おめでとうを涙と共に
賑やかな会場を、二次会の誘いを丁重に断り、俺は一人車に乗り込む。
今だ祝福に包まれているであろう二人が居る会場に一度だけ顔を向け、
そして、俺は車を走らせる。
『おめでとう』と、声には出さない祝福の言葉を残して。
行くあてなど、ない。
ただ何故か、あの喧騒の中に身を置く事が出来なかった。
無性に、静かな、一人になれる場所を求めていた。
だから俺は車を走らせる。
その理由も解らぬままに。
………いや、本当は理由なんて解っている。
ただ、それを認めたくないだけだ。
だから、何かから逃げるように車を走らせる。
目に入るのは、猛スピードで流れ消えていく景色。
耳に入るのは、猛り狂うようなエンジンの音と、
そして、カーステレオから大音量で流される、歌。
俺のお気に入りの、一昔前に流行った歌。
その歌の歌詞が、まるで今の俺の気持ちを代弁しているようで、思わず自嘲的な笑みが浮かんでしまう。
そう、俺は何時も君の事を見ていた。
あいつの隣に立つ君を。
あいつの隣で微笑む君を。
あいつの事を見詰めている、君の事を………。
気が付けば何時しか、二人は共にいるようになっていた。
その事に気付いたのは、そう、あいつが、相沢が越してきて数ヵ月後、
桜の花が散り、葉桜が鮮やかな緑を輝かせている頃だった。
俺達は全員無事に進級を済ませ他愛も無い日常を過ごしていた。
一時期、美坂が激しく塞ぎこんでいた時もあったが、今では普通の彼女に戻っていた。
そんなある日に、俺は気づいたんだ。
相沢の隣に美坂が居る事に。
それは本当に些細な変化。
今までだって相沢の隣に美坂が居る事はあった。
だが、違う。
今までの其れとは、確実に。
その理由は解らなくても、その事実に気付く事は出来た。
二人の、いや、美坂の態度と、そしてもう一人、二人に一番近い場所に居る水瀬の態度から。
相沢と美坂、二人の間で何かがあったのは確実だろう。
其れは多分、一時期美坂が激しく塞ぎこんでいた、あの間に。
それが何かは、俺には解らない。
そう、俺には解らなかった。
そして相沢は、解ったのだろう。
だから今、相沢の隣に美坂が立っている。
相沢が何を知り、どんな行動をしたのか、俺には解らない。
何も解らない俺に、それでも解った事は一つだけ。
相沢は美坂の笑顔を取戻す事が出来、
そして俺は、何もする事が出来なかった。
ただ、それだけだった………。
高校を卒業後、俺達四人はそれぞれの進むべき道を目指して大学へと進学した。
大学はバラバラになってしまったが、だからと言って俺たちの中が疎遠になった訳ではなかった。
よく連絡を取っては遊びに行ったりしたし、
偶然街中で出会えばそのまま長い世間話に流れ込むのも良くある事だった。
だからこの日も。
「美坂、ひさしぶり」
偶然街中で美坂を見かけた俺は当然の様に声を掛けた。
あの後、街中で立ち話もなんだからと喫茶店に場所を移した俺達は、
何時ものように他愛も無い世間話に花を咲かせていた。
いや、花を咲かせていたのは俺一人。
美坂は何処か翳りのある表情を浮かべ、俺の話に相槌を打つだけだった。
「如何か、したのか？」
俺は散々聞くべきかどうか迷ったあと、結局、こう尋ねていた。
美坂は最初俺の言葉に驚きの表情を浮かべ、
「如何して？あたしは別にどうもしてないわよ？」
とあからさまに無理な笑顔と共に話を逸らしたが、
その後の数分の気まずい沈黙の後、ポツポツと離し始めた。
その話の内容は、至極簡潔に要略するならば、
『最近の相沢の様子が変』
と言うものであった。
相沢と美坂は付き合っている。
それは二人を知る者達の間では周知の、いや、暗黙の了解となっている事だった。
別段、二人が自分達の口で付き合ってると告げた訳ではない。
