気が付くと、あと十五分。
はてさて、これはどうしたものか。
とりあえず。
「行くわよ、栞っ！」
「えうっ！？」
呑気にトーストをかじっている栞の襟首を掴む。
あたしは朝ご飯を食べ終わっているし。
大丈夫。これなら間に合う。
「お、お姉ちゃんなにをぅ」
きゅい、と浮かぶ栞の身体。
あたしは鞄二つを左手に掴み取り、右手に妹を引っさげて。
玄関口に飛び込んだ。
栞を降ろして、自分の靴を履く。
思いっきり強くドアを開いて、走り出す。
「行ってきますっ！」
「え、えと……行ってきますぅ〜」
栞の声が残りつつ、行ってらっしゃいと声が返る。
走り出すあたし、追いかけてくる栞。
ドアが閉まり、遠雷のようなすごい音が響き渡った。
余程勢いが付いていたのか、距離が離れても聞こえていた。
「ま、待って、お姉ちゃん」
「あと八分。全力で走りなさい栞っ」
空気を吸い込む間も惜しい。
慣れないことはするもんじゃない。
そんなことを思いながら、全力疾走で学校へ向かった。
息も絶え絶え、どうにか教室に辿り着く。
「香里おはようー」
「ふぅ……はぁ……、名雪、おはよう」
息を整えつつ、親友に挨拶を返す。
いくらぼんやりしていたとはいえ、こんな時間。
遅刻寸前の相沢君の気分が少しだけ分かった。
栞は、間に合っただろうか。
下駄箱周辺で別れたから、途中で力尽きてる可能性は無いはずだけど。
きんこんかんこん、変わり映えのしない音が響く。
「美坂がこんなギリギリに来るなんて珍しいな」
「まあ、今日はちょっといつもより慌ただしかったけど」
とりあえず。
「おはよう北川君」
「ああ、おはよう」
にっこりと笑いかけて、挨拶を交わした。
北川君は嬉しそう笑みを浮かべて、そのまま席に戻る。
あたしは、少々使いすぎた体力を回復するために机に伏した。
息を吸い、酸素を求める。
「ふぅ……」
「香里も走ってきたのか……」
「あら、相沢君おはよう」
顔を上げたら、覗き込んできた相沢君と目があった。
小さく、視線が重なりすぎないように微かに逸らす。
「なぁ……香里」
「なにかしら」
「最近何かあったか？」
相沢君が、心配げにこちらを見つめていた。
どう答えればいいやら。ものすごく困る。
「……何も、無いわよ」
仕方がないから、露骨に視線を逸らす。
逃げ出したい衝動に駆られるが、無理に抑える。
自分の顔が赤いことが、容易に予想できた。
「だったらいいけどな」
相沢君が納得していない様子で椅子に戻る。
確かに最近、あたしの様子はおかしいように見えるかもしれない。
心配してくれているのだ、なんて思ったら。
また少し顔が赤くなったような気がする。
タイミング良く、リノリウムの廊下に足音が響いた。
担任が来たらしい。
景気良くドアを滑らし、教室に入ってきた。
横を見ると、にこにこと笑っている顔。
名雪が、からかうような満面の笑みでこちらを見ていた。
授業開始をこれほど恋しく思ったのは初めてかもしれない。
あたしは息を吐き出して、表情を引き締める努力をする。
今日は、一日がとても長くなりそうな気がした――
昼のざわめきが校内を満たす。
混沌とした、昼食までの道のり。
なんだかとても疲れた気分を振り払う。
「あ、美坂。今日は栞ちゃんは？」
北川君が訊いてくる。
相沢君も名雪も、笑いながら答えを待っていた。
最近は、栞と一緒に食べることが多いからだろう。
この辺りの気配りが、なんともこそばゆい。
でも、嬉しいのも確かだ。
「今から呼びに行くわ。先に行っててくれる？」
「香里、なに食べるのー」
……どうしようか。
まあ、それほど悩むこともないか。
「名雪と同じでいいわ」
「了解だよ〜っ」
「あ、栞の分もお願い」
「うーん。栞ちゃんは何がいいのかな」
口に手をあてて、本気で悩んでいるらしい。
相沢君が名雪に即答する。
「栞の主食はバニラアイスだ」
「祐一、バニラアイスはごはんじゃないよー」
