外へ出た俺たちはじっと天を見上げていた。何も無い空。見えるのは遠く輝く星達だけ。こうしていると悲しい気分になるのは俺だけだろうか。もしかすると本当に悲しいのかもしれない。何が悲しいのかはわからないが・・・
「ねえ、相沢君・・・ちょっと変なこと聞いていい？」
そうしていると香里が唐突に切り出した。
「変なこと？よくわからんが別にいいと思うぞ」
「そう・・・じゃあ、聞くわね」
ちょっと真剣な面持ちになる彼女。その表情から察するに真面目な話であることは間違いなさそうだ。
「ああ・・・」
「あのね、あなたのお母さん・・・何をしているの？」
質問の意味がよく分からなかった。おそらく職業を聞いているのだろうが、そんなことを真面目に聞く必要がどこにあるのだろうか？
「そんなことがどうかしたのか？」
「うん、ちょっとね」
俯いてしまう香里。少し寂しげに見えた。
「税理士だ、といっても始めたのはほんの少し前だけどな」
あんまり言いたくなかったのは事実だった。他の人にとってはどうでもいいことなのかもしれない。だが俺はこの職業の名を聞くといつも思い出してしまう、母親の不倫のことを。別に母を恨んでいるわけでもない、それは父のせいだからだ。父が借金を背負ってしまい、それを母に押し付けたせいで母の精神が不安定になっていたのは間違いない。その時に現れた税理士の先生。彼を心のより所としてしまったのは別に恥じることでもなければ、俺がどうこうしようとも思わなかった。でも、何かが嫌だった。いや、むしろ全てが嫌だったのかもしれない。
「・・・そう、ありがとう。ごめんね、急に変なこと聞いて」
俺が教えてあげた後の彼女は明らかに変だった。そう、なにか不幸な出来事でもあったかのような顔をしている。
「どうした？なにかあるのか」
「いや、なんでもないわ・・・でも・・・」
彼女はそこで口を止めた。なんでもないはずが無いのは分かってはいたが、その先を聞いていいものかどうか悩んだ。
「何かあるならはっきり言ってほしいんだ。悩んでたって俺には分からないだろう？」
「いいの、多分私の思い過ごしだと思うから」
そう言って香里は黙り込んだ。果たして香里が考えていたこととは何だったのか。それはわからないが、香里を悲しませるようなことであることは確かだった。今にも涙が流れ落ちそうな彼女の瞳がそれを物語っていた。そのまま俺たちは一言も喋らないまま、また家へと戻っていった。
それは家に帰ってきてすぐの出来事だった。どこかから母の怒鳴り声が聞こえた。まるで泣き叫んでいるようなその声は、リビングから聞こえる。すぐに俺はリビングへと向かった。
「どうして・・・どうして今ごろそんな事言うのよ！！」
受話器に向かって浴びせられる母の声、誰と話しているのかはなんとなく俺には分かった。というのも、以前にもこんな状況があったからだ。そう、これは不倫相手の先生か、もしくはその奥さん。
「あなたとはもう会わないって言ったでしょ！！」
母の怒声は続く。
「・・・そう、いいわ。だったら私はどうなるのよ！！」
何の事を話しているかはともかくとして、俺は話している相手がどんな人なのか、そればかりが気になっていた。俺は一度もその先生の名前を聞いたことが無かったし、ましてや会ったことなど無かった。
「お願いだからもうかけてこないで！いいわね、美坂先生！」
そう言って母は電話を切った。その最後に初めて聞いた先生の名。そしてどこか引っかかる、『美坂』という言葉。美坂なんていう苗字はそうそうあるものではない。俺はそれを聞いてすぐに、意識してかどうか、香里のほうへと目をやった。
「やっぱり・・・そうだったのね・・・」
彼女に口から漏れる悲しみの音。
「おい・・・香里？」
