あゆの風
お母さん……ボクの、ボクの名前の意味は……
子供の頃、誰しもが訊きたくなる自分の名の由来。他に漏れずボクも訊ねた。
ねえお母さん、ボクの、ボクの名前の意味は？ボクの名前にはどういう意味が込められているの？どんな願いを持ってあゆっていう名前を付けたの？
お母さん、お母さん……ボクの、ボクの名前の意味は……
「ハイキング？」
「うん。今度の連休に行こうよ！」
辺りの雪が尽く溶け、この北国の街にもようやく桜が咲き始めた頃、あゆがそんな提案をしてきた。
「やだ。メンドイ、疲れる」
「うぐぅ〜、そんなこと言わないで一緒に行こうよ〜」
「受験を控えた高校生にそんな暇はないのだよ」
というのはまったくの建前で、本音を言うと連休中は惰性でゴロゴロ過ごしたいのだ。そう思っていた時にあゆから山へのハイキングの誘いを受けた。せっかくの休日を家で満喫しようと思っていた所に、疲れに行くような提案を持ち掛けられたのだ。到底頷けるはずがない。
「行こうよ〜行こうよ〜」
「しつこいぞ。俺はしつこい女は嫌いだ。以上！」
「うぐぅ……。ハイキング、ハイキング……」
これだけ断われば諦めてくれると思ったが、今日のあゆはなかなか引き下がらない。
「まったく、そんなに行きたいなら名雪でも秋子さんでも誘って行けばいいだろ」
そうすれば家には俺一人。俺はこの水瀬家を刹那とはいえ支配できるのだ！昼間からエロビデオ、エロゲー三昧も可能なのだ。吸血鬼の如く夜な夜なテレビやパソコンの前で自慰行為に拭けるのではなく、俺は煌煌（こうこう）たる太陽の下自慰行為に拭けることができるのだ！
だからそんなに行きたいのなら名雪と秋子さんを誘えばいい。気前のいい名雪に秋子さんだ、あゆの誘いを断わるはずがない。
そうすればあゆはハイキングに行け、俺は家で一人ゴロゴロ。つまりは双方の願いが成就されるのだ。まさに一石二鳥だろう。
そんな訳であゆが俺と行くのを諦め、名雪と秋子さんを誘って行って欲しい所なのだが……。
「ダメなんだよ、祐一君じゃないとダメなんだ……」
「俺じゃなきゃ？どうして？」
「ボクが行こうとしている所は、ボクのとっても大切な場所だから。だから祐一君じゃなきゃダメなんだ。ボクが大好きな、一生を共に歩みたい大切な祐一君じゃなきゃ……」
「はぁ、仕方ない……そこまで言うのなら付き合ってやるよ……」
「やったぁ！ありがとう祐一君！」
大好きで一生を共に歩みたい大切な人か……。そこまで言われたのなら断わる訳にはいかないな。
大好きで一生を共に歩みたい大切な人、それは俺のあゆに対する想いでもあるのだから――。
それから数週間後、俺とあゆはハイキングに出かけた。目的地は今の俺が住んでいる街から車で約一時間の所にある山。そこまで歩いて行く訳にもいかないので、バスでその山まで赴くこととなった。
そしてバスに揺られて約一時間、高い山々が連なる中にようやく目指す山が見えてきた。
「到着〜。祐一君、目の前に見える山がこれからボク達が登る山だよ」
「それはひょっとしてギャグで言ってるのか？」
「ギャグじゃないよ、本気だよ」
「マジか……」
目指す山は高い山々の中でも更に高く、山頂付近は霞んでしか確認出来ないほどの高い山だった。この場所に辿り着くまで２、３００メートルはバスで登ったのだが、それでもまだ１，０００メートルほどある。
「軍曹、自分は帰らせて頂きます！」
「うぐぅ〜、ここまで来て帰っちゃダメだよ〜」
「つーか、ここまでくるとハイキングっていうより登山だろうが！この嘘吐き、詐欺師、デマゴーグ、ファシスト、チェキスト、コミュニスト、アカ！あゆあゆに謝罪と賠償を要求するニダ!!」
俺は思いつく限りの罵詈雑言を並べてあゆに立てついた。だいたいハイキングっていうのは気軽に野山や海辺を散策することを指すんだろ？指さなくとも俺はそんなものだというイメージであゆの誘いに乗ったのだ。こんな高い山だとは一言も聞いていないぞ！あゆあゆに謝罪と賠償を（略）。
「大丈夫だよ。大変そうに見えるけど、ちゃんと山頂まで登れるよ」
「その自信は一体どこからくるんだ……？」
「だってボクが最初にこの山に登った時って小学生の時だもの」
「な……なんだって――!!」
しょ、小学生の時にこの山を!?信じられん……高校生の俺でさえ征服し難いこの山を小学生のあゆが登っただって!?
