双故意〜ふたこい〜
「それでね、お姉ちゃん、祐一さんたら、私にキスした後、私の耳元でこう言ったんです。
『おまえの唇は、アイスより甘いな』……って！ そ、そんな事言われたから、私もう、
全身から力が抜けちゃって、あ、あとは………………きゃっ、恥ずかしいです〜」
ペッ、と唾を吐き捨て、妹が幸せに語る惚気話もまた軽く聞き捨てる少女。
「へー。ふーん」
美坂香里は、蒼白い闘気を放ちながら、延々と続く戯言に耐えていた。
かれこれ３０分。熱が入り始めると立ち止まって身振り手振りを交えて
話し始めるものだから、徒歩１５分の距離が３０分で半分にも達していない。
姉妹仲良く下校と言えば聞こえはいいが、実際互いの間にある会話は
栞の一方的な惚気話だけ。
笑顔で話を合わせてあげられるほど、香里は満たされた毎日は送っていなかった。
無限にも感じられるその時間、耐える為に歪み険の走る自分の顔。
通行人が何事かと振り返っている。
我慢だ。
今まで涙ばかり流してきた自分の妹が、ようやく辿り着いた幸せなのだ。
身を焦がす屈辱に真っ向から立ち向かった代償として、握り締めた拳からは
一条の血が伝っている。
その生き血を吸い、香里愛用のカイザーナックルも鈍い光を増していた。
側には誰もいないというのに、いるとすれば、自分の隣に最愛の妹がいるだけだと
いうのに、何故にそんな凶悪な武装を装備しているかは定かではない。
ついうっかり振り上げられてしまいそうな右腕を歯を食いしばって戒め、まだ
終わりそうにない話に辟易する香里。
最愛の妹、美坂栞。
絶対に助からないといわれた病を克服し、今は普通の少女として幸せな生活を送っている。
が、しかし、その病を克服できた最たる要因であろう恋人・相沢祐一の存在が、
栞を純真無垢な幼な子から一人前の女へと変貌させてしまった。
栞の心の支えになってくれた事は認める。栞に生きる希望を与えてくれたのは他の
誰でもない、祐一自身であろう。―――それでも。それでも、だ。
「それでそれで、お風呂場で……きゃっ、浮き輪まで使っちゃったんですよ〜」
「あんた、うちのお風呂で…………」
鞄を落としそうになり握り直す香里。浮き輪をどう使ったか何に使ったのか非常に
気になるところだが、それを聞くことは姉としてのプライドが許さない。
昨日香里が風呂に入ろうとした時、母親が苦笑いで「もう少ししてから入りなさい」
とやんわり止めた理由がようやく分かった。
まあ、こんな感じで、えらく余計なオプションも多々与えられていたのだ。口惜しいほど。
これだけは認めることも許容する事もできない。どうしても。
今までなら、Ｋｉｓｓという単語を耳にしただけで耳まで真っ赤に染め上げ、
『は、恥ずかしいです……』と５．１ｃｈな萌えボイスで呟いてくれたというのに、
今となっては自ら率先してそれ以上のことまで口にしているのだ。
祐一と付き合い始めてから、事再び学校に通い始めてからの栞の変化には目を
覆わんばかりだ。
「――――で、祐一さん……婦人警官の衣装を取り出して、『今度はこれを着てくれ』って
言うんです。恥ずかしかったんですけど祐一さんのために頑張って着たら、
『小学生の一日婦人警官とするみたいでドキドキする』って……。素敵に微笑んで
誉められたせいで、私も全力でドキドキしちゃいましたっ」
「誉めてないでしょ、それ」
微笑んだのもおそらく苦笑いだろう。
しかし、素面で数々の恥ずかしい台詞を言ってのける相沢祐一。只者ではない。
こんな中学生じみた女をつかまえてその数々の悪行（と書いてエロ）、逆に尊敬すらする。
