走る。走る。走る。
一刻も早く名雪の顔を見たくて、一瞬でも早く愛しい少女に会いたくて、ただ走り続ける。
いつの間にか降り出していた雪も気に止めずに、ひたすらに走る。
名雪の姿を雪景色の向こうに捜し続けて、ただ、走る。
……名雪……！
どこだ……！？
「祐ちゃん？ 私の事覚えてる？
お母さんの妹の、秋子よ」
小さい時の記憶。
俺は、小学校にあがる直前の６歳。
親父は例によって出張中で、秋子さんは様子見に家を訪ねに来てくれていた。
見上げた秋子さんの顔が、驚いた表情に変わる。
俺が泣き腫らした顔をしていたせいだろう。
あの日は俺が、生まれて初めて、
『女の癖に！』
と、なじられた日だった。
「どうしたの！？ 祐ちゃん！？」
差し出された秋子さんの手を、俺の小さな手が振り払う。
「なんで……祐ちゃん……なの？」
「え？」
俺の声が泣き声で訴える。
「たかしだって……こうすけだって……はるきだって……
大人の人は皆、『君』って呼ぶよ？
なんで……俺だけ……『祐ちゃん』、なんだよっ！！」
泣き叫ぶ俺の声。
張り裂けそうに痛む心。
俺だけが……友達の中で俺だけが……皆と……違う！
「祐……あなた……！」
秋子さんが息を呑む。
それは、俺の心と身体の間にある、大きな隔たりが、初めて人に認識された瞬間だった。
深夜。
声が聞こえ、泣き疲れていつの間にか眠っていた俺は、僅かに覚醒する。
「……そうね。確かにただの子供の勘違いかもしれないわ。
でもね、姉さん。もしも、そうでは無かったら？」
夢うつつに聞こえてくる会話。
あれは、秋子さんと、母さんの声。
「そうで無かったとしても……どうしようも無いじゃない……
祐は、女の子なのよ？ 例え……心が、そうで無くっても……」
母さんの声が泣いている。
俺も泣きたくなる。
「でも……きっとこの先、この子にとって、辛い毎日になるわ。
心が……潰れそうになるくらいに……」
今だって……今だってもう潰れそうなんだ！
俺は目を開ける。
俺の枕元に、母さんと秋子さんが座っている。
「秋子……どうしたらいいと思う？
どうするのが……この子にとって一番いいと思う？」
秋子さんが沈痛な顔で目を伏せる。
俺はゆっくりと身体を起こす。
ふたりが、はっ、と息を呑む。
「母さん……秋子さん……
俺……女の子にならないと、駄目なの？
今のままじゃあ……駄目なの？」
俺の声。
我ながら、なんとも悲痛な声。
秋子さんが、俺を真っ直ぐに見詰める。
「祐……」
秋子さんは、『ちゃん』も『君』も付けず、俺を呼び捨てで呼んだ。
その気遣いが嬉しかった。
「祐……あなたは今、男の子、なのよね？」
俺は頷く。
「でもね……あなたが大きくなった時、心が今のままかどうかは判らないわ。
ひょっとしたら、大きくなったら女の子の心になっているかもしれないの。
だから、私達は、祐を女の子として育てるしか、ないの」
涙が溢れてくる。
何で……何で、俺だけ……
「だけど、それじゃあ今のあなたは辛いだけよね。
だから……祐。あなた、家に来ない？」
「え？」
俺は顔を上げる。
母さんも驚いた顔をしている。
「家にいる間は、祐は自分の好きな姿でいればいいわ。
祐が望むなら、男の子として受け入れるわ。
そうやって……心のバランスをとってみない？」
男の子として……生きていても……いい？
それは、俺にとって救いの光だった。
男として生きられる場所。
そこでは、女の癖に、なんて言われる事も無い。
そんな生活の出来る居場所があれば……今の、違和感に満ちた毎日にも……耐えられるかもしれない……
「いいの？」
俺の声は震えていた。
秋子さんが母さんの方を向き、目で尋ねる。
母さんは、暫く考えた後、こくり、と頷いた。
「名雪！ 降りていらしゃい！」
水瀬家の居間。
初めて訪れた北の街の記憶。
秋子さんが２階に向かって声をかける。
「はーい。今行くよー」
階上から小さな女の子の声が降ってくる。
バタバタと足音が近づく。
いとこの少女が、居間に入ってくる。
「ふたりとも赤ちゃんだったから覚えていないわよね。
名雪、あなたのいとこの、祐一君よ」
俺はガチガチに緊張しながら、名雪に挨拶する。
「相沢……祐一……だ」
名雪がにっこりと笑う。
俺はその微笑みから、目が離せなくなる。
「水瀬名雪だよ。よろしくね、祐一」
差し出された手。
小さく、白い手。
俺はその手を握る。
「ああ……よろしくな。名雪」
この時すでに俺は……相沢祐一は……名雪の事を、好きに、なり始めていた。
それからの俺は、長期休みの度に、相沢祐一として、水瀬家に来訪した。
