送り火／狼煙
ドアに据え付けられたカウベルが控えめな音をたてると、ほとんど間を置かずにウェイターが奥から飛んできた。
店内にほとんど客がいないのは、外がこんな天気だからだろうか。
「二名様ですね？ 只今お席の方にご案内致します。禁煙席と喫煙席はどちらに」
あ、禁煙席で──言いかけた名雪の言葉を遮るように。
「喫煙席で」
「え？」
名雪が怪訝そうに首を傾げた頃には、ウェイターと香里はさっさと席へ歩き始めている。
運ばれてきたイチゴパフェとコーヒーの横に、ステンレスの灰皿。
その横に、香里が鞄から取り出した、黒い小さなポーチ。
「それ、煙草？」
「そうよ？」
「うー。いいんだけど」
言葉ではそう言うが、本気でそうは思っていないのが、名雪の口振りの向こうに透けて見える。
「煙草は嫌い？」
「あんまり。……一応ほら、もう卒業式だけだし、春休みだけど、でもわたしたち、今はまだ高校生で」
他に客がいるわけでもないのに、内緒話でもするように声を潜めて。
「未成年だし、女の子だし？」
「まあ、うん。でも、えっと、香里には香里の考えがあるんだよ、とは思ってて、その、だから」
パフェの表面を長いスプーンでつつきながら、名雪はそのスプーンの先を凝視しながら。
「いいのよ。名雪の言ってることはおかしいことじゃないわ」
ミルクも砂糖も加えずに、香里はコーヒーに口をつける。
「でも、だからって香里、煙草吸うの止めないよね？」
もう一口、コーヒーを飲んでから。
「わかっててやってるんだもの」
香里は頷いた。
「でも、どうして急に？」
「さあ。どうしてかしらね」
いい加減に逸らかしながら、香里は曇った窓硝子の露を少しだけ指で拭った。
遠くの景色を望遠鏡で覗くように、切り取られた窓の外が見える。雪はまだまだ止みそうにない。
「すぐそうやって誤魔化す」
「悪いお姉さんだもの」
「そんな……こと、なかったと思うよ」
名雪がそう言ってくれることは香里にはわかっていて、だから香里は、それには何も答えない。
沈黙が舞い降りた。
「煙草、吸ってもいいかしら？」
名雪のパフェがなくなった頃合いを見計らって香里は声をかける。一応、気は使っているのだろう。
「駄目だよ」
名雪の返答には取りつく島もない。
「いい男はね、女の我儘にノーって言っちゃいけないのよ？」
「香里……わたし、女の子」
しかしポーチのジッパーは引き開けられる。開いた口から、煙草が入っているのであろう白い箱が見えた。
光沢のある緑色のラインで縁どられた細長い箱。
銘柄のロゴはわからなかったが、その下に少し小さく「メンソール」と書いてあるのは読めた。
自動販売機のディスプレイか何かで見た覚えのある箱だったが、名雪にはそれ以上のことはわからない。
「っていうか、もう吸う気でいるし」
「ごめんね」
「謝ってないし」
「まったく、我儘なんだから」
「──ねえ香里、冗談じゃなくて」
いつになく悲しげな目で、名雪が香里を見つめていた。
「今日は月命日だから」
「あ」
呟いたきり、名雪は続ける言葉を失う。
「だから──」
まだどこか不慣れな感じの残る仕種で、箱の角を指で軽く叩いて、一本だけ伸びてきた細い煙草を指で挟む。
「これはあたしから」
新しいオイルライターから、かしゅっ、と何かが擦れる音がして。
「あの子への送り火」
火の点いた煙草から僅かに立ち上る紫煙は、すぐに、曇った窓硝子の背景に溶け込んで見えなくなる。
「そういうロマンティックなことを言ったら、名雪は許してくれるかしら？」
「許さなくても、もう吸ってるし」
ぶすくれた声で名雪は答えるが、悲しげな目だけは、それでも悲しげなままで。
薄く塗られたルージュの間から零れた白い煙は、タートルネックの黒いセーターの前で、溜め息のかたちになった。
「あたしはほら、最後まであの子に嫌われてた、いけないお姉ちゃんだったから」
聴きとることも難しいような小さな悲鳴を上げて、煙草の先から灰が蹴落とされる。
「そんなこと、なかったと思う、けど？」
「子供っぽいってわかってるけど、いけないお姉ちゃんのままでないと、今までのあたしに、あたしは許してもらえない気がして」
燃えさしの、まだ煙草のかたちをしている灰からも、微かな煙が上がって、すぐに消える。
「だから、そんなことないよ、きっと。だって」
「……ありがとう。名雪ならそう言ってくれる、って思ってた」
ちりちりと、煙草の先が焦げる音が、やけに大きく聞こえた。
「名雪も相沢くんも、北川君だって、あたしがこういう言い方をすれば、きっと必死であたしを許そうとしてくれるって。でもね」