「明日は秘書っぽいスーツで、って約束したんです〜」
「きっと『小学生の一日秘書とするみたいでドキドキする』って誉めてくれるわよー」
今まで熱に浮かされたように話し続けていた栞だが、棒読みで鸚鵡返しするだけの
香里にさすがに不信感を抱いたようだった。
「……私の話、もしかしてつまらなかったですか……？」
こんな話を延々とされて面白いとほざく奴がいたならば、その時こそ
凶器を携えた右腕を唸らせる時だが、最愛の妹にそんな台詞は死んでも言えない。
「そ、そんな事ないわ。面白いわよ。どんどん聞かせて」
しかし、そんな取ってつけたような言い訳、素直に受け取れるほどもう栞は
世の中を知らないわけではない。
「お姉ちゃん……もしかして、妬いてるんですか？」
「んなっ！！」
鋭い。洞察力まで進化しているとは。どこまで行く、美坂栞よ。
「お姉ちゃんも祐一さんの事、好きだとか……」
……が、結局は詰めの辺りで少し的を外していた。
「それはありえないわ。……まあ、ただ、独り身には少し刺激的な話ではあるわね」
逆鱗をじわじわと、しかし確実に刺激する、という意味ではあるが。
「お姉ちゃんも誰かと付き合えばいいじゃないですか。恋人ができるって、すごく
素敵なことなんですよっ。私、毎日が楽しくて楽しくて仕方ないです」
……あ、やばい、今、目の前が真っ白になって右腕がピクピクと――――。
「…………！！」
頭を支配するドス黒い邪念を払拭するように必死に身体を抱いて耐える香里。
おそらく血の繋がりが暴発しそうな破壊衝動を食い止めてくれたのだろう。
同じ事を言ったのが北川あたりだったのなら１秒で肉塊に変わっていただろうが。
努めて冷静に、出来うる限り笑顔で、香里は答えた。
「わ、私だっていつまでも一人でいる気はないわ。ただ、まあ、今までちょっとバタバタしてて、
今やっと落ち着いてきた所だから。これからよ、これから」
「ご、ごめんなさい、お姉ちゃん。そうですよね、今まで私の事で迷惑をかけて、彼氏さんなんて
作っている余裕、なかったんですよね…………」
この失われていない素直さが、憎しみに彩られた自分の心を幾ばくか浄化してくれた。
そう、自分に彼氏がいないのは、決してその高校生離れした風貌に男子が一歩引いてしまっていたからではない。
川澄ボイスを与えられるにはあまりにも見た目歳喰いすぎてるとか、秋子さんの方が年下だろ、
とか、髪の毛自分の意思で動かせるだろ、とか、そんな誹謗中傷など聞こえはしないのだ。
彼氏が出来ないのは妹への献身の結果。姉の鑑。そんな自分に優しい嘘が香里の心の支え。
「そ、そうね……まあ、今は幸せな栞を見ていられるだけで満足だから」
うまくまとめようと目一杯の笑顔で栞の肩を叩く香里。
しかし、半端に責任感のある妹は、自分のせいで寂しく独り身生活を送る姉が不憫で
仕方がなかったようだ。
「北川さんなんてどうですか？」
「……はい？」
「他に誰もいないんですから、北川さんとつきあっちゃえばいいじゃないですか。伏線もなく
いきなりサブキャラ同士がカップルになるなんて、収拾のつかなくなってきたアニメみたいで素敵です」
「素敵じゃないわよ！！」
「どうしてですか？ 北川さん、あれですごく尽くすタイプじゃないですか。お姉ちゃんのブルマ
あげたら、１ヶ月おつかいに行ってくれましたよ。一言も文句言わないで」
「人のブルマで男パシリにしてたのあんたはーーーーーーーーー！！」
「でも、困りました……。北川さんを拒絶するとなると、お姉ちゃんと付き合える男の人は
いなくなってしまいます……」