しかし二人の雰囲気を見れば、その事を態々告げられるのも、
そして此方から尋ねる事も、野暮な事以外の何物でもなかった。
だから暗黙の了解、なのである。
そう周りの皆に納得させてしまう程に、
一緒に居る時の二人は、それが自然な事の様に見えるのだった。
そんな二人の、美坂の口から零れた言葉。
『最近の相沢の様子が変』
しかし、別段目だった変化がある訳ではないらしい。
ただ、
何かを考える素振りが多い。
その事を聞いても上手くはぐらかされてしまう。
合える回数が確実に減っている。
電話をかけても居ない事が多い。
名雪に聞いても何も知らないと教えてくれない。
明らかに名雪のそれは嘘である。
という、些細といえば些細な事。
しかし、相沢を良く知る美坂にとっては、それは顔を曇らせるには十分すぎる理由であった。
美坂が顔を曇らせている理由は解った。
解ったが、しかし何と声を掛ければ良いのだろうか。
色々な思いが交錯して、掛ける言葉の一つとて出てこない。
そんな俺の様子に美坂は肩を竦めるジェスチャー、なかなか堂に入ったジェスチャーをすると、
「ごめんなさいね、こんな話をして。
忘れて頂戴、多分、あたしの気のせいだと思うから」
と、苦笑いと共にそう言った。
そして、この話はこれでお終いとばかりに、既に氷が溶けてしまったアイスコーヒーに手を伸ばす。
俺はただ、そんな美坂に対し複雑な視線を向けることしか出来なかった。
美坂に対し、
力になりたいと、
申し訳ないと、
励ましたいと、
そう思いこそすれ、しかし俺は言葉の一つもかける事が出来ず、
今までそうしてきたように、何時もと同じ様に、
ただ美坂の事を見詰める事しか出来なかった。
大丈夫
その一言さえ、俺にはかける事が出来なかった。
「約束があるから、行くわね」
そう言って美坂が席を立った後も、
俺は一人その場に残り先ほどまで香里が座っていた場所をただじっと見詰めていた。
変わらない。
本当に、嫌になるくらいに。
俺と言う人間は、変わらない。
何故俺は、言葉の一つもかける事が出来ないのだろうか。
例え美坂の翳りを払う事が出来なかったとしても、
少しは、少しくらいは、美坂の心を軽くする事は出来たんじゃないだろうか。
ただ一言二言、言葉をかけるだけで。
でも、たったそれだけの事が俺には出来なかった。
本当に…、変わらない。
臆病な俺は落ち込んでいる美坂に対して言葉の一つもかける事が出来ない。
今も、そしてあの時も。
美坂との関係を壊したくない俺は、ただ、離れた場所から見つめる事しか出来ない。
今も、そしてあの時も。
そして、美坂の翳りを払い笑顔を取戻す事が出来るのは、多分あいつだけなのだろう。
俺には出来なくて、あいつには出来る。
美坂の隣に立ち、美坂の顔に笑顔を浮かべさせる事が出来る。
今も……、そしてあの時も……。
トゥルルルル……トゥルルルル……。
家へと戻った俺は相沢が帰っている時間を見計らい水瀬さんの家に電話をかけていた。
何でも両親の予定が狂ったとかで相沢は変わらず水瀬さんの家に居候しているからだ。
それに相沢は、珍しい事に未だに携帯電話を持ていないから。
数回の呼び出し音の後、
「はい、水瀬です」
と女性の声で応答があった。
「あ、北川と言いますけど相沢はご在宅でしょうか？」
その声から水瀬さん、俺達の同級生の水瀬さんと判断したが、
親しき仲にも礼儀あり、俺は営業用の声と言葉で用件を伝える。
以前、声だけで判断し崩れた言葉で話していたら、
実は水瀬のお母さんの方だったと言う事があるのはここだけの秘密だ。
「あ、北川君？こんばんは。
えっと、ごめんなさい、祐一まだ家に帰ってきてないんだ」
如何やらこの電話の相手は間違いなく水瀬さん、俺達の同級生の水瀬さんのようだ。
