歩行者優先
長かった冬も終わりかけ、もうそろそろ春が訪れようとしている二月の下旬。
あたし達は無事受験も終了し、フリー通学となった今、名雪の誘いから百花屋でランチを取る事になった。
「うそっ！」
あたしは大声を上げて椅子から立ち上がった。
その結果、ランチタイムで喧騒に包まれていた百花屋は静まり、客の視線を一点に集める結果となってしまった。
「香里、そんな大声上げたら他のお客さんに迷惑だよ」
あたしの向かいに座っていた名雪はデザートのイチゴサンデーを食べながら半ばあきれ気味な笑みを浮かべた。
「あ、いや……ごめん」
流石に視線を集めっぱなしというのは恥ずかしい事この上ないので、素直に席に座った。
すると静まり返った百花屋も再びにぎかさを取り戻す。
「それにしても本気なの？ 名雪。東北の大学行くって」
「もちろん本気だよ」
「何で？ 確かあたしが知ってる限りはあなた相沢君と同じ大学受けたはずよね？」
「うん、受けたよ」
「それで受かったわよね？」
「うん、合格したよ」
「じゃあ、なんでそこに行かないのよっ！ 相沢君と同じ大学に受かったんでしょ！？」
「……香里、だからそんな大声上げたらほかのお客さんに迷惑だって」
まるでビデオを巻き戻しているかのようにあたしは再び大声で席を立ち上がり、また百花屋の客の視線を集めてしまう。
その後あわてて席に着いたが、あまりの恥ずかしさに頬が熱い。
「それにしてもさ、名雪。あそこの大学結構難関所で有名じゃなかったっけ？」
「ん〜、難関かどうかはよく判らないけど大変だったよ。わたしはあまり頭よくなかったから」
「じゃあ、どうして東北の大学行くのよ？ 理由が全く見えないんだけど……」
香里の疑問に名雪はスプーンを咥えて「う〜ん」と軽く唸る。
「やっぱり陸上を続けたいから……かな？」
「……でも名雪って教師になるのが夢じゃなかったっけ？ だから相沢君と同じ所を受けたんでしょ？ あたしは去年の春にはそう聞いてたけど」
「うん、確かにあの時はそう言ってたね。でもやっぱり陸上が辞められなかったんだよ」
もう残り少ないイチゴサンデーをかき回しながら名雪は言う。その表情は少し複雑というか、迷いに近いものはあった。
「あの夏ね。わたし、最後の大会にしようと思って悔いが残らないように走ったんだ」
「ええ、覚えてるわよ。その時、名雪はすごい成績残したじゃない。確か全国だっけ？」
「うん。正直あそこまでいけるとは思わなかったけど……。でも―――ううん、だからこそわたしはもっとやりたい。もっと上に行きたいって思うようになったんだよ。そこに丁度よく東北の大学からスポーツ推薦のオファーが来たの。練習の様子とかも見に行ったけどすごく雰囲気がよくて、ここでならもっとわたしは頑張れる、って思って決めたんだ」
それでも名雪の口調はいつになく強い。そこにはしっかりとした決意が込められているようだった。
「……でもなんで相沢君と同じ大学受けたの？ スポーツ推薦とかってほとんど受験なしに決まるんでしょ？」
「まぁね。でもそこの大学行くために半年弱香里や祐一に教えてもらいながら勉強してきたんだよ。途中で辞めたらなんか逃げてるみたいで嫌だったんだよ。納得出来るまでとことんやらないと、この先やっていけないと思ったから。甘えが通用しない世界だからね」
あたしは関心と多少の驚きを込めた眼で名雪を見た。
名雪とはなんだかんだで付き合いは長い。
でもここまでしっかりと前を見据えている名雪を見るのは初めてだ。名雪には失礼な気がするが……。
「それにしても名雪、東北ってことは自宅通学じゃ無理よね？」
「当然だよ。陸上では有名所の大学だから寮があるしそこで取りあえずはやって行くかな？」
「そうなんだ……それにしても名雪がここを離れるってまだ信じられない気がするわ」
「まぁ、祐一がいるから―――かな？ わたしとお母さんの二人暮しの時だったら間違いなく行かないと思う。と、言うか香里だってこの街離れるよね？ 確か東京の看護大学でしょ？」
「まぁ……あたしの場合はちょっと違うけどね」
名雪の言うように、あたしも三月にこの街を離れる事になっている。
あたしは近くに看護の大学が無いのと、やはり医療関係の仕事に就くなら都心に近いほうがいいとの理由で東京という場所を選んだのだ。
「でも……なんか寂しくなるわね」
「うん、北川君もこの街は離れるって話しだし、みんなバラバラになっちゃうね」
「えっ？ 北川君もこの街を離れるんだ」
