あいとまこと
真琴は激怒した。
「どうして真琴と一緒に漫画を読んでくれないのよっ！！」
「見れば分かるだろ……俺は今勉強中なの」
しょうがないだろと、祐一は問題集の解答に目を走らせながらこっそりとぼやく。
「昨日だって、一昨日だって、勉強って言って遊んでくれなかったじゃない！！」
わめき声を聞き流す祐一の頭には、今度行われる統一模試のことが重くのしかかっていた。志望校と今の自分との距離を計る大切なテストである。夏が終わりいよいよ受験も間近に迫った現在、進む大学だけでなく、両親の元に戻るかどうかの選択も迫られていて、祐一には真琴に構っている余裕がなかった。
「それに、もう遅いんだから大声出すなよ」
「うう〜っ……」
「あ、つまらないミスを」
苦い表情で間違いを直すとまたページをめくる。そして問題文を斜め読みすると、祐一はすぐにペンを放り投げた。そのまま体を思いっきりそらして大きく伸びをする。体重をかけられた椅子の背もたれがぎしぎしと悲鳴をあげた。
「はあっ……」
俺は自分の進むべき道を見つけたぜと、未来への挑戦を始めた親友の姿が思い起こされる。アンテナの伸びも凄まじく、受験とはかくも人を変えてしまうものかと、周りから取り残されてしまうような気がして、さすがの祐一も焦燥感に駆られていた。
名雪すら例外ではない。普段ならとっくに就寝しているような時間にも部屋の明かりは灯っているし、時折香里の家で勉強会と称して親しいクラスメートと集まることもあった。
お互い否応なく巻きこまれる受験戦争を、手にしているシャーペンという頼りない武器だけで切り開かないといけないのだ。顔も知らない全国のライバル達と点数の上げ下げで刃を結び、受験だけが人生ではないと言いながらも、先生と名乗る教官は内申という鞭で皆を追いたてる。
「無視しないでよっ！！！ 祐一のけちぃっ！！」
おかげで真琴としては祐一に構ってもらえる時間が少なくなって、機嫌が急角度で横に曲がっていく。もうすぐ９０度を越えるのも時間の問題だ。そもそも真琴には受験というものがよく分かっていない。それは仕方がないこととは言え、ふたりの断絶は水瀬家の雰囲気を確かに悪くしていた。疎外感を覚えた真琴が過剰にまとわりつこうとして、却って祐一の機嫌を損ねるという悪循環に陥っている。
また、本来ならふたりの間を取り持ってよさそうな名雪は、真琴が戻ってきてから、ふたりに対して微妙なスタンスをとるようになった。結論を出したようでいて、彼女の中の乙女心も色々と複雑らしい。
「あ〜あ〜、俺はけちだからな、まこてゃがっ？！！」
相手にされない苛立ちが限界点を超え、真琴は消しゴムをひっつかむと思いっきり祐一に投げつけた。
「祐一のばかっ！！」
「こらっ！ なにすんだよっ！！」
額に当たって跳ね返った消しゴムが、机の上を転がって床に落ちる。
「いいもんいいもんっ！ 祐一には頼らないからっ！！」
「だったら最初っからそうしてくれよっ！！！」
祐一に怒鳴り返されて、真琴は怯えたように立ち竦んでしまった。漫画を強く抱き締める真琴を見て、さすがに言い過ぎたかと祐一の表情に反省の色が滲む。
「……分かったわよぅ」
悄然と肩を落として部屋を出ていく真琴に、いまさら声もかけられず、祐一は仏頂面で再びペンを走らせる。やけっぱちのように埋めていく解答は、あきらかに正解からは外れてしまっていた。
「どうしてこうなっちゃうんだろう……」
自室に戻ると、すぐさま真琴はベッドの中に潜りこんだ。スプリングは優しく彼女を受け止めてくれたが、しんとした室内が孤独感を煽る。真琴は思わず、毛布の中で体を丸めるようにして縮こまっていた。
「祐一に捨てられちゃうのかな」
自分の言葉でその光景が浮かんでしまい、慌てて追い出そうとぶんぶんと頭を振る。
こんな時には階下にいる秋子に甘えようかと一瞬考えたが、時計を見ると、もう寝ていてもおかしくはない時間になっていた。それでなくても最近の秋子は仕事が忙しいようで、家を空けることも珍しくない。真琴としてはここにお世話になっている以上、迷惑をかけるようなことだけはしたくなかった。
しかし、このまま寝てしまえば、また日が沈むまで祐一と会えなくなる。制服という自分にはない服を着て、知らない場所に行ってしまう、名雪は一緒なのに。