そう彼女の呼ぶと、彼女はこちらを見るや否や、走って出て行った。
「ちょっと、香里！！」
俺もすぐに追いかける。リビングのドアを開け、靴を履き、またドアを開ける。その一連の動作の瞬間に、俺は全てが分かった気がした。香里が俺の家を見たとき驚いていたこと、母が香里の名を聞いたときに奇異の表情をしたこと、夜の帳の下で香里が母のことを聞いてきたこと、そのすべてが。これは驚愕というよりも落胆だった。何故気づいてやれなかったのか、どうしてこんな偶然がありえるのか、頭の中をそんな考えがぐるぐると回る。
「まて、香里！！」
追ってやらなければならない、俺はそう思っていた。だが、こういう時は一人にしてやるほうがいいとも思った。俺は本能に従うかのように彼女を追っていった。
どうしてこういうときは絶対に雨が降るのか。ほんの１分も経たないうちに、大粒の雫が空からざあざあと、ざあざあと。それはいかにも『ずぶ濡れになって下さい』と言わんばかりの物だった。俺は雨を振り払いながら香里へと近づく。幸いにもすぐに追いつくことが出来た。香里の側に行くと、彼女は走るのをやめてこちらを向いた。
「香里・・・」
そして俺は何も言わずに彼女を抱きしめた、まるで壊れ物でも扱うかのように、優しく、ゆっくりと。その後３０秒ほどそうしていると、先に彼女が口を開けた。
「・・・ねえ、相沢君・・・この先私達どうなるの？」
「・・・・・」
俺には答えられなかった。いや、答えたくも無かった。
「私は・・・私はいや。このままずっと相沢君といたい。別れたくない」
声にならない声が、かすかに俺の耳には届いた。
「俺だって、別れたくない」
今度はもっとずっと強く抱きしめる。それはまるで彼女を引き止めていたいという気持ちが表れているかのようだった。
「わたし・・・わたし・・・」
「いいから、なにも話さなくていいから」
俺は言い終わるのとほぼ同時に、彼女の唇を奪った。彼女の唇は冷たくて、悲しみと憂いの味がした。今まで味わったことの無いそれは、まるで死体とでもキスしているかのようだった。だが、そう感じたのは俺だけではないのだろう。
「帰ろう、俺の家に・・・」
全身で雨粒を受け止めながら彼女はうなずいて、ぎゅっと俺の手を握った。それは全然温かくなくて、濡れていた。そして俺たちはまた走ってきた道を逆にたどっていく。歩くたびに染み込んでいく雨は、ますます俺に悲壮感を浴びせ掛けていた。じとっとした嫌な感触。俺は髪を掻きあげて、遠く空を見上げるた。目に雨が入り、とても開けてはいられなかった。泣きたかったのは俺も同じ。俺はそうすることで涙を隠した。雨と自身の涙を混じり合わせることで。
俺の心に残っていたのは、１２月の雨の冷たさと、ほのかに色とりどりのライトがともりだした町と、雨に濡れた美しくもあり寂しげにも見えた香里と、そのほほ伝い落ちる悲しみの雫。そんな彼女は今までの見たこと無かったが、もう二度と見たくなかった・・・
薄暗い家の中、母は居なかった。香里が先生の娘であることは、母もおそらく分かっているだろう。俺は自分の部屋へと行き、香里をベッドに座らせた。
「ずぶ濡れだな、俺たち」
そう言って香里にタオルを渡す。目を真っ赤にした香里はそれを受け取ると、静かに頭を拭き出した。
「香里・・・話してくれるか？その・・・おまえ気づいていたんだろ、このこと」
彼女はゆっくりと頭を縦に振った。
「わたしのお父さんは税理士をしてるわ、それはわかっているわよね」
「ああ、それはわかっているが、どうして俺の母がその元で働いていたのか知っているんだ？それに俺の家も見たことあるようだったし・・・」