自分の未来がひどく限定されてしまっている事にショックを隠し切れない香里。
その一言が、香里の最後の迷いを断ち切った。
自分が立ち尽くしていることにも気付かず、栞はすたすたと歩いていってしまう。
遠目で再び栞が身振り手振りを交えて話し始めているのが見えた。隣にいない自分に向けて。
「……やっぱり、許せないっ…………！！」
「よおーう、美坂！ どうした、怖い顔して！ 栞ちゃんと一緒じゃないのか？」
タイミングがいいのか悪いのか、肌で危機感を感じ取る事の出来ない哀れな
贄は、後ろから陽気な挨拶を投げ掛けてきた。
「…………」
まるでお気に入りのおもちゃを見つけた子供のように。……そう言うにはいささか
無邪気さにかけるが、ともあれ、香里は淡々と指の骨を鳴らした。
「哀愁漂ってるぞ！ どうだ、寂しい独り身に終止符を打たないか！？ 俺で！
……な〜んて―――おぶべしっ」
重力に反旗を翻した妖怪アンテナを揺らしけらけらと笑う北川の頬に、空気の壁を
貫いた香里の拳が突き刺さった。えぐりこむようにアッパーへと変化する。
「ちょ……待……」
空高く舞い上がり、勢いよく落下してきた所を再び魔拳が穿つ。
死のリフティング。
古式豊かな蹴鞠のように北川は何度も何度も舞い上がった。
香里を前に舞い上がった代償だというのなら、何と皮肉な。
「み、みさ……助け……止……」
死んだ方がマシというような痛みは如何様なものであろうか。
「やめて死……痛……熱……いや寒…………寒……暗…………」
北川潤は、今、心の底から死を渇望しながら、死なせてもらえなかった。
「相沢君を誘惑しなさい」
「…………え？」
次の日の放課後、名雪はいちごの匂いがする方へとふらふら歩いていくと、
力士のような力で羽交い絞めにしてきた香里に拉致された。
今は百花屋で、無事お目当ての新作イチゴサンデーアルティメットエディションを
口に運んでいる。
しかし、奢りと交換条件で香里がつきつけてきた条件は、まるで交換レートが対等ではない
無茶苦茶なものだった。
珍しく栞と一緒に帰らないかと思えば、何をしているのか。
「あなたのその大人への階段を上り始めた少女特有の絶妙な魅力を持った身体を武器に、
相沢君を誘惑して。そして、あなたの虜にするのよ！！」
「うーん……でも祐一、栞ちゃんとつきあってるんだよ？」
「……嫌じゃないの？」
捲くし立てたのは自分とはいえ、このリアクションは予想外だった。
「私、結構前から祐一の事誘惑してたけど、駄目だったよ？ 朝、わざと起きないで狸寝入りして、
起こしにきた祐一相手に胸が見える見えないのギリギリで攻めてみたり、パジャマと間違えて
うっかり裸エプロンで寝ちゃったっていうダイナミックなイベントも発生させてみたけど、
やっぱり駄目だったもん」
「そ、そう……頑張ったのね」
「お母さんも、ついうっかりを装って祐一が入ってる時にお風呂に入ったりしたけど、
後一歩のところで駄目だったみたいだよ」
「…………」
破局を望んでいるとはいえ、自分の妹の彼氏がこんな母娘と同居している事がだんだん
恐ろしくなってきた。
「もう祐一、栞ちゃんに夢中なんだね……。私達じゃ、きっとどんなに頑張っても
祐一を振り向かせられないよ」
「そこを何とかしなさいよ！ あなた従兄妹でしょう！？」
恋を諦めようとしている親友への檄も含め、香里がテーブルを叩いて抗議する。
「……香里、そんなに栞ちゃんの事が心配なの？」
「あの子の事ははっきり言って今さらどうでもいいわ……！ 私のあげたストールに
幸せな血つけるようなあの子の事はどうでもいいの！！
