おおロミオ。貴方はどうしてロミオなの―――。
ジュリエット
短かった夏が、もう終わろうとしていた。
蝉のオーケストラが鈴虫の奏でる小さな合唱へと移り変わっていく。季節の移り変わり。少し寂しい。あれほど鬱陶しかった蝉の声もなくなった途端に物足りない気分に陥るのだから、人は身勝手な生き物である。
けど、そんな夏の終わりもこの場所には届かない。黒板いっぱいに書かれた文字列をノートに書き写しながら、斉藤は小さく溜息を吐く。チャイムが鳴り、講師が五分の延長を宣言した。
五分経った。しかし、それでも講師は延々と入試に使われ易い英文法を語っている。そこで、もう一度溜息を漏らすと、斉藤は赤インクでカラフルに染まったテキストを閉じた。そして、机の上に散在した筆記用具を鞄の中に収めていく。見れば、きちんと授業を受けているのは前の方にいるごく一部。彼の回りの受講生たちも同じように、帰り支度を始めていた。
講師が時計を見る。そして、受験が如何に大変であり、自分の限界を超えるような努力をしなければならないというようなことを熱弁し、教卓を離れた。途端に教室が騒がしくなる。
回りの人間が延びた事への不満を漏らしている中で、斉藤はゆっくりと席を立った。そして、教室を離れ、まだ通い慣れていない予備校を後にする。
虫の声を聞きながら、斉藤は空を見上げた。
目に飛び込んできたのは満天の星空。
肩から力が抜け、夜の肌寒さに強張らせていた表情をそっと緩めた。
―――そう言えば、あの時もこんな星空だったな。
呟く。そして想いを馳せる。未だ色褪せない夏の思い出。あの子と出会ったあの夏の夜。
そう。あの日もこんな星空だった。流れていく星とそれを見上げる君の姿を、綺麗だと思った。
そして、斉藤はゆっくりとポケットに手を伸ばす。中には最近買ったばかりの携帯電話。
登録数はまだまだ少ない。だからではないが、その名前はすぐに画面に表示された。
ボタンを押す。何度かコール音。そして、それはすぐに途絶えた。
「もしもし―――」
君の瞳にシャイニング延髄斬り
―― 一回表 ――
行くとも、ただしそんな美人が見たいからじゃない。
僕のあの女（ひと）の素晴らしさ、それを楽しむ為だがね―――。
ロミオ
その光景に、斉藤は呆れたように大きく溜息を吐いた。いや寧ろ呆れた。こんな事を考えた奴にも、こんな阿呆な事に付き合ってる自分にも。
黒板に描かれた無数の文字列。その前で熱弁をふるう人間。それを聞く人間は無気力に机の上で気だるげな様相を呈している。ここまでは最近通い始めた詰らない予備校のものと同じ。
但し、内容に決定的な差があった。黒板に描かれているのは英文法や数式ではないし、熱弁をふるっている人間も講師ではない。
という訳で、黒板にタクトを叩き付けながら、北川は叫ぶように声を張り上げた。
「だからっ。男女の差は２３対の染色体の内のたった一つで決まっちまうんだ。しかし、だとしたら何で男と女はこうまで違う。俺は言いたい！ 俺らと奴らは根本的なレベルから違うんだっ」
だから染色体は根本だろ。そんなツッコミが斉藤の頭の中に過る。
しかし、それを声に出す間もなく、北川の奇声に同調するものが現れた。
「よく言った！ 君の言う通りだ！」
一人でスタンディング・オベイション。そうだろ、と北川もタクトでバシバシ黒板を叩く。
手を叩いたのは久瀬だった。過去には祐一と一悶着あったらしいが、三年生で同じクラスになった今ではこうして馬鹿の仲間入りを果たしていた。多分、似た者同士だったのだろう。えてして、似たタイプの人間は激しく敵対するか、もしくはとんでもなく仲良くなるかのどっちかである。
