「天野、好きだ」
いつもと変わらない、
ただ今日は少し厚い雲がかかっているだけの、そんな日常の中の一日。
「…相沢さん？」
突然のことに、私はただこの人の--そう、私と同じ傷を負ったこの人の名前をつぶやくだけだった。
「俺と付き合ってくれないか？」
淡々と言葉を続けようとする相沢さん。
しかし、緊張しているのか、握り締めたこぶしはかすかに震えている。
いつもの飄々とした様子からは考えられない彼の態度。
そして、そんな彼の様子を冷静に観察している自分を、私は少し滑稽に感じた。
「………」
しばし周囲に流れる沈黙。
少しうつむいて私の答えを待つ相沢さん。
答えを口にしようとする私。
「………」
答えはすでに出ているはずなのに、開いた口からはなかなか声が出てこない。
まるで私の発する声が、外に出て行くのをためらっているかのように----
出ているはずの答え。
それは正しい答えなの？ 本当の自分の気持ちなの？
空を見上げると、雲がいっそう厚みを増して空を隠していた。
それはまるで、私の心を覆うもやのように…
キエナイキモチ
ばふっ
「………」
学校から帰るなり、部屋に戻ってすぐに体をベッドへと投げ出す。
行儀よくないのも、制服がしわになってしまうのも分かってはいる。
けれど、そんなことはどうでもよかった。何も考えたくはなかった。
「はぁ……」
もう何回目だか分からないため息をつく。
ここ数日こんな調子が続いているのだ。あの日から…
『相沢さん……すみませんが、その気持ちにお応えすることは出来ません』
『……そうか…』
そのあと、私たちは一言もしゃべらないまま別れた。
普通ならば、ただ私が相沢さんをふった。それだけの話のはず。
でも、私の心の中は複雑に、様々な思いが交錯している。
原因ははっきりしていた。だって…
私は、相沢さんが好きなのだから…
本当は断りたくなどなかった。
相沢さんの側にいたいという誘惑に負けてしまいたかった。
でも、受け入れるわけにはいかなかった。
なぜなら、相沢さんの中にはきっとあの子が、真琴がいるはずだからだ。
私はただ…傷ついた相沢さんの側にいただけ…
傷ついた相沢さんを救いたかったから支えになっただけ…
一度…相沢さんと同じ傷を負った私が…
たぶん相沢さんの気持ちは、真琴を愛する気持ちが変化したもの…
これでは、まるで私が真琴を、そしてあの子をも、利用したみたいじゃないですか…
そんなことは…自分自身が許せない。
そう相沢さんに言ったらきっと『違う』と言ってくれるでしょうね。
でも、こんな形だから、私には利用した形にしか見えない。
あの子達は、利用されるために私たちの元へ現れたのではない。
ただ、私たちとの絆を求めてやって来ただけ。
だから…こんな形で生まれた相沢さんの気持ちを、私が受けとめるわけにはいかない。
でも……いつまでたっても私の気持ちは落ち着いてくれない。
いつまでたっても……断ったことへの後悔は消えない………
あたりに障害もなく、生まれた風をそのまま感じることの出来るこのものみの丘では、
夏の訪れを感じさせる南風がよく吹くようになっていた。
南高北低の気圧配置によって南風になるんでしたっけ？
なんて少し理科的なことを考えながら一人立っている…というわけではなかったのです。
そう、一人、ではない。
相沢さんもすぐ近くに立っているから。
真琴が消えて、いなくなってから、私と相沢さんはどちらから示すわけでもなく、
休日はこの丘に来て、一日を過ごす、という日々を送っている。
あの時…私が相沢さんの思いを断ったその後も、この日々は続いていました。
前と違って、会話をすることは無くなってしまったけれども。
相沢さんはきっと、真琴の事を想い続けて立っているのでしょう。
そして私もあの子の事を想って立っている。
…いえ、本当は私は相沢さんに会うためにここに立っているのかもしれません。
自分で相沢さんの思いを断っておきながら…
……思いのほか私の未練は強かったのですね。
あの子と同じくらい…ひょっとしたらそれ以上に相沢さんのことを想っているだなんて…
