パジャマに手をかけると、上下とも一気に脱いだ。
ひんやりとした空気があたしの肌を包むようにたゆたう。
あれで全てが終わったわけではなかった。そんなことは分かっていた。
栞の運命が変わったわけではない。あたしが栞を拒絶したという事実が無くなるわけでもない。
それでも、あたしを支えてくれたことが２つあった。
１つは、誕生日の朝に栞が決して相沢君には見せられないような、鬼気迫る顔つきであたしに言ったこと。
「私、最後まで諦めませんから。もう逃げたりしませんから。だからお姉ちゃん、傍にいて」
絞り出すように言葉を発した栞の表情は、あたしが初めて見るものだった。
だから、栞が再び病院に戻る時にもあたしは決して傍を離れなかった。
学校を休んででも、もう離れたくなかった。
もう一つ、あたしを支えてくれたことがある。それは栞が生きられるかもしれないと言うことだった。
誕生日に栞は高熱を出した。そしてそれが良かったのだと医者は言う。悪性の腫瘍の大部分が高熱を出したおかげで消滅したとか。
正直、医学的な話なんてどうでも良かった。
あたしは奇跡なんて信じない。だけど、優しさでできることはあるのだとは信じられるようになっていた。
持ってきたバッグのジッパーを開けて、そこから着替えを取り出す。
ブラジャーの肩ひもに腕を通し、肩に掛ける。
少し前屈みになり、背中のホックを合わせる。
最初は、母の中にそれを見た。
次に、父の中にそれを見て、妹の中にそれを見て、クラスメイトの中にもそれを見た。
最後に自分の中のそれに気が付いて、あたしの世界はそれでいっぱいになった。
あたしはそれを、限界と呼んだ。
名雪に逢ってから、あたしはそれを、壁と言い換えるようになった。
彼女はあたしが越えられないと思っていたそれを、いくつも乗り越えてみせたのだ。
中学校に入ったばかりの頃、彼女はクラスで一番走るのが遅かったなんて今では誰が信じるだろう。
あたしだって、最近彼女が髪を切るまでそのことを忘れていたのだ。
白いシャツの中にするりと潜り込み、顔を出して息をつく。
Ｇパンに左足、ついで右足を通し、ボタンをはめる。
ぱちぱちと爆ぜる音をたてながら、その上にセーターを被る。
ある日、栞はビデオを片付けたいと言った。
それには、彼女の大好きな７０年代のドラマが沢山入っていた。
「この時代のドラマって、夕日の描写が多いんですよね」
少ししゃがれた声で妹は言った。ガリガリにやせ細っているのに、お尻だけが奇妙にふっくらとしたラインを保っているのが堪らなく痛々しかった。
「あの頃は今よりももっと夢のある時代だったのに、どうしてなんでしょうか？」
あたしが面食らっていると、栞は冗談ですよと言って笑った。
「私、夕日を見るのがずっと好きでした。でも、これからはあまり見ないことにします。私、夕日を見るの、嫌いです」
栞はそう言ってまた笑った。彼女が自分でビデオを片付けようと四つんばいになりかけたので、あたしは慌てて止めた。
引っかかっていた髪を外に出す。こういう時、あたしの髪はとても面倒だった。
櫛を持って鏡を覗き込む。
化粧はしない。最近は、どうしてか化粧をしようという気が起きないのだ。
栞が最後の手術を受ける直前、彼女の定期検診を待っていた時一人の女性に逢った。
お互い込み入ったところまでは話さなかったが、彼女も親友が生死の間際にいるのだそうだ。
「妹さんは笑顔を見せてくれたのでしょう？ でしたらそれを信じてあげて下さい」
自分はずっと妹の望みを叶えてやれなかったのだと言うと、こんな答えが返って来た。
そう言って彼女は遠くを懐かしむような目をした。
それきり彼女とは逢っていない。
「しっかりしなさいよぉっ」
不意に聞こえてきた声に、鏡から目を離す。雪国の静寂の中、天から降ってきたような声だった。
「あんたがしっかりしなくちゃ、その子もきっと楽しいなんて思えないんだからねっ」
どこから聞こえてくるのだろう。子供のように高い、元気な声。こんな季節には似合わない声だと思った。
「じゃあ、さようならっ。名雪」
「うん、さようなら」
名雪の『ただいまー』という声を聞いて、ようやくあたしは声の正体を知った。
きっと、部活の友達が彼女のことを励ましていたのだろう。彼女にだってあたしの知らない世界がある。そんな当たり前のことに改めて気が付いた。
バタバタと廊下を走る音。続いて階段を上る音。名雪が、帰ってくる。
控えめなノックの音。