「僕も常々そう思っていた。女性はわからん。さっぱりわからん。同じ種であることが信じられん。ヒトという種族で括ってはいけない生命体だ」
「おお。流石は久瀬だ。伊達に生徒会長やってる訳じゃないな」
「当然だろう。北川君、君もよくわかっている。是非とも我が生徒会に来てくれないか？ 共に革命を起こそう」
たった４人しかいない教室が、なにやら同意し合ってる阿呆二人の熱き魂で燃え上がる。
二人ががっちりと手を合わせたのを横目で見ながら、斉藤は一つ溜息をついた。溜息が重なる。振り返ると、露骨にめんどくさそうな表情をして椅子に凭れていた祐一と目が合った。
「あのさ、相沢。久瀬って何かあったの？」
「んー。多分、佐祐理さんに振られたんじゃないか？ 一応、入れ知恵はしといたんだけど、様子見るからにはダメだったっぽいな」
「あーなるほど」
「ま、ここは哀れな童貞二人に、この経験者様が一つ語ってやろうかねぇ」
そう言うと相沢は立ち上がり、未だに握手して涙まで流し合っている二人の方へと歩いていった。
そして訊ねる。「で、何があったんだ？」と、にこやかな笑顔で。
祐一の言葉を聞くと、二人は一瞬顔を見合わせる。そして、揃って前に手を出した。ＮＯ。お断りのジェスチャー。
「貴様がホットドック読んで得たような知識なんざ当てにならん。この似非経験者めが」
「まったくだ。従兄という立場を利用して、水瀬さんを篭絡しおって。人として何か間違ってないか相沢君」
ピクリと祐一が揺らいだ。ちらりと斉藤の方に顔を向ける。
笑顔。左眉の上の方に浮き出た血管あり。覗いた犬歯が妙に尖って見えた。
「殺していいか？」のアイコンタクト。ふっと息を漏らして、斉藤はそれに返す。「理由ぐらい聞きなよ」
渋々同意したらしい。祐一は握った拳を脇にあった机に置いた。ミシミシと嫌な音を立てる。
「弁解を聞こうか」
「僕から言おう」
にこやかな笑顔で殺気を放っている祐一に、久瀬が一歩前に出て答える。
「君は、僕が相談した時、こう言ったな。『恋愛相談なんかしてみろよ』と」
「ああ。告白の台詞まで数パターン用意したマニュアルまで渡してやったぞ。えらくバカ丁寧な奴を」
「恋愛相談を彼女に持ち掛けたよ。君も彼女の性格は知っているだろう。熱心に聞いてくれたさ。君が用意したパターンにも当てはまった」
「やればできるじゃないか。じゃあ、俺に感謝こそすれ、怒る理由なんかないんじゃないか？」
「……言……訳な……ろうが」
「ん？」
下を見ながら小声で言う久瀬の言葉が聞き取れなかったのか、祐一が聞き返す。久瀬はゆっくりとギリッと歯軋りすると、烈火の如く叫んだ。
「言える訳ないだろうっ！ あんな言葉、日本男児として相応しくない！ 思いきり恥ずかしいじゃないかっ」
「逆ギレすんじゃねえ！ というか、完全に俺のせいじゃないだろうがっ」
「いや、君のせいだ。あのような台詞を僕に言わせようとした時点で罪だ。慰謝料を要求する」
「誰が払うかボケェ！」
ゼイゼイと息を切らす。互いに睨み合い、硬直した空間が生まれた。
だが、それはあっさり破られる。北川が押し退けるように久瀬の前に立った。
「次は俺だな」
そう言って、祐一が息を整えるのを待つ。しばし、呼吸の音だけが閑散とした教室内に流れて、やがて弱まっていく。
そして静寂。祐一が再び手を机に戻し、待ってましたと北川が口を開いた。
「お前、俺に言ったよな。『当たって砕けろ』って」
「ああ。確かに言ったな。お前の場合、そんなに仲も悪くないんだし、それでいけるだろ」
「言われた通り、美坂にタックルしたぞ！ 殴られた！」
「当たり前だ！」
「てめえの言う通りにしたらホントに砕けたじゃねえかコノヤロウ」
「当たるの意味違いだ。小学校から出直してきやがれ」
