ぐっと、小枝を握る手に力を込める。
「やぁっ！」
　気合の声。
　もちろん舞には武道の経験などない。それどころか殴り合いのケンカだって、ほとんどしたことがない。
　けれど、そこに込められた意気は十分だ。
「…………」
　無音の存在が、小枝の一太刀を避ける。その動きが舞にははっきりとわかった。
　不可視の魔物は確かに脅威の存在だろう。しかし、今この場においては“不可視”ということはなんらアドバンテージにならない。
　一面に生え広がった麦穂が、魔物の位置を逐一舞に知らせてくれているのだ。
　舞の一撃を横跳びに避けた魔物はその勢いのまま麦畑を疾走。
「逃げる気なの!?　待てーっ！」
　逃がすわけにはいかない。彼との約束は、二人の遊び場を守ることだ。舞一人で倒す自信はなかった。彼に手伝って欲しかった。
　しかし、現実を見据えれば彼がいないことこそ、現実。
　なら今の舞に出来るのは、一人で戦うことだけ。彼が帰ってきてくれるその日まで、一人でこの遊び場を守らなければならない。魔物に完全に奪われないように。
　決意も強く、駆け出そうとした舞だが、お腹を襲う痛みに思わずよろめいてしまう。まともなケンカもしたことがない舞だけに、ダメージに対する耐性はけして高いとは言えない。もっとも舞ほどの年頃の少女が、今の舞の痛みを抱いて泣き出さない時点で随分と我慢強いのだろうが。
「行かなく……ちゃ……」
　片手を痛むお腹に当て、けれどもう片手はしっかりと小枝を握り締めたまま、そして瞳は強く前を見据えて、しっかりと舞は一歩を踏み出す。
　いつもこの麦畑を吹き抜けていた穏やかな風が、今はまったく吹いていない。それが舞にとっては幸運で、魔物にとっては不幸だった。風が吹いていたら魔物が進む時にたてる麦穂を掻き分ける音と、風が麦穂を揺らす音がごっちゃになってしまっただろうが、今風は吹いていない。
　舞自身がたてる音からいくらか離れた位置で麦穂が奏でる音が、魔物がいる場所を示していた。
　舞が歩いて二十歩ほどの位置。そこを最後に音がやんだ。依然として奇妙な重圧は感じるから、消えてしまったということはない。となると、魔物はそこで動きを止めたということなのだろう。
「どうしよう……？」
　足音を殺して近づくべきか。
　それとも一気に駆け寄るべきか。
　しばしの逡巡の後、舞は後者を選んだ。
　痛みはあるが、へこたれている暇はない。足音を殺すと言っても麦穂の敷き詰められたこの場所ではどう転んでも音をたてることになる。それなら魔物が逃げないうちに一気に近づいてしまった方がいいに決まっている。
　そう判断した幼い少女を誰が責められるだろうか。
　誰も責められる者などいない。
　判断の結果は、ただ現実が語る。
　三度、舞の身体は宙に舞った。
　舞が突撃してくるのを見越したような、狙いすましたタイミングでの反撃。自分の突進した勢い全てを上乗せされたダメージが、舞の小さな身体を撃ち抜いた。
「かっ……は……っ」
　意識が朦朧とし、視界は定まらない。霞んだ視界がぐるぐると回る。
　二重三重に映る星に加わった奇妙な揺らぎに気づけたのは、幸運としか言い様がなかった。あるいは、それを避けたのは舞に秘められた戦士としての本能だったのか。
　大きく身体を捻って、ごろごろと麦穂を薙ぎ倒しながら転がる。
　舞が一瞬前までいた地面が抉られ、麦穂と土が一緒に舞う。地面に残された三条の深い跡から、魔物が爪を備えているであろうことが察せられるが今の舞にそこまで確認する余裕はなかった。
　飛びかけた意識は、とにかく魔物から離れろと警鐘を乱打している。それに従って、ひたすらごろごろ、ごろごろ。芋虫のように地面を転がり続ける。
　ざざ、と麦穂を掻き分ける音が耳に届く。魔物は追撃の手を緩める気はないらしく、音は確実に舞に向かっていた。
「はっ、はっ」