ヒュオオォォォ…
「きゃっ」
その時、まるで私まで吹き飛ばしてしまうのではないかというくらいの風が吹きました。
一瞬ではありましたが、相沢さんもあまりの風によろけてしまったようです。
「あ…」
ちょうど風がやんだ瞬間、今までただ黙っていた相沢さんは声を漏らし、
突然風が吹いたほうへと走り出しました。
「…ま…こと……？」
そう、確かに相沢さんの向かった先には…真琴が…真琴が横たわっていたのです。
「……よかったですね…真琴、そして相沢さん………」
頬にいくつもの水の跡を作る相沢さんを見て、私は知らず知らずのうちにそうつぶやいていました。
そして私の足は、まだ日も高く照っているというのに自然と自分の家へと向かっていました。
私の頬にも出来た水の跡が、きっと真琴が戻ってきたことに対する喜びの感情からのものだと
自分に言い聞かせながら…
それからも私は普段通りの生活を続けていました。
ですが、ただ一つだけこれまでと違っている点があるのです。
私は、あの丘へと向かわなくなっていました。
なぜだかあの丘へ向かうのがためらわれたのです。
あの場所で相沢さんに会えなくなったからなのでしょうか…
真琴が戻ってきて、なぜか涙があふれたあの感情を、再び感じたくないからなのでしょうか…
それとも…
何にしても、私の心の中のもやは、けしてはれることはなかった。
すべての過去を薄める時がほんの少しだけれども経った。それでさえも…
私は再びあの丘へ向かおうとしていた。
相変わらず私の心の奥ではそれを拒否していたけれど、
やっぱり、あの思い出の場所だけが私の心を癒してくれる。そう思ったから。
ふと、辺りを見回してみる。
ほんの数日通らなかっただけのこの道だけれども、
前に来たときとは結構変わっている気がした。
木々は夏の本格的な到来に備えるかのように青々とし、
すれ違う人々の服装も薄手が多くなっている。
まるで、とどまっている私の心を残して、すべてが変わり果ててしまったように思えた。
そんなことを考えながら、私はただ黙って歩いた。
私自身の決心のおかげか、丘にはいつもよりも早く着いたような感じがした。
町では徐々に変わりつつある季節の様子が見られるのに、
ここは前に来たときと変わらない様相を見せていた。
私のように、あの時と…まるで変わらない…
「う……くっ………」
私の目に涙がうかんでいた。
この前ここに来た日からまったく流れていなかった涙が、
まるで、ここに来て存在を思い出したかのように、
私の中で止まっていた時間が再び動き出したかのように、あふれだしていた。
いくらぬぐってもきりがない涙に、いつしか私はぬぐうことをやめていた。
そしてそれは、決壊したダムのようにとめどなく、いつまでも流れ続けていた。
どれくらいそうしていただろうか、時計を身につけてこなかった今日の私には、
来たときよりも日がずいぶん傾いていることくらいしか認識できなかった。
涙もいつしか止まっていた。
いつ止まったのかは覚えていない。
そんな、自分のことなのに無関心になるほど心が空虚になっていて…
でも、どこかが満たされているような、そんな不思議な感じがした。
それからまたしばらく経ったのだろう、日はさらに傾き、空は赤みがかっていた。
そして、私が無意識に支配されていた時間を示すかのように、
私の髪は、風でだいぶ乱れていた。
「…帰りましょうか」
ぼさぼさになった髪を軽く整えるように、手櫛で梳かしながらつぶやく。
不思議と自分の声のトーンが変わっているような感じもした。
もう私の心は穏やかなものになっているのだろう、
きっと明日からは無気力にすごすこともないに違いない。
そして一歩を踏み出した。
この一歩が、これまでの私と決別し、新しくこれからを過ごしていくための一歩。
ずいぶんたいそうな言葉を並べているけれども、正直わたしにはそう思えた。
でも、その次の足が踏めなかった。
私の目の前に、思いもよらない人が立っていたから…
「天野……」
そこには相沢さんが立っていた。
突然現れた彼の姿に、私は言葉を失っていた。
「……相沢さん…」