「じゃあチョコミントだ！」
「だから違うってば」
いつまでも放っておくと、漫才が続きそうな気がする。
無理矢理に間に入って、名雪に向かって言う。
「とりあえず、アイスが付くもの、無ければあたしと同じでいいわ」
「うんっ」
返事が聞こえたので、とりあえず離れていく。
混雑する廊下から、少しだけ空いた階段の脇へ。
人の流れに逆らいながら、その合流地点に向かう。
到着。
「栞は……っと」
すぐに、話し込んでいる栞を見つけた。
相手は二年生。
大人しそうな女子生徒。
運動よりは読書を好むタイプの人間だろう。
「あ、お姉ちゃん。ってことは、もうこんな時間だったんだ」
その相手は、こちらの姿を見て取ると、状況を理解したらしい。
気を遣わせないように、という配慮だろうか。
笑って手を振り、栞に向かって挨拶して、その場を離れていく。
栞も笑顔のまま、ぶんぶんと手を振り返した。
彼女は、あたしにも礼をして、静かに雑踏に消えていった。
「栞、彼女は？」
「お友達だよ」
栞は笑顔で、その礼儀正しい彼女を見送っていた。
かなり仲が良いようだ。
栞にしっかりと友達が出来てることに、あたしも嬉しくなった。
笑みを浮かべている自分に気付き、苦笑する。
どうやら心底、栞のことで一喜一憂し易い体質らしい。
そのまま笑みを止めずに、我が妹を促した。
「行くわよ。名雪たち待たせてるから」
「うんっ！」
頷いて歩き出す栞。
あたしたちは、足早に食堂へと向かった。
その途中。空いた道を通りながら話す。
「撫子かぁ……」
当然、相沢君にもらったあの花のことだろう。
「どうかした？」
「花言葉、調べたんだけど」
栞は不満顔。
「お見舞いっていうのもあったの」
「でも、お見舞いに来たからってその花を渡すかしら？」
「……うん。渡さないと思う」
栞がごそごそと制服のポケットに手を入れた。
「だから、あれは余りじゃないはずなの」
そう言えば。相沢君は栞の分の余りだと言ってたんだっけ。
探しているものを見つけたらしい。
栞がなにかを手に持った。上目づかいにこちらを見る。
「お姉ちゃんに撫子の花を渡す祐一さん、見る目あるかも……って」
「どういう意味？」
なんとなく悔しそうな顔で、それでも少し嬉しそうな顔で。
栞は一瞬の間を空けて、毅然とした顔付きで言った。
「言葉通りよ」
これが言いたかったらしい。
あたしは呆れたように言い返す。
「いいかげん、あたしの真似はやめなさい」
「えー」
「えー、じゃないっ！」
観念したように栞は言った。目を逸らして。
「花言葉が、なんかお姉ちゃんそのものなんだもん」
少し気になる。
「で、どんなのがあるの？」
栞はにこやかに答えた。
「秘密」
「……栞」
あたしの視線には気付かないフリをしているらしい。
食堂の前。
ひょい、とあたしの手に本を渡してきた。
花が描かれた表紙、題名には花の名前、言葉と書かれている。
「これは……さっき言ってた、花言葉の本？」
栞は答えないで、下を向いていた。
と、開かれたままのガラス製のドアに、声が跳ねた。
「私も、祐一さんにそういう意味の花をもらいたかったなぁ」
でもね、と栞が前置きした。
あたしは黙ったまま、栞の言葉を待った。
「わざわざ撫子の花を選ぶあたり、やっぱりお姉ちゃんなんだよね」
よしっ、と勢いを付けて、栞は顔を上げた。
頑張ってね、と付け加えて先に食堂に入っていく。
栞は、清々しいくらいの笑みを浮かべていた。
……栞。
声には出さず、口だけ動かして。
あたしは、相沢君たちの待つテーブルに急いだ。
お昼は何事も無く過ぎなかった。
栞と名雪が手を組んだらしい。
相沢君の正面の席がわざとらしく空いていた。
不自然。どうしようもないくらい不自然。
かなり恥ずかしかった。
北川君に至っては、無理に話を平凡な方向に向けてくれたけど。
名雪は相沢君に、栞はあたしに恋愛話をしつこく振ってきた。