　呼吸は相変わらず犬のように激しいが、なんとか体勢を立て直すことが出来たのは幸いだった。今のようにごろごろ転がっていては、疲れる割りに距離は稼げないし、長い間続けていたら普通に立つことも出来なくなっていただろう。
　なりふりかまっている場合ではない。舞は魔物に背を向けて走り出した。
「なにかっ……はぁっ、はぁっ、武器になるものを……っ！」
　背後で爆発的に膨れ上がる“なにか”の存在感。地面に身を投げ出すように横手に跳ぶ。
　次の瞬間、今さっきまで自分の居た地面が、上に生えた麦穂ほと抉りとられるのを見て、倒れこんだ思わず舞は蒼白になった。魔物は、まさしく魔物だった。暴力などといった次元ではない、明確な殺意ある攻撃。そんなものを目にしてそれでも舞が動けたのは、この遊び場を守ろうというまさに決死の覚悟があるからだった。
「……！」
　無理矢理な回避も悪いことばかりではなかった。目の前に小枝が転がっている。さっき手にしたそれよりも心持ち長い、しかも三叉の先端はそれなりに尖っていた。迷わずそれを拾い、立ち上がる。
　横手の魔物に目をやると、抉れた地面の周りの麦穂は倒れたままで動く気配がない。先程の魔物の攻撃は、魔物にとってもそれなりに自爆覚悟のものだったのか、それともさっきのように舞が近づいてくるのを待っているのか。
　前者であれば絶好の機会だが、もし後者だったら今度こそ命が危ない。
　危険な賭けに出るのはやめて、舞は魔物を見据えたままじりじりと後ろに下がった。勿論小枝はしっかりと先端を魔物に向けて構えてある。
　さっき魔物が動かなくなったのと同じくらいの距離が離れた。いまだ魔物が動く気配はないが、舞としても先程の轍を踏む気はない。魔物から目を離さないようにして、後退を続ける。
　と、その舞の背に硬い物が触れた。
　まさか魔物に回り込まれたのかと再び青くなる舞だったが、慌てて振り向いたその先にあるのは側に立つ学校のフェンス。
「なんだ、フェンスか……っ！」
　突然、今まで身じろぎもしなかった魔物が動き始めた。
　麦穂を薙ぎ倒しながら真っ直ぐに、舞の方へと向かってくる。
　後ろはフェンス、逃げ場は少ない。
「これが目的だったの!?」
　思わず悲鳴に似た叫びが口から漏れるが、それで事態が好転するはずもない。
　随分と長い時間をかけたと思った距離が、魔物の動きでは信じられないスピードで縮まっていく。
　再三舞の前に選択肢が突きつけられた。取れる行動は二つ。
　一つは刺し違えも覚悟で、突っ込んで来る魔物にカウンターの一撃を叩き込む。
　もう一つはすぐに移動して、もっと広い場所に向かう。
「……ううん。それじゃダメ！」
　迫る魔物を見据えながら、自分で出した案を却下する。
　前者は危険度が高すぎるし、後者は自分と魔物の速度を考えるとやはり危険だ、後ろから一方的に攻撃されかねない。
「それなら、手は一つ……」
　それも危険な手だ。カウンターを狙うのとさほど変わらないリスクがある。
「けど、やらなきゃ！」
　ハイリスクハイリターン。麦穂の布団に転がっておしゃべりしている時に、彼の口から出た言葉だ。
　賭けるものが大きいからこそ、見返りも大きい。
　彼の言葉と、自分の行動、二人の力を合わせてふたりの遊び場を守る。
　刹那の間に舞が選んだ三つ目の選択肢。選んだ次の瞬間には、すでに実行に移っていた。
「ふっ！」
　幸い麦穂のおかげで魔物の位置は掴めている。
　魔物が舞いに襲い掛かるその一瞬を狙って、舞は魔物の方へと跳んだ。ただし、魔物の真ん前に突っ込むのではなく、微妙に軸をずらして。
　舞の背後で魔物とフェンスが激突する大きな音が響く。
　舞が選んだ三つ目の選択肢、それはこの魔物をぎりぎりまで引き付けてから回避することだった。
　先程地面を転がる舞に突っ込んだこともあって、魔物はさほど賢くないのではないかという考えは大当たりだったらしい。考えなしに突進してきて見事にフェンスにぶつかって、自爆している。
