暗い。
　信じられないほど、瞳に映る光景は暗かった。
　そこは、煌きと輝きに満ちた野であったはずなのに。
　今は、ただ暗い。
　色彩を失った稲穂がゆらりと風に揺れる。いつも見ていた揺らめきなのに、色と言う一要素が失われただけで、それはまったく違うものに見えた。
　麦穂が擦れ合う音の中、異音が混じっている。
　小さく、早く、荒い呼気。
　稜線の上に浮かんだ真円の月が見下ろす広い麦畑、その中心にほど近いところにその呼気を発している者はいた。
「はぁ、はぁ……はっ……」
　平らな胸を忙しなく上下させる、幼い少女が一人。
　良識ある者がその少女を見たなら眉を顰めることだろう。シンプルな浅黄色のワンピースは土で汚れているだけでなく、ところどころ破かれている。北国の少女らしい処女雪の白さを持つ肌も、纏う衣と同じく汚れ、傷だらけだ。
　尋常ならざる様子、変質者にでも襲われたのか。
　答えは否であり、同時に是でもある。
　麦畑には少女以外に人影はない。それどころか、この麦畑は言うなれば少女の領域であり、少女が麦畑を訪れるようになってから、麦畑にやって来た人間はただ一人しかいない。そして、その一人の姿も今はない。
　だから、少女が変質者にでも襲われたのかと言う問いへの答えは否だ。
　ならば何が是なのか。
　それは、『少女は襲われているのか』ということに対する答え。
「ふぅ、ふぅ……！」
　荒い呼吸を抑えて、少女は咄嗟に地面を転がった。今の今まで少女が居た空間を突風が貫いた。
　いや、それは風などではない。
　確かに、傍目から見れば突風に見えなくもない。だが、麦穂を地面に薙ぎ倒す力があるだろうか。
　仮に、それだけの力があるとしよう。
　けれど、
「や……ぱり、いる、んだ……」
　よろよろと立ち上がりながら、少女は呟く。
　その視線の先には先程薙ぎ倒された麦穂。そこに残された"足跡"。大型の肉食獣と言っては言い過ぎか。だが、大型犬程度の大きさは確実にある。
　風に、"足跡"など存在しない。
　いまや少女が立つモノクロの麦畑は、異界だ。
　少女が感じたこともないような異質な気配が支配する、明らかに常識を逸脱した空間。
　かつて、少女はこの麦畑の姫だった。そしてこの麦畑は彼女だけの王子様と楽しく過ごした、黄金の城だった。
　しかし今、彼女の黄金の城は、彼女と王子様の王国は失われた。突如として現れた"足跡"の主によって奪われたのだ。
　彼女の王子様から捧げられた可愛らしい王冠もあったのに、麦穂と一緒に風に揺られていたそれも、失われてしまっている。
　それでも少女は、亡国の姫は気丈に叫ぶ。
「……あんたなんかに、あんたなんかに渡さないんだから！」
　足元に転がる小枝を、騎士の剣のように振りかざし、叫ぶ。
　その声に応えるように、暗い空間が揺らめいた。
　見えないけれど、目の前に居る。麦穂に埋め尽くされたこの場だからこそ、見えないことが逆にそれの存在を強調している。
　麦穂が押し分けられている空間に、そいつはいるのだ。
　少女から居場所を奪った簒奪者。
　その名は、
「魔物なんて、あたしが追い出してやる!!」
　魔物。