そのあまりに衝撃的な発言に、俺は思わず大声で驚いてしまった。とてもではないがこんな山、小学生の少女が登れる山などではない。
「お母さんと一緒に……だけどね」
「Ｎ○Ｋの番組？」
「うぐぅ、違うよ〜。小学生の時お母さんに連れて来られた山なんだよ」
「お母さんに連れて来られた山……？」
「うん。お母さんと最後に来た、お母さんの大好き場所がある山だよ」
そうか、そういうことだったのか……。お母さんと最後に来た、お母さんの大好き場所がある山。それはあゆにとってはこの上ない大切な場所なのだろう。だから俺じゃなきゃ……。
「ポカッ！」
俺は不意にあゆの頭を軽くつついた。
「うぐぅ〜、いきなり殴るなんてひどいよ〜」
「馬鹿野郎。そういうことは先に言え！そんな話を聞いたら俺が断わるはずないだろ？」
「あっ……えっとその……ご、ごめんなさい……」
「まったく……」
もっとも、そういう所があゆらしいといえばあゆらしいが。
「ぽふっ」
「わっ」
俺はあゆの頭に優しく手をのせながら撫で撫でした。
「うぐぅ、子供扱いしないで〜」
「さて、どれくらい時間がかかるか分からないが、登るぞ」
「えっ、うん！頑張って一緒に山頂を目指そうね！」
こうして俺とあゆは標高１，０００メートルを超えるであろう山を登り始めた。
「ふぅ、ふぅ、はぁ……。なああゆ、そろそろ休もうぜ」
「まだ登り始めたばかりだよ〜」
登り始めて数十分、俺の足はもう悲鳴をあげていた。道自体はそこそこ整備された山道ではある。しかし便利な文明社会のぬるま湯に漬かって生き続けてきた俺とって、自然の山は堪え難いのだ。
「ふぁいとっ、だよ！」
「名雪みたいなこと言うんじゃねぇ〜」
そんな愚痴を吐きながら登り続けた。山では様々な花が咲き乱れ、色々な鳥が春の目覚めを囀（さえず）っていた。しかしそんな状景や鳴声は俺の耳には入らない。俺の頭の中はもう下山したい気持ちで一杯だった。
だが、他ならぬあゆの大切な場所へ行く為だ。ここは男を見せて粘るしかない。
「うおおお〜〜。根性、根性、ド根性！熱血、必中、気合、魂！武士道、サムライ、ハラキリ、芸者！特攻、玉砕、竹槍突撃！大和魂は世界一の魂ぃぃぃぃぃ〜〜!!」
そんな掛声で自分に渇を入れつつ、俺は山頂を目指した。
「ふう。祐一君、お疲れ様。そろそろ休憩に入ろうよ」
山へ登り始めて一時間くらいが経過した頃、ようやくあゆが休憩をしようと言い出してきた。俺は登り始めてから十分毎に休憩を提案したのだが、尽く一蹴された。まあ、今回の提案者はあゆだし、あゆに従うのは仕方のないことだろう。
「一、二、三、四！」
休憩時間を利用して俺はまず軽い柔軟体操やマッサージをした。こうやって身体をほぐしておかないと、とてもではないが山頂まで身体が持ちそうにない。
「って、あれ、あゆは？」
身体をほぐすのに夢中になっていたら、いつのまにかあゆの姿を見失っていた。
「お〜い、あゆ〜。あゆ〜。あゆあゆ〜〜……」
あゆの名を叫びながら俺はあゆの姿を探し続けた。
「おっ、いたいた……」
しばらく周囲を探していると、しゃがんで何かをしているあゆの姿を発見した。
「ゴクッ、ゴクッ、ふぅ……」
「何をしているんだ？」
「何をって、水を飲んでるんだよ」
あゆの足元をよく見ると、山水が溢れ出していた。
「飲んで大丈夫なのか……？」
「大丈夫だよ。祐一君も飲んでみて、とってもおいしいよ！」
山の水なんて飲んで大丈夫なのだろうか？こんな山奥とはいえ水が汚染されているかもしれないし……。
半信半疑、恐る恐る、俺はあゆの言うがままに涌き出ている山水を口にした。
「ゴク、ゴクッ……。な、なんだ、この水は！？こんな美味しい水、今まで飲んだことない！！」
その水は今まで飲んだどの水よりも美味しい水であった。懸念していた水質汚染などはなく、程よく冷えた格別の水だった。今までろくに水分を取らず登り続けたこともあったが、それを踏まえてもやはり今まで飲んだ中で最上の水だった。