『私は、嬉しかったんですから…』とかにっこり涙目で言ってるのが、目に浮かぶのよ！！」
確かに祐一は、健気さにとみに弱い。
裸ストールという究極必殺を放たれては抗う術もなかったであろう。
名雪の脳内に、裸でけろぴーだけ抱くというスキルが追加された。なんて、健気。
「健気で甘え上手で大人しくて子供っぽくて……何で男はあの子みたいな子をちやほやするのよ！
クラスの男子が、栞が私の妹だって知った時に『え！？ 遺伝子操作！？』みたいな目で
見た時の！ あの日の事を！！ 私は今でも根に持ってるわよ！？」
「そ、そんな事があったんだ……」
「あの子には強がったけど、私だって彼氏欲しいわよ！ 多少受け身かもしれないけど、
努力だってしてるわ！ でも、寿命削れるくらい必死にフェロモン出しまくってるのに、誰も
寄ってきてくれないのよ！！」
「…………」
男子は影で『美坂の側にいると何故か自分の寿命が縮んでいっているようで恐い』
と言っているらしい、という情報を以前極秘裏に入手した名雪だが、こういう事はえてして
本人には盲目な物なのか。命を削った結果にしては、あまりにも報われない。
ところで、これだけ叫び声を上げているというのに、何故に文句の一つも言われないのか。
ふと名雪が店内を見回すと、涙を堪えて頷く女性が何人かいた。
共感した部分は不明だが、世の女性に支持を得た事は確かなようだ。
「じゃあ香里も直接祐一を誘惑してみればいいのに……。栞ちゃんにしょっくを与えたいなら、
フリだけでも香里が祐一を取っちゃう方が効果あると思うよ」
笑顔で恐ろしい事を口走る名雪。
嫌な事ではないが、自分に頼むより香里自身が行動すべきなのではないだろうか、と。
しかし、ストローで軽くグラスの中の氷を弾くと、憂いを帯びた表情で香里は語り始めた。
「確かに、私が全身全霊で誘惑すれば相沢君は瞬く間に私の虜になり、廃人になるまで
私を求め続けるでしょう。しかし、それは許されないのよ。清純派アイドルとして輝いている
未来の私がすぐそこで手招きしているっていうのに、妹の彼氏を寝取っただなんて
スキャンダラスな過去を持つわけにはいかないの」
「…………」
香里の後ろでうっすらと手招きしているのはタキシードを着て鎌を持ったガイコツの
お兄さんのように見えるが、見なかった事にして名雪は目の前のイチゴサンデーの打倒を
再開した。アルティメットだけあって通常の１１倍は手強く、そして美味しい。
「知っているでしょう、名雪。私はアイドルになりたいの。っていうかもうなりかけてるの。
スキャンダルはアイドルの大敵。理不尽な怒りに燃えていても、これだけは徹底しなくてはね」
「……デビューする前からそんなに心配しなくても……」
「世のアイドルは過去の清算が甘いばかりに泣きを見ているのよ！！」
そう、香里の夢はアイドルになること。そして数年トップアイドルとしてお茶の間を
賑わせた後、脱アイドル宣言で女優に転身、類まれなる美貌と演技力を併せ持つ
稀代の名女優として磐石の地位を築くのだ。
全ては輝ける未来のため。そのために演劇に身を投じたのだから。
少女の儚さと熟した女性の妖艶さを併せ持つ、新世紀の女優。
しかし、学生時代は愛する妹のために人生を犠牲にしたよき姉だった。
すべてを妹のために。そのために、自分の心さえも犠牲にしてきた。
いずれ自分がスターダムにのし上がり、自分の歩んできた人生の特集番組を
組まれた暁には、号泣必至の過去として切々と語られる事だろう。
「私、今まで寂しかった……。強くなきゃいけなかったから！ 弱くちゃ駄目だったから!