「あんだとコルァ」
「やるかボケェ」
「慰謝料は顧問弁護士の方に話をつけておく。君はその額を払うだけでいい」
「だから払うかって言ってるんだ！！ 冷静に大ボケしてんじゃねえっ」
睨み合い。俄かに混沌としてきた放課後の教室内。三者三様の魂の叫びが反響して空気を震わせる。
なんというか、終わりそうになかった。まだ何もしていないのに酷く疲れた様子で斉藤は溜息をつく。
意味のない口論。いや、そもそも意味なんかを求める方がおかしいのだろうけど、それでも斉藤は訪れる無常感を誤魔化すように窓の外へと顔を向けた。
夕焼けが綺麗だった。運動場では野球部が声を出している。その掛け声と共に烏が一羽、カァと鳴いた。
なんだか無性に泣きたくなったそんなとある放課後の出来事。
放課後の教室内に乱れた吐息が木魂する。
などと言うと、少しはこの空間もマシになるかもしれないな、と斉藤は思った。
「ハァハァ……やるな」
「……流石は俺の親友……」
「フゥフゥ……相沢君も……我が生徒会に……」
息を弾ませていたのは勿論この三人。純度１００％の漢たち。乱れた呼吸の猛々しさがいい事なんて一つもないことを物語る。
と、ここで斉藤は一つ咳払いをした。どうやら、いつのまにやら思考がこの三人に毒されていたようだ。頭を切り替えて、ようやく視線を窓から三人へと移した。
「あのさ、それで今日は一体何で呼び出したの？」
本題。そう、わざわざ受験生としての貴重な時間を潰してまで、放課後に居残ったのは理由があった。
視線が北川に集まる。その先で北川はふふんと得意げに鼻を鳴らした。
「よくぞ聞いてくれましたってところだな」
北川のその言葉に次々とツッコミの声が上がる。「ホントにそうだよ」とか「前振りが長すぎる」とか「つか、もしかして忘れてたんじゃないだろうな」とか。
そんな皆の声を見事なくらいに無視して、北川は堂々と、というか寧ろ激しく反り返して珍妙なポーズを取りながら続けた。
「俺たちが女のことがわからんのはどうしてか。俺たちは全体的に女慣れしてない。それが原因だと思うんだ」
「いや、待て。だから、俺には名雪が……」
「だからこそ、俺たちには女の子と触れ合う機会が必要だと思う。大まかに概念さえわかれば、俺たちが求める本丸に到達するのは容易。寧ろ、向こうから突撃ラブハート！」
「てか、人の話聞けよっ」
祐一が反論するが、まったくもって聞く耳持たない北川。久瀬もそんな祐一への接し方に納得しているのか、北川の言葉をメモりながら熱心に聞き入っている。
かく言う斉藤も、なんだかんだで真面目に話している北川の言葉に耳を傾けていた。北川の言うことは的を得ていると思う。そして、もしも上手くいったら、こうしてフラれる度に自分が借り出される事はなくなるだろう。それは大変よい。素晴らしい。ビバッ。
とか、淡い希望が、幸せ受験ライフが斉藤の頭の中に流れた時、北川が声を張り上げた。
「それでだ。そんな俺たちにとって有意義なイベントを用意することに成功した」
皆が顔を見合わせる。そして、ゆっくりと表情を曇らせていく。
というか、なんかこういう事は前にもあったような気がした。そして、その度に巻き込まれてきたような気がした。ついでに、その度に酷い目にあってる気もする。
というか、一番酷い目にあってるのは北川なのに、なんでこんなに自信を持っていらん事できるんだろう、と斉藤は思った。
そして、どうやら同じ事を思ったらしい。祐一がすっと手を上げる。北川はそれを指名した。
「あのな、頼むからいらんことだけは……」
「さあ、心して聞け。俺の素敵プランを！」
「指名しといて無視かよっ。つか、もう殺す！」
そう告げると、殺意の波動に満ちた祐一が北川へと歩み寄る。
