「…………ハァ」
あたしの吐いた息は白く濁り、そして消えていった。
……もうすぐ約束の時間だ。
そう、あの時と同じ時間だ。
刻が近づくにつれて、あたしの胸には、不思議な高揚感と焦りにも似た緊張よりも、不安の占める量の方が多かった。
こんどこそ、今度こそちゃんと、答えがかえってくるはずだ。例えその答えにあたしがいなくても、答えが出ないことのほうがもっと辛いから……
もう２度と、あんな事が起きないよう祈りながら、あたしは彼を待ち続けた……
あたしは待つ事を選んだのだから……
空には、一際強く輝く星が３つ、大きな３角形を描いていた。
しあわせのうしろすがた〜輝く季節へ〜
「ハァ……」
もう何度吐いたかも、わからない、ため息。
それに諦めの色が混じっている事を、あたしは認めたくなかった。
周りにはすでに人影はなく、あるのは濡れた紫陽花と、濡れたベンチたち。それにシトシトと降る雨音、そしてあたし。
思えば、こんな所で１人、じっと佇んでいるなんて、全然あたしらしくない。
そんな事は、少し考えればわかる事だ。いや、考えるまでもない。
どう考えても論理的ではない。 無駄が多すぎる。 合理的じゃない。
彼の家に行けば、それで済む事なのだ。
でも、あたしはこんな真夜中に、行き交う人もいない、そんな場所に、１人で座っている。
そう……来るかもわからない１人の人間のために、こんな雨が降る中で……待っている。
出会いは親友の友達として、そして、クラスメイトとして。
そう、ただのクラスメイトだった。
きっかけはあたしの妹だった。
彼があたしと妹の絆を、もう一度結び直してくれた。
だから最初は気がつかなかった、その気持ち。
そしてその気持ちに、蓋をしていることに、気付いたあたし。
そしてその蓋を取ってくれたのは……
「え、えへへっ、だからね…………わたし、祐一に……フラれ、ちゃった……」
「えっ！？ それ、どういうことなの、名雪……」
泣きそうな笑顔をしながら名雪にそう告げられたのは、梅雨の時期のある晴れた日の、夕方の公園だった。
「……なんで……」
「……えっ？ 」
「何で、名雪は相沢君に告白をしたのよっ！！？ だって名雪、いつかあたしに話してくれたことがあったわよね？ ７年前にもう告白して、その答えを……」
あたしの口から吐かれた、咄嗟に湧き出た感情から飛び出した言葉は、傷心中の親友に追い討ちをかけるような、そんな酷い言葉だった。
「あ……そ、名雪……ごめん……」
あたしは自分の友人にした過失に気付き、慌てて謝った。
「……いいんだよ、香里。わたしだった分かっていたことだもん……」
分かっていた？ フラれる事が？ それとも……
「そんな事は分かっているよ……でも、でも後悔はしたくなかったんだよっ！！ ……どんな答えでも、フラれる事が分かっていても、祐一の気持ちが訊けるなら！ 」
「わたし、もう、待つのは、待っているのは……辛いんだよ……」
名雪は、最後のほうは消えそうな声で、そう告白した。
「…………そう」
あたしはその言葉を、どんな気持ちで吐いたのだろうか。
――梅雨の合間のよく晴れた日――
七年前にも告白をして、答えを貰えなかった名雪の気持ちに 同情？
――心に傘を差した親友の告白――
それでも待ち続けて、そして待ちきれなくて、相沢君に告白をした名雪の想いに 切なさ？
――その告白をあたしはどう受け止めていたのか――
そして、待っていても決して来る事がなかった相沢君にだろうか 失望？
「……香里」
どれだけの沈黙が流れたろう、名雪の声がそれを破り、あたしを現実の世界へと引き戻した。
「な、何……名雪？ 」
「だからもう、わたしに遠慮しなくてもいいから……」
「……え？ 」
名雪の言っている言葉の意味がわからない。
「ごめん、香里。わたしの意気地が足りなかったから、気を使わせて……」
なぜ、名雪はあたしに謝っているのだろう？
「わたしがもっと早く、祐一に…… フ、フラれてたら、香里だって……」
「名雪っ！！ 」
あたしは名雪の言葉をかき消すように、大声で叫んだ。
ただ、その声は多分名雪に対してではなく、親友にそこまで言わせないと、自分自身の気持ちもわからなかった、あたしに向けられたんだ。
自分が……憎い。
「なに言ってるの、名雪！？ あたしは別に相沢君の事は……」
それに気付いてすら、言い訳する自分が醜い。
「わたしは香里の親友だよ……香里の気持ちぐらいわかるよ」
そして、それすら許してくれる、この親友が、悲しかった。
名雪は…………馬鹿だ。
「……ハァ、本当に名雪は、名雪ね」
「ム、香里、それどういう意味だよ〜 」
それ以上にあたしは……馬鹿だ。
「…………」
