−２−
北川のアパートに戻ると、部屋の暖房を全開にして、ミルクパンに牛乳を入れると、暖かいココアを作って香里の前に置いた。
「飲めよ、あったまるぜ」
「ええ……」
香里は目の前で湯気を立てているココアを一口飲む。
体の中がじんわりと暖まるようで、ようやく香里は落ち着くことができた。
トレーナーとジーンズというラフな格好でキッチンに戻ってきた北川は、香里に向かい合うようにキッチンの椅子に座り、自分もココアを一口飲むと、香里に質問を投げかけた。
「なあ、どうしたんだ……最近の美坂おかしいぞ？ 学校にいる時も心ここにあらず、って感じでさ」
「……どうして、そう思うの？」
「なんとなくさ。 根拠を求められたら答えられたもんじゃないけどさ」
「……あたしは、いつもどおりよ」
表情を変えずに香里が言う。 しかし北川には、香里の瞳の奥にある戸惑いが見えた。
「それなら、何であんなところで雪をかぶるまでいたんだよ？」
北川の指摘に、香里は何も答えずにココアをすすった。
香里に黙られて、北川もしかたなく香里と同じようにココアをすする。
しばらく沈黙の時間が流れ、北川が２杯目のココアをカップに注ごうと席を立つ。 その時、香里が不意に口を開いた。
「北川君って、家族はどうしたの？」
一瞬だけピクリと北川の体が揺れたが、北川はごく平然と答える。
「いないよ」
「えっ？」
「小さい頃に親父とおふくろが離婚して、俺はおふくろに育てられたけど、高校入る前に病気で死んじまった。 それからずっとひとりさ」
あっけらかんと話す北川に、香里も呆然とした表情で北川を見る。
―――どうして、そんなに落ち着いて話せるの？
―――寂しいとか、悲しいとか感じないの？
―――あたしだったら、きっと耐えられない。
―――でも、耐えられないからあたしはあの子を見捨てたのに。
そんな思いを香里が浮かべていると、北川は少々戸惑いながら、逆に香里に問いかけた。
「……美坂の悩みって、家族のことなのか？」
「…………」
しかし、香里は黙ったままだった。
―――教えてはくれないか。 まあ、しかたないよな。
再び黙り込んだ香里に北川は詫びるように言った。
「すまん、むやみやたらに立ち入るような話じゃなかったな」
そう言って北川がココアをいっきに飲み干してカップを洗おうと席を立って、湯沸かし器のコックをひねろうとしたとき、北川の背後からすすり泣くような声がする。
北川が振り返ると、香里がぽろぽろと涙をこぼしていた。
―――そう、あたしはあの子を見捨てた。
―――見捨てたはずなのに。
―――どうして、涙が出てくるの？
―――あたしは、どうすればよかったの？
―――わからない、わからない。
―――どうしたらいいの？
北川が香里のそばに立つと、香里の声が聞こえた。
「……からない」
「え？」
戸惑う北川に、香里が絞り出すように叫んだ。
「どうしていいかわからないのよ！」
そう言うと香里は、北川にすがって激しく泣き出した。 北川は香里をなだめるように、号泣する香里の頭を撫でてやる。
―――よほどため込んでたんだな。 それだけ深刻なんだろう。
―――できることなら代わってやりたいけどな。
―――どうする？ どうしたらいい？
―――オレは美坂……香里に何をしてやれる？
そんなことを考えながら、北川は香里の頭を撫で続ける。
やがて香里の号泣が落ち着いてきた。
―――やれることなんて、一つしかないよな。
―――泣いてる美坂の姿なんて、オレは見たくない。
北川は言い聞かせるように香里に言った。
「なあ美坂、オレは美坂がどんな悩みを抱えているのかわからない。
でもな、聞いてやることはできる。
美坂が楽になるんだったら、どんな事でも手伝ってやるから……よかったら、教えてくれないか？」
北川の言葉に、香里が顔をあげる。
―――どうしよう？
―――このことを言ったら、北川君はあたしを軽蔑するんでしょうね。
―――でも。
泣きはらして赤い目をしていたが、しばらく北川をじっと見つめていたが、やがてその口を開いた。
「あたしのことを言う前に、ひとつ教えて」
「何を？」
「北川君のお母さんが亡くなったとき、北川君は何を考えていたの？
亡くなるとわかって、どういう気持ちだったの？」