その祐一の姿を流石にヤバいと思った久瀬と斉藤は止めようと必死で手にしがみ付いた。
「あ、相沢君、校内で問題を起こすのだけは止めたまえっ。僕の輝かしい功績に傷がつく」
「そ、そうだよ、相沢。暴力は……って、久瀬！ 言ってることダメすぎっ」
「離せやコラァ。こいつは一発殴んないとわかんないんだよっ。これ以上、俺と名雪の幸せ家族計画に土足で侵入されてたまるかぁ！ 待ってろよ名雪。俺はこいつを殺して幸せを取り戻すっ」
狂気に迸らせながら、前進を続ける祐一。その力はいつもの非ではない。火事場のバカ力。祐一自身のも含めて三人分の体重を引き摺りながら、それでも歩みを止めることはない。
思い切り拳を振り上げた祐一を見て、斉藤は思わず声を上げた。「北川、逃げろっ」
しかし、北川は動かなかった。その表情からは余裕さえ見て取れる。ただ不敵に笑って、祐一が近づいてくるのを待っていた。
祐一が渾身の力で拳を振り下ろした。久瀬が校内暴力問題を揉み消すのにどんだけ時間と金とコネがいるかを語った。斉藤が次に起こるであろう光景を想像して顔を背けた。
何も起こらなかった。
いや、何も起こらなかったというのは違うかもしれない。祐一に殴られる瞬間に、北川は何かを囁き、その言葉を前にして祐一は止まった。
硬直する。静止する。全てが停止した空間の中で流れるのは北川の小さな呟きのみ。ぼそぼそと、祐一の耳に優しく囁きかける。その言葉を反芻するように、呟くような祐一の復唱。そして、その詠唱のような呟きはゆっくりと辺りを包み、蚊帳の外にいた二人の耳にも届いた。
曰く――。
「……合コン……女子高……カラオケ……密着……仲良くなる二人……そこはだめ……」
もう、真剣にダメだと思った。せめて相沢には最後まで味方でいて欲しかった。
そんな斉藤のささやかな想いも虚しく、祐一は北川の手をがっちりと掴む。
「俺はお前を信じてたぞ」
「わかってくれたか、親友」
爽やかな笑顔と共に肩を叩き合う。呆れた顔でその姿を見つめる斉藤。
そして、斉藤は一応訊ねた。なんとなく、どういう話なのかはわかってはいたが、それでも聞かない訳にはいかなかった。多分、いや間違いなく自分も巻き込まれることになるのだから。
「ちなみに、どういう話？」
「いや、実はこの前中学時代の知り合いに会ったんだ。そいつが……ほら、あっちに女子高あるだろ。あそこに通ってるんで合コンしようぜって誘ったらＯＫだった」
「いや、流石は北川だ。俺はお前についていくぜ」
はっはっはー。と笑い合う。正直、こいつらは本当にダメだと斉藤は思った。
だから、斉藤はせめてもの味方にと隣りで佇む生徒会長に顔を向けたが、彼は彼で忙しそうになんかぶつくさ呟いていた。
「……うむ、合コンなどという破廉恥な行為を見逃しては僕の沽券に関わる。ここは断固監視せねば……」
久瀬も行く気まんまんだった。もはや、止める術はないのだろうか。
しかし、何が何でも止めなければならなかった。斉藤の中の何かがそう告げていた。彼らを止めなければならない。彼らを止めなければ水瀬さんが、彼女の笑顔が消える。そんな姿は見たくない。良心がそれを許さない。
だから彼は言った。
相沢祐一が行おうとしている禁忌を。
彼が行おうとしている罪を。
それを自覚して、自分で止まって欲しかった。
友人である彼の為に。
友人である……彼女の為に。
「け、けど、相沢には水瀬さんが……」
「皆まで言うな……斉藤……」
止められた。こっちが。
「確かに、俺は名雪を愛している。きっと名雪も俺を愛してくれているだろう。このまま行けば、近い内に俺たちは結婚する」
結婚、という言葉。
その言葉には、彼の強い意思が込められていた。
