高校３年の、ある秋の日。
あたしは微妙に苛立ちながら歩いていた。
何処かに消えた彼を探すために視線を忙しなく動かしながら、ぶつかってしまった人に謝りながら。
まったく・・・特に混んでるわけでもないのにはぐれるなんて、子どもみたいに落ち着きのない性格ね。
むしろ、あれは子どもそのものよ。
事の始まりは少し前。
ふと気づけば隣りを歩いているはずの彼はいなかった、ただそれだけ。
一言で言い表すなら迷子。
少しだけ言葉を付け足すなら、いい年こいて迷子になんてなるんじゃないわ、ってな感じ。
どうせ面白いものでも見つけて足を止めたとかそんな理由。
そのまま歩くあたしに気づかないで、はぐれたんだろう。
今日に限って迷子の舞台は数駅ほど離れたデパート。
いつもの商店街にあるスーパーとは比べ物にならないくらいに巨大な建造物の中だし。
でもまぁ、商店街自体で迷子になられるよりはマシかもしれないけどね。
いかなデパートとは言え、商店街の広さには勝てないのだ。
話が逸れたわ。
とにかく、連れの馬鹿が迷子になったのよ。
「動かないで見つけてもらうのを待ったほうがいいかも」
ぐったりとベンチに腰掛ける。
どのくらい歩き回っただろうか。
腕の時計を見てみれば―――――壊れて、秒針も短針も長針も動いていなかった。
ぴくりともしない。
１秒進むこともなく、１分進むこともなく、１時間進むこともない。
あーあ、お気に入りだったんだけど。
アンティークなデザインで衝動買いしたモノだから、探しても既にないかもしれない。
直らないくらい壊れてないことを祈ろう。
不意に。
時計を見ていて、変な考えが頭をよぎった。
まぁ、本当に果てしなくどうでもいいことだけど。
眠らない名雪、イチゴと猫に反応しない名雪、天然じゃない名雪。
そんな名雪が名雪じゃないように。
絵が上手い栞、バニラアイスを食べない栞、胸がある栞。
そんな栞が栞じゃないように。
時を刻まない時計、針の動かない時計、止まってしまっている時計。
そんな時計は時計じゃないと思う。
閑話休題。
連れともはぐれる、時計も壊れる、まさに踏んだり蹴ったり。
仕方なく辺りを見回し、デパート内に設置されている時計で時間を確認する。
記憶にある最新の時間から長針が１８０度ほど移動してるわね。
はぐれてから少なくとも３０分くらい経過しちゃってるわけか。
いい加減に、そろそろ見つけないと困る。
「さって、迷子のお子様を捜しに行きましょうか」
自分に気合を入れてベンチから腰を上げる。
どっこらせ、なんて声は出ない。
まだまだ若いんだから立ち上がるのに掛け声なんて必要ないわ。
その辺にいるかもしれないので周囲を見渡しつつ、エスカレーターで上の階へ。
本屋、ＣＤ屋、雑貨屋と見て回って次に行こうと歩き出した時。
『お客様のお呼び出しを致します』
すっごく嫌な予感がした。
『○○町からお越しの美坂香里様。○○町からお越しの美坂香里様』
その予感は的中しなくてもいいのに的中してしまった。
『お連れ様がお待ちです。３階、紳士服売り場までお越しください』
その後、２回目の放送が始まる。
が、そんなものは耳には入っても認識はしない。
あたしは既に目的地へと歩き出したから。
走るなんて目立つような真似はしない。
もしそんなことすれば美坂香里があたしだということを周囲に知られるから。
そんな恥ずかしい事態は遠慮したい。
だから慌てず冷静を装って、馬鹿が待っているだろう場所へと歩く。
クールビューティーの名は伊達じゃない。
・・・あたしが自分をそう呼んでるわけではなくて他の子が言ってるだけよ。
しかし冷静なのは外見の話であって、内心は嵐でも起きたかのように荒れ狂ってる。