黄金の日々に、さよならを

















　納豆と、きんぴらと、ホウレン草のおひたし。
　そしてそれぞれの前に鮭の切り身がのったお皿と、大根のお味噌汁。
　もちろん白いご飯も忘れてはいけない。ほかほかのご飯をお茶碗に盛るのは、いつも舞の仕事だった。お母さんが元気に食べてくれるのが嬉しくて、お母さんの分は自分の分よりいつも多めに。
　舞がご飯をよそう間、お母さんはにこにこしながら待っていてくれる。
　舞が、
「終わったよ、お母さん」
　そう言うと、
「うん。じゃあご飯にしましょう」
　そっと舞の髪を撫でてくれる。
　そして二人一緒に食卓に座るのが、舞とお母さんのいつもの風景。
　けれど、今日は違う。
　いつもの献立、いつもの食卓。だけど、そこに欠けているものが一つ。
　それは、笑顔だ。
　お母さんの前で楽しそうに笑っている、愛らしい舞の笑顔が、そこにはなかった。
　このところ見なかった、寂しそうな、悲しそうな幼い顔。
　そんな舞の様子が心配で、お母さんの顔からも、にこにこ笑顔が消えてしまう。
　確かにお母さんの病気や、そのあとの出来事のせいで舞は悲しい顔をしていることが多かった。しかし、この北の街に移ってからは二人の周りも随分落ち着いて、以前ほどは騒がれなくなったし、お母さんの身体もすっかりよくなっていたから、少なくともお母さんの前では舞はいつも笑顔だった。
　特にここ最近は、あんなにも幸せそうに笑っていたのに。
「終わったよ、お母さん」
　いつもと同じ言葉なのに、まったく違う言葉に聞こえる。
「う、うん……じゃあ、ご飯に……しましょうか」
　自分の入院中でも明るく振る舞っていた舞の落ち込みぶりに、お母さんはどう応じていいのかわからなくて、舞と同じように沈んでしまう。
　二人揃って食卓について言う「いただきます」も、お通夜のような暗さ。
　食事の合間に交わされるはずの会話もなく、ただ黙々と箸が動き、おかずが口に運ばれ、味もわからないような食事が続く。その暗さに加えて、いつもの食事風景と違うことがもう一つ。
　普段ならしっかりと噛んで行儀よく食べる舞なのに、今日は何故かろくに噛まず、飲み込むように食べていて、そんな様子を見てお母さんはますます心配になってしまう。
「……ごちそうさま」
　それでも、ちゃんと全部食べてくれたのが嬉しくて、お母さんはちょっとだけ微笑んだ。けれど、その笑顔はすぐに戸惑いに取って代わられてしまう。
「あの……お母さん、でかけて……いい？」
「え。ええ、もちろんいいけど……」
　あまり遅くならないうちに帰ってくるのよ、そう続けるはずだったのだが、
「それじゃ、行ってきます！」
　ぴょんと椅子から跳ぶように下りると、舞は走って玄関の方へと行ってしまった。
　行き場のない言葉とお母さんだけが、残される。
「あの子……どうしたの……」
　今日の舞はあまりにいつもと様子が違う。正確に言えば、昨日の夕方頃から少しおかしかったのだが。まだまだ小さいとは言っても、言いたくないことの一つ二つあるだろうと思って問いたださなかったのは今思えば間違いだったのかもしれない。
「帰ったら聞いてみようかしら……？」
　注意を聞く前に行ってしまったとはいえ、遅くならないうちに帰ってくるようにと常日頃から言い聞かせてある。
　この時、お母さんは夕暮れまでに舞が帰ってくると信じていた。















　北国とは言え、夏場はやはり暑い。特に太陽が中天にかかっている今は一日のうちで一番暑い時間帯だろう。
　そんな全てが白く染まるような真夏の日差しの中、舞は走っていた。
　髪が汗で額に張り付くのも気にせずに、ひた走る。いつもなら、道中にいる大きくてふさふさの犬に挨拶するのに、その犬が寂しそうに鳴いているのも無視して目的地目指して、ただ走った。
　家から十分ほど走り続けただろうか。その場所は、突然と言った感じで舞の目の前に現れた。
　広い、広い、麦畑。
　陽光に照らされ、黄金の輝きを放っているそこは舞の秘密の遊び場だった。
「はぁ、はぁ……」
　目的地に到着したのに、舞は呼吸を整えることもせずに走ってきた勢いのまま、麦畑に突っ込んだ。
　がさがさと小さな両手で麦穂を掻き分けて、黄金の輝きの中を進む。その間にポケットに入れていた物を取り出して、頭につけた。それさえあれば背の高い麦穂の向こうからでも、舞の姿がわかるはずだから。その、ウサギの耳のついたカチューシャさえあれば。
「はぁっ……ねえ……っ！」
　進みながら、声を張り上げる。荒く早い呼吸の中で発されたその声はあまり大きくはならなかったけれど、麦畑の中に誰か居れば絶対に聞こえるはずだった。
「ねぇっ！」
　返事はない。
　その事実を打ち消すように、舞は必死で声をあげる。
「いないのっ!?　ねえっ！　……っ!?　けほっ、けほっ」
　むせ返ってしまうが、そんな舞を心配するものはいない。
　舞の叫びは、静かに金の野原に吸い込まれていった。応えは、ただ風が渡る音だけ。
「……まだ、来てないのかな」
　しばらく呼吸を落ち着けた後、舞は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
「そっか、早すぎるもんね」
　不安と焦りで家にいることなど出来なかったから飛び出してきてしまったけれど、彼と出会うのはいつも太陽が西の空に移ってからだった。彼との出会いはいつも夕陽の中。
「早く来ないかな……祐一くん」
　待ち人の名をつぶやくと、舞は少しだけ幸せな気分になれる。
　いつものようにゆっくりと麦穂の中に横たわった。たっぷりと陽の光を吸った麦穂は、どんな高級ベッドよりもふかふかで、柔らかく舞の小さな身体を受け止めてくれる。それなのに、ほんの少しだけ温かさが足りない気がするのは、きっと隣にいるはずの人がいないから。
　自分と同じ形に切り取られた、どこまでも青い空が眩しくて、舞はゆっくりと瞼を閉じた。昨日はショックでなかなか寝付けなかったから、ちょっとだけ眠い。
　もちろん夏休み中ということもあるだろうが、すぐ側に学校があるにもかかわらず、この麦畑には余計な騒音は届かなかった。全て緩やかに風に揺れる麦穂が受け止めてくれて、舞たちを煩わせるものはいない。だから舞は、安心してまどろみに身をゆだねることが出来るのだ。もし彼が来たとしても、大丈夫。だって彼は、かくれんぼで舞がこうして寝転がっていても、すぐに見つけてくれるのだから。















