PLAY
「相沢くん…」
「みずくさいな…祐一で良い、って言ってるだろ？」
春うららなる日の午後。
人気のない教室で向かい合う二人は、その声とは裏腹に緊張した面持ちでただ互いの顔を見つめる。
開け放たれた窓から吹き込む風は、緊張をほぐすように優しく彼らの前髪を揺らし、通りすぎてゆく。
どこか遠くで――鈴の音が聞こえた。
彼はその音にさらに緊張の色を強めると、何かに急かされるように口を開く。
「香里――」
緊張に、かすかに擦れる声はどこか艶を含む。
向かい合った少女は、その声にびくりと肩を揺らすと潤んだ瞳で彼を見上げた。蠱惑的な視線。
ともすれば吸い込まれてしまいそうな深淵の瞳は、しかし赤らんだその頬が、女神のような美しさを愛嬌ある妖精のそれに被らせる。
「――香里」
彼は再び、確かめるようにその名前を繰り返す。
彼女はもはや震えることなくその言葉を受け止めると、予期されたその先の言葉を待ち、焦がれるように期待の視線を向ける。
「香里」
あふれ出る想いを止められないとばかりに、思わずもれ出た感のその名を空へ残すと、彼は唐突にその頤をあげる。
決然としたその表情。わずかの逡巡ののちに発された言葉には、凛々しさと脆さの相まった不思議な韻律を含み。
「…付き合って、くれないか？」
『PLAY』
「――で？」
いくら誇張した所で空しさだけが残る。
俺、相沢祐一は一度大きくため息をつくと、うってかわった無表情でこちらを見つめるノリと察しの良い友人にある種の憎らしさを感じながらも、その胸の内を告げる。
「頼む。一週間…いや、三日で良いから、恋人のフリをしてくれ」
その後語る事の顛末はあまりに情けなく、思わず自動拳銃をこめかみに当てたくなる衝動に駆られるが、この際いたしかたない。
アイスクリームが主食の彼女は気まぐれで連絡不能、うぐぅが口癖の彼女は嘘が下手すぎて話にもならないし、イトコの彼女や自称ものごしが上品な彼女はすでに恋人でないことが知れている。
無口な先輩はどう控えめに見ても淡白な素行が恋人に見えないだろうし、その親友のにこやかな先輩にだけはこんな格好悪い所を見せたくない。
転校生である俺にこれ以上の女の友人は思い当たらない――目の前の彼女を除いては。
「――はあ」
その頼みの綱である彼女は俺の前であからさまなため息を吐くと、あろうことか血を吐く思いで語ったその懇願を一言の元に伏した。
「嫌よ」
その理由を、彼女はこう語る。
「面倒くさいもの」
思わず閉口した俺は、しかしこれで諦めるわけにもいかず、恥を承知で頼みこむ。
――どうせ有か無かの法則に則った恥だ、基準値をこえる恥の上塗りなどないも同然。
「頼むっ。香里だけが頼りなんだっ」
目前の机に両腕をつき土下座すらしそうなほどの勢いで頼むと、さすがに同情を誘ったのか香里は苦笑すると人差し指を押し上げイタズラな笑みを浮かべる。
わずかに染められた頬は恥じらいによるものか、憤慨によるものか。分からないが、つりあがった彼女の口から発せられたのは、一つの交渉だった。
見返りを求める了承。限定条件。ギブアンドテイクの美しい精神、大いに結構。
ただその先の提案は俺のふところ事情を著しい窮地に追いこむものであったが…どうせ付き合うフリにも金は掛かる、死なばもろとも・毒を食らわば皿まで、だ。
「…しょうがないわね。百花屋のショートケーキセット３回で手を打つわ」
「――良かろう」
眉根をよせ、重々しくうなずいた俺は、まず手始めに呼称を改めるよう、再度呼びかけた。
◆
事の顛末は、こうだ。
いつもの時間、いつもの場所、いつものように。
僅かなドアや床のきしみ、衣ずれの音。
もういつの間にか慣れてしまった、この時間になるといつの間にか自然と覚醒してしまう意識。