主に羞恥と憤怒で。
ふと壊れた時計に目がいく。
やっぱり、というか当然だけど、壊れていて時計の針は時を刻んではいなかった。
時計の針
はたして紳士服売り場のレジ付近にあたしを呼び出してくれた相手はいた。
暢気なことにレジ打ちのお姉さんと笑顔で会話を交わしている。
いい度胸じゃない、あたしに恥をかかせておいて。
あたしは少しだけ足早に近づいていって背後から脳天にチョップを喰らわせた。
良い音。
きっと中身が空っぽなのね。
「ぐあっ！！ って香里！？ いきなり何するかっ！！」
「お姉さんナンパしてんじゃないわよ！！ っていうか相沢君こそ何するかっ！！」
うっ、ついつい相沢君の口調が伝染しちゃったじゃない。
何するかっ、なんて普段ならぜったいに言わないわ。
「３０分も見つからなきゃ最後の手段に頼るしかないだろが！！」
「休日の昼過ぎのデパートよ！？ クラスメートもいるかもしれないじゃない！！
今の呼び出し聞かれてたらクラスのいい笑いものよ！！ 少しは考えなさい！！」
「だから延々と探すってか？ 俺はそんなん嫌だね。
時間の無駄だろ。それなら早く見つけて楽しみたいじゃないか！」
「はぁ・・・相沢君がこういう人だとはわかってるけどね」
思わず、あたしは苦笑した。
相沢君は探し続けるリスクと呼び出しを使うリスクを考えて行動したのだろう。
この場合は早く見つけて時間のロスを避けたかったんだと思う。
とはいえ、ほとんど本能と直感で動く人だけど。
今のことだって計算してなのか、天然なのかイマイチ。
計算してのことだと思いたいけどね。
それはさておき、レジ打ちのお姉さんにお礼を言ってから歩き出す。
今度は相沢君と２人で。
「しっかしデパートは広いな。３０分も探してダメとは」
「３０分・・・あぁ、そういえば時計が壊れちゃったんだった」
「直していくか？」
「時間、使いたくないんでしょ？ 相沢君のあるからいいわよ」
「そっか。んじゃ、地下の食品街へ行くか」
時計くらい次の機会にでも直しておけばいいわ。
別に今、ぜったいに動いていないと困るというわけでもないから。
止まったままで、問題なんてない。
例えば時計が止まったって、実際の時間が止まるわけでもないし。
あたしの時計が止まっても世界は時を刻みつづける。
そういうわけで時計は後回しで食品街へ。
デパートに来た目的の半分以上が此処だしね。
量も質もさすがデパートといったところか、とても豊富。
少なくとも飽きることはなさそう。
「お互いに好きなモノを買って１５分後に此処に集合な」
「・・・だから時計、壊れてるって」
「携帯は？」
「家」
「んじゃ、俺の時計を貸すよ。携帯は持ってきてるからな」
「悪いわね。それじゃ後で」
「おう。美味そうなもん買ってこいよ」
「相沢君は変なモノ買ってこないようにしなさい」
軽い皮肉を口にしてから２手に分かれた。
それにしても何してるのかしら、あたし。
ふ、と考える。
今日、笑った？
苦笑だけ。
少しでも、楽しんだ？
イマイチ楽しめない自分がいる。
楽しくないわけじゃない。
きちんと楽しいのに、それを楽しめない。
そんなことを考えながら美味しそうなモノを手にとって買っていく。
相沢君、あたしなんかといて楽しいのかしらね。
笑わないし心を開かないし冷たいしツッコミ厳しいし。
まぁ、最後のは相沢君からすれば願ったり叶ったりかもしれないけれど。
名雪は天然だし北川君はボケ中心だから。
つーか、だいたいデートで昼食はデパ地下の惣菜物ってどういうことよ。
ムードも何もあったもんじゃないわ。
あー、もう！
おにぎり、ポテトサラダ、焼き鳥、パスタ、中華まん。
和洋中、なんでもかんでも買い込む。
