傷痕
私の体には傷痕がある。
鎖骨の真ん中、胸の上部から下方に一直線。
それは私の生きている証。
その傷痕の下で、今も心臓が、トクン、トクンと、確かに脈打っている。
誇って良い事だと、人は言う。
世界初の成功例。
世界中の多くの人々に希望を与えた。
と。
不満があるわけではない。
幸せでないはずが無い。
明日をも知れなかった、死をも覚悟した、それを考えれば。
不満など、持てようはずも無い。
でも。
傷など無い体でありたかったと。
もっと普通の女の子でありたかったと。
そう、思うのは贅沢だろうか？
いや、分かってはいる。
でも、だとしても。
私だって、女の子なのだから。
彼に嫌われたくないと、そう思う、心の弱い女の子なのだから。
"傷痕"
「栞、」
いつもよりやや長めの風呂から出てきた栞に、香里は声をかけた。
栞はタオルで頭を拭きながら、
「なに？ お姉ちゃん」
「明日、相沢君とデートでしょ？」
「……なんで知ってるの？」
栞が不思議そうに、不審そうに訊くと、
「栞、デートの前日はお風呂が長くなるの、自分で気付いてないの？」
と、あっさりと香里は答えた。
「……計ってたの？」
「そんなわけ無いでしょ」
香里は苦笑しながら言う。。
「で、どうする予定なの？」
「……ついて来ないでよね？」
「まさか」
どうだか、と栞は思った。一度こっそりついて来ようとしていたのを、栞はまだ忘れていない。この姉は、基本的に優等生で、美人で、自慢できる姉なのだが、少々――いや、かなり過保護なところがある。
興味本位なわけではなく、自分のことを心配して、というのは分かっているのだが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
香里が興味津々、といった様子で――傍目には落ち着いているように見えただろうが、栞には分かった――見つめていたので、栞はため息を隠しながら正直に、
「まだわかんない。祐一さんが決めてくれる、って」
「そう」
「でも、お弁当は作ってきて欲しい、って。どこで食べるのかは知らないけど」
「もう準備はしたの？」
「うん。下ごしらえだけは終わらせてあるよ」
「早いわね」
そう言うと、栞は困ったように
「お母さんに、晩御飯の準備の邪魔だって言われちゃった」
香里は呆れたように、
「……また沢山用意したの……？」
「そうじゃないけど。色々やってたら」
「……相沢君も大変ね」
同情したように言う香里。栞は少しむくれた様子で、
「だって、祐一さん、全部食べるって言ってくれたから」
「ふーん」
そう言って香里は少し微笑む。
「明日からは制限なし、だもんね。久しぶりのデートだし、相沢君も気合入ってるのかな？」
そう、明日からは、制限なし。
今までは、休日と言えば病院にいく日だったし、たいした運動もできなかった。遠くに遊びに行く事もできなかったし、長時間外出することもできなかった。
そんな中でも、何度か一緒に出かけ、遊んだ事はあったが、多くの制限のかかっている中でのことだった。それも、栞が病院通いをし、祐一が受験生という状態では何ができるわけでもなかった。
けれど、明日から。正確には３日前からは、その制限もない。本当のデート。激しい運動はできないけれど、普通のカップルがするようなことは、全部できる。
そう、全部。
一瞬、栞の表情が変わったように、香里には見えた。沈んだ表情、悩んでいる時の顔に。
「……栞？」
「なに？ お姉ちゃん？」
既に栞の表情は普通のものに戻っている。いや、ただの見間違いだったのかもしれない。
楽しみにしていたであろうデートの前に、わざわざ不快にさせるようなことをしないほうがいいだろう。もし見間違いでなかったとしても、彼氏彼女の関係なのだ、そういうこともあるだろうし、緊張しているのだろう。
そう思って、香里は、
「ん、なんでもない」
「？ 変なお姉ちゃん」
栞はテレビをつけると、天気予報にチャンネルを合わせた。どこに行くのかはまだ分からないとはいえ、天気は気になるらしい。
そんな栞の様子を見ながら、やはり勘違いだろう、と香里は思った。