一人を純粋に愛する彼の姿勢。彼のその姿が眩しい。それは何処までも強く、何処までも尊かった。
だが。
「しかし、あれだ。結論から言うと――」
目の前にはそんな言葉を吐きながら、あっさり捨て去っている彼がいた。
「肉ばっか食ってたら、魚が食いたくなるっ！！」
「よく言った！ 今のお前は輝いてるぜっ」
「お前もなっ」
親指を立てながら、互いに白い歯を光らせる二人。
「ぬぅ。大事の為に小事を切り捨てるというのか……。流石は僕を負かした男だ」
いや、恐れ戦いてないで注意しなよ。というか、水瀬さんは小じゃないだろ。
教室内にはバカたちのバカっぽい笑い声が響いている。
というか、声がでかい。絶対外に漏れている。もし、美坂さんや水瀬さんに聞かれたらどうするつもりなのだろうか。
みたいな事を斉藤は訊いてみた。そしたら、しっかり返ってきた。
「殴られる」
「刺される」
口を揃えた。しかし、その言葉から怯えは読み取れない。どっちとも死と同意語なのに。
理由を訊くと二人は笑った。そして言った。
「なんでわざわざこの日を選んだと思っている。美坂は今日は病院に行くそうだ。妹さんの件でな」
「そう言えば、名雪も合同練習がどうとか言ってたな」
確信犯だった。なお性質が悪い。
ちなみに、こういったことを注意するのに最も適当な人物である久瀬は、
「うぬぅ。この計画性……あなどれん。敵に回すと恐ろしいことになりそうだ。今の内に我が懐に抱きこんでおかねば」
最後まで恐れ戦いていた。
というか、生徒会長までもが最後までバカだった。
雄叫びを上げるバカたち三人を遠巻きにしながら、斉藤はゆっくりと机の上に腰掛けた。
そして、もう一度窓へと視線を送る。
夕陽は既に建物の陰へと隠れていた。紅と蒼のコントラスト。混ざったそれは漆黒へと還る。
そんな中で、斉藤は暮れなずむ街に、徐々に闇へと染まる街に自分を重ねた。ふうと溜息。
良心の光が闇に染まる。どす黒い感情が芽生え始める。隠していた感情が、毀れるように隙間から漏れていく。
見つかればいいのに。見つかって彼らの関係が壊れてしまえばいいのに。そんな事を思う。
良心なんかじゃなかった。彼は彼女のことが好きだった。彼女の暖かい笑顔が好きだった。
ずっと彼女のことを見ていた。けど、選んだのは彼女の最も近い位置にいた男。彼ではない。
感情の奔流。それは荒々しく身体中を駆け巡る。支配される。彼の闇に。
しかし、彼はそんな自分が嫌いだった。ぐっと抑え込む。光が見える。光が満ちる。
彼は決意した。彼女の笑顔を護りたかった。それが、相沢祐一の愚行を止められなかった事へのせめてもの償い。
彼は言う。彼女への想いを隠し、正義のみを胸に秘め。
「僕も行くよ」
しかし、意思を込めたその言葉は虚空へと消え、
代わりに届いたのは彼らの笑い声。
「いや、放っておいても斉藤は来るだろ」
「斉藤はムッツリだからな」
「いや、世間体を気にすることは政治には重要な要素だ。大いにムッツリしたまえ」
結局、自分もこの三人と一緒なのだろうか。
そんな事を思いながら、斉藤はただ只管に涙を流した。
これでよかったんだよね……。
―― ニ回表 ――
いや、驚いた話、これはなんという気の変わり方なのだ！
僧ロレンス
てな訳で。
あっさり当日。
そして、待ち合わせ場所に時間ぴったしにやってきた筈なのに。
何故か、斉藤は３０分ほど待たされた。
「……遅れた理由は？」
多少、冷めた声で。
すると、事もなしにさらりと出た台詞はこうだった。
「アリバイ工作」
「ワックスのノリが悪かった」
「他校に送った間諜の報告受けていたのでね。うむ。今日来る少女たちに政治的、宗教的な問題はないようだ」
と、まったく悪気がない。