ちょっと嫌がらせの意も含ませて。
どうせ相沢君だって変なもん買ってくるでしょ。
それらの戦利品を持って待ち合わせの場所へ。
相沢君は既に戻ってきていて手持ち無沙汰にベンチに座っていた。
あれ、と思い借りた時計を確認してみる。
きちんと時を刻む時計。
あたしの時計とは違って、壊れていないから針は規則正しく廻っている。
あたしの時計は針は廻ってくれない。
壊れてしまったから？
それとも、壊してしまったから？
はぁ。
もっと明るいこと考えれないのかしらね、あたし。
軽く溜息を吐いて、もう再度時計を見た。
えっと、別行動してから１２分だから遅刻はしてないわね。
遅刻じゃないことを確認したあたしは、急ぐでもなく歩いて声をかけた。
「あら、早かったのね」
「女と違って男の買い物は早いんだよ」
「はいはい。で？ この後どうするの？ 家に帰って食べる？」
「んなわけあるか。近くの公園で食うんだよ」
これで家で食う、とか言ったら承知しなかったわ。
安心して歩き出そうとした瞬間に相沢君に荷物を奪われてしまった。
本人は知らん振りで先に行ってしまう。
まったく、そういう気配りは嬉しいんだけどね。
それで照れてるなんて可愛いとこもあるじゃない？
顔、真っ赤よ。
そう言おうかと思ったけど、やっぱりやめた。
あたしはまたしても苦笑して、一言。
「ありがと」
「・・・ほれ、行くぞ」
どうでもいい話をしながら道を歩く。
でも、どうしても心の底から楽しむことができない。
隣りの相沢君は楽しそうなのに。
あたしは彼の目から見て楽しそうに見えるの？
冷めた目をしてるのかもしれない。
そうだとしたら、申し訳ない気分になる。
「ありゃ、ベンチは無理かな」
「お昼時だから仕方ないわよ。あの３０分の代償ってとこじゃない？」
相沢君が迷子にさえならなければベンチも空いてたかもしれないわね。
こういうとき、時間は大切だと思う。
たった少しの差で色々なことが変わってしまうから。
もし迷子になってなかったら。
ベンチは空いていたかもしれない。
でも、もしかしたら事故に遭っていたかもしれない。
そんな風に、全てはタイミング１つで如何様にも変化する。
時の流れは大事だと、そう思う。
あー、なんかまた変なこと考えてるわね、我ながら。
ま、過ぎたことを言っても仕方ないか。
ＩＦの話なんてしてもどうしようもないしね。
気を取り直して空いてるベンチを探してみるも徒労に終わる。
「家族連れに恋人。休日だから混むなぁ、やっぱ」
「この季節は紅葉も綺麗よ。それも相乗効果ってところかしら」
辿り着いた公園。
ベンチは既に満席で座れそうなところはなかった。
それにしてもホント、紅葉が綺麗ね。
風に舞う赤い葉は日本人の感性に抜群に合うみたい。
どうにも心惹かれるものがあるわ。
秋。
そして秋の次は、冬。
相沢君と出会って、栞が回復した、冬。
あれから、もうすぐ１年が過ぎるのね。
時の流れ。
この１年は、早かったわ。
今までのどんな時よりも、ずっと早かった。
ちょっと感慨深いかも。
「木立に入らない？」
「だな。そっちも混んでるだろうがスペースないってこともないだろ」
「決まりね。ほら、さっさと行かないと座れなくなるわよ」
「そう焦るなってば。急がば回れ、だ」
「アンタは少し急ぐくらいが丁度いいのよ」
ちょっとだけ皮肉っぽく言って、すたすたと木立に入る。
ちらほらと人の姿が見えるけど、空いているみたい。
平気そうね、これなら。
立ったままキョロキョロしてる相沢君を横目して、あたしは地面に座り込んだ。
落ち葉がシートの役目を果たしてくれるわね。
「座りなさいよ。天然のシートあるんだから」
「ほぅ、香里らしからぬ発言だ。実はロマンティスト？」