しばらくして、画面に各地の天気が表示される。
曇りのち晴れ。降水確率１０％。栞は少し微笑んだ。
明日は、なかなかのデート日和になりそうだった。
「……ただいま」
玄関から聞こえた栞の声に、香里は参考書から顔を上げて時計を見た。午後６時３０分。久しぶりのデートの終わる時間としては、早いほうではないだろうか。まぁ、朝から出かけていっているので、それほど短い時間、というわけでもない。
が、少々早いようにも思う。そういえば、さっきの声も少し弱弱しかったような気もする。
まさか、調子でも悪くなったのだろうか。
少し不安になって、香里は参考書も閉じずに急いで部屋から出た。
ちょうど栞は、ゆっくりと階段を上ってくるところだった。
「栞、どうしたの？」
香里が聞くと、栞は目を伏せたまま、
「……なんでもないよ」
「なんでもないって……」
少なくとも、栞の様子が正常だとは、香里には思えなかった。ひどく調子が悪いようにも見えないが、楽しみにしていたデートの後の様子ではない。
「調子……悪いの？」
香里が心配そうに聞くと、僅かな沈黙の後、
「ん……少し……」
と言って、微かに首肯した。
何も言いたくない、何も訊かないで、と言っているように香里には見えた。かける言葉が見つからず沈黙する。
「…………」
「…………」
栞は沈んだ無表情で香里のほうを見て、
「……もう……いい？」
何か言わなければ、と思いながらも、香里は頷く事しかできなかった。
そして、栞は香里の横を通り過ぎて自室に入ろうとする。
これはさすがに変だ、と香里は思った。今日、何かあったに違いない。そして、あったとすれば、それは多分――
意を決して、香里は、
「ねぇ……栞？」
「……なに？」
「……相沢君と、何かあった？」
しばらく栞は沈黙した後、目を逸らして、
「別に……何も」
そう言って、自室に逃げるように入り込んでしまった。
香里は栞の後を追うようにしてドアの前に立ち、ノックしようとして手を上げ、そして結局、何もできずにその手を下ろした。
その日、栞は部屋から出てこなかった。
翌日、昼休み。
相沢祐一は、美坂香里に呼び出され、屋上に向かっていた。
祐一と香里はクラスが違うため、その伝言を持ってきたのは名雪だった。名雪は――実は名雪ともクラスは違うのだが――２時間目と３時間目の間の中休みに、祐一のクラスに当然のように入ってきて、机に突っ伏している祐一に、
「はいこれ。香里から。『昼休みまでに読みなさい』って」
そして、くるりと振り返ると、
「じゃ、伝えたから」
と言って、すぐさま歩き去っていった。
辺りが微かにざわめく中、祐一は気にした様子もなく、むくりと体を起こすと、手の中のメモ――ルーズリーフにシャーペンで書いてある――に目を落とした。そして、一通り目を通すと、制服の内ポケットにそのメモをしまい込み、また突っ伏した。
そして指定の時刻に、祐一は屋上――正確に言えば屋上に出るその手前、階段を上りきったところにある踊り場――に向かっていた。
祐一が階段の上を見上げると、香里は先に来て待っていた。ゆっくりと階段を上りながら、片手を挙げて挨拶する。
祐一が何か言おうとする前に、香里は、
「栞、今日は学校来てないわよ」
「……そっか」
祐一はため息と共に言葉を吐き出した。そして、香里に向き直って言う。
「それで？ わざわざそんな事のために呼び出したんじゃないんだろ？」
「……ええ……」
香里は表情を曇らせた。歯切れが悪い。
言うべきか言わないべきか迷っている。そんな風に、祐一には見えた。
概ね、香里の聞きたい事にも予想はついていた。
「……栞の事か？」
「……ええ」
香里は、少し躊躇ったようだったが、意を決した様子で、
「昨日……何かあったの?」
「……栞は何か言ったのか?」
祐一は、香里の質問に、質問で返した。
香里は一瞬戸惑ったような表情をしたが、
「……何も……言わなかったわ」
「……そっか」
そう言って、祐一は沈黙した。何事か考え込んでいるようにも――迷っているようにも、見えた。
「……昨日、帰ってきた時から、様子がおかしくて」
