影
あたしは、おびえていた。
「影」に。
ストーカーとか、不審者とは違う。
『妹』の影に。
今日も気がつけば、階段を昇って屋上に来ていた。
多分、あたししか開けていないドアを開けて、外に出る。
あたしは、歩いていた。
ただ、屋上に行くが為に。
屋上。
あるのは無機質な床と、落下防止のフェンス、それに青い空。
誰も、いない。
食堂で買ってきたジュースを片手に、空を眺める。
此処は、他にすることのない場所。
空。空。空。ただひたすら青いだけのモノ。
そこに空がある必要性なんか無い。ただ、そこにある故に誰もがそれを認めている。
「……ダメだわ」
ふっ、とため息ひとつ。
こんな、誰もいない所まで来て理論的なものを考えてしまうアタマ。
悲しい現実。
人は死ぬと星になる、という。
確かに無数の星の中に知己がいるかと思うと、確かに心強いかもしれない。
ただ、私はこう考えてしまう。
「そんなバカな事、あるわけ無いじゃない」と。
「香里の様子は？」
２年生の教室。昼休み時で人口密度が極端に下がっている中、その会話は始まった。
「変わらず、だ……そういえばこんな話を昨日もしたな」
そこにいる金髪の少年―――北川が苦笑する。
「……ああ」
笑いながら購買のパンを頬張る北川を見る少年――――――相沢祐一。
北川と明らかに違い、顔色が悪い。
「食うか？」
「…いい」
お腹を空かした高校生ならすぐにでも手を出すものの、祐一は軽く一瞥しただけだった。
「……」
「……」
しばし流れる沈黙。少し離れたところにいる女の子達の声が妙に五月蠅く聞こえる。
「しかしまぁ、なんだな」
「ん？」
北川が席を立つ。つられて席を立って、窓際に近づく２人。
「俺は美坂に妹がいた事も知らなかったわけだ」
「…ああ」
「しかもそれはもう過去の話と来たわけだ」
背中を見せる北川。否、顔を、表情を見せない北川。
「それなのに俺は…俺はそれでアイツの友達ぶってたわけだ」
「……北川」
「……情けないな、俺…」
北川の肩が微かに震えている。
祐一は、ただそれを見ているしか出来なかった。
いつからこんな状況だったのか。そんなことは誰も覚えていない。
こんな、些細な事。但し、一部の人を除く。
全く関係のない人から見ると、ただそれは――――――
病人が一人、命を失っただけにしか過ぎない。
それだけの話。
しかし、その病人の「姉」と、その親友とクラスメート。
友達は、そんな簡単に事実を受け止める事なんて出来ない。
ただ、今は時が過ぎるのを待っていた方がいいのかもしれなかった。
あたしは生きている。
それはなんの必要性があるのか、あたしには分からない。
ただ、死ぬのもめんどくさいから。
その、不明な理由だけに食い下がって生きている。
あたしには関係のない賑やかさの商店街を歩いている。
家には帰りたくない。
あの子のことを思い出してしまうから。
それだけで、私は生きる意味を考えなくちゃならないから。
……こう見ると、商店街ももはや廃墟同然。
ただ人が歩いて、生きるために必要なモノを買い求めてるだけ。
「香里ちゃん？」
突然風景の中から声をかけられる。うつろな目で反応する。
「あ」
どうも。と少しだけ明るいであろう声を出して挨拶をする。
「お久しぶりねぇ……大丈夫？顔色悪いけれど」
話しかけてきてくれたのは、近所に住む初老の女性。毎朝挨拶をしている。
否、挨拶をしていた、か。
「ええ、まぁなんとか…」
ちっとも何とかなってないのを押し殺して、笑顔らしい顔で言う。
正直、こうやって街中で話している事自体がつらい。
「栞ちゃんのこと…」
「妹」の名前が出てきた瞬間に、自分の顔が引きつったのが分かる。
女性もそれを察知してくれたのか、すぐに話題を変えてくれる。
「あ…ごめんなさい……」
「いえ…」
なんて言うんだろう、こういう時。なんて言ったらいいんだろう。
