「……くっ！」
　しばし呆気に取られていた。―――何をしてる！
「ゆ、祐一！」
「探してくる！」
　手袋を乱暴に外し床に叩きつけ、ぐしゃぐしゃに乱れたヴァージンロードを駆ける。
「（あゆ……俺じゃ、駄目なのか……？）」
　その事だけで、胸が一杯だった。





　小さなチャペルを後にして、全速力で外へ出た。
　そのまま全方向を見回すが、あゆの姿は何処にも無い。
「くそ……っ！」
　落ち着け。落ち着いて、良く考えるんだ。

　……あゆは、泣いていた。
　哀しい事があった時、辛い事があった時……俺達が辿り着く、約束の場所。

「―――あっちか！」
　その場所以外に考えられない。俺は確信を持って、走り出した。



　学校。
　家。
　商店街。
　公園。噴水。
　長い長い並木道。

　立ち並ぶ木々の中に、俺達が作った秘密の野道。
　―――約束の場所。大きな切り株。
　その場所に、あゆの姿は―――

「……そん、な……」
　無かった。

　音の無い森で、俺は静かに膝を突く。
「あゆ……」
　蘇る、二つの記憶。
「お前の事を……片時も忘れた事は無い」
　今度は、夢なんかじゃない。俺達が起こした奇跡が生んだ、俺達の物語だ。

　だから、俺は信じたい。
　俺達の奇跡が、幻なんかじゃないという事の、証明だ。
「―――何度でも、待ってやる」
　切り株に腰掛ける。あの日のように。四年前のように。





「あゆちゃん……どうしちゃったんだろ……？」
　今でも信じられないと云った様子で、壇上を見つめる名雪。
「……」
　目を伏せたまま、何も語ろうとはしない秋子。
　その時、名雪の携帯にランプがついた。
「……！　祐一だ！」
　慌てて着信ボタンを押す。
「祐一！　あゆちゃん見つかった！？」
　彼女には珍しく、大声で問い掛ける。
『……』
「祐一！？」
『……なあ、名雪』
　電話の向こう側から、風の音が聞こえて来る。……木々の揺れる音もだ。
『奇跡って、本当にあると思うか？』
　質問の答えにはなっていない。が、名雪はそれ以上は何も聞かなかった。
『正直、俺にも分からないんだよ。俺達が生んだ結果は、奇跡と呼べるものなのかどうか』
　それは自嘲か、歓喜か。電話越しに、乾いた笑いが響く。

『だけど、四年前。俺は確かに奇跡を信じた。……それは真実だ。
　―――だから、何度でも確かめるんだ。その為に、俺は信じてここで待つ』
　強く告げた。そして、電話は切れた。
「……祐一」
　名雪の目から、大粒の涙がこぼれる。それは、誰の為に流れるのだろうか？
「……私、待ってるからね」
　そして、彼女は立ち上がる。―――伝えるべき言葉が、彼女にはあった。






『愛は寛容であり、愛は情け深い。
　また妬むことをしない。
　愛は高ぶらない、誇らない。
　不作法をしない、自分の利益を求めない。
　いらだたない、恨みを抱かない。
　不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。
　そしてすべてを忍び、すべてを信じ、
　すべてを望み、すべてを耐える。
　このようにいつまでも存続するものは、
　信仰と希望と愛との三つである。
　このうちで最も大いなるものは愛である。』







　風はまわる。雲は流れる。
　木々は葉を揺らし、湿った土に影を落とす。

　陽は落ちる。月は光る。
　夕焼けは燃える。影は伸びる。

　約束は叶う。夢は終わる。
　雪が積もる。君が笑う。
　雪は融ける。君は笑う。

　奇跡は―――

































「……遅刻だぞ、あゆ」
　影は霞み、夕陽は山際に落ちる。
　顔を上げた俺の前に、奇跡は再び訪れる。
「……どうして……」
　泣き腫らした顔に、涙は浮かぶ。
「信じてたからな」
　風が吹き、泥だらけのウェディング・ドレスが翻る。
　それを合図に、堰は切られた。
「ボクには、出来ないよ……名雪さんも、栞ちゃんも、舞さんも佐佑理さんも、みんな祐一君の事が好きなのに、
　ボクだけが祐一君の優しさに甘えて、永遠の愛を誓う事なんて、出来ない……出来ないよ……！」
　崩れるようにして、俺の胸にしがみつくあゆ。
「ボクは祐一君の事が大好き……だけど、祐一君の事が好きなのは、ボクだけじゃない……から……」

　『だから、誓えなかった』

「……なあ、あゆ。今日の結婚式は、どうだった？」
　優しく、花嫁の頭を撫でる。
「名雪も、秋子さんも、栞も、香里も、舞も、佐佑理さんも、天野も、北川も、久瀬も―――みんな、俺達の事を祝ってくれてたんだぜ？」
　様々な祝辞。そのカタチは人それぞれだったけれど―――
「俺は、嬉しかったよ。俺とあゆがこれから歩む未来を、明るく照らしてくれるんだ。こんなに頼もしい事は、無いだろ？
　―――嘘だとか、建前だとか、そんなものでなかった事だけは分かる。―――皆が俺を信じてくれている。だから、俺も皆を信じてる。