それはもうふたりとも、心底、これ以上ないくらい楽しそうに。
どうにか平静を装って話しつつ、食事を終えて。
話を振ってくるふたりから逃れ、教室へと戻って現在に至る、と。
早々と帰ってきたせいで、時間はたっぷりとある。
相沢君は、北川君と話しながら自分の席に向かう。
横目で見ると、相沢君の席にふたりで集まっていた。
何かを机の中に発見したらしい。
ちょっとだけ、気になる。
栞が貸してくれた花言葉の本、読んでみることにした。
何かしていないと、落ち着かない。
横を見ないようにと考えていても、そっちに気が向いている。
意識を別のことに集中させていないと、目で追ってしまう。
相沢君が今、どうしているのか。
何をして、見て、話しているのか。
そういったことまでが、気になってしまうから。
半強制的に自分の意識を本に向ける。
書かれていた内容を、口の中でつぶやく。
「撫子の花言葉……ええと、才能」
相沢君が机から、何か取り出したのが視界の隅に映る。
あたしは本の文字を目で追っていた。
「大胆、貞節、女性の美」
へぇ、なるほど。
こんなに多かったんだ。
種類もあるらしいけれど、多彩な意味を持っている。
気まぐれだったとしても、撫子を貰って嬉しかった。
でも、あの可憐な花を贈ることの意味はなんなのだろう。
考えつつも、文字に集中する。
「それから、思慕、純愛、いつもあ……」
パサリ、と相沢君の机から紙が落ちる音がした。
さすがに、つい振り向く。
相沢君が大きな音を立てる。椅子をどかして手紙を拾っていた。
あたしは本を机の上に置く。
そのまま手を休めて、その方向を横目で見る。
様子から推測すると、相沢君の机にラブレターが入っていたらしい。
北川君に見えないように手紙を読んでいるようだ。
表情から理解したのか、北川君が話しかけた。
「おい相沢。自分を好いてくれる女の子は悲しませるなよ」
その顔は笑みを浮かべてはいたが、真剣だった。
言葉を返す相沢君。
困ったような顔で、それでも固い声。
「まあ、努力はする」
「……告白ってのは、えらく勇気がいるからな」
一瞬の沈黙。
相沢君は教室の窓から遠くを見て、それから言い返す。
「知ってる。けど、断るのも受けるのも勇気がいるぞ」
「経験豊富みたいな台詞を吐くなよ」
北川君が肩をすくめて言った。
「お前もな」
にやり、と笑い合うふたり。
なんだか、青春ドラマのような展開だった。
「で、やっぱり屋上か？」
手紙を見て、答える。
「らしい。今は開放されてるけど、誰も行かないからな」
確かにそれは、告白の場としては最適だろう。
この学校の敷地で、告白できる場所なんてごく僅かだから。
「ま、頑張れよ」
北川君は、それだけ言って席に戻った。
軽い口調だったけど、真摯な言葉。
何を頑張れ、とも言わず。
相沢君は頷いた。
「……ああ」
そして、キンコンカンコン、と。
ずっと傾けていたあたしの耳に、聞き慣れたチャイムが響いた。
授業中だというのに、さっぱり先生の話が頭に入らない。
ぼんやりとした自分の動きに、少々驚く。
集中できない。気になる。前を向いていることが煩わしい。
教科書をぱらぱらとめくり、ため息ひとつ。
ノートに流れる線は、そのまま枠を外れて机に向かっていた。
どうしよう。
あと数分で今日の授業は終わるのだけれど。
原因はひとつ。
さっきからそわそわしているのが、自分でも分かる。
気が付くと、目の向かう先には相沢君。
意識しすぎているのは分かっている。
それでも勝手に見てしまっているのだから、どうしようもない。
もう一回、深く息を吐き出した。
時計を見ようとしたら、ほこりの積もったスピーカーから音が鳴る。
ようやく終わりを告げる電子的なチャイムの響き。
この授業の先生は、担任だった。
挨拶してすぐ、放課後前のホームルームに突入。
連絡は適当に終わり、早々と放課後へと向かう。