あの制服を着て祐一の隣に立っている名雪を思う、そして白塗りの大きな建物、どんなに背伸びしても入れてくれない自分を拒む門。
「結婚したはずなのにな……」
無くしたヴェールをふたりで捜し歩いたあの日。結局見つからなかったけど、くたくたになった自分をおぶってくれた、あの時肩越しに見えた祐一の笑顔。そんなドキドキをこのところちっとも味わえていない。
結婚した夫婦はいつでも一緒にいるはずだ、そう思い込んでいた真琴にとって、今の状態ははなはだ不本意だった。真琴にとっての参考書とも言える少女漫画には、様々な困難に立ち向かって結ばれるまではコミカルに、そしてドラマチックに描かれているけど、そこで終わり。真琴が本当に知りたい未来が描かれていない。
自分たちもハッピーエンドを迎えたはずだった。でも、全然終わっていない、幸せな状態のままでいられない。
「どうしたらいいのかな……ほんとに嫌いになっちゃったのかなあ」
暖かいはずのベッドの中で、どうしようもなく寂しい気分に陥り、真琴は鼻をすすった。
自分ひとりではどうしようもないのなら人に頼るしかない。夫婦の問題なんだから、なるべくなら自分で解決したいところだけど、ここまでくるとそうも言っていられない。
そこまでをつらつらと考え、真琴ははたと気づいた。誰に相談するべきかと。心当たりのある人物は限られている。その中で名雪にはなんとなく頼みづらい、当然祐一には言えるわけもない。
「どうしようかな……」
真琴は毛布から顔を出すと、大きめの枕に顔を埋める。こんな調子だと、しばらくは悲しい夢しか見られなくなりそうだった。
今日も早朝マラソンを余儀なくされて祐一は不機嫌だった。名雪が遅くまで起きるようになったしわ寄せは朝にくる。真琴が不満そうなのは分かっていたが、いまだに祐一が名雪を起こす日課は続いていた。それに関して名雪にはもうどうしようもないらしい。
ラストスパートをかけて校門を通りすぎると、息を切らしながら玄関までなんとか辿りつく。乱暴に脱ぎ捨てた靴が、思いがけず遠くまで転がってしまったことに慌てながら、それでもすぐに拾いあげて、冷えたリノリウムの床に上がると、祐一は下駄箱の中の上履きを取ろうとした。
「は？」
指に触れたありえない感触に一瞬時が止まる。はっと我に返り、まじまじと中を覗きこんでその正体を確かめると、祐一は素早く名雪を振り返った。名雪はちょうど靴を履き替えている途中で祐一を見ている余裕はなさそうである。それどころか、その糸目は起きているのかすら疑わしい。
祐一は奥に手を伸ばすとこっそりとポケットに忍ばせ、そ知らぬ顔で名雪を急かした。教室に入るのが先か、始業ベルが鳴り出すのが先か、ふたりはぎりぎりのタイミングで駆け出していく。
それは女の子らしいキャラクターが印刷された封筒だった。
「なんて、古典的な……」
これまたお約束な、ピンク色をしたハート型のシールをはがすと、予想された内容が、若葉を思わせる黄緑色の便箋にしたためられている。
『ずっとあなたのことを見ていました。あなたのことが好きです、もしよかったら放課後、体育館の裏まで来てください』
そこまで読んで祐一はため息をついた。その人物の几帳面さを思わせる丁寧な文字だったが、内容はとても受け入れがたい。
「差出し人の名前はなしか……場所もお約束だな……しかし、この文字どこかで見た覚えが……？」
誰にも見られないように、教科書の間に挟んだ手紙を凝視しながら首を捻る。知らず知らずのうちに漏れ出した自分の唸り声が、隣の名雪の寝息と混じって、周辺の生徒に迷惑をかけていることに祐一は気づいてはいなかった。
疑問符を浮かべたまま放課後を迎え、転校してからずいぶんと親しくなったクラスメート達との別れを惜しむと、祐一は指定された場所にゆっくりと向かった。
「めんどくせーな」
誰であろうと断わることに決まっている。その言葉を見知らぬ誰かに伝えなければならないことが、祐一の気を重くさせていた。もとより手紙を無視するつもりはなかった。そのほうが却ってこの少女には悪いことだろう、誰かのいたずらの方がよっぽどマシだと思っていた。
しかし、ふと一瞬立ち止まってしまう。祐一の心に浮かぶのは最近のやりとり。自分を理解してくれない恋人のこと。