ここで、はぁと本日一つ目の溜息。
案外、この三人は大物なのかもしれない。
それからさらに１０分ほど彼らは待った。
行き交う人々の中には当然の如くそれらしい女の子の姿もある。
だが、その殆どは今日の相手ではないようで、先ほどから肩透かしをくらい続けている。
時間は刻々と過ぎていく。もしかして、すっぽかされたのだろうか。約束を取りつけたのが北川である為、あっさり否定することはできない。
まあ、元々の斉藤の目的からすれば、それは願ったり叶ったりな話ではあるが、やはり不愉快なことには変わりなかった。徐々に時計を見る回数が多くなる。
しかし、そんな事は何処吹く風。三人はまったく怒る様子もなく自然に彼女らを待っている。
待たされ慣れているのであろうか。というか、寧ろ自分が短気なだけなのであろうか。
そんな事はない。と、斉藤は自分に言い聞かせた。というよりも、これだけ待たされて何も感じていない彼らの方がおかしい。そうに違いない。
静かに時間が過ぎていった。人が途切れ、その隙間から爽やかな風が駆け抜ける。
そこで、斉藤はようやく不満を声に出した。
「……遅いね」
すると、予定外の言葉が返ってきた。
「いや、まだわからない。多分、あと１０分くらいで来るんじゃないか？」
と祐一。
「ああ。それならちゃんと計画通りだな。まったく一時間早くに集合しといて良かったぜ」
と３０分遅れた北川。
「何の支障もない。今のところは僕の計算通りだ。僕はともかく君たちは絶対に遅れると思ったからね」
と自分の事は棚に上げる久瀬。
なるほど。そういうことか。
と、斉藤は嘆息した。
要は簡単な話だった。間違いなくこちらは遅刻するという事を読んで、予定より早めの時間に設定する。
そうすれば、女性たちを待たす事はない。理に適っている。確かに適切な処置だ。
だが、斉藤の中には何やら煮えきれない思いが込み上げていた。
「……僕は遅刻しなかったんだけど」
「いや、なに。たかが一時間じゃないか。俺なんか名雪に二時間近く待たされたぞ」
水瀬さんって、結構時間にルーズなんだ……。
新たな事実に驚かされ、そして、さり気なく納得しかけてた自分に気付く。
自分の方が正しい。間違ってるのは向こう。そう言い聞かせることでなんとか心を落ち着かせた。
というか、もしかしたら、もう納得しかけちゃうほど彼らに染まっているのかもしれない。
そんな悲しい事実から目を背け、斉藤はなんとか自制を保った。けど、なんか自制を保たなきゃやっていけないのがどうしようもなく悲しかったり。
その後、もう１０分ほど待つと今日のお相手である少女たちは手を振りながらやってきた。そこで軽く自己紹介。
すぐに目的地であるカラオケに入る。小さな室内に備えつけられていた二つソファー。それに適当に腰を下ろしていく。
斉藤の隣りにいたのは久瀬。そして、小柄な少女が座っていた。
先ほどの自己紹介によると、彼女の名前は相原一美。肩の辺りで揃えた黒髪と小さな顔には少し大きすぎる眼鏡。見るからに大人しいといった容貌であり、こんなイベントに参加するようなタイプの子ではなかった。
意外そうに斉藤が視線を送ると、それに気付いた少女が恥ずかしげに俯く。気まずくなった斉藤もすっと彼女から目を離した。
「おい、４人じゃなかったのか？」
少し離れた席で北川が隣りの少女に声をかけている。
北川の隣りに座ってるのがどうやら以前言ってた彼の中学時代の友人らしい。
名前は確か山瀬みつき。快活そうなポニーテールがよく似合う。
「んー。そうなんだけどね。一人ちょっと遅れてくるみたいなのよ」
ならよし、と北川。
祐一も早速隣りに座ってた少女に声をかけ、久瀬は一人手持ち無沙汰に運ばれたジュースを啜っていた。
