁ』
姿を現したのは、ぴろを抱えた自分だった。
そういえば、この丘の坂は普通に上るだけでも少し疲れるような程、急に出来ていた。
この後の行動は分かっている。
ぴろ（この時点では名前はまだ決まってないが）と一緒に肉まんを食べて、そしてそのまま寝ていく、それだけ。
記憶通りに再現される展開をよそに、真琴の視線は丘の入り口に注がれていた。
しばらくしたら、祐一が来る。それが分かっているからだ。
彼はいつからここに姿を現したのか、どの辺りのやり取りまで見ていたのか、それが気になる。
自分の行動なんて分かりきっているんだから、そんなの今更気にならない。
予想通り（実際は予想でも何でもないのだが）祐一が姿を現した。
祐一、と声に出して言ってみるけれど、当たり前だが反応はない。
視線の先には過去の自分とぴろ。今、一人と一匹は一緒に肉まんを食べているところだ。
その姿を見つめる彼の表情には、どこか驚きが混じっていた。
この時点では彼の中の疑惑――真琴が記憶喪失なのかどうか――は晴れていなかった。だからこの光景は彼にとって驚き以外何者でもないのだろう。
その事実は少しばかり心を締め付けるものがある。あの時は、それに対してただイラついていただけだったけど。
やがて一人と一匹は背中から草原に身を委ね、目を閉じた。
ほどなくして、祐一がやって来る。
『おい、真琴』
そっと、祐一が声を掛ける。
その声には棘といったものは感じられず、どこか優しげな雰囲気が感じられる。
その後、彼は両腕で体を抱え上げて一言二言話しかけていた。
『ほら、帰るぞ』
丘から降りる場所へ向きながら、
『おまえは俺たちの家族なんだからな』
祐一はそう言った。
そして一人と一匹を抱え上げたまま丘を降りていった。
真琴はその後ろ姿をじっと見つめていた。
あの時聞けなかった言葉。
あの時聞きたかった言葉。
心が満たされていく。
同時に人間になりたいという思いが強くなる。
祐一の元に帰っていけるとしたら、どれほどのいい事が待ってるのだろう。思い返してみれば、祐一は自分に結構優しくしてくれたように感じる。自分が思っていたより、ずっとずっと。
きっと今、二人と一匹は丘を降りたところだろう。祐一は疲れながらも、自分を家まで運び込んで部屋に寝かせてくれるのだろう。
真琴は先ほどの祐一の行動を反芻するように、深く目を閉じた。
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