「……でも……」
「まあ、俺がいくつ言葉を並べても足りないからな。―――実際に、確かめてみるしか無いだろ！」
　そう言って、あゆの脚を持ち上げる。
「わっ！？」
「さあ、行くぜ。快速直行便だ！」
　精一杯、走り出す。今日の最後を締め括る為に―――そして俺達の絆を確かめ合う為に―――。



「ドレス、泥だらけだな」
「祐一君だって、泥だらけだよ」



　自分の身体の中に、まだこれだけの力が残っているとは思わなかった。
　だが、不思議では無かった。奇跡が二度も起これば、もう驚く事なんて無いだろう。
「見えたぞ……チャペルだ！」

　いつの間にか、俺の中の『筋書き』は消えていて、
「祐一君、降ろして！」
「おう！」
　緊張も、萎縮も、恥も外聞も無く、
「ハァ、ハァ……」
　ただひたすらに、前に見える道を突っ走っていた。
「―――よし、行くぞ！」
　光射す道、光射さぬ道。広い道、細い道。俺達の前には、無限の道が広がっている。
　どの道を選ぶかなんて、気分次第だ。―――ただ一つ。確かな事は一つだけ。

「祐一！？」
「祐一さん！」
「相沢君！」
「祐一！」
「祐一さん！」
「相沢さん！」
「相沢！」
「相沢」



「相沢？　―――ちょっと違うな。今日の主役は、俺だけじゃないぜ」
　不敵な笑み。繋がれた手。歩みでるあゆ。



「……ボクは」
　泥だらけのウェディングドレス。輝きを失ったスパンコール。
　
「相沢祐一を夫とし、病めるときも、また健やかなるときも
　これを愛し、敬い、慈しむことを」

　その魔法の呪文は、奇跡だって起こせるんだ。

「―――誓います」

　途端、湧き上がる歓声。信じられない程の祝福が、小さな室内に降り注ぐ。
「良く言った！」
　もう、段取りなんてあったものか。俺はあゆの肩を引き寄せ―――。




沈黙のプロミス・ベル




　

「……じゃ、行って来るわ」
　ライスシャワーを散弾銃のように投げつけられ、顔中米だらけの俺様。
「ったく、迷惑ばっかりかけやがって……」
「ほざけアンテナ。世界は俺とあゆを中心に回ってるんだよ」
「……君という奴は……思い上がりも甚だしいな」
　何時の間に来ていたのか、久瀬が横から呆れ言葉を吐く。
「だが、それでこそ相沢だ。これからも、僕以外の人間に好き勝手やって生きていきたまえ」
「言われなくても、お前にだけは容赦しねえよ」
　車のキーを回す。エンジンが凄まじい勢いで回転し始める。
「夜から始まるハネムーンってのも、なかなか粋なもんだ」
「……強がりね」
「いいや、何だって良いんだよ。何があったって、俺にはあゆさえいればな」
　言い切って、車のアクセルに足をかける。踏み込めば、ハネムーンのスタートだ。

「じゃあね、祐一」
「また今度、祐一さん」
「またね、相沢君」
「さよなら、祐一」
「また今度〜」
「お元気で、相沢さん」
「頑張れよ、相沢」
「……元気でやってこい」


「じゃあな、皆。また会おうぜ」
　返事を待たずして、アクセルを踏んだ。いくつか聞こえる大声も、風の音に掻き消され、何処かの彼方へ飛んで行った。





「……あれ？」
　助手席のあゆが、何かに気付いた。
「祐一君、この子……」
　あゆの足下にいたのは―――狐だ。それだけで、何が起こっているのかは見当がつく。
「……あゆ、そいつにヴェール被せてやってくれるか？」
「え？　うん、分かった」
　パサリとヴェールを被せてやると、そいつは身をぶるぶるっと震わせた後、一つ鳴いた。
「……なあ、あゆ。もう一度キスしていいか？」
「え！？　え、あ、う……うん」

　あゆの膝に乗せられた狐は、その光景をじっと見つめていた。
　そして俺達が再び目を開けた時、そこには一枚の薄汚れたヴェールだけが残っていた。

　奇跡は……起こっただろうか？
　俺には分からない。きっと、何処にも真実なんてものは転がっていないのだろう。

　だが、これだけは言える。
　もしこれからまた、奇跡の存在を見失うような事があったとしても。

　俺達は、何度だってまた見つけられるはずだ。

「あゆ……愛してるぞ」

　沈黙のプロミス・ベルが聞こえる。その音は、これからの未来を祝福しているようだった。


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