ガタガタと椅子が動き、起立、礼、と声が掛かる。
あたしは挨拶の言葉も言わず、息を吸い込み立ち上がった。
視線は相沢君に。
真っ直ぐに見るわけにもいかず、その行動を視界の片隅に見守る。
動き出すクラスメイトは、騒がしく各々で教室を出ていく。
途中、名雪がこちらを見て笑い、そのまま手だけ振って出ていった。
相沢君が教室を出て、そのまま向かうは屋上の方向へ。
告白、されるためだろう。
結果を知るには、ことがすべて終わったあとになる。
怖い。とてつもなく。
確実に屋上へのルートを通っていく相沢君を確認して、その場を離れる。
「……なにやってるんだろう。あたし」
つぶやいて、未練たっぷりに屋上への道のりを見て。
目を背けるように、校舎外へと歩く。
逃げ出すように。
校門に着くと、待っていたらしい。
北川君が、真面目な顔でこっちを見たまま立っていた。
かなり珍しい表情。
本当に、真剣な顔。
「よっ、美坂」
「どうかした？」
にこり、と静かに微笑んで。
あたしもその場に立ち止まる。
「いや、ちょっとな」
「そう」
告白だろうか。
何故だか、そんなことを冷静に思った。
淡々と、彼の行動を待つ。
「大方予想は付いているだろうけど、告白しに来た」
「ええ」
「振られるのは分かってるんだけどな」
ちょっとだけ悲しげに。
落ち始めた夕陽の色に染まっていく風景の中で。
「まあ、きっかけなんてものを探しちゃいたんだが」
饒舌に。
空が、鮮やかな色を描くのが見える。
「とある友人が告白されている最中だったりするしな」
屋上の方を見て、北川君が軽く笑みを浮かべた。
とある友人なんて言い方をしたのは、含むところがあるからだろう。
相沢君が告白されているのを、あたしも知っているから。
そして、あたしの気持ちも、北川君は分かっている。
はぁ、とため息ひとつ吐き出して。
笑みを消す北川君。
「これが多分、最後のチャンスなんだろうな。だから」
小さく、息を呑む音。緊張が伝わってくる。
あたしはただ、黙っていた。
北川君が、一歩踏み出す。
あたしの目を覗き込みながら、言った。
「好きだ、香里」
北川君には、初めて呼ばれた名前。
少しだけ、嬉しい気がして。
少しだけ、胸の鼓動が跳ねたようで。
でもやっぱり、受け入れることは出来なくて。
「……ごめんなさい」
「いいさ……悪いな美坂」
あたしは、小さく言った。
「どちらかというと、謝るのはこっちだと思うけど」
「好きな女を困らせるってのはな、自分でもちょっと参る」
北川君はささやかな笑顔で。
無理しているのだろう。
いつもはどこか余裕のある笑みと瞳が、揺れている。
ふぅ、と息を吐いて。
北川君は、いつもの北川君になった。
「ああ、美坂。
――後悔しないようにな」
言って、あたしに背を向けた。
少しだけ、震えているようにも見える背中。
そのことには触れられない。
あたしの背中を押して、そのまま歩き去るらしい。
「……ありがとう。北川君」
遠く消える姿。
小さく語りかけるように。
あたしは、感謝だけを言葉にした。
屋上を見上げると、涙が、零れた。
それ以外の感情のひとつも思いつかないような。
ただひたすらに、愛おしいだけの衝動。
純粋すぎて、硝子のように壊れそう。
透き通るこの想い。
こんな風に気付いてしまったなら。
告げずにいることなど、耐えられはしない。
胸の奥にだけ留めているなんて出来ない。
例えば、恋や愛を幻想だと言う人がいる。
それは確かに錯覚や勘違いと似たものだろう。
信じることなど、してはいけないのかもしれない。
けれど、胸から溢れそうなこの激情。
確かに感じている。強すぎる想い。
鼓動が激しくなる。心臓が跳ねる。
熱が身体を支配している。
カタチが無いだけのものを、存在しないなどと言えるだろうか。
気付いてしまったこの想いを、無かったことに出来るだろうか。
それに。
