あゆちゃんが長い眠りから目を覚まして以来、ずいぶんと時が経ちます。
退院してすぐに水瀬家に迎え入れられて、今では、あゆちゃんもすっかり家族の一員です。いつも穏やかなほほえみを絶やさない秋子さんと、マイペースだけどとってもやさしい名雪さん、そして、あゆちゃんにとって一番大切な人、祐一君の三人に囲まれて、彼女は幸せいっぱいです。
祐一君と名雪さんもこの春に大学生となって、勉強やアルバイト、サークルに、忙しい日々を送っています。みんなと一緒にいられる時間が少なくなっても、あゆちゃんはさびしくなんかありません。さびしさなんかよりも、もっとずっと大きな幸せに、あゆちゃんは包まれているのですから。
今日は、そんなある日のあゆちゃんを見てみることにします…。
青い空を見上げて
５月の柔らかな朝日が差し込んで、水瀬家の居間をあたためています。
ゴールデンウィークの連休。今日はこどもの日。どこかに出かけるという風もなく、水瀬家ではいつもと変わらない、休日の朝の光景がみられます。
秋子さんは台所で洗いものをして、あゆちゃんと祐一君は、用意された朝食をおいしそうに食べています。名雪さんは……まだ部屋で寝ているみたいですね。休日は寝かせておくことが、了解事項のようです。
「ごちそうさまー」
朝食を食べ終えて、ふたりは食器を台所に運びます。
台所を出る時に、あゆちゃんがふと、足を止めました。
「あ…」
小さく声を上げて、そのまま動きません。その目は、壁に掛けられたカレンダーに向けられていました。
「どした、あゆ。蝋人形ごっこか？」
動かなくなったあゆちゃんに気が付いて、祐一君が声を掛けます。けれどあゆちゃんは、あ、の口をしたまま、何も答えません。ただカレンダーの、今日の日付けを見つめたままです。
「ああ、今日はこどもの日か」
あゆちゃんの視線の先を目ざとく読んで、祐一君が言いました。その表情はどこか、いたずらっぽいものになっています。
「で、つまりは何を買ってもらおうか考えてるわけだ」
「違うよ…」
ようやく、あゆちゃんが返事をしました。でも、いつもの元気さがありません。
「別に我慢することはないぞ。せっかくのこどもの日なんだから遠慮するな」
「ボク、子どもじゃないもん」
「それに知ってるか？ ５月５日は端午の節句って言ってな、男の子の成長を祈る日なんだよ。あゆにぴったりだろ？」
「ボク女の子…」
「子？」
「…うぐぅ」
祐一君も相変わらず、意地悪です。でも、これも彼なりの愛情表現だと分かっていれば、ほほえましい限りです。
「祐一さん、そろそろ時間ですよ」
「あ、そうですね」
洗いものを終えた秋子さんが、エプロンで手を拭きながら声を掛けました。祐一君は、今日はアルバイトの日のようです。
「じゃあな、あゆ」
ぽんぽんと、あゆちゃんの頭をなでて、祐一君は玄関へと走っていきます。
「ボク、子どもじゃないもん…」
あゆちゃんの抗議の声も、大急ぎで玄関を出て行った祐一君には届きませんでした。
居間には必然的に、あゆちゃんと秋子さんだけが取り残されます。
祐一君にいじめられて、少しばかりうつむいていたあゆちゃんですが、すぐにまたカレンダーの方に向き直りました。子ども扱いされたことさえ、もうどうでもいいといった様子です。
「どうしたの、あゆちゃん。今日は元気がないみたいだけど」
普段なら、迷うことなく秋子さんに泣きを入れる（この行動そのものが、まさに子どもなのですが）出来事なのに、今日はそれが見られません。そのことに、秋子さんが気付かないはずがありませんでした。
「…なんでもないよ」
たっぷりと間を置いて、あゆちゃんが答えます。
「そう…」
秋子さんもそれ以上は、何も訊こうとはしませんでした。
午後になっても、やっぱりあゆちゃんの元気がありません。
名雪さんがサークルの用事で出かけてしまって、今日の買い物はあゆちゃんと秋子さんのふたりでした。
すっきりと晴れた青空のもと、川沿いの道を並んで歩きます。
いつもならば、晩ごはんは何にしようかとか、祐一君はちゃんと仕事してるかなあとか、他愛のない話に花を咲かせるのですが、今日のあゆちゃんは、自分からは何も話し始めません。秋子さんに話題を振られた時だけ、いつもの自分を思い出したように明るくふるまうだけでした。
ふたりとも何も話さない時間が、少し長く続いています。けれどそれは気まずい雰囲気ではなくて、まるで今のふたりに必要な「間」であるかのようです。秋子さんも、穏やかな表情のまま、あゆちゃんの隣をゆっくりと歩き続けます。
暖かな風が通り過ぎて、あゆちゃんの肩にかかる髪を、ふわり、と浮かせました。
「ねえ、秋子さん」
あゆちゃんがようやく口を開きました。声が、かすかに震えています。
「なあに？ あゆちゃん」
「秋子さんも、名雪さんに忘れられたら…嫌だよね…」
うつむいたまま、今にも消え入りそうな声であゆちゃんが言いました。
秋子さんにとって、その問いは想像の範囲外だったのでしょう。少しだけ、困ったような表情を浮かべて、となりを歩くあゆちゃんを見つめています。
「どうして、そんなことを訊くの？」