　フェンス周辺に麦穂はないが、空間の妙な揺らぎで、魔物が確かにそこにいることがはっきりとわかった。
　目でも回しているのか、動く気配はまったくない。
　舞は、やや無理な避け方をしたものの、すでに自由に動けるようになっている。
　絶好の機会。
「てぇーいっ!!」
　気合一閃。全力で手にした小枝を突き込む。
　がぎぃと、手に伝わる嫌な感触。もちろん今まで生き物に何かを突き立てた経験なんてないけれど、それでもその感触は生き物と一線を画していると断言できるほど奇妙なものだった。
「消えちゃえ！」
　けれど、それに躊躇している時間はない。小枝を握り締めた右拳に左手を重ねて、強く強く、小枝を目の前の空間に、不可視の魔物に押し込んでいく。
「…………」
　叫びはない。苦悶の声もない。しかし確かに魔物が苦しんでいるのが舞には感じられた。
「ここは、あたしと祐一くんの遊び場なんだからっ！　あんたなんかに、渡さないんだからっ!!」
　ずきりと、鈍い痛みが舞の右腕を襲う。魔物の反撃だろうか、と一瞬思ったが、それでも優位に立っているのが舞の方だということに変わりはない。右腕一本でこの麦畑を守りきれるなら安いもの、明確に舞がそこまで考えたどうかはともかくとして、舞は小枝を握り締める両手の力を緩めることはなかった。
「消えてよーっ!!」
　じくじくと右腕が内側から腐るような不気味な感覚に襲われる。その気持ち悪さを吹き飛ばすように、舞は叫んだ。体重を全て小枝にかけようと、麦穂を踏み締める両足にさらに力を込めた途端、
「えっ？」
　ずるっと足元が滑った。
　そうとしか思えないような感覚に襲われ、舞はそのまま前につんのめった。ガシャリと硬質の音をたててフェンスに激突する。
「あうっ」
　思いもかけない事態に、強く顔から突っ込んでしまい、舞は思わず打った鼻を押さえてうずくまった。
　しばらく痛みに忘我していたが、今どういう状態だったか思い出し、すぐさま小枝を構えなおす。
　フェンスを背にして油断なく辺りを見据えた。
　びゅうと風が舞の背中まで伸びた髪を弄ぶ。
「……どこに……行ったの……？」
　油断はしない。小枝を構えたままじっと気配を探るが、ふとあることに気づいた。
「風が……吹いてる」
　さっきまでぴたりと止んでいた風が、今は吹きぬけている。彼と遊んだ時と同じように、魔物がたてる不自然な音ではなく心地よい麦穂のざわめきがそこには満ちていた。
「やった……の？」
　舞の疑問に答える声はない。そして、魔物がたてる音も。
「……違う。やっつけたわけじゃ……ないんだ」
　舞の囁きに応えるように、一瞬だけ風がやんだ。
　麦穂ががさりがさりと音をたてる。身を硬くする舞を嘲笑うかのように、舞と一定の距離を保ったまま麦穂が不自然に何ヶ所もゆらめき、現れた時と同じように唐突に消えた。また、風が吹きぬける。
「まだ、魔物はいる……なら、倒さなきゃ」
　彼と約束したのだ。魔物から、ふたりの遊び場を守ると。彼が帰ってくるまでひとりで戦うと。
「ここで遊ぶわけにはいかなくなっちゃった……」
　ここは、戦場だ。あの黄金色に輝く野原とは、同じ場所なのに、違うモノ。
「きっと夜に、アイツらは来るんだね」
　始めに受けた一撃を覚えている。太陽が沈んだ瞬間に、ヤツらはやってきた。
「じゃあ、今度は夜にまた来るよ」
　手にした小枝は頼りないけれど、舞が頼れるものはそれだけだから、しっかりと握り締める。他人から見れば可愛らしい剣かもしれないけれど、今の舞が持てる唯一の力だから。
　そうして舞は檻の扉を開く。
　それは、決意の檻。
　鍵は、舞の手元にない。
　鍵を開いてくれるのは、想いを馳せるあの人。
　さあ、扉を閉めて、最後にお別れを告げよう。彼と過ごした、輝いていたこの場所に、あの時間に、黄金の日々に。
「……さよなら、あたしたちの遊び場」


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