『名雪…』
『俺には、奇跡を起こせないけど…』
『でも名雪のそばにいることはできる』
『約束する』
『名雪が悲しい時は、俺がなぐさめてやる』
『楽しいときには、笑ってやる』
『白い雪に覆われる冬も…』
『街中に桜の舞う春も…』
『静かな夏も…』
『目が覚めるような紅葉に囲まれた秋も…』
『そして、また、雪が降り始めても…』
『俺は、ずっとここにいる』
『もう、どこにもいかない』
『俺は…』
『名雪のことが、本当にすきみたいだから』
ただそれだけの日常
ただそれだけの日常
「朝〜、朝だよ〜。朝ごはん食べて学校行くよ〜……」
カチッ
布団から腕だけ出して目覚ましを止める。
「……眠い」
覚醒しきっていない理性を総動員して布団から体を起こす。猛烈に寒い。
それにしても、なぜ俺はこんな眠気を増長するような目覚ましで起きられるのだろうか。
目覚ましを手にとって見る。ざっと眺めてみたが、覚醒を促すような特殊装置は見られなかった。
しばらく、時計を眺めていたが、ふとあることに気がつき、時計のある部分に目をやった。
別に覚醒音波発射装置を発見したわけじゃない。ある部分とは、時計の時計たる部分、すなわち文字盤だ。
「ヤバッ」
いつもの時間よりかなり遅れていた。俺は慌てて録音機能つき目覚まし２世を棚に置くと、マッハで着替えを済ませ、階段を駆け下りた。
食卓に顔を出すと、そこはすでにコーヒーの芳ばしい香りに包まれていた。
「あ、おはよう、祐一」
朝の挨拶を投げかけてきたのは、背中まで伸びた青い髪を三つ編みにした女性だった。
いや、女性というには少し語弊があるかもしれない。酒とタバコが解禁になった今でも、彼女の雰囲気は少女だったころとあまり変わっていない。
「祐一…… なんだか微妙に失礼なこと考えてない？」
「いや、全然そんなこと無いぞ」
名雪のジト目をいつもの台詞で回避する。名雪はしばらく半眼でこちらを見つめていたが、やがてにっこり笑って席に着いた。
「まあいいよ。そろそろ朝ごはんにしよ。今日は誰かさんが寝坊したから、あんまり時間ないし」
「いや、寝坊したってわけじゃないぞ。ただ目覚まし時計の秘密機能についての考察をだな……」
「はいはい、それはいいから早く食べよ。本当に時間なくなっちゃうよ」
「……」
くそぅ、俺が朝食当番の週はギリギリまで寝てるくせに。俺は来週に言ういやみを考えながらも、黙って席に着いた。
「はぐはぐ、もぐもぐ…… いちごじゃむ美味しい」
さわさわ
名雪は相変わらず大量のイチゴジャムをトーストに塗っていた。『塗る』というよりはむしろ『盛る』に近い。
なんとなくアイスクリームが頭に浮かんだ。イチゴジャムがアイスでトーストがコーン。どっちがメインかは言うまでもない。
さわさわ
「わたし、イチゴジャムがあったら日本酒一升はいけるよ」
「気色悪いこと言ってないで、早く食え」
さわさわ
「……」
さわさわ
「……ねえ、祐一」
「なんだ？」
さわさわ
「なんでさっきからわたしの三つ編み触ってるの？」
「うむ、よく分からんが、幼馴染の三つ編みはどうしてもいじらなきゃいけないような気がしてな」
「ほんとによく分からないんだけど」
名雪は納得していないようだった。当然だが。しかし俺自身にも分からないんだからしょうがない。強いて言うなら大いなる意思だ。
さわさわ
「それにしても名雪の三つ編みを見るのは久しぶりだな。いや、一本の三つ編みは初めてか。どういう心境の変化なんだ？」
「うん、なんとなくね。もしかして似合ってない？」
「いや似合ってるぞ。あんまり違和感が無くて、一瞬秋子さんかと思ったくらいだ」
「ふふっ、ありがとう。知ってる？ わたしにとってお母さんみたいって言われるのは、最高のほめ言葉なんだよ」
名雪はそう言って嬉しそうに笑った。その笑顔はやはり秋子さんに似ていた。柄にも無く見惚れてしまう。
俺はそれを誤魔化すように、三つ編みから手を離すと、そっぽを向いて席を立った。
「さて、そろそろ行くか。そうそう、今日は遅くなるから俺の飯作らなくていいから」
「知ってるよ。北川君と香里、また喧嘩したんでしょ。昨日香里から電話があって、今日愚痴に付き合わされることになった」
「そっか…… 俺も北川のヤケ酒に付き合う予定が……」
俺たちは顔を見合わせ同時にため息をついた。
「それにしても、あいつらよくあんなに喧嘩ばっかりするのに長続きしてるよな。全く、たまには付き合わされる身にもなれってんだ」
「多分何回も付き合わされる身になってると思うよ」
……確かに名雪の言うとおりだった。そういえば俺たちも何度と無く喧嘩しては、北川たちに愚痴ってたような気がする。だが、
「でも内容が違うだろ。あいつらは俺たちがいろいろフォローしてようやく元の鞘に納まるけど、俺たちはイチゴサンデーで即決だ」
「……なんだかその言い方だと、わたしが何でもイチゴサンデーで許しちゃう単純女みたいだよ」
「そんなひどいことは思ってないぞ。１つ以外はイチゴサンデーで解決できるお手軽女ぐらいにしか」
「う〜、祐一極悪人だよ〜…… あ、でも…… ふっふっふ、祐一、そう言っていられるのも今のうちだよ」
名雪はなにやら悪の秘密組織の女幹部みたいな声で笑うと、足元のバッグから１冊のノートを取り出した。
「これがなんだか分かる？」
名雪が見せ付けてきたそれは、妙に古ぼけてはいるが、普通のノートだった。
ただ、なんだか猛烈にいやな予感がする。
「ふっふっふ、これはこの前お母さんの部屋を整理したときに出てきた、ジャムのレシピだよ」
「ジャムのレシピ？ それが一体…… ま、まさか……」
いやな予感は確信に変わった。あの忌まわしい、絶望と呼ぶことすら生ぬるいオレンジ色の悪夢が甦る。主に口の中に。
「まて名雪！ お前は第３次世界大戦の引き金ともなりうる超兵器を復活させる気か！」
慌ててノートを取り上げようとするが、それより一瞬早く名雪は立ち上がり、玄関に向かった。
そしてリビングのドアのところでこちらに振り返り、べーっと舌を出した。
「それは祐一の心がけ次第だよ。それじゃあお母さん、行ってきます！」
それだけ言うと、名雪は疾風の速度で駆けていった。
俺も立ち上がり、名雪の後を追おうと…… おっと、危うく挨拶を忘れるところだった。
「それじゃあ、秋子さん、俺も行ってきます」
食卓に飾られた秋子さんの写真に軽く頭を下げ、俺はすぐさま名雪を追いかけた。
そして今日も慌しい日常が幕を開ける。
『名雪…』
『俺には、奇跡を起こせなかったけど…』
『でも名雪のそばにいつづける』
『いつも…』
『いつでも…』
『いつまでも…』
『俺は…』
『名雪のことが、本当に好きだから』
了
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