「と言う訳で！」
北川が叫ぶ。何時の間にかマイクを手にして。
そしてこれまた何時の間にかだが、既に前奏が流れ始めていた。
「早速行くぜっ」
北川が咆哮した。
てか、これって歌というかなんというか……。
盛り上がった。不思議なことに盛り上がっていた。
まずは祐一。先ほどから隣りの子とえらく意気投合。話を弾ませている。
久瀬。多分、この中で最もこういう場に慣れていない彼ではあるが、北川の友人みつきとそれなりに仲良くなっていた。というか、正しい賄賂の贈り方というデンジャラス極まりない内容に食らいつける彼女もなんかおかしい気がした。まあ、北川の友人だしであっさり納得。
そして北川。歌ったり、あちらこちらに声をかけたりと大忙しだ。なんというか、ここまでテンション上げられるのは本当に凄いと思う。
そんな中で斉藤だけが視線を違う方に向けていた。彼の視界に映るのは相沢祐一。もし、何かあったら力づくでも止める覚悟があった。
彼と隣りの少女がさらに距離を狭める。握った拳が込めた力で震えた。
「どうしたんですか？」
えっ？ と、振り向くと一美がきょとんとした表情で斉藤を見つめていた。誤魔化すように手を振って応える。「なんでもないよ」
「そうですか」と顔を戻し、無機質な表情で皆に合わせて手拍子を取る。
斉藤の額からどっと冷や汗が流れた。
「ちょっとトイレ」
そう言って、斉藤は逃げるように部屋を出た。
トイレで斉藤は祐一と鉢合わせになった。どうやら、彼も出るタイミングを窺っていたらしい。
便器の前でふぅと大きく息をつく祐一と斉藤。互いに何も話さなかった。
いや、話そうとはしていたのかもしれない。ただ、何故か雰囲気が互いに噛み合わなかった。
「なあ、斉藤」
祐一の声にただ「何？」とだけ返す。
多少素っ気無かったが、それを気にも止めず祐一は続けた。
「お前、隣りの子……一美だったっけ。あの子の事気に入っただろ」
びっくりした。思わず、祐一の方へと向いてしまいそうになり、斉藤は慌てて便器へと向き直る。
てか、なんでそんなことになってるんだろう。別段、何かした訳ではない。ただ、隣りに座って少しだけ話をしただけだ。
だから、斉藤は普通に返した。
「んなことないよ。というか、相沢だって隣りの子気に入ってるんだろ？」
本題。場合によってはそのまま怒鳴りつけるつもりだった。
けど、当の祐一は
「いや、いい子だとは思うけどな」
と意外な返事を返した。
「なんで？ あんなに仲良さそうだったじゃないか？」
「いや、今更で本当に悪いんだけどさ」
そして言った。本当に申し訳なさそうな顔をして。
「俺、やっぱ名雪じゃないとダメみたいだ。ドキドキしないんだよ。他の女と喋ってても」
呆気に取られた。
そして、同時にどっと肩から力が抜ける。
「やっぱり俺は名雪だけいてくれればいい。それがわかったんだ。まあ、今回は盛り上げ役に徹するさ」
そう言って、小便器から離れる。
そして、お前も頑張れよとの言葉を残して、祐一はトイレから出ていった。
ようやく肩の荷が降りた斉藤。それにまあ、元々こういったイベントが嫌いな訳ではないのであって。
という訳で、斉藤はなんだかんだ言いながら、結構楽しんでいた。歌にはそれなりに自信がある。まあ、あくまでもそれなりにと言ったレベルであるが。
先ほど、盛り上げ役に徹すると言った祐一は宣言通り、北川に代わって歌にジョークにと場を盛り上げていた。
笑い声が絶えない。斉藤も含めて、皆が楽しそうに笑っていた。
しかし、そんな中でただ一人。
「あんまり楽しくなさそうだね」
そう、斉藤は一美に声をかける。
すると、見開いた目で否定する。「そんな事はないです。楽しいです」