真剣な香里のまなざしに、北川は顔をそらした。 しかし、すぐに香里のほうに顔を戻して語り始めた。
「そりゃもう泣きたかったさ……日に日に衰えてく母さんの姿を見るに耐えなくて家に帰らなかったことだってあるさ」
そこで北川は一度言葉を切った。 香里もじっと北川を見つめている。
北川が続ける。
「でも、ある日の朝早くに家に帰ってきたら、母さんが家で待ってたんだよ。
オレの顔を見るなり、笑って『おかえり』って言ってさ……でもすぐに泣き出して『潤に何もなくて良かった』って。
あの瞬間だな、考え方が変わったのは……オレ以上に母さんのほうが辛いんだって言うことに気付いて、辛いことから逃げてたことが情けなくなって……それでオレは母さんにもう心配はかけまいって誓ったんだ」
北川の言葉を、香里は黙って聞いていた。
普段学校で接する北川からは、信じられないような話だった。
―――いつも明るくて、盛り上げ上手で、転校してきた相沢君ともすぐに仲良くなって……なのに、北川君自身はすごく悲しい過去を持っていて。
―――強い。 あたしにはまねできないくらいに。
「強いのね、北川君って」
「そんなことないさ。 今でもたまにひとりの夜が恐くなるときだってあるしな」 香里の言葉に、北川はそう答える。
そして香里はしばらく考え込むそぶりを見せたが、やがて、静かに語りだした。
「あたしには、妹がいるの。
でも、小さなときから体が弱くて、ずっと病院通いを続けていて……それで、去年のクリスマスの前に、お医者様から……」
北川の喉がゴクリと鳴った。
「お医者様から告げられたの……『次の誕生日は迎えられないでしょう』って」
北川は何か言おうとしたが、香里がまだ何か言いそうだったので止めた。
「それで、あたしはクリスマスの日、妹にそのことを告げてしまった。
それだけでもひどいことをしてるのに、それからあたしは妹と接するのをやめたわ……あたしにはそもそも妹なんていなかったんだって、赤の他人なんだって思うようにして。
赤の他人だったら、死んでもさほど悲しまなくて済むでしょうって」
香里の独白は、北川に衝撃を与えた。
それと同時に、香里が抱えている深い悩みがわかったような気がした。
―――そういうことだったのか。
―――どうしようもなく悲しくて、それで、悲しみから逃げたかったのか。
―――オレと同じだったのか。
―――でもな、だからこそ、それじゃ、駄目なんだよ。
北川は、香里に優しく語りかけた。
「辛かったんだな……でもな美坂、確かに妹さんを忘れてしまえば楽になれるかも思ったんだろうが、時間が経つにつれて、どんどん苦しくなっていくぞ？ それにな、忘れることなんて……できないもんなんだよ。
それはあんな時間まで思い悩んでいた美坂が一番良くわかってるだろ？」
「……ええ」
「だったら……やることはわかってるだろ？」
しかし、香里は首を縦に振らなかった。
「どんな顔してあの子に会えるというの？」
「そんなことは関係ないって。
『ごめんなさい』と謝ろうとしてるのに、自分の顔色気にかけるやつはいないだろ？」
「でも、あたしがあの子と仲直りしたところで、あの子の病気が治るわけじゃないし、ましてや死ぬことが避けられるわけじゃないわ……」
「『病は気から』って言うじゃないか。
妹さんにとってはいい薬になるはずだと思うけどな」
北川の説得にも、香里はまだ納得できずに理屈を立てる。
「でも、あの子の病気は奇跡でも起きない限りはどうしようもないのよ！
そして、奇跡は起こらないから奇跡なのよ」
「行いもしないうちから諦めたようなこと言うなよ！」
語気を荒げた北川に、香里の体が一瞬硬直する。
北川はしまった、と思いつつも再び香里に優しく言い聞かせるように話す。
「怒鳴ってごめんな。
でもな、何もしないうちから諦めたようなこと言わないでくれよ。
香里は言ったよな、『奇跡は起きないから奇跡なんだ』って。
それは違うよ……奇跡は髪の毛ほどかもしれないけど、起きる可能性があるから奇跡って言うんだぜ？
そして、その可能性のために努力したやつに貰えるご褒美だと、オレは思う」
「…………」
「だから、香里も頑張ってみようぜ？ オレも手伝うからさ」
北川がそう言って香里を見ると、ほんのわずかであるが、香里の顔に笑みが戻ってきた。
