風にドレスを
秋の空はどこまでも青く澄んでいた。
白樺の木立を風が渡るたび、黄金色の葉から漏れた陽光が芝生の上でゆったりと揺らめいている。
心地よい葉擦れの音はさざなみのように寄せては返し、遠く子供たちの楽しそうな笑い声を運んでくる。
誰もが穏やかな気持ちになれそうな――そんな公園の片隅で。
わたしはひとり泣いていた。
まるで子供のように嗚咽を噛みしめ、むせび、手の甲で何度も涙をぬぐった。
みっともないとわかっていても、胸の奥からこみ上げてくるものは、どうしようもなく押さえられなかった。
どうしてだろう。
あいつと別れ話をしたときも、
離婚届に印鑑を押したときも、
ついさっき、それを役所の窓口に叩き付けたときも
わたしは泣かなかった。
それなのに。
ベンチで俯くわたしの前を何人かが通り過ぎていった。
ある人は早足で、
ある人は遠慮がちに遠回りをして、
あるカップルは途端に声をひそめて過ぎ去っていった。暫くして笑い声が聞こえた。
くやしい。
でも、もうどうでもいい。
熱がさめるようにわたしの体から次第に感覚が抜けていった。
――どのくらいたったのだろう？
ベンチがひんやりしている。
子供たちの笑い声はもう聞こえない。
ふと枯れた目を上げると、辺りはほのかにオレンジ色に染まっていた。
わたしは冷たい夕暮れの風に体をまるめて、歩道を引っかかりながら転がっていく落ち葉をしばらくぼんやり見つめていた。
かさっ
不意に隣で葉擦れの音がした。
目を遣ると、そこには女の子がひとり。
腕を後ろに組んで躊躇いがちに、わたしを見ていた。
小学生になるかならないかくらいかな？
栗色の長い髪が似合う、かわいい子だった。
「どうしたの？」
声が掠れたけど、わたしは精一杯の優しい声で訊ねてみた。
すると女の子はちょっと後ろを振り向き、大切そうに持っていたものを差し出した。
刹那――
まるで万華鏡の中身がばら撒かれたようだった。
溢れる色彩に、わたしは眩しくて目を細めた。
赤、だいだい、黄緑、白銀……
透明な光の中で、それらは混じり合って黄金色に煌めいていた。
“紅葉のブーケ”
その鮮やかさにわたしは驚き、また随分長い間暗闇の中にいたことを悟った。
女の子はさらに腕を差し出した。
「これ、わたしに？」
女の子がこくんと頷く。
両手でしっかりとブーケを握りしめ、透き通った瞳は真っ直ぐにわたしを見つめていた。
風が二人のあいだを優しく流れた。
ブーケがかさかさなって、女の子の長い髪がふわりと浮いた。
オレンジ色の陽光の中できらきら光る女の子。
ふと、わたしはその光景を懐かしく見ている自分に気がついた。
デジャヴ？
いや。
それは遠い昔。
まだわたしが子供だった頃のこと。
わたしは確かにこの光景の中にいたんだ。
§
あれはわたしが小学生の頃だ。
転校しがちな人見知りのする子供の例にもれず、友達のいなかったわたしは近所の人気のないところで遊ぶのが好きだった。
子供心にも孤独な姿を見られて同情されたくないという変なプライドの強さがそうさせた。
その日もわたしは街はずれの丘の上を目指していた。
そこは「ものみの丘」と呼ばれていた。
夕暮れ時には見下ろす街が宝石のように輝いてみえる、とてもお気に入りの場所だった。
すっかり色あせた雑草をかきわけ、すすきの野原を抜けて丘の上を目指す。途中ナナカマドの真っ赤な実をつけた枝を見つけた。振ってみるとコロコロと鳴った。
今日は何をしよう。
いつものようにわくわくしながら上を目指していると、
突然視界が開けて、ぽっかりと青い秋の空が広がった。
そして――
そこにあのひとがいた。
一瞬間違った場所に来たのかと思った。
そこにわたし以外の人がいるのを、初めて見たからだ。
帰ろうかな？
他人と一緒に遊ぶつもりはなかった。
でも、こんな場所にひとりで来ているのが誰なのか好奇心がわいた。
手をかざし、逆光に目を凝らす。
女の人だった。
たまに会う隣の中学生のお姉ちゃんくらいの年かな。
でも制服は着ていない。
茶色のミニスカートでちょっと寒そうだったけど、ジージャンの襟元からは白いタートルネックが覗いていた。
黄金色の髪が日の光にきらきらと煌めいて、眩しかった。
いや。
煌めいているのは髪の毛だけではなかった。
それが何か分かったとき、わたしは思わず息をのんだ。
それはヴェールだった。
花嫁が結婚式につける純白のヴェール。
飛ばされないように耳元で押さえ、風に吹かれるたびに、白銀に波打っていた。
とても綺麗で、わたしはしばらくその姿にみとれていた。
わたしは絵本で見たお姫様の結婚式を思い出した。
お姫様は純白のドレスとヴェールに包まれて、とても幸せそうに微笑んでいた。
でも。
