SSこんぺ No.052 : Give me a reason (5/5)

－５－

　千紗穂が元気に退院した一週間後、北川は辞表を提出した。

　最後の勤務の日、院長は北川に尋ねた。
「これからどうするのかね？」
「まだ決めてませんが、大切なパートナーがいますから、何とかなるでしょう」
「そうか、まあ君ならどこでもやっていけるさ。　自信を持っていきなさい」
「はい、今まで本当にお世話になりました。　ありがとうございました」
「達者でな」
「先生もお元気で」
　北川の挨拶に、院長は目を細めてハンカチを取り出した。

　久しぶりに東京に戻った北川は、香里と新宿のショットバーにいた。
　テーブルに向かい合うようにして、お互いをねぎらうようにグラスをチン、と合わせる。
「お互いの失職を祝して」
「ええ」
　くいっとカクテルをあおって、香里が呆れたように北川に言う。
「それにしても、潤も無茶するわね」
「はは、そんな無茶な人間のプロポーズを受けたのは誰だっけ？」
「……馬鹿」
　香里が北川の額を小突く。
　北川も香里も少し頬を染めている……酒のせいだけではなかった。
「それで、これからのあてはあるの？」
　香里の疑問に、北川はオンザロックをちびりと飲んで、香里に言った。
「ある、と言いたいところだけど、辞めたばっかりで何にもあてはないんだよな」
　北川の言葉に、香里はやっぱり、という顔をして北川を見る。
　そして何を思ったか、さっきから二人を見ていたカウンター席の女性に合図を送る。
　やがてその女性が二人の前に立った。
　セミロングの髪に白いブラウス姿の、香里に似た面影の女性。
「お久しぶりです、北川さん」
「うわっ、栞ちゃんだったのか」
　栞だった。　北川にしてみれば７年ぶりの再会であった。
「うふふ、気づかなかったんですか？」
「いやあ、すっかり綺麗になって。　昔とは大違いだ」
　北川がぽろりと漏らした本音に、栞が少し拗ねたような表情になった。
「それって誉めてるんですか？」
「ん？　まあそのつもりだけどな？」
「まあまあ、栞だって成長するんだから」
　さりげなくきつい一言を浴びて、さらに栞が頬を膨らませる。
　そして、昔から馴染んできた、あの言葉。
「そんなこと言う二人なんて……」
『二人なんて？』
「……もう、嫌いですっ！」
　その瞬間、北川と香里はくすくすと笑い、栞もそれにつられて笑い出していた。

　彼らに似つかわしい再会の祝い方の後、栞が北川に言った。
「お姉ちゃんといよいよ結婚するんですね……私も嬉しいです」
「ありがとう。
　栞ちゃんは、まだまだ仕事が恋人かな？」
「そうですね……ちょっと寂しい気もしますけど」
　栞は東北のある私立病院で看護婦をしていた。
「ところで、北川さんもお姉ちゃんも病院辞めちゃったと言う話を聞いたんですけど……私の勤めている病院が、人が足りなくて困ってるんです。
　それで、院長先生に北川さんとお姉ちゃんのお話をしたら、この前返事があって、『是非来て欲しい』と言ってました。
　経歴を調べたんですね……北川さんは、特に期待されてました」
「えっ、本当かい!?」
「ええ」
「そりゃ助かる」
　思わぬ申し出に北川は喜んだが、そこではっと何かに気付き、香里の方を見る。
「香里、知ってたな？」
　北川の視線に、香里はそっけなくカクテルをあおり、北川を見て言った。
「誰かさんが無鉄砲に辞めるもんだから」
「うっ……」
　香里の指摘に、北川も二の句を継ぐことができず、ふてくされたようにピーナッツをかじった。
　子供じみた北川の態度に、香里も栞もくすくすと笑う。
　ひとしきり笑ってから、栞が鞄の中をがさごそと漁ると、一冊の本を取り出して北川に見せた。
　見た目にもわかるくらい、あちこちが擦り切れくたびれた本。
「北川さんにお返しします」
「まだ持ってたのか」
　呆れたように北川が言う。　それは、北川が栞の快気祝いに贈った医学書だった。
「だって、私の宝物ですから。　でも、もう私には必要ないですから」
　栞が複雑な表情を浮かべて北川に本を差し出すと、北川は栞の胸中を思いながらその本を受け取った。
　そして、ふと何かを思いついたように、栞に言った。
「なあ、悪いんだけど、これ誰かにあげてもいいかな？」
「構いませんけど……どうするんですか？」
　北川は二人を見ると、ふっと表情を綻ばせた。
「贈ってあげたい子がいるのさ」

　旅立ちの朝、北川は香里と一緒に郵便局に行き、小包を送った。
　手続きを済ませて外で待っていた香里のところへ戻ると、香里はにっこり笑って北川に言った。
「また、あの本が帰ってくる日が来るのかしらね」
「いや、もう帰ってこなくてもいいだろ。　というより突き返されないかどうかが心配だよ」
　北川はそう言いながら頬を掻いた。
「大丈夫よ、潤の気持ちは通じるはずだから」
　香里は確信したように北川に言うと、北川の腕を取って歩き始めた。

　そして、その小包はある少女のもとに届いた……一通の手紙を添えて。
　手紙の書き出しには、こう書かれていた。
『美和　千紗穂様
　精一杯、今を生きてますか？』

（了）

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