another grey day in the big blue world
祐一と美汐は夫婦喧嘩の真っ最中だった。
喧嘩と言っても暴言・暴力が飛び交うというわけでもない、至って静かなもの。
要するに、一方的に美汐が祐一を無視しているという状態。
それが三日続いていた。
「あの、美汐、お弁当は……」
と今朝も遠慮がちに尋ねる祐一に美汐は無言で弁当箱を指さす。
「あ、ありがとう……」
一応弁当は作ってくれるものの、昨日も一昨日も白いご飯の真ん中に梅干が一つだけ。
いわゆる日の丸弁当というやつだった。
朝食はパンだからまだいいものの、夕食まで白飯だけというのにはさすがの祐一も閉口した。
喧嘩の原因は非常に単純で、極めてありふれた――つまりは祐一の浮気である。
その日、飲みに誘われた祐一は珍しく前後不覚になるまで飲みすぎてしまい、
気がつけばベッドの上。
隣に寝ている見知らぬ女。
顔から一気に血の気が引く祐一。
真っ先に思い浮かべたのは悲しそうな美汐の顔。
次に浮かんだのは、その美汐から突きつけられる離婚届だった……。
隠そうと思えば簡単に隠せたのかもしれない。
しかし、朝帰りの祐一を心配で一晩中眠れずに待っていた美汐。
その真っ赤に腫らした目で見つめられると、祐一はとても良心の呵責に耐えられず、
結局、自ら告白してしまったわけだ。
「すまないっ、美汐」
土下座して何度も謝る祐一。
美汐はしばし呆然としていたが、泣くでも喚くでもなく無表情に、
「そうですか」
とだけ言って、それから一切口をきかなくなった。
美汐が怒るのも当然で、祐一はなんとか償おうと必死だ。
わざわざ白飯を食べなくとも、外でちゃんとした食事をとることだってできたのだが、
それではまた美汐の気持ちをないがしろにしてしまうと思っていた。
たとえそれがどんなにひどい暴投であっても、確かに自分に向けて投げられたこのメッセージは、
何があっても全部受け止めたかった。
それが取り返しのつかないことをした自分にできる精一杯だった。
誠心誠意、気持ちを伝えようと祐一は努力し続けたのだが、それでも美汐は頑として耳を貸さない。
と言うより、美汐の方も意固地になって許すタイミングを逸してしまっているようだ。
いくら祐一が悪いと言っても、それぐらいで嫌いになったわけでもなく、
むしろ真剣に謝ってくれているのは嬉しいはずなのに、ここで簡単に許してしまうのも癪、
などと変なプライドが邪魔をしてしまう。
「はあ……」
お昼になると、実はちゃんと作っていた祐一の弁当のおかずを自分で食べながら、
「どうしてこんなことになってしまったんでしょう……」
と深いため息をつく美汐なのだった……。
それから数日後の朝。
日の光がカーテンを透してかすかに部屋を照らす中、
目覚まし時計のアラーム音がけたたましく鳴り響いた。
美汐が起こしにくることもなくなっていたので、今日も自らかけた目覚ましで祐一は目を覚ます、
と、天井がグルグルと回っている。
頭はガンガン痛み、全身が熱っぽくて異常に重い。
どうやら風邪を引いてしまったらしい。
やっとの思いで目覚ましを止めると、もうそのまま動けない。
「美汐……」
うわ言のように祐一はつぶやいた。
しばらくそのままベッドでうんうん唸っていると、
寝室のドアが少し開いて、隙間から美汐がひょこっと顔を出した。
なかなか起きてこないのでやはり気になって見に来たらしい。
少し様子を伺っていたが、すぐに異変を感じて慌ててベッドに駆け寄ると祐一の額に手を当てた。
「美…汐……」
ひんやりとした手の冷たさに気づき、祐一が目を開ける。
「ゆ……」
美汐は何か言いかけたが、すぐ身を翻して部屋を出た。
少しして、美汐はすり潰したリンゴと水と薬をお盆に持って戻ってきた。
だいぶ急いだのであろう、まだ少し息を切らしている。
一言も喋らないままではあったが、その表情には心配の色がはっきりと浮かんでいた。
苦しそうな祐一の顔が、熱を出して次第に弱っていったあの子の姿と重なってしまう。
どうしようもなく不安が美汐の胸に押し寄せてくる。
もう大切な人を失いたくない。
その想いが美汐を突き動かす。
祐一は美汐の手を借りてなんとか身体を起こし、少しずつリンゴを口にした。
飲み込むたびに喉の痛みに顔をしかめながらもやっとの思いで食べ終え、薬を飲む。
「ありが…とう……美汐……」
苦しそうに息を吐きながらも途切れ途切れに礼を言う祐一。
その普段からは見る影もなくかすれて消え入りそうな声に、思わず美汐は祐一の手を握りしめた。
もうこれ以上こらえることはできなかった。
「祐一さんっ……！」
今までずっと心の奥に押し込めていた想いが一気に溢れ出す。
「祐一さん、ごめんなさい、私がちゃんとお食事作らなかったから……」
涙まじりの声で祐一に言った。
「美汐は、悪く…ないよ……」
祐一が弱々しく首を振って否定してみせる。
美汐もまた激しく首を振った。
「私は本当に愚か者です……聞いた時はそれは怒りましたけど、今はそこまでは怒ってないんです」
涙がこみあげる。
「祐一さんがいつも私を大切に思ってくれているのは、本当に、本当に、わかっているんです」
胸が詰まる。
「なのに私……」
あとは言葉にならなかった。
どうして今まで言えなかったのだろう。
美汐は胸が張りさけそうになる。
熱っぽい祐一の手をぎゅっと握りしめる。
祐一はその手を握り返して言った。
「美汐は、悪くない……俺が、全部、悪いから……」
ゆっくりと、一言一言、美汐に伝えようとする。
「ごめんな、美汐……」
それが今、祐一が一番言いたかった事。
美汐はただ泣きながら首を振るばかりだった……。
その日は一日中、美汐はつきっきりで祐一の看病をし、
その甲斐あって次の日には風邪もすっかり良くなっていた。
「今日は快気祝いに大ご馳走で待ってますよ」
と張り切る美汐に、
「それじゃあ今度から二日置きぐらいに風邪ひこうかな」
と祐一がとぼける。
二つの笑い声が重なり合う。
止まっていた時間が動き出し、灰色の世界が色を取り戻していく。
以前と変わらない二人の日々がまた始まった。
変わったところと言えば、弁当のおかずが一つ増えたことぐらい……。
結果のページ
戻る