祐一の様子を気にしながら、独り言のように香里は話し始める。
「帰ってきてすぐに、部屋に閉じこもって……晩御飯にも降りてこなかったの」
「…………」
「……色々訊いてみたんだけど、『調子がちょっと良くない』って、そればかりで。何を訊いても答えてくれないし……心配なんだけど、栞は、大丈夫だ、って言って」
香里は少し下を向いたまま喋り続ける。
「調子が悪いのは本当みたいで、少し熱が出てたから、今日は学校を休ませて。いつもなら多少無理してでも行きたがるんだけど、今日は自分から休むって言って……」
「…………」
祐一は、黙って続きを促した。
「何か、変な気がして。心配のし過ぎかもしれないけど。……今だって、本当に迷ったんだけど。でも、やっぱり心配で」
そこで香里は一旦言葉を切った。そして祐一のほうを見て、
「ねぇ、相沢君……昨日、栞と、何かあったの？」
祐一は、
「栞は……何も言わなかったんだな？」
「……ええ」
「そっか」
そう言ってまた黙り込んでしまう。
香里は、そんな祐一に、
「……言えないような事？」
「…………」
祐一は、しばらく悩んでいたようだったが、
「栞が言わなかったんなら、俺が言うべき事じゃない」
「……二人の問題、って事？」
香里の言葉に、祐一は頷いて、
「……まあ、な」
「……そう……」
香里は俯いていたが、吹っ切ったように、
「じゃ、二人でしっかりと解決してよね」
そう言って祐一のほうを見た。その目には、先ほどまで浮かんでいたような迷いも不安もない。
「お？ 香里がそんな事言うなんて、意外だな？」
「そうかしら？」
香里は少し笑って言う。
「まぁ、相沢君が二人の問題だ、って言ってくれたし。……ちゃんと解決してくれるんでしょ？」
「どうかな？」
祐一も少し挑戦的な笑みを浮かべて言う。
香里はそんな祐一を見て、
「ま、あたしがどうこう言わなくてもちゃんとやってくれたかもね」
「そうか？」
「ええ」
香里は微笑みながら、
「これでも信用してるのよ、相沢君のこと。……栞のこと、頼んだわよ」
「任せとけ」
ニヤリ、と笑って、そう祐一は請け負った。
さも自信ありげに答えたものの、実際のところ、祐一に何らかの策があるわけではなかった。
原因は分かっている。十中八九、いや、ほぼ100％。祐一には確信があった。
栞の、胸の傷痕に違いない。
祐一が栞の傷痕を見たのは、昨日が初めてだった。
今までは見る事もなかった。手術痕があることは手術の内容を聞いたときに当然知っていたが、栞が生きている、その事にばかり気がいって、気にすることもなかった。それは栞がそれなりに元気になって、病院から退院して、学校にも少しずつ通えるようになった、そのときになっても同じだった。
栞が、それほどまでに気にしている事に、気付かなかった。
よくよく考えてみれば、そんな様子らしきものはあった。
栞はいつも胸元が見えないような服を着ていたし、それほど薄着になるようなこともなかった。それは、せっかく良くなってきた体調を下手に悪くしないようにだと、単純に思っていた。
海やプールに行かないのも、まだ本調子ではないのと、祐一が受験生である事を考えての事だと思っていた。
だから、気にもしなかった。思いつきもしなかった。
祐一は、手を爪が食い込むほど強く握った。
自分の迂闊さに腹が立った。自分の間抜けさに怒った。気の回らない自分を呪った。
栞を泣かせるような真似だけはすまい、と思っていたのに。浮かれていた自分は、気付きもしなかった。
そう、昨日。
朝、栞の様子は僅かに変だったように思う。どこが変、というわけではなかったが、何か不安そうにしていた。祐一は大して気にもせず、緊張しているのだろう、と思った。
待ち合わせの場所に行くと、栞は先に来ていた。手にはお弁当が入っているのであろう、結構大きいバッグを持っていた。
午前１０時。場所は駅前。天気は晴れ、雲も少なかった。
祐一は、何処に行こうかと前日の夜まで考えていたが、色々と考えすぎてまったくまとまらなかったので、
「実は何も考えてない」
と言うと、
「祐一さんらしいですね」