「うちに来たことあるのよ、相沢君のお母さんがね。その時顔は合わせなかったけど、わたしは見たことあったのよ。相沢君の家を見たことがあるのはたまたまよ。お父さんと一緒に車に乗っているときに、通りかかったのよ、この家の前をね。そのときお父さんが言ったの『この家にはわたしのところで働いている人がいる』って」
どうやらこの話を聞くと、香里は最初からほとんど分かっていたようだ。この家を見たとき香里はどんな気持ちだっただろうか、もしかしたら、そう思っていただろう。そのもしかしたらが現実の物となってしまった。
「これって運命なのかしらね。なんだかそういう風に思えてきたわ」
香里の口から出た『運命』という言葉。その重い言霊はこういう場面で使うのだろうか。だが俺は少なくとも運命など存在するとは思っていなかった。すべては自分で切り開いていく物だと思っていたからだ。こんな考えをもっているのは浅はかなのだろうか。
「運命なんてあるわけ無いだろ・・・偶然だ」
俺はつい怒り気味な口調で言ってしまった。
「偶然で・・・偶然でこんなことになるわけ無いわよ！」
香里はそう言って、自分が声をあげてしまったことに気づき、少し俯いた。
「ごめんなさい、大きい声だして。でも、わたしはこれが単なる偶然だとは思いたくないの。分かって・・・」
「ああ、分かってる。すまん、俺もつい本気になってしまって・・・」
「ありがとう・・・ねえ、もう寝ましょう。なんだか疲れたわ、わたし。」
「そうだな・・・」
俺たちはどちらからともなく、顔を近づけ合ってキスをして、体を横たえた。涙と雨に濡れた香里の横顔は綺麗だった。
「お休み、香里」
「お休みなさい、相沢君。明日もいっしょにいられたらいいわね・・・」
それ以上香里は何も言わなかった。俺もそれに対して何をいっていいのか分からずに、そのまま眠ろうとした。目を閉じるとそこに広がるのは大きな闇。眩暈がした。ゆっくりと歪んでいくその空間は、人の感情も、思いも、人そのものまでも飲み込んでいくようだった。この行く先にあるもの、それは夢。無限の可能性と、なにかを強制的に実行させる力を持ったそれに、俺が望む物は、幸せな世界。香里が居てくれればいい。なんと言ってもそれは夢だから。俺のしたいようにすればいいさ。そうこう考えながら俺はまどろみの中へと沈んでいく。はじめは頭から。そして最後に俺の魂が。もちろん香里と一緒に。
その後１時間ほどたってのことだ。予想していたことだが、俺はすぐに起きてしまった。いろんなことが頭の中を埋め尽くして、妙に目がさえていた。ふと目に付いた香里の寝顔。すぅすぅと寝息を立てている。ずっと守っていきたいと思っていたがそれもかなわないのかもしれない。それでもいいのかもしれない。俺とこのままずっといっしょにいて、悲しい思いをするよりも、別の出会いを見つけて、もっと楽しい思いをしてもらいたい、そう思うからだ。そんなことを考えながら、俺は一枚の写真を見た。それは香里がいつも持ち歩いている写真。そこには元気な栞と眠そうな名雪と俺たちが写っている。みんな笑顔だ。こんな笑顔を見ることはもう無いのだろうか。そう思うと不思議と涙が湧いてくる。今の今まで泣いていなかったのに。俺はその不思議と暖かい写真をしまって、枕に頭を埋めた。涙が流れぬよう、そんな顔を香里に見せないようにしながら。
朝になって、俺はまぶたに感じる日の光を受けながらゆっくりと覚醒した。きのうの雨が嘘のような晴天。時計に目をやるとすでに１１時を回っていた。どれほど眠ったのか。俺の隣には香里はいなくて、誰かが眠っていたような跡が残っていた。
「・・・香里」