「なっ、何を考えているんだ俺はっ？」
祐一は慌てて心に浮かんだものを打ち消すと、先程よりも早足で歩き出した。
「さて、ここらへんのはずだ……が」
日の当たらない体育館の裏は、ひんやりとして湿った空気の匂いがする。あまり好きにはなれない匂いに、祐一は長居は無用とばかり、忙しなく視線をさ迷わせた。
その目がすぐに壁に背をつけてうずくまる少女の姿を捉える。こんなところに来るような物好きは、手紙の差し出し人と呼び出された自分くらいなものだろう。そう見当をつけると、祐一はその少女に声をかけようと足を踏み出した。
地面を踏む、そのかすかな物音が耳に届いたのか、いきなり向こうが顔を上げる。
交錯する視線。
祐一は言葉を失っていた。
「お待ちしておりました」
いつでも天野美汐は礼儀正しい姿勢を崩さない。その姿がこんな時は却って祐一を苛立たせる。
「……どういうことだよ」
最初の衝撃から立ち直りかけた祐一は、歩み寄ってきた美汐にポケットに入れていた手紙を突きつけた。
「手紙は読んでいただけましたよね。つまりは……そういうことです」
彼女はそれを一瞥すると、すぐに祐一を真っ直ぐに見つめる。そこには、告白のシチュエーションに欠かすことのできない恥じらいの表情や、緊張感のようなものは感じられなかった。しかし、それをおかしいと思う余裕が祐一にはない。
「どうして、なんだよ……俺のことはよく知っているだろう？」
現在、自分の置かれている状況に詳しい彼女が、こんなことをするなんてとても信じられない、そんな驚きが祐一の心を激しく揺さぶる。
真琴が戻ってきた時、誰よりも喜んでくれたのは他ならぬ彼女なのに、今はこんな場所で冷ややかな笑みを投げつけられている。
「あら、自分のことにかまけて真琴のことをほったらかしにしていたのではなかったのですか？ 愛想を尽かしたのなら私にもチャンスがあるのだろうと思いまして。なにより、相沢さんが卒業されるのももうすぐですし、今のうちに告白しておかないと機会がないかもしれませんから」
「天野っ！」
淡々とした口調が自分の心を強くえぐっていく。耐え切れず、祐一は言葉を遮るように大声をあげた。
「……真琴が泣いていましたよ、祐一は真琴のことが好きじゃなくなったんだ、って」
「そんなことがあるもんかっ！！ 俺はあの時から決して忘れたことはない！！」
叫んだあとに、美汐を睨みつけながら肩で息をする。それだけは誰にも否定されたくはなかった。
しかし、
「では、どうしてそう言ってあげないのです？ 確かにお忙しいのは分かります。しかし言葉で伝える時間くらいはあるでしょう……あの子はまだ子供みたいなものなのですよ」
「くっ」
強烈なダメージを受けて、食いしばった歯の隙間からうめき声が漏れる。見下ろしているのは自分のはずなのに、逆に美汐に見下ろされているような錯覚に陥っていた。
「自分は真琴が好きだから、真琴は俺がしていることを理解してくれるだろう、そううぬぼれていたんですか？」
ノックアウト寸前のボクサーのように祐一の体がふらつく。美汐の言葉は言うまでもなく分かりきっていたことなのに。心の中で降参の白旗を振りながら、弱々しい目つきで美汐を見る。
「悪かったよ……」
「謝るのは私に対してではないですよ」
それでも美汐は硬い表情を崩さない。
「そうだな……でもさ、俺に分からせるためにわざわざこんな回りくどい方法を取ったっていうのか？」
しかし、祐一の言葉で、初めて美汐の顔に動揺の色が現れた。訝しげな祐一の視線から逃れるように美汐は空を見上げる。
「そうですよ……分からせるために、ね」
まるで誰かに言い聞かせるかように呟くと、美汐はしばらくそうしていた。やがて寂しげに微笑むと、ゆっくりと振り向く。
「……もういいでしょう？」
「……なにか言いなさいよ」
今までどこに隠れていたのか、美汐と入れ替わるように現れた真琴が、不安とばつの悪さを混ぜたような表情で声をかけてくる。
「……真琴なのか？」
なぜか彼女はこの学校の制服を着ていた。
「そうよ、文句でもあるの？」
望んでいたものとかけ離れた言葉だったのか、真琴が不満気な顔を覗かせる。
「いやない……あるぞっ、その制服はどうしたんだっ？」
祐一が混乱する思考の中で慌てて訂正すると、指差された真琴は小首を傾げ、