忍び寄る息づかい、生唾を飲みこむ、その音。
――そして何をしようというのか、顔に直接息づかいを感じるほどに闖入者のそれが近づいた、その刹那。
「こらぁぁぁぁぁぁぁぁ！！」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ！！」
トツジョ奇声をあげ跳ね起きた俺に、これすらもまたいつものようにのけぞり、素直に驚く少女の声。
ほぼ恒常化した近所迷惑も甚だしいその奇行に、もはや秋子さんも名雪も起きてくる気配がない。
俺はあらかじめ握っておいた、天井からだらりと下がった電灯の紐をひっぱると、明りに映しだされた半泣きでシリモチをつく少女の姿を確認し半眼で睨みすえる。
「――真琴」
「あうぅ…」
ボウと焦点の定まらぬ視線で俺を見つめる真琴の姿。
ただ俺の怒気だけは伝わるのか、低くうなるように絞りだした声に対し、仄かな怯えと困惑の色を混じらせたおなじみの声を漏らす。
「まぁこぉとぉ…いつもいつもいつもいつも！！」
俺はそう言いながら、腰が抜けたのか未だに立ち上がろうとしない真琴へとベッドを降り大またで近寄ると、こめかみに両のコブシを押し当てる。
ひねりを加えたその圧迫に呆然の態にあったさしもの真琴も、悲鳴をあげる。
「痛い痛い痛い痛いっ。何するのよぅ！」
「何するのよぅ、はこっちのセリフだ、バカ！お前、毎度まいど近所迷惑だって分かってやってンのか！？」
その近所迷惑の原因が俺にも多分にあるのは秘密だ。
とまれ、自分のことは棚にあげて怒鳴る俺の剣幕に、真琴はその事実に気付きもしない。
「あう…」
激昂した様子から一転しショボンとうなだれる真琴。
もちろんこうなることを想定して必要以上の怒気をはらませてみたのだが――何だよ、これじゃあ俺が悪人みたいじゃないか。
真琴のこう言った素直さには好感が持てるが、同時に卑怯にも思う。…俺は悪くないぞ？
そうは言うも、やはり自らに非があるのもまた事実。かてて加えて、毎夜はた迷惑な襲撃者とは言え、いっぱしの女の子であることに変わりはない。
フェミニンな精神を持ちあわせる俺は釈然としない気持ちを感じつつもうつむく真琴の頭をワシャワシャとかき回すと、俺も怒鳴ったりして悪かった、とだけ告げる。
その言葉に真琴はちらりと上目づかいでこちらの様子をうかがうと、突然両の手をすり合わせてモジモジしながらチラリチラリとさらに何度もこちらの様子をうかがいだす。
…なんだ？様子がおかしい。
いつものように調子に乗ってなにやら叫びだすかと思ったのだが、これは予想外の反応だ。
頬を染め恥じらいに似た動作をせわしなくくりかえす真琴が妙に可愛く映って、俺は頭をふって垣間見た幻視を追い出すと、いまだ変わるところのない様子の彼女へと問いかける。
「…どうした？」
その声に彼女はぴたりと動きを止めると、わずかな間を置いてポツリと一言だけ、トンデモナイコトをたずねてきた。
「祐一、恋人いる？」
「ごほっ！ごはっ！」
俺は予想をはるかに逸する真琴の問いに思わずせきこむと、錯乱した真琴を気違いを見るような視線で見下ろす。
そんな俺の表情を見てどんどん不機嫌になる真琴に、俺は気を取り直して笑みを浮かべるが、右目が痙攣して上手く笑うことができない。
「なによぅ、バカにして！マンガで読んだんだから、モテる男の人には恋人がいるって！」
間違ってはいないが問題ある真琴の知識に俺は苦笑すると、柔らかくそれを諭す。
「バカ、あのな、真琴――」
「バカってなによ！どうせ祐一なんてユージューフダンのカイショーナシだからいないんでしょ！」
衝撃。瞬間、俺の胸には一本の矢がつきたっていた。あまりの衝撃と激痛に俺はきりもみしながら宙を舞――ったような気分にこころもちなり、その場にがくりと膝をつく。