そこにあったのはひとつのメモ。『お別れね』とだけ書かれていた。少しにじんでいるそのメモが俺の心を痛ませた。いくらこうなるかもしれないという予測をしていたとはいっても、辛かった。もう俺たちは会えないのだろうか。いや、会いたくても、これ以上今の段階で会うこと、つまり付き合っていくことは回りの人に迷惑をかけてしまう。香里もそれは辛かったのだろう。だからこうしてさっぱりと分かれてしまうことを選んでしまった。だが・・・このままでいいのか？香里が居なくなってもいいのか？この涙で少しよれてしまっているメモが俺の心を迷わせた。香里が俺を待っているのかもしれない。俺が行ってやるべきなのかもしれない。そんな思いを胸に秘めたまま、俺はまた目を閉じようとしていた。そんな折に、
トゥルルルル・・・・
俺の携帯がなる。それは香里からだった。
「香里か！？今どこだ？」
「・・・・・」
「おい、香里？！」
だが電話はそこで途切れた。でもその電話が物語っている物、それは間違いなく香里の迷いの気持ち。それを感じ取った俺は、走って自分の部屋を出た。向かう先は駅。間に合うとか間に合わないとか、そんなことはどうでもよかった。ただ、俺が行ってやるべきだと考えて、ただ、急いで、どんなに息が切れそうになっても走って、目線を掠めていく景色すら俺には見えていなくて、ただ香里だけが恋しくて・・・自分が情けなくて・・・
「はぁはぁ・・・」
息も途切れ途切れになりながら、俺は駅に着いた。見渡す限り、人、人。この中から果たして香里を見つけることが出るのか。俺はそれを必死に掻き分けながら進んでいくと、ちょうど見つけたあの雪の町行きの列車。一目散に俺はその列車に近づき、くまなく探す。いない、いない、と心の中でつぶやきながら一台づつしらみつぶしに調べていく。だが、香里はどこにも居ない。もしかしたらこの列車には乗っていないか、それとももう居ないのか、そんなことが脳裏に浮かぶ。考えたくも無かった本当の別れ。それが刻一刻と迫ってきていた。気にもしないようなこの駅が迷路のように見えてきて、列車がまるで牢獄のように見えてみた頃、俺は疲れて椅子に座っていた。もう、何台の列車が過ぎ去っていったのか、太陽はちょうど真上にきており、それが俺の肌をじりじりと焼いていく。でも、もう動く気力も無くてただ、ただ虚空を見つめているだけ。言いようも無い疲労感と悔しさが俺を責める。ますます自分が情けなかった。すこしでも時間を取り戻したかった。だが、もう・・・
俺が俯きかけたその時
トゥルルルル・・・・
またしても携帯がなる
今度はメールで
『あなたの目の前』
ただそれだけの文字列
顔を上げたその先にあったもの
それは、失いかけた希望
列車のドア越しに
一人たたずんで
瞳から流れる、雫
そして、満面の笑み
音を立てて閉まるドア
でも、俺は動けなくて
少しずつ加速する別れ
そして降りだした初雪
それはあの雪の町の物より冷たくて
俺の顔に当たってゆっくりと水に変わる
気づいたら俺は一人で
濡れていくほほ
濡らしているのは雪だけではなかった
流れていく人々
ある人は幸せそうに
俺の横を通り過ぎる
手にはプレゼントを持って
大事そうに、温かそうに
でも、俺は・・・
彼女に何がしてあげられただろう
全ては一瞬の出来事だった
トゥルルルル・・・・
もう一度来たメール。
『また、会えるよね』
こうして俺たちは一つの終焉を迎えた。
会えない日々が始まる。
俺は穏やかな笑顔を作りながら、
これからの日々を悔やむことは無い、
そう心に誓って。
でも・・・
偽りでもなんでもいい、
俺はあの時、
全てを忘れて、彼女を抱き寄せて、
もう一度、キスしたかった。
ぬくもりを確かめたかった。
この世でたった一人の、
奇妙なつながりを持った彼女に・・・
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