そして、目に浮かべた涙を拭いながら北川に言う。
「そうよね、あたしよりもあの子のほうが辛いはずですものね。
あたしが負けちゃ駄目よね」
「そういうこと。 泣くのは全てが片付いてからでも遅くはないだろ？」
「ええ、そうね……今日はいろんな意味で、北川君に救われたわね」
そう言って香里が北川に笑いかけた。
それは、氷に閉ざされた世界に射し込んだ太陽の光のように、北川の心を暖かくしていった。
しばらくして、何かを思い出した香里が北川に少しはにかみながら言った。
「北川君、気付いてる？」
「ん？ 何を？」
心底わからない、という表情で北川が答え、香里は少し呆れたように首を傾げた。
「さっき、あたしのこと、名前で呼んだでしょう？」
「ま、マジか!? すまん美坂！」
さっきの香里に言ったことを思い出して、慌てて北川が香里に謝る。 しかし、香里はまだ怒っているようだった。
―――何に怒ってるんだ、美坂は？
北川には香里が怒っている理由がわからなかった。
戸惑っている北川に、香里は表情を緩めて言った。
「あたしは嬉しかったわ。 初めて北川君が名前で呼んでくれて……なのに何で謝るの？」
「えっ？」
北川は驚いていた。
―――名前で呼ばれることが、嬉しい？
なおも戸惑っている北川に香里が追い討ちをかけるように言う。
「北川君は、あたしのことをどう思ってるの？」
香里にそう言われて、北川は自分の香里に対する想いを確かめる。
―――オレは、美坂の……香里のことが好きだ。
だから、いつも香里のそばにいたし、ここしばらく香里の様子がおかしかった時も、何とかしてやりたいと思っていた。
しかし、香里の正面を切って好きだと告白することだけはできなかった。
それで振られてしまえば、今までどおりの付き合いかたができなくなると思っていたからだ。
そして、北川は臆病になっていたのだった。
しかし、いま香里が答えを求めている。
―――ここで言わないと、もう機会はないだろうな。
―――なら、オレは、本当の気持ちを伝える。
北川は目を閉じた。 香里の表情を見るのが恐かったからだ。
そして、静かに自分の想いを口に出す。
「オレは、美坂のこと、好きだぜ。 ずっと前から、そして、これからも」
北川の告白に、香里は黙ったままだった。
―――やっぱり北川君、あたしのことが……
―――あたしはどうなんだろう？
北川が、自分に好意を持っているのは前々から気付いていたが、妹のことがあって、それに対して何かアクションをとる余裕がなかったのも事実だった。
しかし、こうして妹のことにふん切りがついて、改めて北川の告白を受けて、香里は自分の気持ちを確かめてみた。
―――とはいえ、答えはひとつなのよね。
―――やっぱりあたしは、北川君のこと、好きなんだ。
前から北川に対する好意を持っていたことは事実だった。
いつも飄々としていて、そのくせ他人の悲しみを自分のことのように悲しんで、楽しい時はいっしょに笑う。
自分より他人……そんな優しさに香里はいつしか、自分の悲しみを受けとめてくれるのではないかと思っていた。
自分の嫌な部分もすべて笑って許してくれると思っていた。
しかし、妹の手前、自分だけがそういう異性との交際関係を持つというのは気が引けたし、北川に直接聞くのも恐かった。
要するに、自分は逃げていたのだ。
北川は答えを出した。
自分も答えを出さなくてはならない。
北川は、自分の唇に何かが触れたことに気付いた。
暖かくて、ほんのりココアの甘い匂い。 しかし、それはすぐに消えた。
「これが、あたしの答え……本当に嬉しいわ。
でも、お願いだから、もう少し待って。
今はまだ本当の意味で気持ちに整理がつけられないの」
北川には香里の気持ちがなんとなくわかった。
だから、北川も香里の言うことに素直に納得した。
「わかった。 美坂の今の気持ちを知っただけでも十分さ。 オレは待つよ、いや、待ってみせるさ」
「ありがとう……」
香里は素直に頭を下げた。
「でも、頼るとこは頼ってほしいな。 そのくらいはいいだろう？」
「ええ、こんど妹を紹介するわ。 話し友達になってくれたら嬉しいわ」
クスリと笑って、香里が言う。 しかし北川は……
「オレがその妹さんに惚れたらどうするんだ？」