どうせ真琴のことだ、言葉の意味などろくすっぽ理解もしていないのだろうが、あまりに思いあたる節が多すぎて一人激しく傷つく。
「き、気にしていることを…」
口の端をひくひくと引きつらせながら体勢もそのままに真琴を見上げる俺に、真琴はバカにしたような笑みを浮かべるとナイムネをそらして大威張りで言い放つ。
「図星みたいね」
ホントむかつくヤツだなこいつ。
さきほど感じた可愛らしさはどこへやら、相も変わらぬ蔑むような笑みを浮かべて俺を見下す真琴。
…そう、後々考えればどうしてこんな意味のない虚勢を張ってしまったのか。
俺はこのとき判断を誤った。冷静な判断を下すことができなかった。
俺はこのとき、こう思ってしまったのだ。
すなわち、ここでいないと言ったら男がすたる、と――。
◆
ちりん、とさらに近くで鈴の音が聞こえる。
これは彼女なりの牽制なのか――いや、本当に単なる尾行のつもりなのだろう。
普段から抜けた所のある彼女は、こちらにその存在を気取られていることを、それこそ気取ってはいまい。
俺は真琴に気付かれぬよう小さくため息を吐くと、隣で揺れる頭ひとつ分小さな影を見下ろす。
八面玲瓏の言葉がぴったりと似合う彼女は、何を考えているのか分からない無表情で、泰然とただ歩いている。
「――なに？」
じっと見つめるこちらの気配に気付いたのか、香里がそう言いながら振り向く。
「…いや」
俺はねばつく口内にかすれた声を２度３度せきをして元に戻すと、再び口を開く。
「あいつだ」
そう言いながら俺はちょうど通りがかった、真横にあるデパートの店先のガラスを指で示す。
太陽の反射光によって鏡と化したそのショーケースには、俺たちの後ろをいかにもつけていますとばかりにぴったりとついてくる影が一つ。
長い金髪を左右で結んだ小柄な少女。真琴だ。
彼女はわずかに首を動かしてそちらを確認し問い返す。
「マネキン？」
「違う！」
と、ひやりとした冷たさを唇に感じ、不意をつかれた予期せぬ感触に俺はとまどい黙りこむ。
思わず語気を荒くした俺を人差し指を俺の唇に当てて黙らせた彼女は、冗談よ、とつぶやいた。
「あの金髪の女の子？へえ、可愛い子じゃない」
「冗談はよせ。いきなり人に殴りかかってくる悪魔のようなやつだぞ、あいつは」
唇をなでながら言う俺の言葉に香里は軽く肩をすくめると、唐突にうってかわった空々しいほどの笑みを浮かべ、腕を絡めてくる。
腕に押しあてられたやわらかい感触に先ほどの比ではなく心臓が脈うち、同時に強く狼狽の念をいだく。
「な、何を…」
「何言ってるの、恋人でしょ」
当たり前のようにそう言って、香里は思わずどきっとするような極上の笑みを俺へと投げかけると、恋人よろしく俺の腕をひいて道の端へ寄りウィンドウショッピングを開始した。
きゃっきゃとはしゃぎなら服を見歩くその様子は正に恋人のそれで、一変した彼女の様子に俺は目を白黒させるばかりだった。
◆
「役得、役得」
彼女はほくほくと満足げな笑みを浮かべると、対して覚悟していたことではあったが、財布に深刻なダメージをこうむりため息の止まらない俺を見上げ、小憎らしい笑みを浮かべる。
気持ち次第でこうも捉え方が異なるのかと、さきほどの極上の笑みと同様のそれを浮かべる香里を見下ろしながら、再度のため息を吐く。
「今日はありがとうね、あいざ…祐一くん」
言い直す香里だったが、しかしそれを聞かせる対象である真琴は途中で帰ってしまったようで、その姿を確認する事は出来ない。
…当然だ。なにしろ３時間も見て回ったからな。
およそオシャレという言葉からはほど遠い真琴には苦行以外のなんでもなかっただろう。
もちろん女の子のオシャレになど興味のない俺にとっても、だ。
「今日だけだからな、俺がおごってやるのは」