　目を開けると、紅。
　黄金の野が、紅に染まっていた。
　随分と長い時間眠ってしまっていたらしい、目をこすりながら舞は身を起こす。
　まだぼんやりとする視界の中で、黄金の麦穂が夕陽を照り返しながら揺れている。
　人影は、ない。
「祐一くん、遅いな……」
　つぶやきながら一歩を踏み出した。
　まだ寝ぼけているのか、ふらふらと麦穂と同じように揺れながら麦畑の中を彷徨う。
　ひとまわりしているうちにしっかり目が覚めてきた。時を同じくして、変えようのない現実も頭に染み込んでくる。
　この広い麦畑にいるのは、舞一人だという現実が。
　寝転がっていた場所まで戻ってきて、今度は逆回りに麦穂の海を進む。
「……絶対、来てくれる」
　その言葉がどれだけ虚しい言葉なのか、口にしている舞自身もうすうす気づいているのに。
　空の赤が、ゆっくりと蒼に変わっていく。ぽつりぽつり星が見える頃、舞は歩き回るのをやめて、一人ぼんやりとたたずんでいた。
　緩やかに吹く風は、人の営みを届ける。はっきりと聞こえるわけではないが、どこにでもある家庭の、ありふれた、けれど温かな団欒の声を。
　それは、舞にお母さんの微笑みを思い出させた。けれど、無理矢理その笑顔を心の奥に押しやる。
「……来てくれるよ」
　そのつぶやきは、これで何度目だろうか。応える者のいないつぶやきは、ただ風に溶けて消える。
「いつも、来てくれたもん」
　時間を決めていたわけではない。
　それでも、舞がここに来れば彼は五分と経たずに、いつも来てくれた。彼の方が先に来ていた時だってあった。
　それほど通じ合っていたのに。
　舞が見せたとっておきの秘密だって、彼は怖がらずに受け入れてくれたのに。
「来て、くれるもん……」
　そのつぶやきは、稜線に消え行こうとしている夕陽の輝きのように弱々しい。
「あたしたちの場所、ふたりで守るって、約束したんだから」
　昨日も麦畑に行ったのに、彼には会えなかった。家に帰ってすぐ、気がつくと電話の前に立っていて、全然知らない番号を指が勝手に押したかと思うと、彼のところに繋がっていた。
　その時に約束したのだ。いや、より正しく宣言したと言った方がいいか。
『ねぇ、助けてほしいのっ』
　彼がいなくなってしまうと聞いた時に、舞は直感した。彼がいなくなってしまったら、この麦畑は変わってしまう。
　彼がいてくれるのが、最早舞の中では当たり前になっていたのだから、その彼がいなくなってしまったら、異変が起こるのも舞の中では当然のことだった。
　例えば、
『魔物がくるのっ』
　そう、魔物がやってくるとか。
「守るって、約束したもん」
　確かに、約束したのだ。
　約束は守らなければいけない。
　それには、“魔物がいなければならない”。
「……あれ？」
　風がやんだ。
　瞬間、舞の身体が宙に舞う。
「……え？」
　何が起こったのか理解できない。
　ただ、反転した視界の中で太陽が完全に沈みきってしまったのだけが、奇妙に瞳に焼きついた。
　体験したことのない浮遊感の後に襲ってきたのは、痛み。
　普通の地面ではなく、麦穂が受け止めてくれたから、打ちつけた背中はそうでもないけれど、胸と腹に鈍い痛み。
　昔ジャングルジムから落ちたときにお尻を強く打ってしまったことがある。今舞を襲っているのは、それを酷くしたような感覚。
「な……な、に……？」
　痛む胸を押さえ、舞はよろめきながら起き上がる。
　山の近いこの街、冬場ともなれば餌を求めて野犬の類がやってくることもある。餓えて獰猛になった野犬に子供が襲われるということもないわけではない。舞もあまり山の近くに行ってはいけないと小学校で注意されていた。
「い、犬さん……なの……」
　そんなものではないということは、体感した舞自身が一番わかっているだろうに、それでも舞はそうつぶやかずにはいられなかった。
　けれど、そんな一抹の希望は現実の前に脆くも打ち砕かれる。
　舞の目の前の麦穂が、大きく分け開かれていた。
　なにもないのに、麦穂が大きく薙ぎ倒されている。
　そこにいるのは、
「まも、の……？」
　そうして、舞の身体は再度宙に舞った。


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