そして、慌てたように手拍子。うーむと唸って、斉藤もそれに倣った。
と、唐突に扉が開いた。入ってきたのは一人の少女。
「お、遅れてごめんなさい！ はじめまして、宮田佳澄です」
途端に北川が倒れた。
なんだなんだとまわりが騒ぐ。しかし、誰も彼に近づこうとはしない。
北川は悶絶して痙攣していた。正直、キモい。女の子は言うまでもなく、男でもできることなら近づきたくないほどの変態さ加減だ。
と、祐一が真剣な目で斉藤に視線を送る。
それに気付いた斉藤。どうしたものかとまわりを見回すと、久瀬も同じように斉藤を見ていた。
「お前行けよ」「嫌だよ」「君しかいないだろう」「なんでだよ」「うまい棒10本」「安すぎるよ」「学食5回分」
はぁと溜息。この間二秒。アイコンタクトによる交渉に破れた斉藤は仕方なく北川へと歩み寄った。しゃがんで彼を揺すった。
で。
大切なとこを掴まれた。
繊細なタッチ。強弱のつけ方やスピードの調節。全てがプロレベル。恐らく彼の数年来の自家発電技術が集約されていた。
で、思い出す。直前に決めたサイン。確かこれの意味は―――。
―――マジで射精する5秒前。
非常に下品であるが、要するにそういうことだった。本当にときめいた相手が出た時、近くにいた奴の大切な部分を揉む。というか、誰だこんなサイン考えた奴は。
と言う訳で、ときめいたらしかった。北川は宮田佳澄と名乗ったこの少女に。とりあえず、ご愁傷様と手を合わす祐一と久瀬を尻目に、北川はたまに痙攣しながら斉藤のそこを揉み続けた。
流石は北川というところだろうか。
という訳で、あまりのテクに悶絶しかけた斉藤は、熱を冷ますためトイレに避難中。
というより、北川相手に反り立ってしまった精神的ショックを和らげる意味合いの方が強かった。
ふぅとここに来て二度目の用をたしながら、斉藤は思いっきり溜息。
学食ごときで乗るんじゃなかった。
と、思い切り後悔。
そんなこんなで、斉藤が後悔のどん底をさ迷っていた時、トイレのドアが開いた。
久瀬だった。神妙な面持ちで辺りを探ると、久瀬は用をたす斉藤へ話し掛けた
「斉藤君」
「何？」
「確か宮田佳澄とか言ったな。あの女性には気をつけた方がいい」
「えっ？」
振り向くと久瀬の姿がなかった。
なんというか、久しぶりのシリアスな展開に斉藤は呆気に取られて立ち尽くした。
そして、部屋へと戻る。いや、戻ろうとした時、彼は不意に声をかけられた。
かけられた先に立っていたのは一美。表情を曇らせて、けど、何か決意したような眼差しで斉藤を見つめている。
なんだこの展開は、と斉藤は思った。
いや、よくわからないけど、今度はラブか。震えた手が、潤んだ瞳がそれを伝える。
これは夢か、幻か。あまりの急展開にショートした為、よくわからん思考に旅立った斉藤に一美は勢いをつけるように頭を下げた。
「ごめんなさい！」
斉藤が急いで部屋に戻るとそこはなんだかよくわからない空間へと変わり果てていた。
祐一と名雪がイチャついてる横で、血塗れの北川が倒れ伏している。そして、呼吸を荒げた佳澄と互いにちらちらと視線を交わしている久瀬と佐祐理。
やっぱりか、と斉藤は頭を抱えた。
どうやらみつきともう一人は既に帰ったらしい。英断というかなんというか。とりあえず、刺激が強すぎるだろう。色んな意味で。
斉藤の後ろには怯えた様子で目を瞑る一美。彼女に視線を送りながら、斉藤ははぁと溜息を漏らした。
では、一美が斉藤に何を語ったのか。
そもそも、これはどういうことなのか。
というか、これは悪い夢か虚しい現実か。
順を追って見ていこう。
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