梅雨の合間の晴れた日、あたしは親友の失恋を聞いた。
「…………」
名雪のその告白は、誰に対してのものだったのだろう。
もしかして、名雪は自分のためではなく、あたしの……
「…………」
もしも、そうであるならば、あたしは……あたしの出すべき答えとは。
「いってくるね……名雪」
あたしは、泣きそうな顔を、名雪に見えないように、背中を向けてそう言った。
「……うん、頑張ってね、香里」
名雪は涙の跡が残る笑顔で、あたしに、そう微笑みかけてくれた。
「大丈夫だよ……きっと」
あたしはその名雪の言葉を最後まで聞くことが出来ず、走り出した。
あたしと親友の、意味の違う涙が、黄昏にゆっくりと溶けていった。
その日の夜、あたしは手紙を書いた。
場所と時間と宛名と、そして、大事な話があるということ、それだけを綴った手紙をあたしは、次の日、学校で相沢君に渡した。
「家に帰ったら、読んでよね。……絶対家に帰ったらよ！ 」
そう、いつものように振舞う事が、とても難しかった。
その日の名雪はいつも通りだったが、相沢君はそんな名雪に少々戸惑っているように見えた。
それが、あたしには不思議に見えた。
あたしは昼休みに、誰もいない屋上で、名雪に、今日、相沢君に告白する、ということを告げた。
「うん、香里ならきっと大丈夫だよ。ファイト、だよ♪ 」
そう、名雪は笑顔で、あたしを励ましてくれた。
失恋したばかりなのに、同じ男性に告白するあたしを、どうしてこうも笑顔で応援できるのだろうか。
あたしは、心の奥から、この親友の温かさに感謝した。
あたしはその日の放課後、帰宅して着替えを済ませると、手紙に書いた場所に向かった。
偶然か運命かはわからないが、今日は七夕といわれる日だった。
このときはまだ、星は輝いていなかったし、空も曇っていなかった。
だけどもう少しすれば、空には幾年も前の輝きたちが１年に１回、辿り着くこの場所で、その一瞬だけの刻を一緒に過ごすのだろう。
しかし、家を出てからすぐに、その輝きを遮るように雲が空を覆い始め、約束に指定した公園に向かう時には、雨が降り出してきた。
少なからず、ロマンチックな場面を期待していたあたしは、折り畳み傘を差しながら「これじゃあ星が見えないわね」と、つぶやいた。
だけど、ため息混じりにそう呟いた言葉には、落胆だけではなく、期待も混じっていた。
だけど、この雲は、短冊に書いた人々の願いを、空へと届けない。
叶わない願いは悲しみとなり、地に降り注ぐ。
「…………」
約束した時間から２時間が経った。
相沢君はまだ来ない。
傘をすり抜けていく少量の粒も、すでにあたしの服の裾を、びしょびしょに濡らすほどだった。
「もう少しだけ……もう少しだけ」待ってみよう。
相沢君がここに来ないのではないか、という気持ちを打ち払うかのように、あたしは、自分自身にそう言い聞かせていた。
ここに来ない、つまりそれの意味する事は……フラれたという事である。
「後、１０分だけ……それでも来なかったら諦めよう」
あたしはこの言葉を何回自分に言い聞かせてきたのだろう。そして後何回自分に呟くだろうか。
それでも、親友と同じ様に、待つ事を選んだあたしには、待つかあるいは……諦めるの選択しかないのだから。
いつのまにか雨は止み、雨雲の隙間から月の光が、まるで天使の降臨のごとく、地上に舞い降りてきていた。
「………………」
すでに約束の日は、１０分前に昨日という日に変わってしまっていた。
七夕という日は終わってしまったというのに、空にはまだ、織姫星と彦星が輝いていた。
まるで、あたしのように……諦めきれずに。
「あ〜あ、結局駄目だったようね、あたしも」
相沢君は結局来なかった。いくら相沢君が鈍感でも、あの手紙の意味する事は分かるはずだ。
それで、来なかったという事なのだから、これがその答えなのである。
「……フラれちゃった……」
あたしは、自分に、そう言い聞かせると、その１つだけあまり濡れていないベンチから立ちあがった。
今日、学校で、あたしは、普段どおり、相沢君と、挨拶を交わせるだろうか。
……名雪みたいに。
あたしの頬を濡らす雫は、願いを叶える事のなかった流れ星のように、すっと流れて、そして消えた。
その日、あたしは何をしたか、ほとんど覚えていないが、絶対に忘れる事のできない１日だった。
ただ、帰ってきたあたしに、母さんが名雪から至急連絡がほしいという電話があった事。
そして、名雪の家にかけた、電話の留守番メッセージに入っていた、相沢君が事故にあったことと、病院の名前を告げた名雪の泣きそうな声。
それだけ……はっきりと覚えている事はそれだけだった。
全治４ヶ月−−それが相沢君の容態だった。