「ねっ、美味しいでしょ？ここの涌き水はとってもおいしいんだよ。だからここで休憩しようって言ったんだ」
「ここに涌き水があるって知ってたのか？」
「うん！お母さんと来た時もここで休んで水を飲んだんだよ」
「そっか。よく覚えているな……」
もう７年以上も前の出来事であるというのに。その記憶力には感心するばかりである。
「覚えてるよ。山の状景から鳥のさえずりまで、この山で体験したことは全部覚えてるよ……。だってボクにとってはすっごく、すっごく大切な思い出だったから……」
「そうか。そりゃあ忘れるはずないよな……」
そうだ……。あゆが忘れるはずがない。大好きだったお母さんと最後に来た場所なのだから。そんな大切な思い出をあゆが忘れるはずない――。
「ハーイキング、ハーイキング、ヤフーッ！ヤフーッ!!」
あれから一回の休憩を交え、もう一時間半は歩いただろうか。その頃になってようやく山頂が見えて来た。目指すゴールが見えて来て否応なく俺のテンションは高まった。
「祐一君……あと……もうちょっと……だね……」
「ああ。最後の気合を振り絞って登り切ろうぜ！」
「う……ん……」
「あゆ？」
心なしか、あゆの息が荒くなっている気がする。まあ、これだけ登れば疲れてくるのは当たり前だが、終始自分よりテンションが高かっただけに、少し気になる。
「大丈夫か、あゆ？」
「うん……全然……へっちゃら……だよ……」
笑顔で俺に答えるあゆだが、その顔は苦痛を無理に抑えているような顔だった。
「本当に大丈夫か？」
「うん……大丈夫……」
「あゆ！」
今まで俺を先導するかのように山頂を目指していたあゆが、突然気が抜けたように倒れ込んだ。そのあゆを俺は急いで抱き抱えた。
「ごめん……祐一君……。大丈夫だと思ったけど……まだ本調子じゃない……みたい……」
無理もない。７年の眠りから覚めてまだ数ヶ月も経っていないのだ。日常生活を送るのには支障はないとはいえ、とても山登りが出来るような体力を取り戻しているわけないのだ。なら……
「ならどうしてハイキングなんかに行こうって言ったんだ！俺は元々乗る気じゃなかったんだ、身体の調子が悪いなら無理に誘うことなかっただろ!!」
「うぐぅ……だって……だって……お母さんに祐一君を紹介したかったから……」
「お母さんに紹介させたかった!?どういうことだ？」
「この山の頂上、お母さんの大好きな場所だったから……。だからあの場所に行けばお母さんに逢える気がして……。だから、だから、うぐぅ……」
死んだ人間になど逢えるはずはない。けど、その場所があゆのお母さんが大好きな場所だったなら、その場所にあゆのお母さんの魂はいるのかもしれない。
「……。ここまで来て引き返す訳にもいかないしな……。後は俺がお前を背負って行く、心配するな！」
「えっ……それじゃあ、荷物は？それに祐一君だって疲れてるはずなのに、ボクを背負うだなんて……」
「荷物はここに置いていけばいいだろ。水だけあれば何とかなるだろうし。それに俺は女の子一人背負えないほど貧弱な男ではない」
本当はあゆを背負って山頂を目指す自信などないのだが、ここまで来て引き下がる訳にもいかない。
人を背負っての登山など、正気の沙汰ではない。けどあゆの願いを叶える為なら、それくらいのこと、こなしてみせる。
「うん……ありがとう、祐一君……」
「はぁ……はぁ……はぁっ！」
「祐一君、もういいよ！ボク、大分楽になってきたし、もう歩けるよ！」
「バカ、帰りのことも考えろ！今歩いて帰りの分の体力を使ったらどうするんだ!?言っておくが俺は下山する時までお前を背負うつもりはない。だから山頂に辿り着くまでは俺に甘えろ！」
あゆを背負い続けてもう３０分は経つ。俺の足も腰も、もう限界だ。けど、ここであゆに余計な体力を使わせる訳にはいかない。山頂まで本当にあとちょっとなのだ。腰が曲ろうが足が砕けようが、魂が尽きぬ限り俺は、あゆを背負ってひたすら山頂を目指すのだ！