苦虫をかみつぶしたような顔で俺はそう香里に宣告する。と言うより、実際問題金がない。
別に香里が考えなしにアレもコレもとねだったワケではないのだが、そこは情けないことだが元からひっ迫していた俺の経済事情、わずかな出費が致命的なものとなる。と言うか、もうなっている。
香里はそんな俺の胸と財布のうちを察してか苦笑しながら、わかったわよ、と言うと柔らかな笑みを浮かべる。
先の喜悦からくる笑みとは質の違う、慈母的な微笑み。
俺はコロコロと表情を変える香里の仕草に一瞬目を奪われるが、それを気取られぬうちに、ごまかすように礼を述べる。
「今日は悪かったな」
「お礼なら早いわよ」
そう言って香里はくるりとその場で半回転すると、肩ごしにニヤリとイタズラな笑みを浮かべる。
「まだ、あと２日あるでしょ？」
「――ああ。よろしく頼む」
言葉に窮しながらも、なんとか返事を返す。
常の冷然とした態度とはちがう、先からの小悪魔的な香里の仕草に完全に意気をのまれる俺。
これが恋人になりきるための演技であるのか、いつもが演技であったのか。
分からないが、今まであまり異性として意識したことのなかった香里だったが、１８０度そのベクトルの向きが変わった一日だった。
再び並んだ俺のとなりで楽しげに明日の計画を練る香里の声を聞きながら、俺は不思議と穏やかになりゆく気持ちを感じていた。
◆
「遅いわよ」
ぽかぽかと暖かい陽気。日曜、朝と言うには遅く、昼と言うには早い、約束からちょうど三日目の麗かな午前。
息せき切って駆け込む俺に、香里は開口一番そう言い放った。
「悪い、遅れた」
俺は荒らぐ息を肩で整えながら、一昨日からの影響が抜け切らないのか、すねたように口をとがらせて言うその仕草すらも可愛らしく見える香里に思わずゆるむ頬を、無理やりひきしめて言う。
時刻は１０時５０分、待ち合わせからゆうに２０分は過ぎている。
それと言うのも真琴に見せつけることが目的のこのデートであったが、前日にその旨を伝えわすれ、昼まで寝る勢いであった真琴を迅速かつさり気なく起こし、さらに世間話にみせかけその旨を伝え、水瀬家からノンストップダッシュで駆けつけてきた次第だ。
…真琴にはぶうたれられた上露骨にあやしまれ、さり気なくも何もあったものではないがな。
とまれ、真琴が現れるまではもうしばらく時間がかかりそうだ。
俺はご立腹の様子の香里をなだめる意味もふくめ、平身低頭、駅が見える近場の喫茶へと向かった。
◆
かさむ出費にもはやため息すら出ない俺とご満悦の様子の香里。
二人の気持ちは常に相対の関係にあるのか、あるのだろう、底意地の悪い普遍的真理に内心毒づきつつも、すっかり冷めてしまったコーヒーカップを口元へあて、傾ける。
熱を失った黒色の液体はさらに酸味を増し、不快な味が舌へと広がる。
俺はテーブルのすみからそなえつけの砂糖を選ぶと、どさっとカップへと注ぐ。
一瞬奇妙な表情をした香里が目に入ったが、気にせずコーヒースプーンでかき混ぜると再びその中身を口に含む。
「甘っ」
さすがに、少量のコーヒーに計量スプーン山盛りの砂糖は多すぎたのか、甘いを通り越して吐き気を誘うほどのマズさとなり果てている。
俺はすでに飲めたものではなくなったコーヒーに、カップを乱暴にソーサーへ戻すと、駅前へ視線を向ける。
と、そこに揺れる二筋の金の尻尾を確認する。キョロキョロと焦ったように不審な挙動をくり返す尻尾の主に、俺は香里へと視線を戻すと、いまだニコニコとケーキをほおばる彼女へと告げる。
「そろそろ行かないか？」
「ふぁふぃふぃっふぇんふぉふぉ」
「食べてから喋れ」
一昨日までの香里ならば絶対に見せることのなかった光景、ケーキを口に含んだまま理解不能の言葉を発する香里をあきれながらいさめると、香里はごくりと口の内容物を飲みこみ優雅にコーヒーをすすり、あまつさえナプキンで口を拭いて息を一つ吐くと、改めて口を開く。