少しだけ流れる沈黙。端から聞こえてくる人々の声。
「とにかく、身体だけはお大事にね。」
「ええ…有り難うございます」
軽くお辞儀をするあたしを見ながら商店街のひとつになる女性。
「……栞、か」
ただ、小さく呟くその名前。
あたしは、ただその影につきまとわれている。
彼女はあたしに言った。
「幸せになって下さい」と。
あたしは彼女にこう誓った。
「必ず幸せになるから」と。
でも。
――――――幸せ、ってなんだろう。
もう、あたしには何も分からなかった。分かりたくなかった。
「おはよ、相沢君」
「おはよう、香里」
無気力な朝の挨拶の応酬。２人の他には誰もいない教室。
「相も変わらず暗いわねぇ…」
ふぅ、とため息をつく。一体今週何回目のため息なんだろう。
「香里こそ、な」
……沈黙。ただ聞こえる鳥のさえずりと部活の朝練。
「少し、話がしたい」
相沢君が、突然切り出した。本当に、予想もしてないぐらい。突然に。
「今は、いやだ」
自分がだだをこねているのも分かる。しかも何ら理由もなく。
それでも相沢君は諦めない。
「昼、香里のとこに行くから。……それで、いいか？」
「……別に、かまわないわよ」
昼休みの屋上に、ただゲストが来るだけの事。
始めは、そう思ってた。
昼休み。またなんとなく空虚な騒々しさを感じる教室を抜けて、屋上に行く。
また、昨日と同じ事の繰り返し。
空を、眺める。
「快晴、だな」
「別に意味はないと思うわ」
気がつけば、隣にいるのは相沢君。
「ほれ」
あたしの手に、強引に押しつけてくるのは購買のパン。
「食え」
「…食べたくないわ」
理由は簡単だ。
食べなくたって死にはしない。
ただ、それだけの事。
「……なあ、香里。真剣な話だ」
「…なに？」
聞き返してる割に、あたしはもう相沢君が言いたい事を知っている。
「お前の、妹の事だ」
妹、と聞くだけでアタマがズキズキする。
「栞は、言ってたよな…あの時。」
確かに、栞は最期に言った言葉があるし、あたしも相沢君も聞いた。
「幸せになって下さい」と。彼女はそう言った。
「今のお前、本当に幸せか？」
相沢君が問いつめるように話す。それだけでも今は苦痛。
「そんな生き方してていいのか？」
多分、こんな事が起こるまでは、こんなに相沢君の言葉が重いなんて思わなかった。
「もう少し、自分の――――――」
「もうっ、五月蠅い！」
もう、限界だった。
「あたしがどう生きようが勝手でしょ？どうして、どうしてあなたにそんな事に干渉されなくちゃならなの？あたしは今のあたしで十分幸せよ！栞になんか関係なく。」
今まで胸の中に仕舞われていたセリフ。それがあたしの本音。
気がつけば出てくる涙。そんなことも気がつかずに、あたしは叫び続けていた。
「もう…お願いだから帰って。今はあたしの前から消えて。」
あまりに相手を傷つける言葉だとは分かっていても、それしか言葉に出てこない。
「…すまん」
相沢君は、そう謝りながら屋上から姿を消した。
どれぐらいの時間が過ぎたのだろう。
気がつけばもう夕暮れ時。午後の授業は完全にサボった事になる。
「ここか」
ふとかけられる、男の子の声。聞き覚えがある、何処か懐かしい声。
「お久しぶりね、北川君」
相手の顔も見ないまま、挨拶だけをする。
「国語と数学の教師をダマしたのは俺の詭弁なんだからな、感謝しろよ？」
「……ありがと」
確かに誰にも何も言わないで屋上にいたんだから疑うのは当たり前だった。
「で、何があったかは相沢から聞いた」
でも、全てを相沢君が話すとは思えなかった。多分、一欠片。
「何も事情を知らない俺が言うのもなんだけどな、」
「なら言わないでよ」
普段はこんな突っ込みも冗談で済んでしまうのに、今は冷静に受け止められる。
たとえて言うなら、ろくに喋れない子供をあやすのと同じ。