理屈なんかで止められるほど、この想いは優しくない。
永遠なんていらない。
こんな想いを抱えたまま、止まってなんていられない。
相沢君が、歩いてこっちに来る。
校門で立ったまま待つ、あたしの目の前に。
震えそうなくちびるを噛み締める。
そんな素振りは全て隠して、微笑みながら話しかける。
「相沢君、ちょっといいかしら」
「香里……丁度良い。中庭に行くか」
校門にいたあたしに驚いたのか、一瞬口ごもって。
そのまま振り返りもせずに、中庭へと向かう相沢君。
「……ええ」
あたしも背中を追うように、続いた。
静かな世界。
中庭から見える景色は、寂しかった。
だんだんと消えていく声たち。
部活の生徒たちも、少しずつ減っていくのだろう。
あたしたちの近くには、人の気配は無い。
いまさらここを通って帰る人間もいないはずだ。
だから、都合がいい。
「で、香里の方の話は？」
相沢君の言葉に、あたしは動いた。
真っ直ぐに。
相沢祐一そのひとの、瞳を見つめながら。
雪も解けて消えた地面。
音を立てて、一歩踏み出して。
不意打ち気味に、近づく。
彼の瞳に映っているのは、笑み。
素直に。
けれど、毅然として。
最高の笑顔で、想いを告げた。
「あたしは、あなたを愛してる」
誰よりも、何よりも。
ただ、この胸の想いは強くて。
言葉にすることでしか、伝えられなかったから。
それしかなくて。
「伝えたかったのは……それだけよ」
たったこれだけの言葉。
勇気を振り絞って言い終えた。
そのまま、じっと相沢君の顔を見つめる。
たとえ、この恋が叶わなくても。
この気持ちは、消えることなどないけれど。
これで満足……ううん、少し、北川君を尊敬してしまう。
言うだけで満足なんて、絶対に嘘だ。
受け入れて欲しい。愛したい。奪いたい。
すでに出ているかもしれない結末が怖い。
勇気なんてものがあるなら、もう使い切った。
初恋が実らないなんていう迷信すらも信じそう。
不安。焦燥。渇望。恐怖。切望。
嫌われたらどうしよう。
近くにいられなくなったら。
視界が滲む。
「……はぁ」
相沢君は、息を吐き出した。
それは、どこか疲れたように。
絶望的な宣告を下す、悲しみに満ちた声に聞こえてくる。
大切なものが手からこぼれ落ちていく感覚。
あたしの目の前が、暗くなっていくような。
不安だった。
とてつもなく怖かった。
嫌われることが。
愛されていないことが。
脳裏に描かれる、最悪のシナリオ。
凍り付いたような空白の一瞬が、あたしを包む。
喉に張り付く空気が、声を押しとどめる。
瞬間。
相沢君が、表情を歪めた気がした。
息が止まる。
「格好つかないな……ったく」
「……え？」
あたしは聞き返す。
唐突な言葉に、つい。
決まりの悪そうな声で、相沢君は言った。
「他の女の子のこと、好きな娘いるからって振っておいてさ」
肩をすくめる。
「その好きな娘に告白しようと思ってた矢先に、これじゃ」
先に息を吐き出したのは、どちらだったのか。
相沢君は頭を掻きながら、悔しそうな声で吐き出す。
「あーあ、格好悪ぃ」
何も言えずに、あたしは下を向いた。
その先を聴くことが、怖い。
逃げたい。
切ない想いが揺れる。
この場所から離れてしまいたい。
そんな思いを抱いて、相沢君の表情を見る。
「……あ」
いきなり強く手を掴まれた。
逃がさないように、ぎゅっと。
「やっぱり、こういうのは男から言いたいからな」
そのまま抱き寄せられる。
相沢君の瞳が、真っ直ぐにあたしの瞳と重なる。
何も、考えられない――
「好きだ、香里……付き合って欲しい！」
「……っ」
息を呑む。あたしの名前。意味が頭を走り回った。
あたしは自然に体ごと、相沢君の胸に飛び込む。
泣き顔を見られるのは嫌だったから。
でも、それ以外のどんな顔もできそうにない。
たとえそれが、嬉し泣きでも。
ただ、顔をうずめた。嗚咽が漏れる。止められない。