でも、誰かに寄りかかって泣きたい時もあった……。普通の女の子だから！ やっぱり弱いから！
今は大丈夫だよ！ みんなが！ みんなが私の事、支えてくれるからっ！！」
ワアアアアアアアァァァァァァァァ……………………
かーおーりん
かーおーりん
かーおーりん
かーおーりん
かーおーりん
あーやーこ
会場を埋め尽くした２０万のファンから、溢れんばかりのかおりんコール。
「アイドルに必要不可欠な切なく健気な過去。涙を堪えて強がっていても、
誰かの胸に寄りかかって泣きたい時もあった……。そんな美談は、既に相沢君で
製作済みよ」
「あ、あれ確信犯だったの……！？」
特集番組。
自分の過去が、切々と語られる―――――。
『私に、妹はいないわ』
弱さと言えば、それまでかもしれない。
しかしそれは、覆すことの出来ない現実と必死に戦ってきた、鬩ぎあってきた
栞の姉だからこそつける嘘。
他の誰でもない、自分自身を一番傷つける残酷な嘘。
あの子、何のために生まれてきたの――――？
悲痛な叫びが、妹が心を開いた少年の胸に消えていく。
時に、美坂香里、１６歳。戦後まもなくの事であった。
「そうですか、では美坂さんは、あえて妹さんのことを」
「ええ、私は不出来な姉でした…。小さな妹が病魔と戦い続けている
その時に、私は一人現実から逃げていたんですから」
「それも、あなたの優しさが選択させたことだったのでしょう」
「そうして妹の栞さんを拒絶していた美坂さんですが、友達の計らいで
転機が訪れます。次は、切ない心の吐露です」
結局、栞と何一つ会話をしないまま喫茶店を出る香里。
友人の誰もが諦めの色を隠せなかったその時、香里は、振り向いてこう言ったのだった。
まるで開こうとしなかった、閉ざされた心の鍵を開けて。
『だって、栞は……あたしの妹なんだから………』
バックは鮮やかなオレンジ色。
その瞬間だけ時が止まったように、世界が香里一人の言葉で覆われていく。
やっと、やっと打ち明けられることの出来た本心。
妹の瞳に、いつしか失ってしまった、心からの笑顔を取り戻した
自分が……涙で少し歪んで映っていた―――――。
ああ、司会者が号泣する様が見える。……まあまあ、とりあえずハンカチを。トクミチュさん。
「ふふふふふふふふふふふ、しかし、幸せは長くは続かなかったのです、ふふふふふ」
「妄想だけならハリウッド級だよ……」
イチゴサンデーＵＥの打倒が佳境に入った今、名雪の発言もなかなか命知らずになってくる。
親友同士二人が取り留めのない雑談に華を咲かせていると、窓の向こうに、楽しげに歩いている
祐一と栞の姿を発見した。
「わ、腕組んでるよ」
「っ……昼間っからいちゃいちゃいちゃいちゃ……歩く公害どもが！！」
「腕組んで歩いてる人が公害なら、日本はもうバイオハザード起こしてるよ……」
ガラス越しに見える幸せ。健気に微笑む名雪の横顔が痛い。
……でも、香里自身の心はさらに痛かった。というか激痛だった。
「名雪！ イベント発生よ！！ 過去の女を装って、あの二人に割り込みなさい！！」
司令官よろしくビシリと名雪にミッションを下す香里。
もちろん当人に一欠片のやる気もない。
「もうみじめになるからいいよぉ」
しかし、香里がメニューをぱたぱたと振ると、途端に名雪は青ざめた。
「やります……」
イチゴサンデーアルティメットエディション、税抜き１９９００円。
家庭用ゲーム機がことごとくプライスダウンしていくこのご時世に、何て世知辛い。
「そしたら美汐ちゃん、小学生に席譲られて、シルバーシートに座っちゃったんですよ〜」
「はは、天野らしいな」
「……待って！」
恋人同士の楽しい語らいをしながら歩く二人の前に、敢然と立ち塞がる名雪。
服装はいつものおとなしめの物ではなく、香里のセレクトしたきわどいミニスカート。
ごちゃごちゃしたアクセサリーに、香里愛用の免税店で買ったブランド物。
さらに初挑戦のツインテールにしている。が、しかしこれで変装とは……
「栞、知り合いか？」
「いえ……あの、どちら様ですか？」
…………いえたようだ。恐るべし、ツインテール。
「祐一君…やっと会えたね……」
「はい？」