「これでも栞の姉なの」
「根は似てるってか。ま、とりあえず食おう」
２人して木の根元に座って戦利品を並べる。
あたしが買ってきた和洋中ごちゃごちゃセット。
相沢君が買ってきたデザート色々セット。
どうしてお互いに変なチョイスするのかしらね。
お互いのモノを目にした瞬間、目が合う。
「なんでデザート類しかないのよ」
「なんで１つに統一しないで和洋中混ぜてんだよ」
どっちもどっちだけど。
無言で睨み合い、先に折れたあたしが仕方なく口を開く。
表情は、いつものように苦笑気味で。
「・・・食べない？」
「腹減ったからな。食うに決まってるぞ」
何故か勝ち誇った笑みを浮かべられた。
な、なんか悔しい。
別にどっちが先に折れるかの勝負なんてしてないけど、悔しい。
気にしたら負けなのかしらね。
とりあえず忘れることにして昼食の準備に取り掛かった。
公園の入り口で買った緑茶の缶を開けて倒れないように固定する。
なんせ下は落ち葉だから不安定。
倒さないように気をつけながら昼食となった。
「文句を言ってた割に和洋中見境なく食べてるじゃないの」
「そういう香里こそデザート類ばっか食ってるじゃないか」
「・・・お互い様ね」
「・・・お互い様だ」
なんとなく苦笑。
あぁ、またしても苦笑なんだなぁ。
本当の笑顔が出ない。
いえ、出ないというよりは出せないのよ。
心の底から笑いたいと最近は思うのに、どうしても笑えない。
あー、テンション下がるわね。
「うーん、香里の弁当のほうがよかったなぁ・・・」
「相沢君がいきなり来るから悪いんでしょ」
「唐突に思い立ったから仕方ないだろ？」
「だったらお弁当なしも仕方ないわよね？」
「うぐぅ、俺が悪い」
「よろしい」
そう、今日の昼食がデパ地下の惣菜なのには理由がある。
相沢君は昼前にウチを訪れたかと思えば、いきなりデートに誘ってきたのだ。
あまりに突然で目を白黒させてたのにお弁当なんて無理よ。
せめて前日に言ってくれれば作ってきたのに。
さすがに当日に言われてもねぇ。
栞なら気合で何とかしそうだけど、あの子は友達の家に行ってたし。
結果、栞の妨害もなくあたしと相沢君２人のデートとなったわけ。
・・・昼食は惣菜ものという、寂しいデートに。
「さすがにアレだけ食えば満腹になるな」
「ほとんど１人で食べたら当然よ。あたしなんてデザートしか食べてないじゃない」
「食い足りないのか？ んー、何か買ってきてやるぞ？」
「遠慮するわ。デザートで足りてるから」
「そっか、ならいいけど。しっかし気持ちいいな」
「落ち葉が奏でる音と涼しい風が心地良いわね。眠くなってくるくらい」
「ロマンティストだな、本当に」
「うっさいわよ」
さわさわさわ
かさかさかさ
風と落ち葉。
「あー、昼寝もいいな」
「たまにはいいかもしれないわね、そういうのも」
「ちょっと頼みがあるんだが」
「膝枕なんてしないわよ」
「ぐあっ、バレてるし」
相沢君の期待をばっさり切り捨てて、あたしは木の幹に寄りかかった。
どうにも心地よすぎるから本気で昼寝体勢。
そう、たまにはいい。
楽しめないとか笑えないとか悩んで疲れてるから休む。
休んだら、また悩むのだ。
隣りに同じように寄りかかった相沢君を見て、目を閉じる。
さわさわさわ
かさかさかさ
あたしは安らかな眠りに落ちた。
んんぅ、と伸びをする。
無理な姿勢で寝てたからだろうか、ぼきべきと骨が鳴った。
あら・・・２人して寝入っちゃったみたいね。
辺りを見回してみると、あれだけいた家族連れも恋人もその姿を消していた。
広い木立にあたしたちの２人だけ。
寂しさすら感じるまでに静寂としてしまった木立。
まるで世界から取り残されてしまったかのような錯覚すら感じるくらい。