「水瀬さん、こんばんは。
そっか、まだ帰ってないんだ。この時間なら帰ってると思ったんだけど」
遅ればせながら挨拶を返し、そう尋ねる。
其れに対する水瀬さんの言葉は、
「う〜〜〜ん、最近の祐一帰って来るの遅いから……」
と、決して歯切れが言いと言えるものではなかった。
相沢の帰りが遅い理由は知ってるけど、わたしの口からその理由は言えない。
水瀬さんの言葉の雰囲気からはそういったニュアンスが感じ取られた。
「そっか……」
『最近の祐一』
其れはつまり、相沢の帰りが遅いのは今日が偶々と言うわけではなく以前から続いているという事。
美坂が不信がって居る事を裏付ける言葉。
『相沢の帰りが何故遅いか水瀬さん知ってる？』
喉まで出掛かったその言葉を、しかし俺はグッと飲み込む。
水瀬さんがそう簡単に教えてくれるとは思わないから。
それに、
俺に其処まで尋ねる権利があるのだろうか。
俺がやろうとしている事は大きなお世話ではないのだろうか。
そんな思いが、喉まで出掛かった言葉を飲み込ませる。
そう、それに、だ。
仮に水瀬さんがその理由を俺に教えてくれたとして、俺は一体何をするのだろうか。
美坂にその事を告げ、安心させる？
出来る筈が、ない。
今日、言葉の一つとしてかける事の出来なかった俺なんかに。
何も言えず、誤魔化して、美坂の翳りのある顔を見詰める事しか出来ないだろう。
簡単に、そんな俺の姿が脳裏に浮かぶ。
「如何しようか？
祐一が帰ってきたら連絡するように伝えようか？」
そんな水瀬さんの言葉が俺の意識を引き戻す。
「いや、良いよ。そんな急ぐ用事でもないし。
今度会った時にでも直接伝えるから」
そして俺は、そんな当たり障りの無い言葉で話を切り上げる。
自分に出来る事など何もないと、解ったから。
「うん、解ったよ。
北川君から電話があったことだけ伝えておくね」
俺の言葉に応える水瀬さんのそんな言葉に「それも、伝えなくていいよ」とやんわりと断りを居れ、
「じゃあ、これで」と言葉を締めくくり受話器を置く。
カチャリ、と音を立て、そして物言わぬオブジェと化す受話器。
「何、やってるんだろうな」
本当に、何をやっているのだろうか。
その問いに対する答えは、無い。
俺は言葉に出来ない、やりきれない気持ちを抱えたまま、
何も言わない受話器をただじっと見詰め続けていた。
それから、数日後。
「北川君」
街中で、偶然美坂に声を掛けられた。
話があるから、と連れられてきた喫茶店。
俺の前に座る美坂の顔には数日前の翳りは無く、それどころか今まで見たこと無いような笑みを浮かべている。
そう、とても幸せそうな、笑みを。
そして俺はその笑みの理由を、美坂の口から聞かされた。
「結婚を、申し込まれたの」
と。
誰に？などと聞かなくても解る。
美坂にこんな笑顔を浮かべさせる事が出来るのはこの世に一人しか居ない。
相沢祐一、ただ一人しか。
幸せそうな笑顔を浮かべて、美坂は語る。
昨日起こった、出来事を。
偶然、街中で相沢と出会った事を。
何処かよそよそしい態度の、相沢の事を。
とうとう我慢できなくて、相沢に詰め寄った事を。
しまい込んでいた思いの全てを、相沢にぶつけた事を。
相沢が、ゴメンと謝った事を。
会えなかったのは、バイトをしていたからという事を。
バイトの理由は、買わなければいけないものがあるからという事を。
指輪を、買おうとしていた事を。
その指輪と共に、プロポーズをしようとした事を。
そして、指輪は無いけどプロポーズをした事を。
そのプロポーズを、その想いを、受け取った事を。
その全てを、美坂は語る。
幸せそうな笑顔を浮かべて。
全てを話し終わった美坂は、「ごめんね」と、そして「ありがとう」と言葉を紡ぐ。