急に降り出してきた雨による、車のスリップが事故の原因。
そして、相沢君が来なかった理由。
それが、あの時来なかった理由だったと、あたしは信じたい。
だけど、それを相沢君に直接訊くことは、あたしは……しなかった。
ただ単に、出来なかっただけ、ではない……あたしは待つ事を選んだのだから。
あの場所で…………
拝啓
あいざわ君、退院おめでとうございます。結局お見舞いのほうには一度も行きませんでしたが、それには、どうしても行け
なかった理由があったからです。あの日、相沢君が事故にあった日に、あたしが渡し
た手紙の事は覚えているでしょうか？思い出したくもないかもしれません。でも、覚えていてくれたら嬉しいです
が、多分もう忘れていると思います。またあたしがこうして手紙を書いて、相沢君に出すのは非常識だと分かっていま
す。だけど、あの七夕の日の事はあたしの中では、まだ終わっていないので、こうして再度手紙を書
きました。この手紙はあの日の手紙と同じ想いで書いています。明日○○時にあの公園にきてください。あたしはそこ
で待っています。あの日の、いえ、今の相沢君の返事を聞きたいで
す。では、相沢君が来てくれることを、切に願いながら筆を置く事にします。
敬具
「…………はぁ……」
我ながら、なんと恥ずかしい手紙なのだろうか。読み返してみると、顔から火が出そうだ。
あたしはまた手紙を書いてしまった。あの時のように。
だけど、今度の手紙には、あたしの気持ちを文章として、文字として表現したのだ。
これだけ、自分を出せたのなら悔いはない。
これでいい……これでやっと答えが出る。出るはずなんだ。
「……よしっ」
あたしは、自分にそう気合を入れると、椅子から腰を上げた。
後は、この手紙を、相沢君に会わないように、今日中に渡すだけだ。
一瞬、親友の顔が浮かんだが、それもすぐに消した。
これ以上、迷惑はかけられない。
自分で進ませるんだ……あの季節を、この気持ちを。
カーテンを開けると、部屋中に太陽の光が降り注いできた。
「早く仕度しないと、遅刻しちゃうわね」
あたしはそう呟くと、手紙を封に入れた。
今日は、久しぶりにいい気分で学校に行けそうだ。
「…………ハァ」
あたしの吐いた息は白く濁り、そして消えていく。
もうすぐ約束の時間だ。
空には満天の星空。
あの日は雲に覆われて見えなかったけど、今もあの時と同じように、一際輝く３つの星が３角形を形成し、見えにくいけれども、その間には天の川が流れている。
そう、あの時と同じように……
否が応にも、リフレインされる４ヶ月前の、空に輝く星の３角形の下で、待っていたあたし。
あの時とは違う意味の輝きを持つ３角形に、あたしは願った。
まるで七夕の日に笹竹に短冊をつるすように……。
……ジャリッ
不意の足音。
「そんなところで、なにやってるんだ、香里？ 」
不意にかけられた言葉。
「なにって……祈ってたのよ」
待っていた１人の人。
「祈るって、なにに？ 」
勇気をくれた１人の友人。
「そうね……デネブに、というところかしら」
勇気を出した１人の自分。
「よくわからんが、遠まわしな言い方だな」
その３つの星が
「まぁね」
再び出会い
「この手紙もそういう風に読んだ方がよかったのか？ 」
川の上に、３角形を描いた……
「……相沢君も、相当遠まわしな言い方するわね」
そして
「まぁな」
止まっていた季節は動き出す
「なによ、真似しないでよね」
この輝く星空の下から……
「でも、そんなところが、好きなのかもねっ」
「え、なんて？ 」
「なんでもないわよ♪ 」
ゆっくりと……
わたしはベランダから、星を眺めていた。
いつもならすでに寝ているはずの時間だったけど、今日は特別だ。
その隣には今年の七夕に使った笹竹があった。
ついさっき、物置で格闘して、引っ張り出してきたものだ。
今日ポストに入っていた香里の名前が書いてある手紙。
それを数時間前に退院してきたばかりの祐一に渡した。
祐一はそれに目を走らせると、すぐに家を飛び出していった。
「もう、祐一は、香里に会えたかな……」
こうなることは、あの時から分かっていた。祐一が誰を見ているか分かっていたから……
わたしもそれを祝福したのだからいいんだけど……
でも、なぜか今日の風は一段と寒く感じた。
「名雪〜、早くお風呂に入らないとお湯が冷めますよ。あまり外に出ていると風邪を引くから、早めに入りなさいね 」
「は〜い、わかったよ〜 」
わたしはそう言うと、部屋の中に入り、ベランダの鍵を閉めた。
ベランダにおいた笹竹には、七夕の時の短冊がまだ吊るしてあった。
祐一と、香里と、わたしが笑顔でいつまでも一緒にいられますように
名雪
結果のページ
戻る