かろうじて発した言葉は彼の名を呼ぶだけだった。
よく考えてみれば、彼の名を告げるのは結構久しぶりのことだ。
そしてそれ以上に、彼が私の名前を呼んでくれることも…
その思考が頭に生まれたとき、彼の声が非常に懐かしく感じられて、
私は何度もその言葉を、
ただ名前を呼んでくれるだけという相沢さんのその行為を頭の中で反芻していた。
「何してんだ？ こんなところで」
とても優しく感じられる相沢さんの声。
思えば、私は依然この声にぬくもりを感じ、ひかれていたんだな。
などと冷静に思い出していた。
「…覚えてますか、私たちが最後に話した日のこと…」
『なんとなく、空を眺めていただけです』
そう言おうとしていた筈の私の口からは、思いもよらない言葉が告げられていた。
よりによって、あの日の話を…
「…ああ……」
「あの時のことで…私は一つ、謝らなければいけません」
何を言っているんだろう？ 私は。
そう疑問に思う私をよそに、
私の口は、私の指揮下を離れたかのように言葉をつむいでいく。
「…何言ってんだ、天野が謝る事なんて…」
「聞いてください」
相沢さんの言うことをさえぎり、
自分でも驚くくらいのはっきりした声で私は話していた。
「私は…一つ……嘘をついていたんです」
泣いている？ 私が、また。
さっきさんざん泣いて、たくさん出たはずの涙。
でも、そんなこととは関係無しに、私の頬には再び涙が感じられていた。
「…………」
相沢さんは押し黙っている。
きっと言いたいこともあるだろうけれども、
素直に私の言うことを聞いていた。
「私は…あの日、相沢さんの気持ちに応えられない…そういいました」
まるで私の思考と体が切り離されているような感覚。
私の口は次々に言葉を生み出し、涙もけして止まることはない。
「…でも、本当は違うんです……本当は…本当は応えたかった……
だけど、相沢さんはきっと…きっと真琴のことが好きなはずだったから…」
どんどんと漏れていく声。
だけれども、そのどれもがでたらめではない、私がさんざん悩みぬいた本音だった。
「私があそこで応えることは…きっと真琴への裏切りだから…
真琴や…あの子達を軽く見て、侮辱しているような気がしたから…」
だとしたら、私がこの先に言うことは…
「でも…それとこれとは別だったんですね…」
いやだ。この先は…ちゃんと自分の言葉で、自分の意思で言いたい！
「私のしていたことは、ただ勇気がなくてしていた。ただの言い訳なんです」
自然と涙も止まっていた、私の言葉が、私の言葉だと分かる。
「相沢さん…」
だから言おう、この言葉を、本当の私の気持ちで。
「私は、相沢さんが好きでした…いえ、好きです。
今相沢さんには真琴がいるかもしれないけれど、そんなこととは関係無しに。
これが、嘘偽りのない、本当の私の気持ちです」
言った。
ずっと心の奥底に閉じ込めていた、本当の自分の言葉を。
ひょっとしたら、もう何年も閉じ込めていたのかもしれない、
本当の自分を解放したのだ。
「………」
あたりには静寂が流れていた。
もう空は一面の赤で染まり、陸には二本の長い影がどこまでも長く伸びている。
「天野…」
相沢さんが呼びかけてきた。
不思議と今までかけられた言葉より数段優しく感じられた。
「その…いろいろ悩ませちまったみたいだな…わりぃ……」
相沢さんは申し訳なさそうにしている。
ひょっとしたら泣きながらしゃべったせいかもしれない。
私のことを、心配してくれていたのだ、この人は。
すっ
相沢さんが一歩、二歩と二人の間を詰めてきた。
これまでの二人の距離を、少しずつ、埋めていくかのように。
「だが、これだけは言えるぞ」
もう手を伸ばせば届く距離、そこで相沢さんは歩みを止めた。
「真琴がいても、いなくても関係ない。
俺は天野が、ただ一人、天野のことが…」
その日、二つの影は一つとなった。
影を生み出す日が沈み、影を闇がのみこむまで。
長い影は、ずっと…ずっと……
その場にたたずんでいた…
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