心配かけて、ごめんねと。
話を聞いてくれて、ありがとうと。
俺には勿体なさ過ぎる、その言葉を。
だから俺は、この日初めて、美坂に言葉を、
「おめでとう」と、
掛けるべき言葉を、思いのほかすんなりと、
掛ける事が出来た。
そして月日は流れ、今日は二人の結婚式。
その結婚式のプログラム、
披露宴の中頃で、俺は二人の友人代表としてスピーチをする事になっていた。
恙無く式は進み、そして俺のスピーチの番になった。
タキシードと、そしてウエディングドレスに身を包んだ二人の横で、
俺は今日まで散々練習したスピーチをかなりの緊張と共に語り始めた。
「新郎の祐一君と出会ったのは高校二年の時で……」
相沢の事を祐一君と呼ぶのが妙に照れくさい。
しかしまあ、結婚式だから仕方ないと自分を納得させつつ俺は話を進める。
高校二年。
其れは今から数年前の事。
しかし、まるで昨日の事の様に思い起こす事が出来る。
色々な事があった。
色々な事をやった。
俺はそんな思い出を、二人の門出に言葉として送る。
赤裸々に、少々暴露的な出来事も含めて。
「そして三年になって少したった頃、祐一君とみ…香里さんは、気付けば何時も一緒に居るようになってました」
香里さん。
この日、初めて俺は美坂の事を名前で呼んだ。
香里さん、と。
彼女の、結婚式で。
最初で最後の、香里と言う名を。
これからは、相沢と呼ぶ事になるのだから。
ふと顔を巡らすと、微笑を浮かべて俺達三人を見詰める水瀬さんの姿が目に入った。
その腕には、大事そうに額に納められた写真が抱かれている。
その写真に写るのは、今日初めて知った、美坂の妹。
俺達が高校二年の冬に亡くなったという、美坂の妹。
彼女の死により開いてしまった美坂の心の穴。
その心の穴を埋めたのが相沢祐一。
そして二人は今、この場所に居る。
「その日からずっと、私は二人の事を見続けてきました。
時には惚気られ、時には愚痴を零され、中々手のかかる二人でしたが、
今日と言う日を迎え、私はホッと胸を撫で下ろしています。
晴れて二人が夫婦となることで、何だか肩の荷が下りた心境です。
いや、ひょっとして、今まで以上に惚気られる事で返って肩の荷は増えたのでしょうか？」
俺の言葉に、会場が沸く。
相沢も、美坂も、二人とも苦笑いを浮かべている。
そう、俺はずっと二人の事を見続けてきた。
相沢の隣に立つ美坂の事を。
相沢の隣で微笑む美坂の事を。
相沢の事を見詰める、美坂の事を。
そんな美坂の事を、俺はずっと見詰め続けてきた……。
賑やかな会場を後にし、市街地を抜けた後も車を走らせ続け、
気付けば俺は何処かの山の中、町を一望に見下ろせる高台へと辿り着いていた。
駐車場には俺以外の車は無く、つまり俺以外には他に誰も居ない。
車を降りた俺は町を一望できる場所まで歩いていく。
手摺に肘をつき夕日に染まり始めた町を見下ろす。
茜色に染まる住みなれた町は、幻想的でとても美しかった。
ふと空を見上げると、空には雲の一つさえなく、気の早い一番星が微かな輝きを見せている。
「綺麗な、空だな」
蒼と朱の交じり合う空は、本当に綺麗だった。
「澄み渡る空ってのは、こういうのを言うのかな」
その言葉の通り、見上げた空は限りなく澄んでいて。
「結婚、おめでとう」
だから俺の口からも、ただ素直に、心からそんな言葉が零れて。
そして自然に、笑みが零れていた。
二人へと送る、祝福の笑みが。
ゆっくりと視線を下ろすと、空と山の狭間にその姿を半分ほど隠した真紅の太陽が目に入った。
その太陽があまりにも紅くて、
その太陽があまりにも眩しくて、
俺の瞳から一滴、
涙が零れた。
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