「忘れちゃったの？ ７年前、この街で祐一君と愛を育んだ、ユキナだよっ！」
「ええええええええええええっ！？」
「う……ううう！ ７年前！？」
自らの鬼門である７年前の記憶を引き合いに出され、疑うより先に罪悪感に苛まされる祐一。
そう言われてしまうと、何でも本当に聞こえてしまう。まだ、ほとんど曖昧だし。
「ゆ、祐一さん、まだ私に教えてない過去があったんですかっ！！」
唯一過去の思い出を持たない栞が金切り声を上げて祐一の胸倉を掴みあげる。
自分以外の４人の幼女（一部獣っ娘）と楽しい思い出を紡いでいただけでは飽き足らず、
まだ隠された過去があったとは！
「お、俺も今日今初めて知ったんだ……！！ っていうか、実際まだ曖昧なんだ！！」
「そ、そんな……やっぱり忘れちゃってたんだね……。７年前、雪の降り積もる
公園の芝生で、私の全てをもらってくれた祐一君が……！！」
「祐一さーーーーーーーーーーーーーーん！！！」
「そ、それは嘘だろ！ っていうかどこのパワフルな小学生だそりゃ！！」
「その証拠に私、知ってるよ！ 祐一君、早いもん！
マウス数回クリックするくらいの時間で終わっちゃうよね！？」
「うおおおおおおおおおおおお、人が気にしてる事をおおおおおおおおお！！！
……くっ、どうやら、本当のようだな……」
苦悩する祐一の前に、（確かに早いですー、と心の中で思いながら）庇うように
立ちはだかる栞。
「ま、待ってください、過去の女さん！」
「ユキナだよ」
「ユキナさん、あなたが確かに昔祐一さんと深い仲だったのは分かりました！
でもそれは、７年前の、あなたがろりだった頃の話です！ 今、祐一さんは私と
幸せに暮らしているんです！ お願いですから、祐一さんをもうこれ以上苦しめないで
ください！！」
真剣に訴えてくる栞に心を痛めながらも、名雪は沈痛な面持ちで続けた。
「あなたは今、ろりっぽいから祐一が側にいてくれるけど……大人の女性になったら、
私みたいに捨てられるよ。祐一は、ある日突然いなくなっちゃう人なの！！
私もそうやって祐一にやり逃げされて、７年間必死に探していたんだよ！！
あなたに分かる！？ やり逃げされちゃった小学生の気持ち！！」
「う……ううう」
心当たりが多々あるのか、胸を掻き抱いてもがき苦しむ祐一。
「そうかもしれません……」
微かに震える拳。しかし、再び顔を上げた時、その時、栞の顔にいささかの迷いもなかった。
「確かに祐一さんは、真摯な気持ちで求めてくれるとみせかけて割とその場のノリで最後の
一線を越えちゃう人ですし、幼女大好きだと言われれば強く頷けてしまえるような人ですし、
マウスクリック数回で終わっちゃって、１８禁！？ 誇大広告だ！！ と言われるくらい
早いですけど、それでも今、祐一さんは私だけを愛してくれているんです！！
家で従兄妹や叔母に誘惑されたり、色気づいた獣っ娘にエロ小説朗読させられたり、
ベランダから侵入してきたうぐぅに誘惑されたり、学校でお姉様二人に誘惑されたり！
それでも祐一さんは、それらに耐えて私だけを見てくれているんです！」
純粋な心が真正面から突き刺さる。
名雪は、子供を諭すように、そっと栞に語りかけた。
「栞ちゃん……。無理だよ、あなたは美坂香里の妹なの。あと１年もすればそのおかっぱも
徐々にウェイビーし始めて、くりくり可愛い瞳もガンつけてるみたいなツリ目に
なっちゃうんだよ。そうなったら、ろり好きな祐一君に捨てられちゃうよ……」
「俺、何かしたか？」
言われたい放題の祐一の目にうっすらと涙が浮かぶ。
「いいえ！ 私、お姉ちゃんみたいには成長しません！ 絶対！ ああなりそうだったら、
神さまに反逆してでも自分の遺伝子に手を加えます！！」
整形どころか遺伝子にまで手を加えなくては断ち切れぬとは、恐るべし、美坂の血筋。
「んーーーーーーーーーーーーーーっだとグオラアアアアアアアアァァァァァァァァァァァ！！」
百花屋の窓ガラスを粉々に叩き割って、静観していた香里が突っ込んでくる。
「うおわっ！？」
「お、お姉ちゃん！！」
「私の事こんな風に思ってた妹を大事に思ってた私が馬鹿だったわ……。名雪、もういいわよ。