「くうっ……」
だが俺は山頂まであと少しの所で力尽き、あゆを背負ったまま地面に倒れ出した。腰も足も限界に達した。もう一歩も歩けそうにない。あと少し、あと少しで山頂だっていうのに……。
「どうもありがとう、祐一君。後はボクが……」
「えっ!?」
俺の背から離れたあゆは、俺を脇に抱えて立ち出した。
「おいあゆ、やめろ！お前に支えられなくったって、俺は歩けるぞ！」
「でもしばらく休まなきゃダメでしょ？ボクはもう十分休んだから。だからあとはボクが祐一君を支えて行くよ！」
「すまん、あゆ……。けど、お前にだけ支えてもらうわけにはいかない。俺はお前を支えて山頂を目指す。互いに互いを支えあって山頂を目指すんだ！」
「うん！」
こうして俺とあゆは互いに互いを支え合いながら、山頂までの道程を歩んだ。
二人で支え合いながらの登山は、遅くとも確実に一歩ずつ前進して行くものだった。そして幾多の困難を乗り越え、ついに俺達は山頂に辿り着いた。
「つ……着いたぁ……」
山頂の先には見渡す限りの絶景が広がっていた。流れる雲、周りの山々、そして遥か遠くに霞んで見える街並み。山頂に辿り着いた達成感は、人工物の街並みさえ自然状景と同等の美しさを感じさせた。
「綺麗でしょ？ここから見える景色……」
「ああ。あゆのお母さんが大好きだったというのも頷けるな……」
「ドサッ」
とうに体力の限界に達していた俺とあゆは、その景色に満足し切って同時に山頂へと倒れ込んだ。
倒れ込んだ先には一面の青空が広がっていた。そして春の匂いを運ぶ風が全身を駆け巡った。
「心地良い風だ……」
疲れ切った身体をまるで癒すかのように拭き抜ける風。その風は何とも心地が良く、そして温かかった。
「あゆの風……」
「えっ!?」
「昔、越中に住んでいた人は、東から吹く風のことをあゆの風って呼んでいた。風には色々な名前があるけど、お母さんはあゆの風っていう風の名が大好きだった。
だからお母さんは大好きだったこの山頂に東から拭く風を、大好きな風の名、あゆの風って呼んでいた。
そしてそのあゆの風がボクの名前の由来だって、ここに来た時お母さんが教えてくれたんだ……」
「ここ、越中じゃないぞ？」
「うぐぅ、細かいことは気にしないの！東から拭く風には変わりがないよ！」
「ははっ、確かに……」
しかしあゆの風か、綺麗な風の名だな。この際どこで使われていたかはあまり問題ではないな。
「あゆの風か……。お前は風の子なんだな」
「うんそうだよ。ボクは風の子あゆだよ！」
そう言い終えると、あゆはスッと立ち上がり、青空に向かって声を放った。
「お母さん！この人が、祐一君がボクの一番大好きで一番大切な人です！ボクは祐一君と一生を共に歩んでいきます!!」
「よくそんなこっ恥ずかしい台詞を大声で叫べるな……」
「うぐぅ……だって、祐一君のことお母さんに紹介したかったから。ここから叫べば天国にいるお母さんに声が届くはずだから……」
「そうか……そうだよな……！」
確かにここからなら空の彼方にいるあゆのお母さんに声が届くな……。
「あゆのお母さん！俺はあゆを、一生大切にします！だから安心して私達を見守っていて下さい!!」
俺はいきなり立ち上がると、あゆに巻けず劣らずこっ恥ずかしい台詞を大声で青空の彼方に言い放った。
「祐一君!?」
「俺からもお前のお母さんに挨拶しとかなきゃな」
「うん。どうもありがとう祐一君。……お母さんにボク達の声、届いたかな？」
「届いたさ。届いたに決まっているだろ！」
そう――二人の声は確実にあゆのお母さんに届いたはずだ。俺とあゆをこの大空の何処かで見守ってくれているあゆのお母さんの元に――。
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