「まぁ、ひとつだけ言わしてくれや……あのなぁ」
一呼吸置くところなんかちっとも男っぽくない。
「相沢は、本気だぜ。美坂のこと」
いまその言葉は、あたしの記憶の箱を開けようとしていた。
「美坂のことなんとかしなきゃ、って必死になってな」
聞き流すふりをしているしか無い。
「……あんなに考えて貰えるだけでも幸せだよ、美坂は」
幸せ、か。
今、その意味が少しだけ分かった気がする。
「ちなみにあとひとつ、相沢は教室で待ってるぜ……じゃな」
少しだけ、綺麗な夕焼けを眺めていた。
北川君が帰って、熱くなった目頭を冷ますまで。
誰もいない、教室の目の前。
ドアを開ける。その音だけが廊下に響く。
「…待ってたぜ」
中にいるのは一人。相沢君が窓際に立ってこっちを見ていた。
「もう、逃げないよな」
いつも優しい相沢君の表情。それなのに、今の彼の表情は恐い。
表情だけ冷静に、何気ない顔で自分の席に行く。
ひとつだけ――――――ふたつだけ鞄が置いてある机のひとつ。
「俺は…香里の事が心配なんだ、だから…それだから…」
「別に心配して欲しいなんて言ってないわ」
違う。彼が、何を言いたいのか分からないだけ。
「香里はさ…香里は悲しくないのか…？栞が…栞が死んだんだぞ……」
微かに聞こえる嗚咽。
正直驚きだった。
今、放課後のこの教室での相沢君の役割は、あたしを慰めるはず。
それなのに彼は――――――
泣いていた。
「な、なんでっ……なんでアナタが泣いてるの……!?」
「俺は悲しいからさ、栞が、俺の…知り合いが死んだんだぜ？もう２度と会えないなんて他人に決めつけられちまったんだぜ!?」
分かる。相沢君の言いたい事は分かる。
「泣かないでよ…栞が……栞が…悲しむ……」
いつの間にか頬を伝う涙。
「あたしだって泣きたくなんて無い！……でも、でも……あたしは悲しいから……」
相沢君に抱きつきたい。
でも、それはダメ。だって相沢君は――――――
「…ははは……良かった……」
詰まらせながら話す相沢君の声が教室に響く。
「まだ…香里は悲しかったんだって分かったから……な」
「当たり前じゃない、妹なんだから……」
こらえきれない涙が出ている自分の目が、やっと笑った気がする。
「やっと……妹、って認めたわけだな……」
相沢君も恥ずかしそうに笑った。
教室。
だらしなく自分の机に腰掛けてるあたしと相沢君。
さながらどっかのカップルにも見えなくもない…かもしれない。
……そう考えると何だか少しだけ嬉しくも、恥ずかしくもある。
「あのな…栞が俺に言ったんだ」
相沢君がキザに、それでいて不器用にハンカチなんかを貸してくれて、少しだけ沈黙が流れて。そして彼がそれを破った。
「お姉ちゃんの事を、幸せにしてあげて下さい、ってね」
「……本当に…？」
もしそれが本当だったとしたら。
「ああ、本当だ」
あたしは、本当に過ぎた妹を持ってしまった。
「だから、俺は栞の意志を守りたい―――――」
「……でもね、相沢君…あたしは………だめ…」
だって、栞が好きだったのは相沢君だって知ってたから。
「…ってはじめは俺も思ってた。でもな……」
机に座ってブラブラさせていた足で、あたしの机にやってくる。横に座る。
微かに伝わる彼の体温。
「分かったんだ、俺は、香里の事が好きなんだって。栞がいなくなった悲しさを、一番分かち合えてたのが香里なんだって。」
「…あい…ざわくん……？」
気がついたら、彼の腕の中。
少しだけ反射神経で反発したい気持ちと、暖かさとそして優しさ。
「俺が守ってやる、なんて言えない。でも、でも――――ただ」
「愛してる…心から、お前だけを」
その言葉を聞いた時に、決めた。
『妹』の影をも背負って、この人について行こう、と。
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