「そうだよ、知らなかったんだ、香里。てっきり知ってるとばかり思ってたよ。……ふーん、香里と北川君っていい仲だと思ったんだけどなぁ……」
「……さぁ、今ではあたしでもよく判らないわ」
曖昧な口調で名雪に返す。
確かに一時期、北川君とは二人でよく出かけていた事がある。丁度一年前くらいには一緒に映画館に行くところを名雪に知られてしまい大いに恥ずかしい想いをした事があった。
とは言えなんだかんだで、すごく楽しかったのを覚えている。
でも三年になってクラスが変わり、あたし達、通称美坂チームは北川君だけ別のクラスとなってしまい。殆ど会わなくなってしまった。幸い同じクラスだった相沢君はよくつるんでたらしく、それを経由で何度かはあって食事をしたりちょっと遊んだりはした。
しかし受験が忙しくなるにつれ、それも無くなり気づけば疎遠になっていたのだ。
あたしも北川君の事はよく判らない。嫌いではないのは確かなのだが、好きか？ と聞かれると返答に困ってしまう。
そういうものだから所詮はそういうものだろう。あたしは深く考えない事にした。
「ねぇ、名雪。聞きにくい事だけど一つ聞いていい？」
「ん？ 何？」
「やっぱりその……この街を出る事に相沢君とは関係があるの？」
その瞬間、名雪の表情が硬くなった。
やはり聞いてはいけない事だったのだろうか……。とてつもなく空気も重くなる。
「う〜ん難しいこと聞くね、香里も」
名雪は苦笑いを浮かべながら少し考える仕草をとる。
「やっぱりちょっと違うかな？」
曖昧な表現だけど割とあっさりした答え方を名雪はした。
「確かにまだわたしは祐一の事完全に吹っ切れてないとは思うよ。それは認める。でも違う……。どちらかと言うとお母さんのほうが強いと思う」
「秋子さんに……？ どういう事？」
「わたし、お母さんと離れる事が怖かった。あの事故の時もそう。わたし、ほかに何も考える事ができなかった。でも、今は違う。だから誰にも甘えないで、一人でやってみたい。だからかな」
それでも笑みを浮かべて言う名雪は少し大人びて見えた。
そんな名雪を見てあたしは少し寂しく思う。何か名雪が遠くに行ってしまうみたいで……。
それからまた少し時は流れて、あたし達は無事卒業式を迎える事になった。
初めて着る袴という事以外は特になんでもない卒業式だったと思う。
つまらない来賓や校長の話を聞いて、「送辞、答辞」の時は内心やっと終わってくれるとか思ってしまった程、詰まらない、なんも変哲も無い卒業式だった。
高校の卒業式だ今更泣いてる人なんてのもいないだろう。
無機質な拍手の元、あたしは体育館を出た。その後、担任が簡単に最後の挨拶をしてあたしの高校生活は終わった。
なんて事は無い。決して悪くなかった高校生活なのにいざ終わってしまうと。こうもあっけないものなのか……。
気づけば屋上に来ていた。
もう三月とはいえ、ここら辺はまだ寒い。と―――どうやら先着者がいたようだ。
「な〜に黄昏てるのよ」
「なんだ、美坂か」
先着者―――北川君はため息混じりにあたしのほうを向いて言うと、再び視線を外に向けた。
「何だ、とは失礼ね。ところで北川君はどうしてここに？」
「なんとなくだよ。美坂は？」
「あたしも同じ……。卒業したて言う実感わかないから」
「なるほど、似たもの同士考える事は一緒って事か」
北川君は楽しそうに笑う。
あたしも少しつられながら笑って北川君の隣に座った。
「汚れないか？ 袴」
「いいのよ、どうせこの先使うとしても、大学の卒業の時くらいだし」
「ふーん……。ならいいけどさ」
しばらく二人して外を眺めた。
そう言えば北川君と二人でいるなんてのは久しぶりだ。
「名雪に聞いたんだけど北川君、この街離れるんだって？」
「なんだ、知ってたのか美坂」
「で、いつここを離れるの？」
「今日。厳密に言えば今日の夜行列車」
「今日っ！？」
思わずあたしは大声を上げてしまった。
―――何故かここ最近大声を上げてばかりな気がするのは気のせいだろうか。
「住み込みっつう形に近いからな。卒業してすぐにそっちに向かうつもりだったから。一日でも早いほうがいいからな、こう言うのは」
「随分と急な話ね」
「そうでもないさ。だから相沢達が今日水瀬んちで宴会を開いてくれるだろ」
……確かに。
あたしはただ、卒業したからだって思ったのだが……。成る程、そういう理由があったのか。
「……あたしには教えてくれなかったじゃない」
