性同一性障害。
小難しい名前だが、早く言えば、自分の性別に納得がいかない、って事だ。
昔はただの変人として扱われていたが、やっと最近になって、単なる趣味の産物や、精神的疾患などではなく、本当に精神と身体の間に性差が起こっている事が認められてきた。
つまり、
『女の癖に男になりたがるおかしな女』
ではなく、
『男なのに女の身体で生きなくてはならない男』
である、と、認められるようになった訳だ。
あくまで、医学の分野では、の話だが。
世間にとっては、やはり異常者として扱う対象である事に変わりは無い。
その為、性同一性障害の者は、身体の方の性に合わせて生きる事を余儀無くされる。
それは、当然多大なるストレスを引き起こす。
想像してみてくれ。
男なのに、女の身体で一生を送る人生を。
女なのに、男の身体で一生を送る人生を。
自分だったら、耐えられると思うか？
俺には、耐えられなかった。
耐えられなかったんだ。
カラン……
空席になったテーブルの向かいで、イチゴサンデーに差し込まれていたスプーンが、支えを失って転げ落ちた。
山盛りのイチゴサンデーは、結局一口も名雪の口に入る事は無く、ドロドロに溶けきっていた。
名雪が席を立ってから、どのくらいの時間が経ったんだろう？
『祐一……ひどいよ……』
去り際に名雪の残していった言葉が、俺の耳の中で何度も繰り返されている。
「言わない方が……良かったのか？」
俺は、ざらざらと乾いた喉を振り絞って、そう呟いていた。
「それとも……そもそも、相沢祐一になった事が……
間違いだったのか……？」
俺は、ゆっくりと自分の席の後ろを振り返る。
「なあ、どう思う？ 北川……、香里……」
「うわっ！」
「きゃっ！」
跳ねあがったひと房の癖っ毛。
ウェーブのかかったロング。
見慣れたふたつの後頭部が、ビクリと跳びあがった。
「きっ！ きっ！ 北川っていうのは誰でやんしょう！？
あっしは通りすがりの虚無僧なんでこれにて……！」
癖っ毛の後頭部が、訳の判らない言い訳をしながら、こそこそと逃走を図る。
ウェーブの後頭部が、逃げようとする癖っ毛の襟首を掴む。
「逃げないでよっ！ あたしひとりにする気！？」
「お放し下され！ 武士の情けでござるっ！！」
俺は思わず吹き出した。
「逃げなくていいって。最初から知ってたからさ」
じたばたともみ合っていたふたつの後頭部の動きが止まる。
「４人掛けのテーブルに、ふたりで隣同士に座ってれば目立つっての。
おまけに会話するでもなく黙ってりゃ、聞き耳たててる事くらいばれるって」
後頭部ズが、おずおずと振り返る。
北川が、さっきまでの冗談口が嘘みたいに、真剣な顔で頭を下げる。
「すまん。こんな深刻な話を聞くつもりじゃ無かった……」
香里も、神妙な顔で頭を下げる。
「ごめんなさい……
名雪と、相沢……くん……の様子がおかしかったから
あたしが北川君をそそのかして連れてきたの……」
俺の様子がおかしかったのは自覚していたが、名雪も香里から見ればおかしかったのか。
「相沢『君』でいいぞ。今更『ちゃん』だの『さん』だの呼ばれたくねーし」
「あ……うん……そうね……」
いつもの女王然とした雰囲気はどこへやら、学年主席玲嬢は、おどおどと視線をさまよわせていた。
心配して見に来てくれただけの友人にとって、俺の告白は少々ヘビーだったようだ。
「騙していて、悪かったな。
言い訳かもしれんが、俺の主観だと、こっちの方が本当で、『祐』の方が嘘なんだぞ？」
「なあ、相沢……」
北川が、子供が電車の窓から外を眺めるポーズでこっちに向き直る。
「って、事はさ……地元の学校じゃあ……その……」
聞きにくそうな北川の様子に苦笑しつつ、俺は頷く。
「ああ。向こうじゃ『女生徒』だった。
中学ではブレザー、高校じゃあセーラー服なんぞ着せられてたぞ」
「普通の女の子、してた、って訳？」
香里までが、北川と同じポーズでこっちを向く。
お前ら、はっきり言って変なふたり組そのものだぞ？
「普通、じゃあ無かっただろうな。
何たって、『男女』だの『お姉さま』だの『レズっ娘祐ちゃん』だの呼ばれとったし」
北川が何故か沈痛な顔をする。
「そりゃあ……不本意な呼び名だったろ？
大変だったんだな」
俺はちょっと驚く。
確かにレズ扱いされるのは、凄まじく不本意で、悔しくて眠れない程の屈辱だったんだが……なんだって北川がそれをあっさり理解出来るんだ？
「……ああ……まあな。
地獄みてーな毎日だったぞ」
「だろうな……たまらねーよな……」
北川の声に一層の実感がこもる。
「北川君？
随分、相沢君の気持ちが、理解出来るみたいね？」
