「香里？ なんか、昼間も言ってたけど……」
まっすぐに帰宅した俺は、名雪に香里のことを訊いた。
「わたし、そんな人知らないよ」
名雪にしては珍しいほどのきっぱりした言葉。だけど、それだけで引き下がるわけにもいかなかった。
「名雪って、俺がこっちに越して来るまでクラスメイトで一番仲が良かったの誰だ？」
「え？ どうしたの？ 何が訊きたいの？」
戸惑ったような名雪。
俺も、逆の立場なら多いに混乱したことだろう。
「いいから、答えてくれ」
「う、うん……北川君じゃないかな？」
「女ではどうだ？ 近くにいたような人いなかったか？」
「え？ クラスメイトの女の人……？」
首を傾げながらも、何人かの名前をあげるが、そこに香里の名前は出てこなかった。
ダメだ、こんなことじゃどうにもならない……なにか決定的に香里の存在を証明するものでもないと……。
「そうだ、写真だ！」
「え？」
「写真無いか？ お前が、友達と遊んでるのを撮ったようなやつ」
「お母さんが撮ってくれたのがあるけど……」
「見せてくれ」
リビングに置いてあったアルバムをひっくり返す様に見てみる。
幼稚園、小学校、中学、高校……。
だけど、そこに香里の姿は欠片も現われなかった。
――香里って、目立つの嫌いなんだよ。いつも明るく振る舞ってはいるけどね……。
いつだったか思い出せないが、名雪がそんな事を言っていたのを思い出した。
なるほど、目立っていない。
意図的に写真に写るのを避けている光景が、手に取るように分かるほどだ。
それに、仮に写っていたとしても、生徒名簿から香里の名前が消えたくらいだ、写真だけがそのままのはずも無い。
「ちょっと出かけてくる」
アルバムを名雪に返しながら言った。
「え？ もう十時だよ？ 寝る時間だよ？」
いや、寝るのは名雪くらいだと思う。
「時間が経つほど、よくならないからな……」
「美坂 香里？」
急に呼び出したせいだろうか。微かに不機嫌そうな表情を浮かべて、北川が訊き返した。
「ああ、俺やお前と同級の香里だ」
「そんな奴、いないぞ」
いない、と言いきった。つまり、そこには引っかかる何かすら無いと言う事だ。
なんで覚えていないんだ、こいつは。
「お前、前の学校の奴とかと勘違いしてるんじゃないのか？」
「そんな訳無いだろっ！！」
気づいたら、北川の襟首を掴んでいた。
街灯による逆光のせいだろうか、北川の表情は分からなかった。
「お前、香里が好きだったんじゃないのかよっ！」
「……」
「お前の行動なんてあからさまだったから、みんな気付いてたんだぞ」
「……」
北川は何の反応もしない。
それが何だか馬鹿にされているようで、なお更腹が立った。
「特に俺と栞は早くから気づいてたから、いつ北川が告白するんだろうってずっと話してたのに……なんでお前は覚えていないんだよっ！！」
ありったけの声で叫んだ。
近くの家の窓があいて、こっちに睨むような視線を送ってきたが、気にはならなかった。
「なあ、相沢……」
「……なんだよ」
「オレはさ、やっぱり香里って人は知らない……だけど、お前が真剣だってことは分かる」
その声を聞いた瞬間、殴ってでも思い出させようとしていた気持ちが、すっと冷えていった。
「久しぶりに見たな、その顔は」
襟首を掴んでいた手が離れた。
「とりあえず、オレはオレのほうで調べてみる。知り合いにも出きる限り声をかけて訊いてみる」
「あ、ああ……頼む」
北川は軽く襟首を直すと、早速連絡しようというのか携帯を取り出していた。
「悪かった。気が立ってたんだ」
「みたいだな」
たいして気にした様子もなく、いつもの調子で反してくれた。
「ところで、その香里ってのは美人なのか？」
そして、そのまま出てきた言葉に俺は笑いながら浮かべた。
「ああ、お前が惚れるほど美人だぞ」
「栞、もう一度訊きたいんだが……」
「香里……さんの事ですか？」
北川の次に栞の家まで押しかけたは良いが、どう言う風にして切り出そうか悩んでいた（北川のときは失敗した）ら、意外にも栞の方から、香里の名前が出てきた。
さん付けしているので、思い出していたわけではないのだろうが。
「あんなに怖い祐一さんの顔は初めてでした……それに、今も何か思いつめているような、そんな顔をしてます」
いつもと変らない口調でそう言った栞が、くるっと背を向けた。
「とりあえず、中に入ってください。外で話せる話でもないですから」
「ああ……」
そのまま栞と共に部屋に入った。