あたしは少しすねる様な口調になってしまった。
「オレだって相沢にしか教えてないさ。それ経由だろ？ 相沢から水瀬、水瀬から美坂って。それに相沢とだって三年の間はそんなに会わなかったしな。あいつ、一番大変だったろ？ 成績だって相当上げてたみたいだし」
そう。
相沢君は三年になって急激に成績を上げてきた。
テストの時に北川君とどっちが低い点数を取れるかで勝負していたのがまるで嘘のように気づけば上位の常連になっていた。
彼は元々、恋人でもある月宮さんのリハビリの一環として勉強を教えてたみたいだ。
しかし、何故か教えてた事に生きがいみたいなのを感じてしまったのか、教師を目指すために名雪も受けた地元の結構難しい大学を受けて見事合格したのだ。
「まぁ、あいつは凄いと思うよ。あの行動力はオレじゃぁ真似出来ない。つうかさ、オレは思うんだけどあいつが来てからオレ達も変わったと思わないか？」
「相沢君が……？」
「ああ、水瀬は言うまでも無いだろ。人間的に凄く成長したと思う。美坂も栞ちゃんも事があるだろ？ 相沢のおかげで今のように栞ちゃんも元気になったし、そもそもオレは相沢のおかげで栞ちゃんの病気が治ったとさえ思うほどなんだぜ」
相沢君が栞の病気を治した―――は言いすぎだと思うけど、それでも相沢君の妙な魅力には思わず頷いてしまった。
彼はあたし達にいろいろな影響を及ぼしたのだ。
名雪に栞や月宮さん。今は留学している倉田さんや川澄さん。みんな彼のおかげで救われたのではないだろうか？
あたしも相沢君が来てからは栞と仲直りもできたし、よく笑うようになった。
北川君も含めてみんなで遊びに行ったし、凄く楽しかった。
そう思うと、やっぱりあたしの高校生活は充実してたんだと思う。
「さて、オレはそろそろ行くけど、どうする？ 美坂は」
北川君が背伸びをしながらあたしのほうを向いて言う。
「あたし？ あたしはもう少しここに残るわ」
「そうか、んじゃまた水瀬んちでな」
そう言って北川君は屋上から出て行った。
残された(と、言っても自分で残ったのだが)あたしは再び外の風景を眺める。
見慣れた風景なのに、少し違うように感じる。
吹き付ける風が少し冷たい。
いや、冷たいのは顔だけだ。あたしは思わず頬を触れる。
「あれ……？ あたし……」
泣いてる。
止まらなかった。
必死に止めようと思ってるのに止まらなかった。
逆に余計泪が溢れて来る。
いつから泣いていたんだろう……。
そもそも何で泣いてるんだろう……。
あ、そうか―――
名雪と相沢君と北川君で、
莫迦やって、呆れて、
そうやってるのが楽しくて、
あたしはずっと……みんなとこうしていたかった。
まだみんなと子どもでいたかったんだ。
それから暫くして落ち着いた頃には、日はすっかり沈んでいた。
名雪の家でのパーティも、もうすぐだろう。
恐らく、あの二人がいる。という事は間違いなくお酒も出る。そして秋子さんの事だ。「今夜は無礼講です」とかで「了承」してしまうだろう。
あたしも着替えがあるし、屋上を去る事にした。
そう言えば北川君があの時に屋上を去ったのは、もしかしたらあの時点であたしは泣いていたのかもしれない。
彼は彼で結構細かいところまで気が利く性格だから。
飲んだ時にでも白状してもらおう。
ガタンゴトン……
ガタンゴトン……
わざわざ見送りに来てくれた相沢君達が徐々に小さくなっていく。
加速を始めた電車は甲高い音をサイン波のように鳴らしてあたしの住んでた街から遠ざけていった。
名雪は一足先に逆方向の電車に乗って行ってしまった。
やっぱり彼女は凄いと思ったのは、最後まで泪を流さなかったのだ。
相沢君や月宮さん、秋子さんまで泪ぐんでる中、名雪一人、終始笑顔だったのだ。
そしてドアが閉まる前にこんな事を言っていた。
「わたし、暫くここに帰ってこないから。帰ってくるのは、挫折した時か夢をかなえた時。……祐一、お母さんをお願いね」
あたしは名雪みたいにはなれない。
結局別れ際も泣いてしまったし、この街を離れるのは今でも名残惜しい。
だけど時間は止まってくれない。いつかは必ず大人にならないといけないのだ。
ゆっくりでもいい。あたしも歩いていこう。
絶えず前に―――。
車窓から眺める風景が、もうあたしの知らない街まで来ているのを確認してから……
あたしはカーテンを閉めた。
【了】
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