北川がそう言うと、香里は黙って腕をつねった。
「痛ぇ！」
「馬鹿……」
つねられた箇所に息を吹きかける北川を香里は白い目で見る。
「冗談だって」
「冗談じゃなくなりそうだから怖いんだけど」
香里の追求をごまかすように、北川は窓の外を見た。
雪は止み、街灯に照らされてきらきらと光っていた。
「お、止んだな。 どうする？」
「そろそろ帰るわ」
香里はそう言って北川のそばを離れ、帰り支度をはじめる。
「送っていかなくて大丈夫か？」
「平気よ。 それで明日はあたし学校を休むわ。
それで北川君、夕方病院に来てくれるかしら？ ６階の西病棟６１３号室」
「わかった。 妹さんの好きな物ってなんだ？」
「アイスよ」
「へっ？」
「バニラのアイス」
「……わかった」
北川がそう言うと、支度を終えた香里が、靴を履くと北川に向き直ってふっと笑った。
「それじゃあね、また明日病院で」
「ああ、またな」
玄関のドアを開けて香里が出てゆく。 その直前、北川の方を見ずに香里が呟いた。
「ありがとう、北川君のおかげね」
ドアが閉じられた。
―――本当に、ありがとう。 北川君を頼ってよかった。
香里の瞳は、涙でうっすらと濡れていた。
北川はふと我に帰ると、香里を見た。
「どうしたの？」
「いやちょっと、昔を思い出してただけさ」
北川はそう言うと、グラスに残ったビールを飲み干した。
「ふうん」
香里はそう答えて、北川に体を寄せた。
北川はちょっと意外そうな表情を浮かべたが、腕を伸ばして香里の柔らかい髪を撫でた。
香里は気持ちよさそうに目を閉じながら、北川に髪を撫でられるままにしていたが、ふと目を開いて北川を見つめる。
「ねぇ……こっちに戻ってこれないの？」
ふと漏らした香里の一言が、北川に重くのしかかる。
香里が悩みごとなどは自分で抱え込んで解決する性格だと北川は知っている。
その香里がここまで助けを求めている。
―――あまり状況が良くないということか。
「何があったのか、話してくれないか？」
香里の髪を撫でながら、北川は問いかける。
北川の問いかけに香里はぽつりぽつりと事情を漏らし始めた。
スタッフ内でうまくいっていないことや、果ては教授のセクハラ紛いの行為まで。
国立の大学病院だけに、裏に回ればいろいろと濁ったものが見えてしまうのかも知れない。
それに、香里は有能だった。
できる人間ほど叩かれやすいのは、どの世界でも共通のことだった……それは研修生だった北川も知っている。
そう言う意味で北川は、自分は幸せなのかな、と思う。
もともと出世に執着はないし、自分の周りでは、極端に自分を嫌う人間は少なかった。
それなら香里をこっちに呼べばいいのでは、という思考も一瞬よぎったが、自分の仕事にプライドを持っている香里のことだから、このまま素直に引き下がるとも思えなかった。
しかし、このままでは香里が周囲に潰されてしまう。
北川は香里を抱き寄せると、優しく髪を撫でると、香里も目を閉じて、その身を北川に預けた。
そして、北川は諭すように香里に言う。
「辛いよな……逃げたいだろう？ でもな、逃げちゃだめだぜ。
いま逃げても状況はちっとも良くならないからな。
だから、今夜だけは香里の言うことなら、何でも聞いてやるから。
どこかへ連れて行けと言うのならどこにでも行くし、何だったらずっと一晩中愚痴を聞いてやるよ」
北川がそう言うと、香里は北川のほうに顔を向けると、手を伸ばして北川の頬に触れた。
そして、穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、潤。
その気持ちは嬉しいわ……でも、いまは潤がそばに居てくれるだけで十分よ。
潤の温もり、潤の息遣い、潤の胸の鼓動……潤の全てを感じていられれば、あたしが望むものはないわ」
香里はそう言うと、北川の唇に自分の唇を軽く合わせた。
すぐに唇が離れ、北川の顔にも優しい笑みが浮かんだ。
もう一度香里を抱きしめて優しく話す。
「わかった、今夜は香里とずっと一緒にいるから……香里が眠っても、朝まで起きてずっと抱いててやるよ」
北川は再び香里にキスをする。
今度は、長いキスだった。
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