いつもの穏やかな表情を取り戻してから、秋子さんが問い返します。
「今日、お母さんの誕生日なんだよ…」
「あゆちゃんのお母さんの？」
あゆちゃん、黙ったままうなずきます。
「そうなの…」
秋子さんは、あゆちゃんから視線を外して、少し先の地面を見つめながら歩き続けます。あゆちゃんにかけてあげる言葉を、見つけかねているようでした。
「なのにさ…っ」
あゆちゃんが足を止めて、言葉を詰まらせます。秋子さんもそれに気が付いて、あゆちゃんの方に向き直りました。
「なのにボク、そんなこともすっかり忘れてて…、お母さんの誕生日なのに…」
歯を食いしばって、その表情は今にも崩れてしまいそうです。
「ボク、悪い子だよね…」
あらあら、あゆちゃん、泣き出してしまいました。
せっかくの五月晴れが、これでは台なしです。こんな、雲ひとつなく澄み渡った青空には、あゆちゃんの元気な笑顔がぴったりだというのに。
そんなあゆちゃんの様子を知ってか知らずか、太陽は今日もさんさんと輝いて、そばを通る川の水も、いつも通りに、ただ、さらさらと流れていくばかりです。
服の袖で涙をぬぐうあゆちゃんのしぐさが、いじらしくも、やっぱり子どもっぽくもあります。
このままでは泣き止みそうにないあゆちゃん。秋子さんがその正面でかがんで、あゆちゃんとまっすぐ向かい合いました。
「あゆちゃんのお母さんは、幸せね」
「え…？」
幸せね、と言われた、その理由が分からなかったのでしょう。あゆちゃんが泣きはらした顔そのままを、秋子さんに向けました。
「だって、こんなにも自分を思ってくれる娘さんに恵まれたんだものね」
そう言って秋子さんは笑って、あゆちゃんの頭をなでてやります。
「そう…かな？」
「ええ。でも泣いてばっかりいたら、お母さんに心配かけるから…ね？」
「うん…」
恥ずかしがりながらもうなずいて、あゆちゃんがようやく、泣き止んでくれました。
ふたたび、ふたり並んで歩き始めます。
秋子さんから手渡されたハンカチで目じりをぬぐって、あゆちゃんも少し元気を取り戻したようです。赤くはれてしまった目も、すぐに元通りになるでしょう。
けれどまだ、あゆちゃんの表情には、何かを考えているような色が残っています。お母さんの誕生日を忘れていたことを、まだ気にしているのでしょうか。
そんなあゆちゃんの心の中を見透かしたかのように、秋子さんが言いました。
「ねえあゆちゃん、知ってる？ こどもの日ってね、お母さんに感謝する日だっていうこと」
「え？ そうなの？」
知らなかったのでしょう。あゆちゃん、素直に驚いています。
「だから…ね」
秋子さん、ふふっと笑って、
「ありがとう、って言うの、どう？ お母さんへの誕生日プレゼントに」
「え？ けど…」
あゆちゃん、もじもじして、うつむいてしまいます。
「あら？ ひょっとして恥ずかしいの？ ありがとうって言うのが」
「ち、違うよ！」
「じゃあ、どうして？」
「う…」
珍しく、秋子さんがあゆちゃんに意地悪をしています。
あゆちゃんも返す言葉がないのか、またまたうつむいてしまいました。
「ねえ、あゆちゃん」
今度は、秋子さんが足を止めます。穏やかな表情はいつも通りですが、その瞳はそれ以上の優しさをたたえていました。
「あゆちゃんのお母さんも、あゆちゃんが大きくなるまでしっかりと育ててあげたかったって、きっと思ってると思うの」
「うん…」
「でもお母さん、早く亡くなっちゃったけど、お腹を痛めてあゆちゃんを産んで、何年かだけでも、大切に育ててくれたのよね」
「うん…」
「だからね、その何年か育ててくれたことにだけでも、『ありがとう』って感謝してくれたら、それだけで、お母さん、喜んでくれると思うの」
「…うん」
うなずきながら、あゆちゃん、また泣いてしまっています。感謝の思いが、言葉よりも先に溢れてきてしまったかのようです。
「言えるわよね？」
「うん…」
泣き顔のまま、あゆちゃん、それを青い空のかなたに向けました。涙はあとからあとから溢れ出ています。それでも、あゆちゃんは笑っていました。
「お母さん、ありがとう！ ボク…お母さんのこと、大好きだよっ！」
それは、近所の人たちがびっくりしてしまいそうなほどの大きな声でした。
やっぱりあゆちゃんには、その笑顔が一番似合っています。それを見る人にさえ、幸せを運んできてくれそうな、そのまっすぐな笑顔が。
「じゃあそろそろ、行きましょうか」
「うんっ」
商店街も、もうすぐ近くです。
「ねえ、秋子さん」
「なあに？」
あゆちゃん、はにかむような表情で。
「その…お母さん、聞いてて、くれたよね？ さっきの…」
秋子さん、にっこり笑って。
「ええ、もちろんよ」
あゆちゃん、ぱっと表情を明るくして。
「うんっ」
ふたりは、商店街へと入っていきました。
ええ、大丈夫ですよ。
あなたの、日々の幸せも、笑顔も、もちろん、その感謝の思いも。
みんな、ちゃあんと、この私に――お母さんに、届いていますよ…。
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