−４−
北川が香里から栞を紹介されて、十日ほど経った。
北川はバイト以外の日は、面会時間のいっぱいまで病院にいるようにした。
最初、北川に対して少し表情が硬かった栞も、数日のうちにすっかりうちとけて、今では北川の冗談にもよく笑うようになっていた。
しかし、その間にも栞の体調は、少しづつではあるが、確実に悪くなっていた。
ある日、香里が学校の用事で病院に行くのが遅くなると言うので、北川は先に病院に行くことになった。
北川が病室のドアをノックする。
しかし、反応がない。
「栞ちゃん、入るよ？」
不審に思いながら、病室のドアを開けると、栞は窓の外を見て、ぼうっとしていた。
「栞ちゃん？」
「え……わっ、潤さん、いつの間に来てたんですか!?」
慌てて身繕いをする栞に、北川は少し笑みを漏らしながら、可動机に差し入れを置いた。
「いまさっき、ね。 ノックしたんだけど返事がなかったから入らせてもらったよ」
「そうですか……」
少し顔を赤く染めながら、栞が言う。
そして、いつも北川の隣にいる姉の姿がないことに気付く。
「あれ、お姉ちゃんは？」
「学校……進路指導じゃないかな？」
「……お姉ちゃん、頭いいから」
「確かに、美坂はオレたちにとっては高い壁だよなぁ」
北川も同意して、栞はため息をつく。
学年トップの指定席を常に確保していた香里に、来年度の進学クラス行きの話が出るのは当然だった。
「……でもな、いつか壁は越えられるものさ」
北川はそう言って拳を握る。
北川も香里には及ばないものの、成績は上位を保っていた。
バイトをしつつ、上位の成績を保つのは、並大抵の努力では難しいのだが、北川はそれをこなしていた。
そして、期末テスト次第では、北川にもお呼びがかかるかも知れなかった。
「頑張ってお姉ちゃんを越えてくださいね」
「おうっ」
北川は栞に向かってガッツポーズをとってみせると、栞はくすっと笑った。
しかし、すぐに栞の表情に暗い影がさした。
「どうしたんだい？」
北川が心配そうに栞の顔を見ると、栞はぽつりと呟いた。
「みんな、目標があって、うらやましいです。
それにひきかえ私は……生きている理由すらなくて」
「おいおい、栞ちゃんにはもっと大きな目標があるだろ？」
「……え？」
北川の言うことの意味がわからず、栞は目をぱちくりさせた。
「栞ちゃんには、病気を治すという大きな目標があるじゃないか」
北川の言葉に、栞は顔を伏せた。
「でも、私の病気は……」
「駄目だぜ、諦めちゃ。 諦めたら、全てそこで終わっちゃうぞ？
オレだって、栞ちゃんの病気がそんな口で言うほど簡単に治る病気じゃないのはわかってるつもりだよ。
でもな、だからと言って、もう駄目だと諦めて、何もしないというのは気が早いんじゃないかな？」
しかし、北川がそう言っても、栞は顔を伏せたままだった。
「でも、先生も見放したような病気なのに、そんなの奇跡でも起こらない限り、無理じゃないですか。
そして、奇跡は起こらないから奇跡なんですよ」
栞の言葉に、北川は苦笑して頭を掻いた。
「栞ちゃんも、お姉さんみたいなこと言うんだな」
「えっ？」
北川にそう言われて、栞の目が大きく開く。
「お姉さんも同じことを言ってたよ……『奇跡は起こらないから奇跡って言うのよ』って。
でもさ、よーく考えてごらん？ 起こらなかったら奇跡って言わないだろ？」
「あ……はい」
「だから、あんなこと言っちゃだめだ……諦めるのは、最後の瞬間でいいんだから。
大事なのは、生きようとする気持ちだよ。
それに、放っておけば死ぬんなら……何だってできるだろ？」
そこで、北川は栞を見る。
栞の瞳が、戸惑いを映し出していた。
北川は栞に近づくと、自分の腹を叩いてみせ、栞に言った。
「知ってるかい？
人の腹の底には、とんでもない力が眠ってるんだ……どんな困難にだって負けない強い力だぜ？
でも、それは自分が気付いて起こしてやらなきゃ駄目なんだ」
そこで北川は一度栞を見る。 栞も北川の話に徐々に引き込まれているようだ。
北川は栞の手をとって、ぎゅっと握る。
「いいかい？ 生きようとする意志が大事なんだ。
それを忘れずにいれば、きっと応えてくれる。