「―――――ある時計の―――――のか？」
ぼーっとしていたところに隣りから声がかけられた。
だからか、正確に聞き取れない。
憶測で答えるしかないのかしらね。
まぁ、時間のことだと思う。
「起きてたのね。それで時間？ 時間なら５時過ぎだけど・・・あ、時計、返さないと」
「ちゃんと聞いてなかったみたいだな。今の時間を聞いたわけじゃない。
香里の中にある時計の針は時を刻んでいるのかって言ったんだよ、俺は・・・さんきゅ」
「あたしの、中？ 時計の針？」
「そうだ。香里の笑顔は以前のまま。雰囲気も変わってないしな。
今日まで半年以上、様子見てたけど変わらなかった。初めて会った頃の無理してたままだ」
「・・・それをどうして今ごろになって言うのよ」
無意識に口調が厳しくなってしまった。
どうしてか、とても嫌な気分になったから。
触れられたくなかったのかもしれない。
でも相沢君は気にした様子もなく、淡々と呟いた。
「冬が来るから」
「そう」
同じく淡々と返す。
相沢君は受け取った腕時計をポケットに落としながら話す。
言われたことは、今日ずっと悩んでいたことだった。
あたしの笑顔は主に苦笑の形をとり、雰囲気はぴりぴりしたまま。
香里の中にある時計の針は時を刻んでいるのか
相沢君がそう問う。
そう聞かれて、あたしは気づいた。
まだ、栞のことを心の何処かで引き摺ったままだということに。
そのことに気づかぬ振りをしていたことに。
栞は回復して元気になって。
ひどい姉のことも許してくれているというのに。
なのに、あたしは仮面を被ったまま。
せっかく相沢君が助けてくれたのに・・・あたしと栞の心を。
でも最後は自分で乗り越えないといけない。
相沢君がしてくれるのは、応援。
乗り越えるのは、あくまで自分だ。
香里の中にある時計の針は時を刻んでいるのか
その問いへの答えは、ＮＯだ。
あたしの中にある時計の針は時を刻んでいない。
栞を拒絶していた、あの頃のまま止まっている。
だから楽しめない。
だから笑えない。
楽しくても笑いたくても。
あの頃のあたしは栞への負い目もあって、心から何かを感じたり表現したりできなかった。
あと数ヶ月もすれば、相沢君と出会ってから１年が過ぎるのに。
栞が助かってから、１年が過ぎるのに。
変わらず仮面を被り、あたしの中にある時計は時を止めたまま。
まったく時を刻んでいない。
「まぁ、無理はするな。少しずつでいいんだからな。時間はいくらでもあるだろ？
追い詰められたりすることはないんだ。ゆっくりでいいんだ。だから、無理はするな」
こういう時だけは、ただひたすらに優しい相沢君。
今日まで言わないでいたのも、あたしのプライドみたいなもんを気遣ったんだと思う。
人に心のうちを指摘されるの嫌いだから、あたし。
でも、そっと様子を伺っておくことも限界。
自力で立ち直るにしてもギリギリっぽい、この秋。
冬まで数ヶ月というタイミングで切り出したんだろう。
ホント、変なトコで気が利くわね。
普段から今くらい優しければいいのに。
そう思って、しかし即座に否定した。
悪戯して馬鹿やって、そういうほうが相沢君らしいから。
こういう相沢君は必要な場面で登場するだけで十分だ。
とにかく。
あたしの中にある時計の針は、栞が病気だった頃から動いていない。
あの頃から止まったまま。
でも、このままじゃダメね。
そう思って、ちょっとした決心をして、相沢君の言葉に異議を唱えてみた。
ゆっくりでいいんだ、という部分に。
「・・・でも、早いに越したことはないわよ」
寄りかかっていた木から背を離し立ち上がる。
そのまま木立を歩き、相沢君から数ｍほどの位置で振り返った。