と言って、微笑んだ。
何処に行こうかとその場で色々と相談して、結局普段と同じようなコースになった。
最初は公園。
公園に向かう途中で、祐一が栞のバッグが重そうだから持つと言い、栞が拒否した。
栞は、
「自分の作ったお弁当ですから、最後まで自分で持っていたいです。祐一さんに持たせるわけには行きません」
そういって拒否したが、祐一が聞き入れず、自分が持つと言い張ったため、少々の口論の末――口論と言っても、恋人同士の軽いじゃれあいというようなものであったが――半分ずつ持つことで双方が結局妥協した。
公園では、栞がバッグの中からスケッチブックを取り出した。
栞が祐一をモデルにしてスケッチを始めようとしたが、祐一が思いついたように、
「今日は俺がやる」
と言い出したため、またも口論になった。
何故か二人交互に描くことになって、お互いの描いた絵を見ながら、ああでもないこうでもないと言い合っているうちに、日は真上まで昇っていた。
祐一曰く、
「栞の絵は前衛芸術。一般人には理解不可能。もちろん俺にも」
であり、栞曰く、
「祐一さんひどいですー。大体、祐一さんだって、人のこと言えないような絵じゃないですか」
という事であった。概ねバカップル達の微笑ましい光景と言えよう。
一旦休憩して、栞の作ってきたお弁当を、二人で食べた。
その量は、一時期よりも少なくなったようであったが相変わらず多く、その上栞は小食なため、大部分を祐一が食べる事となった。小１時間ほどかけてゆっくりと食べたが、それでも食べ終わった直後は、祐一は動けそうもなかった。
そうして、祐一と栞は、二人でシートの上に横になりながら空を眺めていた。穏やかな、柔らかい日差しが照らしていた。
その後、商店街へと向かった。
最初にしたのは、ウインドウ・ショッピング。
買わないとしても、色々な物を見るのは楽しかった。洋服や小物、靴やバッグ。栞のセンスはなかなかのものだったし、祐一は変なもの、変わったものを見つけるのが得意だった。
そして次はゲームセンターに。
モグラ叩きをやって栞の腕前がほとんど上がっていない事を祐一がからかったり、流行りのガンシューティングを二人でやってみたり、クレーンゲームの結果に一喜一憂したりした。
栞が少し疲れたようだったので、アイスを買って、水瀬家で休憩する事にした。祐一は気付かなかったが、栞は少し不安そうな顔をしていた。
「もしも祐一さんに変な事をされそうになったら、悲鳴を上げてくださいね」
「はい、分かりました」
以前と同じようなやりとりを、栞と秋子さんがしていた。祐一は複雑な気分だった。
祐一の部屋に行って、落ち着いて。
祐一が栞にキスした。ここまでは、今までも何度かした事があった。これ以上は、あの時以来していなかった。
服に手をかけると、栞は拒んだ。
「どうして？」
と祐一が聞くと、栞は体を抱えるようにしながら俯いた。
無理強いできずに祐一が戸惑っていると、栞はシャツのボタンを上からゆっくりと外し始めた。
「…………」
祐一の動きが止まる。
傷痕が、在った。
胸の間、鎖骨の中央から鳩尾の辺りまで伸びている。
「傷痕を消す手術、っていうのも、したんですけど」
栞は困ったように、哀しそうに、
「これ以上は無理みたいで。……綺麗にしたかったんですけど」
祐一は何も言えなかった。混乱して、呆然としていた。
栞は、またゆっくりとボタンを留めると、
「……今日は帰ります」
そういって立ち上がった。祐一も慌てて付いていく。
祐一は、混乱して思考力を失っていた。何を考えれば、何を言えば良いのか分からなかったが、急いで栞の後を追った。
別れ際、玄関で栞は、
「……ごめんなさい」
と言った。
「…………」
祐一は何か言おうとしたが、結局何も言えず、栞は去っていった。
祐一は栞の姿が見えなくなるまで、玄関の前に立ち尽くしていた。
栞の目には僅かに涙が浮かんでいた。祐一は、自分を不甲斐無く思った。
そして、祐一は考えた。自分がどうすればよいのかを、自分がどうしたいのかを。真剣に。
３日、考えた。その間、栞は学校に出てこなかった。
そして、祐一は結論を出した。