「入っていい？」
「どうぞ」
ガチャッ。
部屋に冷たい空気が流れ込んでくる。
「香里、ただいま」
「お帰り」
扉を開けた名雪は、笑顔だった。
あたしの両親が暫く家を空けると言うと、折角だからうちにおいでよと言ったのは名雪だった。
開いている部屋は１つもなかったので（１つは大切な家族がいつでも帰ってこれるようにとそのままにしてあるらしい）、あたしは名雪の部屋に暫く寝泊まりしていた。
今日はこれから、手術を終えて回復した栞に初めて逢いに行くのだ。名雪と一緒に。
彼女は最初お邪魔だからと遠慮していたが、あたしがどうしてもと言うと了承してくれた。
栞も、とても彼女に逢いたがっていた。女同士でおなか一杯食べるのって夢だったんです。と電話で言っていたので、今日はさぞかし沢山買い込んでいるだろう。
相沢君は、栞との約束がある為に逢うことができない。だから今日は、女三人だけで逢うことになっている。
名雪と一緒に階段を降りると、何にも知らない妹の彼氏が話し掛けてきた。
「香里、昼飯は食べなくて良いのか？」
「相沢君、あたし綺麗だと思う？」
質問を質問で返す。彼はあごの下に手をやると、例の悪戯な笑顔を浮かべた。
「そうだな。世界美女ランキング名誉審査員の俺から見ると、香里は一万七千四百三番目といったところかな」
あたしも微笑み返す。
「そう、それなら一万七千四百二番目を目指して、ダイエットを敢行することに決めたわ」
「好きにしてくれ」
観念したみたいだった。
「さあ、行きましょう」
リビングに戻る相沢君に手を振ると、あたしは名雪を連れて外に出た。
いつの間にか、天気は晴天に変わっていた。
冬の午後の日差しには熱も音もなく、光だけが世界に満ちあふれていた。
つららが冬の陽光を凝縮し、どこまでも透明に輝いている。
「そういえば、祐一が１０００円を返してくれるんだって」
「どういうこと？」
名雪はいつも言葉が足りないので、聞き返すことが多くなる。
「７年前にね、わたしが１０００円貸したの。だけど祐一は、そのままずっと忘れていたの」
今でこそそれほどの額ではないが、当時の名雪にしてみれば結構な額だっただろう。
「それで、相沢君は借りたお金を何に使ったんだって？」
「それは覚えてないらしいよ」
少しだけ寂しそうな顔をする。あたしは彼女に発破をかけてやることにした。
「名雪、まさか１０００円だけで済ませるつもりじゃないでしょうね」
「どうして？」
「世の中には利子ってものがあるの。それに、インフレ率も考えたら相当な額になるわ」
「最近は利子もインフレ率もそんなに高くないよ……」
「最低、あたしとあんたと栞に１回ずつおごって貰わないとね」
「あ、だったらわたし、イチゴサンデーがいいな」
「それじゃ安くなってるじゃない」
もしかすると、相沢君はその１０００円をとっても素敵なことに使ったのかもしれない。例えば、誰かの泣き顔を笑顔に変えるような。
そしてその優しさが風のように世界中を巡り巡って栞の元にたどり着き、彼女の病気を治してくれたのかもしれない。
あたしはこんな素敵な想像をした。もちろん本気で信じてなんかいない。あくまでこれは、空想の話。
彼のことだから、ゲーセンに使うお金欲しさだったというのがきっと妥当なところだろう。
会話が途切れたまま、あたし達は歩き続けた。静寂に慣れると、やがて遠くから鳥の鳴き声が聞こえて来た。
名雪は隣をとことこと、ショートカットを揺らしながら嬉しそうに歩いている。栞もあたし達の到着を心待ちにしているだろう。
本当に良い日和だった。本当に夢のような日だった。だけど、夢はいつか消えるものだとあたしは知ってしまったから。
こうやって、みんなで仲良くしていられる時間はいつまで続くのだろう。
ふと、あたしは考える。
きっと、こんな不安と希望とをいくつも抱え続けながら、あたしはこの道を最後まで歩いていくのだ。
あたしはずっと、いくつもの夢を見てきただけなのかもしれない。今、この瞬間でさえも過ぎ去ってしまえば、それは物語に変わる。
いつかあたしは、この物語を思い出すかもしれない。でも、物語の最後の１行を読み終えるとあたしはその時代に還り、物語はまた読まれる時をじっと待ち続けるのだ。
一生に、数えるほどしか訪れない季節の間を。
ふとしたきっかけで蘇る、その時まで。
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