栞ちゃんだって、こんな歳で死にたくないだろう？」
北川がそう言うと、栞は顔を伏せ、体を震わせた。
さらに北川は栞に問いかける。
「オレに言ってみなよ、いまの自分の気持ちを。 ここにはオレしかいないよ」
北川の手のひらに、水滴がぽたりと落ちた。
「……ダメでした。
諦めてしまえば、死ぬのは苦しくないと思ってました……でも、やっぱりダメでした」
栞はそう言うと北川の胸に飛び込んで泣き出した。
「死にたくなんかないですっ！
もっと、お姉ちゃんと思い出を作りたいです……もっと、女の子として恋もしたいし、お友達といっしょに遊びたいです！
こんな病気なんかで、終わりにされたくありません……！」
やっと聞けた栞の本音に、北川は満足して栞の背中を優しく撫でてやった。
「よし、なら頑張れるよな？ 弱音吐かないよな？」
「はい……」
「じゃあ、栞ちゃんの病気が治ったら、オレが何かプレゼントしよう」
「いいんですか？」
栞が不安そうに北川に聞くと、北川は胸を張って栞に言った。
「栞ちゃんが元気になるなら、安いもんさ」
「わかりました、楽しみにしてます」
北川の言葉に、栞が涙を拭って恥ずかしそうに笑う。
栞の反応に北川も笑うが、次の栞の言葉に表情が固まる。
「うんっと高いもの、お願いしちゃいます」
「ええっ!? それは……」
慌てる北川に、栞はくすくす笑い出した。
「冗談です、貰えるものなら何でもいいですよ」
「そうか……じゃあ決めた」
あっさりと決断した北川に、栞がきょとんとした顔で北川を見る。
そして北川は、栞ににっこりと笑いかけて言った。
「オレからのプレゼントは……生きる、理由だよ」
「えっ？」
再び栞がきょとんとした顔をして北川を見ると、北川は頭を掻いて栞に苦笑いを見せた。
「ちょっときざっぽかったかな」
「いいえ、どんなものか楽しみです」
「そうか、そりゃよかった」
どこか安心したような北川の表情に、栞がまた笑い出し、つられて北川も頬を掻いて笑った。
病室に二人の笑い声が響き、その声はドアの向こうに立っていたウェーブの髪の少女にも届いていた。
「ありがとう、北川君……」
香里はそう呟くと、目尻に浮いた涙を指でそっと拭った。
しかし、それから数日して、栞は危篤状態におちいった。
集中治療室でいろいろなチューブに繋がれた栞に、香里は泣くことしかできなかった。
香里の願いで呼ばれた北川は、そんな香里を慰めながら、いまだに目を覚まさない栞の枕もとに立つと、栞の耳もとで囁いた。
「オレは、信じてるからな。
プレゼント選んで待ってるからな」
それだけ言って集中治療室を出ると、香里に頼まれても、二度と入ることがなかった。
明くる日も、その次の日も、北川は病院に来たが、栞と会おうとはしなかった。
やがて、数日経って、北川は待ち合い室で目を閉じてベンチに座っていた。
そこに、香里が駆けるようにやってきて北川に抱きついた。
香里の目には、いっぱいの涙。
「北川君！ いま栞が、栞が……！」
その言葉に北川は立ち上がって、集中治療室に向かった。
「……北川先生、いま千紗穂ちゃんの意識が回復しました！」
北川がはっと顔を上げると、看護婦が喜びを隠しきれないように北川に報告した。
その途端、見る間に北川の顔に生気が戻ってゆく。
「いま行きます！」
駆けるように集中治療室へと向かう北川は、誰にも見られないようにして拳を握った。
集中治療室に入ると、千紗穂が北川を見て、小さく微笑んでいた。
「先生の言うとおりでしたね」
「だから言ったろ？その気になれば何でもできるもんだって」
北川はにやっと笑って千紗穂に言った。
千紗穂は北川の言葉に頷くと、ぽろぽろと涙をこぼす。
「先生、私生きていてもいいんですね？」
「ああ、当分問題はないと思うぞ？ まあ、もうしばらくオレの言うことを聞いてくれたら、という条件が付くけどな」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、北川がそう言うと、千紗穂はぷう、と頬を膨らませた。
「酷いです。 そんなこと言うんだったら、ほんとに言うこと聞きませんよ？」