香里も俺と同じ疑問を持ったらしい。
普通、誰にも理解してもらえるもんじゃないからな。
「いやさ……俺、割と女顔だろ？
で、名前が、潤、だろ？
実は小学校の高学年辺りまでは、俺の事女の子だと思い込む奴らがちょくちょくいてさ……
なんとなく、相沢の気持ちが見当つくんだ」
「へえ……」
そりゃ初耳だ。
男なのに女扱いされる、っていう点では、同じ経験をしてきた訳か。
「残念だけど、女のあたしにはピンと来ないわね。
幾らか想像は出来るんだけど……」
「そりゃあ美坂と言えど難しいだろうな。
これは男の矜持の問題だし」
こいつら……
俺は思わず、じん、と来ていた。
「……男扱い……してくれるんだな……ふたり共……」
カミングアウトした相手は何人かいた。
だが、その誰もが、俺の事を
『自分を男だと思い込んだ女』
として扱った。
例外は、実の母と、秋子さんだけだった。
北川が軽く笑う。
「まあ、男の相沢しか知らねーしな。
器がどうだろうが、俺にとっちゃ相沢は相沢だ」
香里が小さく手を挙げる。
「賛同。
あたしにとってもね。
相沢君はクラスメイトの男子で、名雪のいとこ、よ」
ビクッ！
名雪の名前に身体が反応する。
俺のいとこ。
俺の同居人。
俺のクラスメイト。
俺の……愛しい愛しい少女。
俺は名雪のいた席を振りかえる。
さっきまで名雪はそこにいたのに……今あるのは、主のいない、空虚な空間。
「相沢……追いかけなくて、良かったのか？」
俺はのろのろと振り向く。
「追いかけて……何て言えばいい？
俺は、名雪の気持ちを踏みにじったんだぞ？」
北川が答えに詰まる。
「そりゃあ……そうだけどさ……」
「しょうがないわね、男って！」
「え？」
俺は、そして北川は、香里の言葉に目を丸くする。
香里は憤然としていた。
「自分の側にばっかり拘ってて、女の子の気持ち考えてないでしょ？
傷つけた、とか、踏みにじった、とかうだうだ言ってないで、さっさと追いかけなさいよ！」
「香里……」
名雪の気持ち。
初恋の相手が、実は同性だった、と告げられた少女の気持ち。
長年騙されていたと知った、その、気持ち。
「香里には……判るのか？」
「全部判るなんて言うつもりは無いわ。
でもね、間違い無く判る事だってあるわ」
香里は自信を持って俺に告げる。
「名雪はね、嘘をつかれていたから席を立ったんじゃないわ。
『嘘のせいで好きになっただけ』
って相沢君に思われていた事が悲しかったから、席を立ったのよ」
「……えっ？」
「判らない？ つまりね、相沢君は名雪の恋心を否定しちゃったのよ。
名雪が好きになったのは虚構の自分だったんだ、って。
名雪は本当の自分の事は好きじゃないんだ、ってね」
俺が……名雪の心を……否定した？
だって……
「だって……そうじゃないのか？
俺がいとこの女の子として名雪と出会っていれば……
名雪だってこんな中途半端な奴、好きになんて……」
パンッ！
いきなり視界が横にずれる。
遅れて、頬に痛みが走る。
「……香里……？」
「それが名雪を馬鹿にしてるって言うのよ！
あの子はね、相手がどんなハンデを背負っていても、そんな事を理由に気持ちを変えたりなんかはしないわ！」
俺は香里の剣幕に圧倒され、息を呑み込む。
「男なら、自分の惚れた相手の事くらい信じなさいよ！
例え実体が知られていても、やっぱり名雪は自分を好きになった筈だ、って信じなさいよ！」
俺は……名雪を信じていなかったのか？
そんな……
「あの子はね！ 相沢君に気持ちを疑われたから、悲しんでいるのよ！
相沢君の性別の問題なんて二の次なの！
好きな人が自分を信じてくれていなかったから、傷ついたのよ！」
「……名雪……」
ガタン！
俺は立ち上がっていた。
名雪……名雪……名雪！！
自分の事にばかり拘っていた自分自身が、心底情けなかった。
今すぐ名雪に会いたい。
会って、俺の気持ちを全てぶちまけたい。
「相沢」
北川がにやにやして俺を見上げている。
「行ってこいよ。ちゃんと告白してこい。
振られるかどうかは、その後の話だ」
「ああ……その通りだよな」
北川……サンキュ……お前は最高の親友だ。
「振られたら一緒に呑んでやるよ。
さっさと振られてこい！」
……一部訂正。
振られる、って決めるんじゃねえ！ この野郎！
「名雪泣かせたら承知しないわよ。
はっきりさせて来なさい」
香里……有難うな。
「行ってくる」
俺は駆け出した。
愛しい少女の元へ向かって。
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