「秋子さんにお願いして用意してもらったのよぅ」
そう言って胸を張った。
「はあっ……秋子さんも何を考えているんだか」
祐一が脱力したように肩を落とす。
「で、どうなの？」
「はい？」
真琴の唐突な言葉に意味も分からず、つい間抜けな顔を晒してしまう。
「だから、まずは言うことがあるでしょ」
苛立ったような顔の真琴にくるんとその場で一回転してみせられて、ようやく祐一は理解した。
「馬子にも衣装だな」
「馬子にも衣装？ 似合っているの？！」
「に、似合っているぞ……」
せめてもの反撃も真琴には通じない。
「あうーっ、似合っているんだぁ」
人に強要しておいて、勝手に照れる真琴。祐一はため息をつきながらもようやく自分を取り戻す。今更ながらに自分が試されたショックで、じわじわと怒りが込み上げてくる。確かに自分も悪いがそれとは別問題だ。
「まっ……」
何か怒鳴りつけてやろうとした時だった。
「祐一、真琴が嫌い？」
祐一は吐き出しかけた言葉を飲みこんだ。真琴が祐一の視線を跳ね返すほどの真剣な眼差しを向けてきたからだ。今にも獲物に襲いかかろうとしている肉食獣のような目に捕らえられ、祐一の背中に冷たいものが走る。
「さ、さっきも言っただろ、聞こえてなかったのかよ……」
「いいから答えてよ」
「き、嫌いなわけないだろ」
この後に及んでも素直に好きと言えない、そんな祐一の答えに満足することができなかったのか、真琴は真新しいリボンを摘み上げた。祐一と同じ学年を示す色が目の前でかすかに揺れる。
「祐一は普通の子がいいの？ 普通じゃない真琴はいらないの？」
「なっ？！！」
衝撃、ただそれだけが祐一の心を埋め尽くした。今更ながらにそこまで追い込んでしまったのかと、祐一は唇を噛み締める。
「名雪だって、美汐だって……どうせ真琴には着れないわよ」
憎まれ口を叩きながら真琴がうつむいた。
「祐一の言う受験ってやつだって真琴にはないし……」
前髪に隠れて祐一からはその目が見えない。
「なのに真琴はわがままで、意地っ張りで……」
が、どんどん声のトーンが落ちてくる。
「そ、それは……」
「おかげで最近は喧嘩ばかりで……」
そして昂ぶっていく感情が目から涙を溢れさせる。
「ま、真琴……」
「だから嫌いになったんだって、疑って……こんなこと……ごめんなさいっ」
祐一は感情に任せて胸に飛び込んでくる真琴をなんとか受けとめた。真琴は服をつかんだまま嗚咽を繰り返す。普段はあんなに騒がしい彼女が、こんなに静かに泣くことに、祐一は奇妙な感慨を抱いた。
「いや、本当に悪いのは俺の方だ……」
背中から回した腕で優しく真琴の頭を撫でながら、祐一はもたれかかる彼女の重みを、たまらなくいとおしいと思った。
「あ、そうそう、秋子さんに用事を頼まれているんだった」
どれほどの時が経ったのか、ようやく涙を止めることができた真琴が、くしゃくしゃになった顔を必死で拭いながらポケットに手を入れる。
「は？ そうなのか？」
「祐一に見せてちょうだいって、ほら」
祐一は差し出されるままに受け取ると、メモ用紙を広げた。
「……なになに？ 申し訳ないですけど、今日は帰りが遅れますので、ふたりでなにか食べてきてください……なお、お金のことなら祐一さんの財布にこっそりと足しておきましたので心配しないでくださいね、秋子より」
制服のリボンを目の端に捉え、祐一は苦い笑みを浮かべる。
「……はははっ、秋子さんにも心配をかけていたってことか……情けないよな」
自嘲気味に呟きながら、祐一は秋子と人知れず姿を消した美汐に対して心の中で頭を下げた。特にこんなことまでさせてしまった美汐に関しては、感謝してもしきれないものがある。しかし、今は追いかけて言葉をかけない方がいいだろう、祐一はそう思った。
「行こうか」
何よりもここにいる恋人を置いていけるはずがない。
「……うん」
そうして歩き出すふたりの手は、自然と握られていた。
「で、百花屋なんだ」
平坦な真琴の口調に返す言葉もない。どうしてもここは名雪の領域という印象が強い。それが真琴にはなんとなく面白くないようだった。
「悪かったな、こんなところしか思いつかなくて」
とはいえふたりしてぼけっと突っ立っているわけにもいかず、適当な席を探して向かいあわせに座る。慣れない制服のために、しきりにスカートを気にする真琴の仕草に思わず見惚れ、祐一は慌てて目をそらした。