言いながら、まだ半分は残っていた煙草を乱雑に揉み消して、灰皿ごとテーブルの隅へ押しやる。
「でも他人じゃないのよ。問題は、あたしがあたしを許せるかどうか、だから」
「だったら、わたしも煙草吸う」
いきなり名雪はそんなことを言って。
「やめときなさい。煙草なんて、何もいいことはないわ」
「わたしも吸うっ！」
制止も聞かず、ひったくるように香里の手元からポーチを奪いとった。
「やめてよ本当に。煙草なんか吸わせて、あたし後で相沢くんに何て言い訳したらいいの？」
「言い訳なんか要らない。祐一はわかってくれるよ。絶対わかってくれる。北川くんだって……わたしだって」
煙草の箱を自分の胸元にぎゅっと引き寄せ、縮こまった指先で、香里以上にたどたどしく、煙草の箱の角を弾く。
だが、煙草の方が嫌がっているのか、香里がやったようには出てきてくれない。
もどかしくなって名雪は箱を引っ繰り返し──中に残っていた煙草が、ばらばらとテーブルの上に散らばってしまった。
「香里、やめときなさいってわたしに言ったよ」
俯いたまま、落ちた煙草を拾い集めている。
「ええ」
「煙草なんて、何もいいことない、ってわたしに言ったよ」
そうして集まった煙草を、一本ずつ丁寧に箱の中に戻していく。
「そうね」
「だからわたしも吸う。それで、香里が香里を許してあげるまで、香里と同じだけ、わたしも悪いお姉さんになる」
だが、箱にしまわなかった最後の一本を唇に咥えて──初めて口にした煙草の匂いに驚いたのか、少し顔を顰める。
「ほら。だから止しなさい。名雪がそんなことしても」
「だって──栞ちゃんは！」
さりげなく香里が取り上げていたオイルライターをもう一度ひったくろうとしながら。
「最後に『ありがとう』って言ってくれた、って言って、あの時香里は笑ったよ！ なのに香里がそんなことしたって！」
ほとんど客がいない店内には、店中に聞こえるような大声を上げてしまった名雪を睨む者はいなかった。
過ぎたこと、なんて思ってないし、そんなこと言いたくないけど、自分のこと苛めるばっかりじゃ駄目、だとも思うよ。
このままずっと、そのことだけを気に止んでばっかりじゃ、香里にはいつまでも、栞ちゃんのお姉さん、だけしか残らないよ。
香里はそう思えないかも知れないけど、美坂香里さんがいないのだって、わたしにとっては悲しいことだから。
だから、
話す相手が、たまたま今は目の前にいる名雪じゃなくて、相沢君であっても、あるいは北川君であっても。
多分、最後にあたしは、同じところに辿り着いたんじゃないかしら、と香里は思った。
同じところ──つまり、
「もっと悪いお姉さんになるなんて、そんな悲しい理由なら」
あの子を持ち出さなければ自分の居場所も確かめられないような、本当はまるで覚束ない足元を見透かされたり、
「わたしの前で煙草なんか吸わないで欲しいよ」
こんな風に、一緒にいると煙草を吸えない相手がどんどん増えたりする、そういう結末に。
そろそろ、始める頃合い、ということなのかしら。……『あたし』を。
「煙草、返してもらえるかしら？」
何度か口をつけただけの、もうすっかり冷めてしまったコーヒーのカップを脇に除けて、香里は灰皿を引き寄せる。
「でも香里、それは」
「違うわよ。……そうね、狼煙」
「のろし？」
お姉ちゃんであること以外のすべてを放棄してきたあたしが、そうして放棄してきたものを取り戻すための狼煙。
「合図のことよ」
「え？ 何の合図？」
あたし自身さえ置き去りにしてきたあたしが、今更、あたし自身になろうとする戦いの合図。
「言葉通りよ」
それ以上のことを、思っている通りに、口に出して答えることはしなかった。
だが、ポーチと煙草の箱をを素直に返して寄越した名雪には、きっと何か、伝わっていたことがあるのだろう。
そしてまた、煙草のイメージに似つかわしくない、あの病的な、作り物じみた清涼感が香里の喉を灼く。
「ふふふっ」
灼かれている──のは、あたしの喉だ。
多分初めて、香里はそんなことを実感していた。
他の誰かの喉じゃなくて。
誰かのお姉ちゃん、の喉とかでもなくて。
「香里、どうしたの？ わたし、何かおかしいこと聞いた？」
名雪は困った顔をするが、それについても、口に出して答えることはせずに。
……香里はしばらくの間、くすくすと笑みを零しながら、送り火を焚き続け、狼煙を上げ続けた。
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