どんなことよりもこの言葉が嬉しくて。
何か、とても満たされているようで。
相沢君が好きだって、世界中に言えるくらいに。
強すぎる想いが、やっと居場所を見つけたみたいに。
優しく穏やかな、けれど激しい鼓動が胸を締め付ける。
「香里が好きだ。誰よりも」
相沢君の言葉に、あたしは深く頷いて。
たったひとつの想いを込めて、小さな声で言葉を紡ぐ。
「あたしも、好き」
顔を上げて、彼を見つめる。
逃げ出したくなるような衝動を、なんとか押しとどめて。
胸の奥から溢れてくる言葉をささやく。
「相沢君のことが、世界で一番――」
「さすがに照れるな」
「……ええ」
ふたりで顔を真っ赤にして、手を繋ぐ。
とても小さなことなのだけれど。
その手の温もりが、何よりも嬉しかった。
黙るふたり。
静寂を破るように、相沢君が口を開いた。
「香里ってさ」
「ん……」
「やっぱり純情だったんだな」
「……っ！」
恥ずかしくなって、顔を伏せる。
「もうっ」
「あははっ！」
相沢君が笑う。
あたしは、そっぽを向いてつぶやいた。
「笑わないでよ……」
「香里、顔が真っ赤だぞ」
「相沢君こそ」
気恥ずかしげに、顔を見合わせた。
少しだけ、静かな空気が流れる。
その機会を逃さないよう、少し震える口から言葉を紡ぐ。
「あ、相沢君……できれば目をつぶってくれないかしら」
「……えっと」
「恥ずかしいから、この先は言わせないで」
目を合わせるのが、難しい。
やっぱり顔を真っ赤にしているふたり。
「分かった」
相沢君が、頷いて目を閉じた。
その顔をじっくりと見つめてから。
「……ん」
あたしはゆっくりと口付けて、離れる。
「は、初めて、だから……下手かも」
やっぱり恥ずかしい。ものすごく恥ずかしいけど。
顔から火が出そうなのをこらえて、言った。
目を合わせられないほど。
どうにか視線を上げると、相沢君があたしの顔を見つめていた。
「香里……名前で呼んでくれると嬉しい」
「……う、うん」
ちょっとだけ、勇気を出して。
頭の中がほとんど真っ白な状態で、愛しい人の名を紡ぎ出す。
「ゆ、祐一、くん」
「……ああ」
詰まりながら。しどろもどろになりながら。
どうにか言ったけれど、難しい。
なんかこそばゆい。
少し、上目づかいに訊いてみる。
「うぅー。しばらく呼び方は相沢君のままじゃ駄目かしら」
提案してみた。
少し悩んで、ぽつりと答えが返ってくる。
「ああ、しばらくは、な」
相沢君も照れているらしい。
うん、とあたしは柔らかく笑った。
やっぱり顔は真っ赤なんだろうけど。
優しく肩を抱き寄せられた。
あたしは逆らわないで、そのまま寄りかかる。
ふたりを包む、暖かな風に身を任せた。
撫子の花のように可愛らしく微笑んでから。
彼の耳元にささやく。
「あなたのこと、いつも愛しているからね」
そんな、少女漫画みたいな台詞。
つい、撫子の花言葉のひとつを思い浮かべる。
――いつも、愛して。
受け身の言葉は言わなかった。
あたしは、自分から愛を語ろうと思うから。
言わなくても、確かに感じるこの鼓動を聴けば、分かる。
切なくなるほどに、愛されている。
抱きしめられていることが。
愛おしくて。恥ずかしくて。楽しくて。
それでもやっぱり、こんな台詞は照れるけれども。
恋人に送ってもらう帰り道。
夕焼けが夜空に溶け、星の欠片が降り注ぐころ。
奇跡のような感情を、いつまでも抱きしめるように。
大切すぎる瞬間を、決して逃がすことのないように。
お互いに微笑みながら、寄り添っていた。
ふたりでいること。
それが、なによりも嬉しかったから――
Fin.
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転載、無断引用を固く禁止します。
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