栞は……せめて、私の手で！」
「えええっ、ユキナさんは、名雪さんだったんですか！？
「そうか、どうりで香里の事を知ってるわけだぜ！ 騙したな！！」
探偵漫画の解決編のようにオーバーリアクションで驚く二人。
そんな二人を余所に、香里は両拳にカイザーナックルを装着し、準備運動とばかりに通行人を次々と殴り倒していく。
しかし、そんな自暴自棄になった親友を、名雪が後ろから抱きついて止めた。
「やめて、香里！！」
「な、名雪……」
「アイドルは過去に気を使わなくちゃいけないんでしょ！？ 妹さんの幸せを
奪うなんて、絶対に許されない事だよ！ ぶぶかとかふらっしゅの格好のネタだよ！」
その前にホラーガンアクションゲームのように、累々と積み上げられた通行人の屍骸は
大丈夫なのだろうか。
「…………っ……でも……」
「もう、この二人の間には誰も入れないよ……。栞ちゃんは、祐一の性癖全てを受け止めて
祐一を愛してるんだよ！？ いずれ訪れる自分の身体の変化にも逃げずに立ち向かう
つもりなんだよ！ 香里、香里にはそんな覚悟があるの！？ 香里の夢って、一時の
嫉妬に負けちゃうようなものだったの！？」
「う…………」
いまいち納得いかないが、普段温厚な名雪の必死の剣幕に押され、何も言えない香里。
「温かく見守ってあげようよ……。私たち、これじゃ悪者だよ……」
「だけど、私やっぱり寂しい……！ 惚気話を聞かされ続ける毎日はもう嫌なの！」
「お、お姉ちゃん……？ もしかして、これは……私がお姉ちゃんを傷つけたせいで……」
ようやく香里の乱心のわけに気付いたのか、愕然とする栞。
祐一はというと、過去の出来事が嘘であった事に、必要以上に、不必要に安堵していた。
「お姉ちゃん……私……」
「いいのよ。栞。お姉ちゃんが馬鹿だったわ。あなたの幸せを妬むなんて……ごめんね。
これからは、独り寂しく生きていくわ……」
涙を拭う香里。しかし、天使のような優しげな声が響いた。
「大丈夫。香里は寂しくないよ。いつまでも、私が一緒にいるから……」
慈愛に満ちた微笑みで、名雪が両腕を広げる。
「な……ゆ……き……」
「私は香里の事大好きだよ。ウェイビーな髪も、ガンつけてるみたいなツリ目も、
全部大好きだよ！？」
フラフラと２、３歩歩いた後……導かれるようにその胸に飛び込む香里。
両腕がドス黒い返り血に染まっている以外は、甘え盛りの子供のように儚げだった。
「名雪……名雪ぃぃぃっ！！！ ……ごめんね……あなたの愛に気付かないで、
自分勝手な嫉妬に狂ったりして！！」
「いいんだよ、香里。もう……離さないおー」
「名雪……っ、ああっ、名雪っ……ずっとこうしたかったっ…………」
「香里ぃっ…………」
「……うわ……」
「おーい…………」
呆然とする栞と祐一を余所に、二人はどんどん激しく求め合っていく。
さすがに周囲の視線が気になったのか、抱き合ったまま百花屋のトイレに入っていったが、
中で展開されている世界は恐ろしくて想像出来ない。
「あはは〜、お仲間さんですね〜、舞」
「……女同士の友情は、いつしか必ず愛に変わるもの」
ギャラリーの中には理解を示してくれる者もたくさんいたが。
「名雪……私だけの名雪……もう離さないっ…………」
「辛かったよね、香里……どこでもかしこでも北川君とくっつけられて……！
これからは、もう、私だけだよっ…………！ そして、私の中の、祐一とお母さんを消して……！！
二度と叶わない恋を消してっ！！」
今、自分への恋心を完全に消し去ろうとする名雪の言葉が微かに聞こえて切なくなったが、
それ以上に何か恐い事を聞いてしまった気がして戦慄く祐一。
……あの母娘、やっぱり…………。
「香里っ……！！」
「名雪……名雪たんはぁはぁ」
「お前、あの姉と縁切ったほうがいいぞ」
人の事を言えない従兄妹を持ちながら、祐一がしれっと口走る。が。
「姉？ 私に、お姉ちゃんなんていないですー」
「……そうか」
切ない嘘が夕焼け空に消えていく。
美坂栞、１６歳。戦後まもなくの事であった。
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