一昨日来たばかりのはずの栞の部屋は、もの凄い散らかり様だった。
「なんていうか、混沌？」
「わ、その言い方は酷いです」
と言われても、それ以外に言いようが無い。栞の部屋カオス風味。
「あの時、祐一さんに言われた言葉が気になってずっと調べてたんですから」
「香里の……ことか？」
「ええ。香里さんって、大事な人で、私に関係のある人だったんですよね？」
「……どうして？」
今の栞にとって『香里』という言葉は、相沢祐一がぽろっと漏らした得体の知れない人物名のはずだ。なのに……。
「言ったじゃないですか、あんなに怖い祐一さんの顔は初めてみたって。だからですよ」
「それだけか？」
「それだけって……。もう、折角、彼女が頑張っているんですよ。他に言うことは無いんですか？」
「あ、ああ。ありがとな」
「はい」
そう答えた栞は、にっこりと笑っていた。
「あ、それと一つ訊いても良いか？」
栞に見送られて玄関を抜けたところでそう訊いてみた。
「体重とスリーサイズ以外なら」
いや、それは実測でなんとなく分かるし。
「お姉ちゃんがいたらいいな、って思ってた事があったって言ったよな？」
「はい」
「今も、そう思ってるか？」
「いえ、今は祐一さんが一番側にいてくれますから」
「そっ……か。うん、じゃあな。もう少し、香里のこと調べてみてくれ」
「え、あ、はい」
戸惑ったような栞の声を背中に受け、俺はその場を立ち去った。
この屋上から見える夕日が憎たらしいほどに綺麗だった。
俺が香里のことを思い出してから、一週間が経った。
そして、今の俺にあるのは無力感。
栞や北川、それに名雪までもが協力してくれたにもかかわらず、香里のことを思い出してくれた人物は一人も現われなかった。
いくら思い出の話をしても、いくら思い出の品をみせても何も変らなかった。
「そろそろ、諦めがついた？」
この世界で、俺しか知覚の出来ない声が背後から聞こえてきた。
「諦めるかよ……俺が諦めたら、終わりじゃないか」
「でも、相沢君も、あたしは存在しないと思い始めている」
「そんな事……っ！」
振り返った先にいるはずの香里は存在していなかった。
いや、そう錯覚させるほどに、その姿が薄く感じられた。
「この姿がその証拠」
ゆらゆらと明滅を繰り返している香里が、俺の横に立った。
「風が気持ち良いわね……うん、いい風」
「……」
「栞を宜しく。手間のかかる子だけど、その分可愛いでしょう？ しっかり守ってあげてよ」
「……」
「何よ、頷いてくれないと消えられないじゃない」
「消えなくていいだろっ！」
「……困らせないで、もうどうしようも無いの。これは最初から分かっていたことだから、覚悟していた事だから」
「俺のせいか？」
思っていた言葉を口にした。
「俺が栞にとっての一番になったから、香里が消えるってことじゃないのか？」
「前から思っていたけど、その自虐的な考え止めた方が良いわよ」
「……」
「別に相沢君のせいじゃないわよ。ただ、栞には隣に誰かがいてあげないとダメだった……その役目をあたしが消えてしまう前に、相沢君に引継いで貰った。それだけよ」
「……そう……か」
認めざるを得なかった。
どうしようもない悲しみが、すぐ目の前まで迫っている事を。
「不思議なものね、女の子の『お姉ちゃんが欲しい』なんて言葉からあたしが産まれたなんて。あたしですら信じられないわよ。まるで、魔法みたい」
「魔法……か。なら、俺も使ってみるか？」
「え？ 使うって？」
驚いた様に振り向いた香里に、俺はゆっくりと言葉をつむいだ。
「また会おうな」
短い言葉。
だけど、それに香里の目がつり上がった。
「奇跡なんて期待しないで。奇跡なんて――」
「わかってる、わかってる。俺の言葉なんかじゃどうしようもない。俺にとってだって、一番は栞なんだ。人間の存在を作り出す真似なんて出来るはずが無い」
「だったら、そんな……」
「いや、だからこそ、だ」
奇跡が起きる事なんか期待していない。
だけど、願い事をするくらいは許されるはずだ。
その俺の言葉。俺にとってあまりに都合のいい理屈を聞いて香里はどう思ったのか？
「そうね。また、会いましょうか」
笑っていた。
そこからは、それ以上の感情は全く読み取る事が出来なかった。
そして、それが最期の香里の表情となった。
前のページ
次のページ
このSSは、作者の方に二次著作権が存在します。
転載、無断引用を固く禁止します。
戻る