不思議そうな表情をするのね。
ま、それも仕方ないとは思うけれど。
いきなり立ち上がって歩き出しちゃうんだから。
「そろそろ帰るか？」
「違うわ―――――廻すのよ、時計の針を」
そして、あたしは廻りだす。
両手を目一杯に広げて、くるくる、くるくると。
地面に敷き詰められた赤い落ち葉。
それは赤く色づいた落ち葉の絨毯。
空には赤い太陽と赤く染まった雲。
それは赤く色づいた夕焼けの照明。
赤い舞台。
全てが赤い舞台の上で、あたしは廻り続ける。
くるくる
くるくる
自分の中で止まってしまっている時計の針。
それを動かし、廻すかのように。
あたしは廻る。
「香里」
「何よ。あたしがこんなことしてたらおかしいかしら？」
「そんなことない。それより―――――いい笑顔だな」
「あたし、笑ってるの？」
「おう。初めて見るよ、香里が心から笑ってる顔なんて」
それは証拠。
あたしの時が刻まれている証拠。
怖かったんだと思う。
時計の針が動きだすことが、廻りだすことが。
もし動いてしまえば、廻ってしまえば。
栞に対して犯してしまった罪を忘れてしまいそうな気がして。
だから自分で自分を過去に縛っていた。
だから時計の針は止まっていた。
でも、それではいけなかったのね。
時計の針は動いていてこそ、廻っていてこそだから。
あたしの腕時計が壊れた時に思ったこと。
『時を刻まない時計、針の動かない時計、止まってしまっている時計』
『そんな時計は時計じゃない』
全く持ってその通りだった。
時計は時を刻み、針が動いていてこその時計なのだから。
栞に対して犯してしまった罪は時が刻まれないと償うことはできない。
止まったままでは、いつまでもただ罪を犯したまま。
あたしは栞に謝りたい、罪を償いたい、いつまでも一緒にいたい。
だから、あたしは、くるくる、廻る。
「時計の針、廻ってるのか？」
「廻ってるわよ。知らなかったわ。廻りだすのを待つんじゃなくて、自分で廻すものなのね」
「それは違う。普通は自然と廻るものなんだ。香里が無理に止めたから、自分で廻さないといけない。
俺の腕時計の針は壊れてないから廻る。だけど香里の腕時計の針は直さないと廻らない。
俺の中にある時計の針は自然と廻る。だけど香里の中にある時計の針は、香里が願わないと廻らない」
あたしの中にある時計の針は壊れて止まっていたわけじゃない。
あたしの腕時計の針は壊れて止まってしまっているけれど。
あたしの中にある時計の針は、あたしが願えば廻りだす。
あたしの腕時計の針は、あたしが願っても廻らない。
似ているようで、全く異なる時計の針。
「・・・違いないわ」
「んじゃ、俺も廻るとするか」
ひょいと木の幹から離れ立ち上がる相沢君。
そのまま歩いて近づいてくる。
あたしは廻るのを止めると、慌てて相沢君の歩みを止めさせた。
不満そうな顔しないでくれる？
相沢君にまで廻られたら困るんだからね？
なんでだよ、と言いたげな相沢君にあたしは言った。
「あたしの時間が相沢君に追いつくまで待ってなさい。これ以上の置いてけぼりは嫌よ。その代わり、そうね。
いつか追いついたら、その時はあたしと一緒に時を刻んでくれる？ その時から先、できれば死ぬまでずっと」
そう言ったとき、あたしは良い笑顔だったと思う。
相沢君は驚いたような顔をして、それから笑って頷いてくれた。
あたしも頷いてから、再び廻りだす。
くるくる くるくる
くるくる くるくる
静かに、少しずつだけど。
まだまだ相沢君には追いつけていないけど。
時計の針は、たしかに時を刻み始めた。
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