「なに言ってんのよ、まだ食べてるでしょ」
「いや、しかし…」
俺が視線だけで駅前を示すと、香里はちらりとそちらを見やり、ぷっと唇を突き出す。
「わかったわよ」
再び機嫌を損ねたご様子で、半分ほどショートケーキを残したままで香里は立ち上がると出入り口へ向けズンズンと歩いてゆく。
「…はあ」
何で財布を薄くしてまで怒られなければならないのか、再びその理不尽な普遍的真理へ心中毒づきながら立ち上り香里のあとを追う。
まるで子供だ。普段の知的な彼女はどこへ行ってしまったのか。
これが甘えからくる本心なのか、そもそも演技であるのかは相変わらずつかめないが、一つだけ言えることがあるとすれば、香里と付き合うやからは苦労するだろう、ということだ。
それこそ、俺には何の関係もないことなのだが。
◆
「それで、どこに行くの？」
後日埋め合わせをすると言うことで泣く泣く彼女の機嫌を買った俺は、真琴がこちらに気づいたことを確認すると、しかめっ面しい顔のまま一枚のチケットを手渡す。
「映画？」
「ああ」
香里はそのチケットを見て、小さく口笛を鳴らす。
「へえ、これ見たかったのよね」
ざん新なカメラワークと懐疑論にもとづく秀逸な世界観で一世を風びした映画の第三部・異例の世界同時公開。
そんなテロップが流れる昨今、先日公開されたこの映画は初日から盛況を飾り、いまだに長蛇の列を作っており見ることは難しい。
その中で全席指定制映画館のチケットはより希少で、一週間以上先までの席がほぼ完売する驚愕の売り上げを記録している。
俺はどこから手に入れたのか、秋子さんからもらったこのチケットの片割れを香里へ渡すと、ちらりと後ろを振り返る。
――もちろん、真琴の分も用意してあった。
映画を見るにはあまり良い位置ではないが、こちらの様子が逐一監視できるやや上方すみの席。
さすがに公開数日目ともなるとすみの席はちらほらと空きが目立つようになる。
やはり映画を楽しみづらいそれらの席は敬遠されがちだが、どうせ真琴のこと、複雑なあの内容を理解できるとは思えない。
などと失礼なことを思ったりするが、映画に夢中になられても逆に困る。適度にこちらを気にしてもらわなければならない。
そういった経緯から俺は昨日香里を送った帰りにこのチケットを購入、今朝方真琴にチケットも渡し、準備は万全だ。
ただ一つ気になることがあるとすれば、さり気なくあまりだと渡し、なくしたらいけないから財布に入れとけよ、と言った俺の言葉をあのショボショボとした寝ぼけまなこが聞いていたかと言うことだ。
もしも真琴がチケットを持っていなかったらこの計画はパー、むだな出費がさらにかさむことになる。
俺はただ、真琴が人の忠告をきちんと聞く素直なヤツであることを祈るばかりだ。
「…ねえ」
俺が天をあおぎながら神へ祈っていると、横から香里がそでを引っ張ってくる。
幼児のようなその行為に思わず微笑が漏れるが、俺はきゅっと表情を引きしめると再び天を仰ぎ、言う。
「なんだよ、今神に祈ってるんだよ」
「バカなことやってないで、開始まであと５分しかないわよ」
ぎょっとしてそでをまくり腕時計に示された現時刻とチケットに指定された時間を見合わせると、なるほど、確かにあと５分しかない。
映画館までは急いで５分。
「…………」
「…………」
俺たちは無言で顔を見合わせると、同時に駆け足で映画館へ向かった。
その瞬間には、どうにも真琴の存在を忘れていたように思う。本末転倒だった。
◆
映画館を出ると同時にふりそそぐ日光がいやにまぶしい。何となく、吸血鬼の気持ちが分かる気がする。
そんなことを思いながら隣を見ると、同じようにショボショボとした目を細めて天をふりあおぐ姿。