あのひとの横顔は、微笑んでなかった。
ただ寂しそうに街を見下ろしていた。
わたしは思った。
きっとドレスがないから悲しんでいるのだろう、と。
ドレスを着て笑ったらもっと綺麗なのに、と。
だけど、ドレスを用意することはとても無理な話だ。
それならせめて――
わたしは林に駆け込んだ。
色づく紅葉で、お姫様のブーケを作ろうと思った。
さっきまで帰ろうと思っていたこともすっかり忘れて、わたしは紅葉集めに没頭した。
橙色のもみじを真ん中に、山吹色の落葉松の枝をあしらう。
まだ青い熊笹の葉をアクセントに加えて、すすきの穂でまわりを包んでみた。かすみ草の代わりのつもりだった。
なかなかいい出来だった。
だけどなんとなくぼんやりしている。
そうか。赤が足りないからだ
わたしは辺りを見回した。
でも、もみじはまだ黄色くて、桜の枝は赤を通り越して茶色くなっていた。
せっかくいい出来なのに……。
唇を噛んだとき、途中で拾ったナナカマドの枝を思い出した。
本当は家に持って帰りたかったんだけど。
真っ赤なナナカマドの枝を加えると、見違えるように鮮やかになった。髪を束ねていたお気に入りの赤いリボンでブーケを結ぶと、さらに引き立った。
絶対喜んでくれる。
わたしは確信して、あのひとのところへ駆けていった。
日はすでに暮れかけていた。
随分時間がかかってしまった。もうどこかに行ってしまったかもしれない。
わたしはちょっと心配になった。
でも、あのひとは変わらずにそこにいた。
変わらずに寂しそうに暮れゆく街を見下ろしていた。
わたしは息を切らして、あのひとの前に立つと、ブーケを差し出した。
早くお姫様の笑うところが見たかった。
笑ったらとっても綺麗だと思うから。
でも、あのひとは笑わなかった。
いや。わたしに気づいてもくれなかった。
ただ街を見下ろしていた。
変わらずに。
寂しそうに。
それでもわたしはブーケを握りしめたまま、あのひとが気づいてくれるのをじっと待っていた。
いつのまにか夕日が山の端にかかり、雲は赤さを増していった。
ブーケを持つ手はすっかりかじかんで、力無く垂れ下がりかけていた。
どうして気づいてくれないんだろう。
どうしたら気づいてくれるのだろう。
わたしは為す術もなく立ちつくしていた。
夕日の最後の一閃が、消え去ろうとしていた。
諦めかけたそのとき。
丘を駆け上がってきた風が、ブーケを揺らした。
コロン……。
ナナカマドの実が、かすかに鳴った。
コロン……コロン……。
まるで鈴のように、風に揺られて。
「あぅ……」
突然頭の上で声がした。
わたしが見上げると、あのひとと目があった。
わたしはどきどきして、ブーケを落っことしそうになった。
再び差し出すと、ヴェールを押さえていない手で、ブーケを受け取ってくれた。
そして――
笑ったんだ。
とても嬉しそうに。
幸せそうに。
最後の夕日をうけて、その笑顔はとても綺麗で輝いて見えた。
§
あれから、もう十数年が経つ。
そして今、またあの光景が繰り返されている。
今度はわたしがブーケを受け取る立場で。
小さな震える手から、ブーケを受け取る。
「ありがとう」
女の子の顔が笑顔で弾けた。
頬を赤らめ、とても嬉しそうだった。
わたしも笑った。
驚くほど自然に。
それから、わたしたちはお互いを見つめて笑いあった。
二人の間でブーケがかさかさと鳴った。
ふと、わたしはさっきまで泣いていたことを思い出した。
化粧も落ちて大変なことになっているに違いない。
「あっ！ わたし、ごめんなさい。不細工でしょ」
慌てるわたしに、女の子は首を横に振って、「キレイ」と言った。
そして一歩後ずさりすると、くるりと踵を返して夕焼けの木立の向こうに駆けていった。
わたしは立ち上がって、その背中が見えなくなるまで見送った。
公園がほんのりと茜に染まり、気の早い街灯達が家路をせかすようにぽつりぽつりと灯り始めている。
ブーケを片手に、わたしは歩き出した。
足取りが軽い。
とても爽やかな気持ちだった。
まるで、生まれたての清々しい風に吹かれたように。
そういえば……
あの時も、こんな風が吹いていたような気がする。
ふたりで笑いあった、あの丘に吹く風。
時を超えて懐かしさを運ぶ風。
あのひとは今頃どうしているだろう。
幸せになれたのかな？
それとも、まだあの丘の上で街を見つめているのかな？
わからない。
だけど……
わたしもまたあのひとのような笑顔がしてみたい――そう思う。
「風は生まれ変わる」
そんな言葉を聞いたことがある。
そうだ。
きっと風と同じように、人も何度でも生まれ変われる。
何度でも幸せになれる。
わたしはまたしっかりとブーケを握りしめた。
結果のページ
戻る