「注文はなにになさいますか？」
店内はそこそこ混んでいたが、すぐにウェイトレスが注文を取りにやってくる。
「俺はアイスコーヒー、真琴は？」
反射的に答えて真琴を見た。肉まんはないぞと注意するよりも早く、真琴が答える。
「ま、真琴にも同じやつください」
その声は明らかに上擦っていた。
「へ？」
「はい、かしこまりました」
あっけに取られたままの祐一を残して注文を繰り返すと、ウェイトレスは踵を返して去っていく。
「おいっ、お前コーヒーなんか飲まないだろ。この前だって秋子さんに差し入れてもらったの勝手に飲んで文句言ってたじゃないか」
ようやく我に返ると、祐一は身を乗り出した。
「祐一と同じやつを頼みたいだけなんだってば……それになんかの漫画で見たんだけど、夜明けのモーニングコーヒーって大人がすることらしいじゃない？ 真琴はもう子供じゃないんだから」
「今は夕方だ……つーか、いったいどんな漫画を読んでいるんだ……」
脱力のあまりテーブルに突っ伏してしまう。真琴のとんちんかんな行動にしばらく立ち直れないでいると、さっきのウェイトレスがグラスをふたつ事務的に置いていった。
「はあ、しかし今日は驚かされっぱなしだ」
のろのろと体を起こして置かれたグラスに手を伸ばす。体に染みていくこの苦味が、今の祐一の気分にぴったりはまっていた。
「ふう、うまいな……ん？」
一息ついたところでふと気がつけば、真琴が困ったように祐一とガムシロップを見比べている。祐一は苦笑しながらそれを真琴の方に押しやった。
「そ、そうじゃなくて」
それに対して真琴が情けなさそうに答える。確かに真琴に用意されたガムシロップにも手をつけていない、それどころかミルクすら入れていない。
「無理するなよ」
「む、無理なんかしないもん」
そう言いながらも、ストローに口をつけたまま動かない、なにかをこらえるように眉根をきゅっと寄せている。
「……ま、いいか」
祐一は真琴の方へ押しやったそれを取り上げると自分のグラスの中に注いだ。
「……いいの？」
ストローから口を離して上目がちに問いかけてくる。祐一は答える代わりにミルクを流しこむことで示した。一瞬にしてグラスの中がぱあっと華やぐ。それを見て真琴がいそいそと祐一の真似をし始めた。
「同じだ」
「うんっ」
祐一の言葉に真琴がにっこりと笑う。そしてずっと甘くなったコーヒーを勢いよく吸いあげた。
「やっぱりこっちの方がおいしいよー」
口を離して笑顔で伝えてくる。
「そういうことにしておくか」
祐一もストローをくわえた。すると、真琴もまた同じようにくわえる。そしてふたりのグラスの中身が同じように減っていく。
「ところで、真琴はなにも頼まないのか？」
無言で見つめ合うことに照れを覚えた祐一は、グラスの中身が半分ほどになったところで、秋子のメモのことを口にした。
「ええとね、胸が一杯でなにも入らなくなっちゃった」
「そ、そうか？」
不意打ち気味に、誇張でもなんでも無い幸せ一杯の笑顔を向けられて、思わず顔がにやけてしまう。
「祐一は？」
「俺も……そうかな」
火に油を注ぐ自分の発言に顔が熱くなるが、真琴はご満悦のようで、うんうんと何度もうなずいていた。その表情を見て、祐一はまあいいかと思い直す。
「えへっ、えへへへ……そうだっ！」
が、それも一瞬のことであった。
「ん？ お、おい」
いきなりグラスを取り上げられて祐一は慌てたような声をあげた。それに構わず真琴は自分の飲みかけを祐一のグラスに注ぎこむ。氷のぶつかりあう音が響いた後で、再びグラス一杯のコーヒーができあがった。
それをどうするつもりだ、そう祐一が聞くまでもなく、トンと軽い音を立てて、グラスがテーブルのちょうど真ん中に置かれる。
「一緒だね」
氷が多めに入ったアイスコーヒーに二本のストローが交差した。
「……お前って、すごく大胆だよな……」
身を乗り出してストローに口をつけた真琴に、祐一は引きつった笑顔を向ける。周りの視線を痛いほど感じていた。
「ほらっ、祐一もっ」
祐一は、ひどく赤面した。
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