この北の街には、地元での俺は存在しなかった。
男子にも女子にも馴染めず、クラスで浮いた生徒である俺は、存在しなかった。
この街にいる間だけは、俺は俺のままでいられた。
この街での俺こそが、本当の俺である事が、来訪を重ねる毎に、揺るぎの無い確信になっていった。
「ほら……これって、雪うさぎっていうんだよ……」
俺が俺でいられる最後の日。
１０歳の冬休みが終わる日。
駅のベンチで泣いていた俺を、名雪は捜しあてた。
「わたしが作ったんだよ……」
どれだけの時間、俺を捜していたのだろう？
名雪の身体は小さく震えていた。
「わたし、下手だから、時間かかっちゃったけど……
一生懸命作ったんだよ」
名雪……俺の恋する少女……
もう、会えなくなる……愛しいいとこの少女……
「……あのね……祐一……
……これ……受け取ってもらえるかな……？」
名雪が俺に雪うさぎを差し出す。
……俺への……プレゼント……？
「明日から、またしばらく会えなくなっちゃうけど……
でも、春になって、夏が来て……
秋が訪れて……またこの街に雪が降り始めたとき……
また、会いに来てくれるよね？」
会いたい……会いたい……会いたいさ！
でも……！
「こんな物しか用意できなかったけど……
わたしから、祐一へのプレゼントだよ……
……受けとってもらえるかな……」
愛しい少女が、俺の為に作ってくれた、北の街の贈り物。
名雪……名雪……名雪！
俺は、ふらふらと、雪うさぎに手を伸ばす。
「わたし……ずっと言えなかったけど……」
俺は雪うさぎを受け取ろうとした。
「祐一のこと……
ずっと……」
俺の手が止まる。
名雪？ 何を……言う気……だ？
「好きだったよ」
頭の中が真っ白に染まる。
想い人が、想っていてくれた事への歓喜。
そして、自分には、その想いに応える資格が無い事への絶望。
駄目だ……俺には……受け取れない……！
俺の視界の中で、俺の小さな手が、雪うさぎを地面へと、叩き落とした。
地元へ帰ってからの俺は泣きっぱなしだった。
泣いて、泣いて、泣き尽くした。
そして、俺は決意する。
抵抗してやる。
俺の身体が、相沢祐一でなくなっていく事に……全力で抵抗してやる！
俺は、親から小遣いを前借りし、女性向の本を買い漁った。
女性らしい身体のラインを作り、保つ為の本。
俺はその知識を溜め込んで、全てその反対を実行した。
『ブラを早めに着けて、胸周りの肉を正しく収めましょう』
俺は断固としてブラジャーを着けず、逆にさらしを巻きつけた。
『筋肉を付け過ぎると、女らしいラインへの発育が妨げられます』
俺は欠かさず筋トレを行った。
『過度のダイエットは禁物です』
俺は極端な食事制限を断行した。
『牛乳を飲みましょう』
俺は例え放課後まで残されようと、決して給食の牛乳を飲まなかった。
第２次性徴の時期を迎えると、発育しようとする胸は信じられない程痛んだ。
丸みを帯びようとする身体にとっては、俺の摂取する栄養分は到底足りず、俺は何度と無く貧血を起こし、意識を失った。
栄養不足の身体には筋トレは苛酷そのものだった。
俺の皮下脂肪量は女性の平均を遥かに下回り、皮膚の下にはすぐに筋肉が隆起していた。
生理は常に不順で、そして、凄まじく重かった。
両親は俺の身体を心配したが、俺はこの生活を変える気は全く無かった。
７年が過ぎ、両親が転勤により、海外に移り住む事が決まった時、俺は一緒に行く事を拒んだ。
母さんは、とうに察していたのだろう。多くを尋ねずに、秋子さんへと電話をかけた。
『祐一』を、同居させてくれないか、と。
そうして俺は、７年を経て、再び相沢祐一に、なった。
走る。走る。走る。
名雪の姿を捜し求め、俺は走り続ける。
めまいがひどい。
呼吸が苦しい。
常に栄養失調一歩手前で生きてきた俺には、基礎体力が全く無い。
鍛えた筋肉によって、瞬間的な力は出せるものの、運動は全く出来ない。
長距離を走り続ける、なんて、下手したら命取りだ。
登校の時の２０分足らずのランニングでさえ、正直命がけだった。
それを……すでに１時間以上の全力疾走。
俺の心臓は、今にも胸板を突き破って破裂しそうだった。
それでも俺は走る。
……名雪に……会うまでは……！
霞む俺の視界に、駅ビルが映る。
こんな方に来ちまったのか……こんな所に……名雪がいる筈は……
……！！
視界の隅に垣間見えた間違い様の無い姿。
そこに、名雪が、いた。
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