この際映画品評に関する会話は割愛させてもらうが、決して至高とは言いがたいものであったとだけ、言っておく。多大な期待をかけていた分、そう思うだけなのかもしれないが。
とまれ、その後ファストフード店で軽く昼食を済ませた俺たちは、ぶらりぶらりと商店を冷やかし歩いて周り、公園へとたどり着く。
時刻は午後６時ほど、健全な解散にはちょうど良い頃合。予定では、このまま解散、恋人ゴッコはこれで終了を告げる。
赤く染まる公園に俺はなぜだか若干のもの悲しさを感じている心をもてあましながらも、少しでも時間を引き延ばそうというようにゆっくりゆっくりとベンチまで歩く。
香里ももはや何も言わず、ただ黙って俺の隣をゆっくりと、一歩一歩を確かめるように歩いている。
いつしか絡められていた二人の指は、その熱を失うことを恐れるようにぎゅっと強く結ばれている。
それはただの俺の独りよがりなのかもしれないが、決してそれを振りほどこうとはしない香里に気持ちは少し後押しされる。
ようやく公園の中央までたどり着いた俺たちは、惜しみながらも手を離すと、一歩ほどの距離を置いて対峙する。
彼女の表情は、ちょうど陰になっていてはっきりとは見えないが、俺には赤く染まる彼女がとても儚げに見え、思わず腕が上がるが、その手のひらは何を掴むこともなくただ握りしめられ、再び重力に従う。
「…祐一くん」
たった３日。されど３日。
その、長いとも短いとも言える３日間で、俺はずいぶんと彼女へ抱く気持ちが変わったように思う。
はじめて会ったときは冷たい女だと思った。そしてイトコの親友としてなじむうちに、ただそれが誠実の裏返しなのだと知った。
そして、この３日。今までのイメージは打ち砕かれ、新たな彼女を知った。
意外によく笑うこと、見た目よりも幼いこと、怒りっぽいこと、それが甘えの裏返しだと思うのは俺の欲目だろうか。
何にせよ――俺はどうやら、彼女とゴッコ遊びをするうちに、いつしか彼女に惹かれていたらしい。
「香里」
「待って」
香里は俺の表情から何を感じ取ったのか、俺の言葉にかぶせるようにして静止の言葉を放つと、見えない表情のままに話し始めた。
「これは恋人ゴッコ、だったわね。あなたは私といる間、私ではない誰か…あの金髪の少女を、いつも気にしてた。
それはそう、私は手段であって目的じゃないんだから当たり前なのだけど。
それでも、私がどれだけ傷ついていたか分かる？ もちろん、私の言い分が勝手だってことは分かってる。
それでも――私が、私だけが頼られていると言われたあの時、どれだけ嬉しかったか、あなたは知ってる？」
彼女はそう、一息にまくし立てた。
それは、彼女の胸のうちを伝えるには十分すぎる言葉。
「あなたは私を傷つけた。理不尽でもなんでもいい、傷つけたの。
――この責任は、重いわ」
彼女はそこで言葉を止めると、小さく一歩だけ、前に進み出る。
瞬間露になった表情は、言葉とは裏腹に多分の緊張を表している。そして、不安を。
彼女はしばらく恐れるように俺を見つめると、やがて静かに口を開いた。
「祐一くん――責任、取ってくれる？」
この後の経緯は割愛させてもらいたい。なぜなら、誰もが想像するとおりだろうから。
◆
「それにしても」
「なによ」
「お前、映画館にはいただろ？あの後どこに行ったんだ？」
「帰ったわよ」
「何でだ？」
「あのね…あんな見てるこっちが恥ずかしくなってくるくらい熱々のお二人さん見てるくらいなら、家で漫画読んでいたほうがマシよ」
「…………」
「…悔しいけど、私じゃ祐一にあんな顔させられないしね」
「あ？」
「なんでもない」
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