千紗穂の態度に北川は両手を挙げて降参のポーズを取った。
千紗穂を看護婦に任せ、カルテにこれまでの経過をまとめながら、北川は香里のことを考えていた。
……今回は香里が送ってくれたメールがなかったら、ここまでうまくはいかなかっただろう。
そして、ひとつのことに気づいた。
―――香里がオレを必要としている以上に、オレが香里を必要としていたんだ。
東京で香里に言ったことは、すべて自分に当てはまっていたのだ。
たまたま、自分にそういう機会がなかっただけで、今回のことで、改めて認識した……いや、認識せざるを得なかった。
初めて香里と出会ったときに抱いたものとはまた違った想いが、北川の中で膨らんでゆく。
北川はロビーに出ると、公衆電話に向かった。
一週間後、検査を受けた千紗穂は元の病棟へ戻ることを許された。
病気が完全に回復したわけではなかったが、当分発作に苦しむことはないだろうという判断であった。
北川が病室に行くと、千紗穂は母親にりんごをむいてもらっていた。
食欲も戻ったようで、北川はついつい頬を緩めて千紗穂を見ていた。
「先生、ちょっと屋上行きませんか？」
「ああ、ちょっとだけならな」
北川が言うが早いか、千紗穂は北川の手を取って病室を出て行こうとした。
「おいこら白衣を引っ張るな」
「いいからいいから」
千紗穂はにこにこ笑いながら、北川の手を引く。
―――この子、こんな性格だったか？
北川はそう思いながらも、明るい表情で北川に笑いかける千紗穂を見ると、許せてしまうのだった。
屋上に出ると、さわやかな風が北川と千紗穂の間を通り過ぎてゆく。
千紗穂はうーんっ、と背伸びをして、全身に風を受け止める。
「気持ちいい。 先生もそう思いますよね？」
「ああ、そうだな」
北川も千紗穂の言うことに、ぼんやりと髪を撫でつけながら頷いた。
そして、しばらく黙って緩やかな風を受ける。
やがて千紗穂が北川を見た。
「なんだか先生、心ここにあらずって感じですね」
突然千紗穂にそう言われ、北川は驚いた。
「な、なんでそう思うんだ？」
「なんとなくですけど……」
「そうかな？」
北川は曖昧な笑顔を返したが、千紗穂ははっきりと言った。
「もしかして、先生ここを辞める気じゃありませんか？」
北川ははっとした表情で千紗穂を見る。
千紗穂は自分が導き出した答えが正解だったことに、落胆の表情を浮かべた。
「どうしてですか？」
「……オレは弱いから、大切な人がそばにいないとダメだということに気づいたんだ」
北川はそう言って眼下に広がった街の風景を眺めた。
しかし、その視線はもっと遠くを見ているように千紗穂には思えた。
「だから、一緒に働ける職場を探そうと思うんだ。
別にここが嫌いなわけじゃないんだ。 ただ選んだものが違っただけでね」
北川は千紗穂に向き直ると、ぽんと千紗穂の頭に手を置いた。
「千紗穂ちゃんだって、もうオレじゃなくたって大丈夫なんだから、頑張れよ」
「でも、私は北川先生だったから頑張れたのに……北川先生が笑って励ましてくれたから、今こうしていられるんです」
千紗穂の瞳に、涙がじわりと浮かぶ。
「北川先生、私、私……」
―――もっと言いたいことがあるのに。
―――どうか、私が頑張れる理由を下さい。
潤んだ目で北川を見上げる千紗穂。 しかし、北川は首を振った。
「ダメだよ。 そんなこと言い出したら、オレ以外の先生が困るだろ？
だから、千紗穂ちゃんは、他の先生の言うことを聞いて、ちゃんと病気を完治させなきゃダメだよ。
そして、またいつか元気な千紗穂ちゃんをオレに見せてくれよ？」
北川はそう言って千紗穂の頬を撫でる。
「は、はい……」
「手紙出すからな」
「わかりました、約束です」
千紗穂は喉から出かかっていた言葉を飲み込むと、小指を立てて北川の目の前に差し出す。
北川も笑いながら頷いて小指を絡めた。
「指切りです」
「ああ」
絡めた指が離れると、千紗穂は涙を拭って笑った。
―――でもいつかきっと……
―――それまでさよならです、私の大好きな北川先生。
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