その翌日、祐一は香里を呼び出して栞に伝言を頼んだ。
『明日、公園で待ってる』
時間の指定はない。祐一は朝から待つつもりだった。もちろん学校へは行かない。
香里は頷くと、
「どうするつもり？」
と訊いた。祐一はニヤリと笑って、
「当たって砕けるさ」
と答えた。
結局、祐一は一番単純な方法を選んだ。
言葉を弄すよりも、自分の思いをストレートに伝える事にした。
取り繕う事はせず、慰めもせず。ただ、栞に『愛してる』と言うつもりだった。
香里は笑って、
「相沢君……馬鹿でしょ」
「おう」
と、祐一も笑って答えた。
栞はその伝言をベッドの中で聞いた。祐一と同じように、栞もずっと考え続けていた。
そして、祐一からの伝言を聞いたときには、心は決まっていた。
もとより、答えは一つしかなかった。
必要なのは、覚悟と――信じる事だった。
祐一はいつもと同じ時間に家を出て、途中で名雪と別れて公園に向かった。
噴水の縁に腰掛けて栞を待つ。
１０時５分前に栞はやってきた。何も喋らず、祐一の隣に腰を下ろす。
沈黙。辺りに人影はなく、公園の中はとても静かだった。
風の音、噴水の音がやけによく聞こえた。
「なぁ……栞……」
沈黙を破って祐一が話し出した。
「言いたい事が、あるんだ」
「私も……祐一さんに言いたい事があります」
栞はそう答えた。
「それじゃあ……どうしようか？」
「そうですね……祐一さん、先にどうぞ」
栞は緊張と、不安を隠しながら言った。
「分かった」
祐一は、こほん、と咳払いをして、
「栞……好きだ。愛してる」
と言った。
栞は息を呑む。頬が微かに赤く染まった。祐一は続ける。
「傷痕とか、関係ない。俺は……栞が好きだ。ずっと好きだって言った。これからもずっと好きだ。何があっても。だから……」
上手く言えない。何度も考えたのに。祐一は焦った。
そんな祐一を見て、栞は、
「祐一さん、」
「…………」
互いに見詰め合った。
「私も、祐一さんの事が好きです。愛してます」
祐一は息を呑んだ。
栞は胸の前で手を組んで、続ける。
「ずっと不安だったんです。ずっと好きだって、あの時言ってくれたけれど。でも、祐一さんは、傷、嫌がるんじゃないかって」
「…………」
「でも。祐一さんは、好きって言ってくれました」
栞は微笑んだ。
「私も祐一さんの事が好きです。だから、信じてます。祐一さんの言葉を。祐一さんのことを」
「栞……」
祐一は手を伸ばす。栞はその目から涙を流していた。
「信じて、良いんですよね？」
「……ああ。俺は……栞の事が、大好きだ。全部、大好きだ」
「……嬉しいです」
恋人たちは抱き合った。
そして――キスを交わした。少し、涙の味がしたキスだった。
「これから、どうします？」
「うーん……学校、今から行くってわけにも行かないもんなぁ」
祐一は困ったように言った。
既に昼近くになっていたので、今から学校に行っても、それほど意味は無いだろう。
「じゃあ……」
栞は恥ずかしそうにしながら、
「家に、来ませんか？」
「…………」
祐一は栞の顔を見た。栞は頬を赤く染め、俯いて、
「今日は、お父さんもお母さんもいなくて。お姉ちゃんも、学校が終わるまでは帰ってきませんし……」
それがどういった類の誘いなのか、祐一にも分かった。
だから、祐一も頬を赤く染めながら、
「……じゃ、そうするか」
「はい」
そうして、二人は歩き始めた。
寄り添って、支えあいながら。これからの二人の姿を示しているかのように。
栞の体には傷痕がある。
鎖骨の真ん中、胸の上部から下方に一直線。
それは栞が生きている証。
安心できる音。命の鼓動。
栞の胸に耳を当て、俺はその音を聞く。
栞は傷痕を気にしているようだけど。
俺は気にしていない。気にしない。
栞は、栞だ。
傷が在ろうと、無かろうと。
でも。
もしも栞が嫌がるのならば。
俺が愛そう。
そのの傷痕を。
栞が愛さなくても。
世界中の誰が愛さなくても。
俺が。
絶対に。
何があっても。
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